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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

瓦礫の時代

作者: 涅槃

蜂次の垢にまみれた逞しい手のひらが僕の腹に執拗に擦りつけられ、僕は長い眠りから覚めた。


「起きろ、イチ」


蜂次はこびりついた汗と泥によって使い込まれた陶器のようにひび割れてはいるが永年の運動の習慣の面影が残る血色のよい顔でこちらをのぞき込み、神経質そうに眉を動かしながら僕に声をかけた。


「ああ、おはよう」


僕は蜂次の手を押しのけ、眠りを阻害された不快感の残った重たいまぶたを開けて「懲罰室」のコンクリートで押し固められた空虚な壁を眺めた。一日が始まる。


「朝飯は届いているか?」


「朝飯?」と蜂次は喉に凝り固まって離れない不快感を隠さずいった。


「お前は夜、いや夜かどうかはわからないが、ともかく寝ているあいだ、いちども目覚めなかったのか?」


「目覚めなかったよ。何かあったのか?」と僕は答えた。


「鈍感なやつだな」と蜂次は呆れたようにいった。


「サイレンと爆撃の轟音で俺は何度も目が覚めたがなあ。空襲だ。あれはいままででいちばんひどいよ。朝飯が来るわけないじゃないか」


「僕には全くわからなかったな。何しろ一週間ぶりの奉仕活動で体が疲れていたから。熟睡だったよ」


僕は自分の言葉に弁解する者の後ろめたさを感じたが、それは事実そうだった。

この孤児院の中の素行不良の少年ふたり、人を殴り、窃盗を繰りかえし、度重なる悪行によって薄暗い地下の「懲罰室」に入れられつづけているふたりは、昨日日の出とともに1週間ぶりに外に出され、日没まで泥にまみれて農作業に励んだのだった。


「ああそうか。だが今回はそうとう大変なことらしい」と蜂次は懲罰室の北口、僕たちから向かって正面にある錆びきったぶ厚い鉄のドアへ歩みよりながらいった。


「その証拠に。ほら」


蜂次は腕に力を込めて固く閉じられたドアを押した。一瞬、彼の浅黒い二の腕に青い血管が浮かび上がった。

ドアはギギギという鈍い音をたて、粉塵みたいな錆を辺りの床に撒きちらしながらぎこちなく開いた。


「鍵が空いている。見たんだが、ここには誰もいない。地上に上がるための鉄の梯子にも蓋にも、鍵がかかっていない」


蜂次はいった。


「俺たちは見棄てられたようだ」


*


一日ぶりの地上に出ると街は廃墟だった。孤児院を支える楠から作られた大黒柱は真ん中で綺麗にひしゃげ、壁には至る所で亀裂が入っていた。

「報善院」と彫られた御影石の看板にはコンクリートの塊が自らに与えられた衝撃のそのままの形で突き刺さり、砕け散ったガラスの破片が道路の至る所に散らばっていた。それらは僕に見慣れた街が決定的に変質してしまったという強い感覚を想起させた。

他の家々もそれらを構成する決定的な要素が爆撃によって離散し、家としての機能や形態を失くしたまま、喧嘩に負けて叩きのめされた酔漢みたいに無様に街かどに佇んでいた。


「人が一人もいないね」と僕はいった。

「ああ・・・、みんな逃げてしまったんだ。孤児院の連中も、罪悪感か、俺たちの部屋の鍵だけ開けてな」と蜂次が汗にまみれた額をぬぐいながら答えた。この廃墟になってしまった街の中で、唯一夏の強い陽射しだけが、以前と変わらずに僕たちの肌を焼きつくす。


地下室を出る前に蜂次がいった「見棄てられた」という言葉が僕の頭のなかで反響していた。

確かに僕たちはどうしようもない悪餓鬼だが、大空襲の敵飛行機が尾翼に風を受けながらプロペラを戦争の気配に高ぶらせて夜空を飛び回り街を破壊しつくしているときに、それを教えてくれるものが誰もいないほど、この社会、この世界から見棄てられているのだろうか?


