3.迷える子兎の突撃
「そこのクロ、ちょっと待った」
早々に帰路につこうとロビーを横切っていた俺を、聞き馴染みのある声が呼び止めた。
受付嬢としてカウンターに立ったフィーユが、来い来いと手招きしている。逡巡したが、他に用事のある職員はいないようなので、そちらへ歩み寄った。
「施設巡り、お疲れ様。長時間、ご清聴ありがとね。……私に、何か言いたいことがあるんじゃない?」
半目になってにやにやしている。
確かに、言いたいことはあった。
「フィーユ……先輩は、」
「フィーユでいいから」
「……フィーユは、その……ちゃんと休めてるのか?」
ぱっと見開くと翡翠色の瞳は、美しさと言い鮮やかさと言い、本当に大粒の宝石のように見える。
「おっと……その質問は想定外だったかな。安心して、昨夜も5時間は寝たわ。この肌の艶がその証」
「……事務員として働きながら、依頼も受けてるのは知ってたよ。だけど……」
「私が心配?」
頷く。フィーユは横顔を見せて、何事か考え込んでいるようだった。
美しい弧を描く睫毛が、ひらりと瞬いたかと思えば、形良い唇に笑みが浮かぶ。良いアイデアが浮かんだときの表情だ。
少し屈んだ姿勢で、悪戯っぽく俺を見上げながら、
「それなら、心配要らないぞって、その眼で確かめてもらっちゃおうかな? ちょうど……」
「あ、あああっ、あのっ、あのぉぉおお!」
背後から、悲鳴?
何者かが突進してくる。フィーユがはっと視線を投げた方向、標的は俺だ。右方へ躱して剣を抜いて……
違う、敵意がない。躱すのは駄目だ、この勢いならそのままカウンターに激突、怪我をさせてしまう。
俺は振り返り、
「ひゃわぁあ、何で急に振り返っ……ふぎゅうっ!?」
両肩を押さえて勢いを殺し、抱きとめ……きれずに俺の胸に、衝撃とともに小さな何者かの顔がうずまった。
「平気か!? 鼻血が出たんじゃ……ん?」
この、栗色のふわっとしたボブカット。頭頂部の辺りから突き出ている、ピーンと硬直したうさぎのような長い耳。森の中に寝転んでいるときのような、柔らかな草花の香り。
肩を引き離して、容貌を確認する。
「……ああ。やっぱり、入会試験の待合室で会った……確か、ティアさん?」
瞬きもできないほど石化していた少女は、名前を呼ばれてはっと我に返っ……たかと思うと、ぷるぷると震えながら、つぶらな琥珀色の瞳にみるみる涙を溜め……
「うぅぅ……うぅう~……!」
「えっ!?」
さ、最近、やけに女性の泣き顔を見ている気がするな!?
「なっ、えっ、あっ、その、泣か……な、名前か!? 名前が間違ってたのか!?」
「合ってますぅ~! あたしなんかのこと、覚えててくれたんだなって、嬉しくって……あっ、ああっ! ももも、もしかして、フィーユ先輩とお話中……す、すみませぇぇえん! 今すぐ消え去りますぅぅうう!」
「はいはい2人とも、ちょーっとだけ落ち着こっかー! そうね……うん、続きはあそこに座ってお話しましょう?」
どうやらコミュニケーション能力に難があるらしい新人2人は、頼り甲斐のある先輩によって、ロビーの隅に向かい合わせに設置されたソファまで案内された。
ふむふむ、と俺の隣に腰掛けたフィーユが、目を閉じながら2度頷く。
「なるほど……入会試験の直前に、魔糸が乱れちゃったわけか。で、そこに居合わせたこの彼がぱぱっと治療してくれて、二言三言話しただけで、お礼を言う間もくれずに颯爽と去っていっちゃった、と」
「そう、なんです……」
魔力は、血液のように身体の中を循環している。魔法を使うときは特に、その流れを把握して、統制する必要がある。一定の方向へ尾を引きながら伸びていく姿から、「糸」という表現がよく用いられる。
熟練の魔導士となるには魔糸を鈍らせるプレッシャーへの対策が不可欠。しかし対策が万全だとしても、心身が消耗している場合などには、魔糸が乱れることはある。
ただ、やはり経験が浅いほど、そして体内の魔力含有量が多いほど、深刻で対処の難しい問題となりやすいことは確かだ。
ティアさんは、フィーユと同じショートパンツから覗く、色白の小さな膝小僧を、もじもじと擦り合わせた。
「その……炎に愛された魔導士さんは、炎の性質上、攻撃魔法が得意で、補助魔法は苦手だなって人が多いと思うんですけど……得意分野じゃないはずの治療を、クロさんは……あたしのおでこに、すって右手をかざすだけで、簡単にこなして……。
すごいな、とも思ったけど……あたし、それ以上にびっくりしちゃったんです。一回に入会できる人数は限られてて、ライバルなはずなのに、どうしてティアのこと、助けてくれるのかなって。そう、訊いたら……『取るに足らない不運のせいで、君の望まない結果になって欲しくないから』って……」
「へえ、かっこいい」
「うっ、茶化さないでくれ、フィーユ……」
確かにそう言った記憶はある。あるが、ティアさんの瞳をろくに見ることもできず、盛大にどもりながらだった気がする。
「……望んだ結果になったなら、良いんだけど」
「なりましたっ! あたしなんかが合格できたのは、クロさんのおかげです……本当に、本当に、ありがとうございましたっ!」
これが獣人の敏捷性か。物凄い速度と物凄い角度でお辞儀され、慌てて頭を上げるように懇願した。
ティアさんがその懇願に30秒くらい置いて応えてくれた後で、何だか、ほっと頬が緩みそうになった。
気が重いとばかり、思っていたけど。俺に出来る些細なことで誰かの力になれた、そう実感できることは、とても温かいものだ。
「お礼、言えて良かったね。ずっとそわそわしてて、緊張してるのかなと思ったら、そういう理由だったんだ」
まさに小動物というか、彼女の放っておけない雰囲気に内なるお姉ちゃんが覚醒したのか、フィーユが優しく微笑む。
フィーユの美貌から放たれる笑顔は、同性すら赤面させるほどの破壊力がある。ティアさんはあわあわと両手を胸の横で振る、ベル型に広がった長めの袖がゆらゆらと揺れる。
手元を隠す長さの袖……ハンドサインで発動するタイプの魔法の使い手か。
「あ、あのぅ……実は、それだけじゃなくて……図々しいにも程があるって、わかってはいるんですけど……その、お願いが……」
「お願いって、俺に? 叶えてあげられないかも知れないけど、聞かせてくれるか?」
ティアさんは祈るように胸の前で両指を組み、自分の膝小僧を見つめたまま、すう、はあ、と3度、深呼吸を繰り返した。
そして再び訪れる、超高速お辞儀。
「クロさん! ど、どうかあたしと、一緒にお仕事を……一回だけ、あたしとパーティを組んでいただけないでしょうかぁあっ!?」
「え……」「えええええぇぇっ!?」
ふぃ、フィーユ先輩?
どうしてお前の方が驚いてるんだ……?