「イチ、北の山まで歩こう・・・敵のやつらも、山の中の農村までは爆弾を落としはしないだろう。なまじっかここが栄えていたから狙われたんだ」と蜂次は続けた。


「ああ、でもとにかく腹が減った、崩れの程度が軽い家から食い物を漁ろう」と僕は空腹に耐えかねていった。


「俺もちょうどそう思っていたところだ」


しばらく歩くと僕たちは骨組みを保持したまま屋根だけ綺麗に吹き飛んでいる家を見つけた。僕たちはそこにあったぬか漬けの壺から二三の野菜を取りだし、近くの小川でぬかを洗って食べた。


僕はいつも黴臭く少年の糞尿と汗の匂いがこびりつく「懲罰室」をこうも早く抜けられるとは思っていなかった。期日つきの自由だとしても、その期日が来て、また僕たちの自由が阻害されるまで、僕たちには僕たちの自由を楽しむ権利があるはずだ。


僕は蜂次を見た。蜂次は小川に膝を浸からせ、破壊されつくした街の小川に降り注ぐ陽光を見ながらキュウリを齧っていた。


ふとこちらを向いて驚いたように蜂次がいった。


「兵隊だ」


僕も蜂次が向いている方を見た。国防色の軍服を着てゲートルを履いた兵隊が、瓦礫を器用に避けながら恰幅のよい体を上下に揺らし、こちらへとゆっくり歩いてくる。


僕たちはその兵隊が僕たちに近づいてくるまで、何も喋れずにただ黙っていた。


兵隊がきわめて緩慢な動作で僕たちの前にたどり着くと、彼の足がはっきり見えた。左足がすり減りきった義足だった。

義足の兵隊は僕たちを見下ろした。僕たちと彼とは彼の無精髭が見える距離まで近づいた。

彼の視線には不具者のもつ特有の卑屈さのようなものがなく、僕は彼がその軍服の緑がかったカーキ色に、自己の威容に対する疑心を器用にしまい込んでしまっていることに、この街のように、彼らの軍隊がどこかの街を破壊しつくすことによって行われた権威付けの痕跡を感じ取った。


「お前たちは、驚いたな」と兵隊が呟くようにいった。


「驚いたな、いったい。敵が空襲予告のビラを撒いたから・・・もうこの街からは人っ子一人いないと思っていたが。残った人間も空襲が起きて避難したし、怪我人もこちらで手当をした」


「お前らはなんだ?どこから来た?」ともみあげから頬に伝う汗を手拭いで拭きながら彼は続けた。


「報善院からです」と孤児院の子供のもつ特有の平坦な声音で蜂次が答えた。


さんざん悪事を働き、よく憲兵から殴られていた僕たちにとっては、遠い国のどこかで泥にまみれながら鉄の玉を浴びて死ぬ敵国の兵隊より、今その高貴な戦争の幻想に酔いしれた拳で僕たちを殴りつける自国の兵隊の方が現実的な恐怖の対象たりえるものだった。


そして、蜂次が兵隊の尋問に対して発するこの平坦で無機質な声音は、その憲兵との関わりの中で僕たちが身につけた、自分の声から自分の感情や状況を悟られないための、いわば自己防衛の機制の一種なのだった。


「報善院から」と兵隊が繰りかえした。


「空襲があるということは知らなかったのか?」


「僕たちは、ずっと地下室にいたので」


「なるほど、それじゃあだいぶ歩かなくちゃならないな」と兵隊は納得したような顔になっていった。


「俺が案内してやってもいいが、俺は俺で仕事があるんでな。とにかく北の山を抜けるといい」


「ありがとうございます」と僕はいった。


僕たちは兵隊に軽く会釈して歩き出した。義足の兵隊は油っぽい皺の刻まれた手を振って僕たちを見送り、反対側に歩いていった。


僕たちが孤児院の体制反抗者だったとき、兵隊たちはこんなに僕たちを一個の人間として扱ってくれることがなかったと僕は思った。

僕たちは汚らしい報善院の「懲罰室」で、もしくは数週間ぶりに出た地上で、何度も憲兵の固く握られた拳と「報国のための痛み」を身体中に受け止めた。僕たちは戦争という機構にそぐわない、地下室で泥と汗と糞尿の匂いにまみれてしじゅう反抗的な匂いをたてている壊れた2つの不良品にすぎなかった。


彼らはくすんだ緑の軍服の中に彼ら自身の「個人」としての人格を完全に隠しきり、この国を覆いつくす戦争という狂気の一部となっていた。そして戦争という巨大な機構を権威に背負い、まるで自分がその機構自身であり、自分にとってなくてはならない権利が僕たちの存在によって毀損されたというように、僕たちを執拗に糾弾し、殴りつけ、水たまりに突っ伏させる。


原因は僕たちにあるとしても、兵隊というやつは皆、僕たちに対してなぜこんなに堅固で、頑ななのだろうと、僕も蜂次も思っていた。


「あいつ、親切だったなあ」と夏の空に向けて呟くように蜂次がいった。


「そうだね。あんな兵隊には会ったことがない」と僕は兵隊の義足やその脂ぎった皮膚を思い出しながらいった。


「戦争も終わりが近いんだろうか」と蜂次がいった。


「たまに上に出たときにラジオを聴くだろう。誰も彼も俺たちの国のものすごい戦果を報告しているけど、空襲は日に日に酷くなるばかりだ」


「それじゃあ僕たちの大本営は嘘をついているってことか?」と僕は背中から流れてくる汗が自分のくすんだ粗末な木綿のシャツに染みとおるのを感じながらいった。



「ああ、あるいはな」と蜂次は確信にみちた口調で声を強ばらせていった。


「ひとつわかることは、敵が俺たちの国に近づいてきているということだけだ」


戦争、僕たちはそれから完全に疎外されている、と僕は考えた。どこか遠く、たとえば熱帯的な木々がむっとする熱気と死の匂いを包み込む南方の地で、たとえば寒さに耐えかねた巨きな羆が月光を浴びながら冬越えの巣穴を整えている北方の地で、今も兵士たちは撃ち合い、殺し合っている。


しかし僕たちはその殺し合いから、あるいは僕たちの年がまだ15歳であることによって、あるいはその際限のない殺しの連鎖を司る国家に反逆し黴臭い灰色の地下室に押しこめられることによって、いちおうは隔たりを保っているのだ。


しかしそれはあくまで僕たちの住むところを中心に構成されるの社会の中だけの話だった。敵の爆撃機は広い海を越えて、自らが存在することによって起こりうる行為の残酷さを誇示するように上空を旋回しながら、僕たちを疎外している社会を、疎外された僕たちごと破壊しつくす。


僕たちは山を越えるために、倒壊しかかった家々から食べ物を探し、やはりそこに打ち捨てられていた風呂敷に包んだ。われわれはそれからずっと歩き続け、瓦礫を抜けた。さらにしばらく歩くと建物の損害の程度がやさしくなり、そこから急峻な山道に入った。



「もうすぐ山越えだな」と風呂敷を背中で抱えた蜂次がいった。


「ここいらには集落がないんだね。この街が軍需工場でなっている、新興の街だからかな。敵は谷間を、計画的に空爆したんだな」


「そうだな。山を越えたら焼けている家もない。そこまでたどり着いたら、地元の農家に頼んで休ませてもらおう。そこからはまた放浪だな」と言葉に力をこめて蜂次はいった。


「じゃあ、もう孤児院には戻らないんだね」と僕は新鮮な驚きを込めていった。


「ああ」と蜂次は答えた。


「「懲罰室」は、もうごめんだ。見棄てられるのも」


子鼠の背中みたいに豊かな毛の生えている彼の濃い眉から見える微かな疲労とともに、その黒っぽい顔には確たる決意の色が浮かんでいた。


*


夜になって僕たちは山中の空き家で一泊し、目覚めてからサツマイモを食べ、それからまた一日中歩き続けた。

出発してからすぐに日が暮れた。どうやら僕たちは昼過ぎまで寝ていたようだった。


僕たちが山の中の新しい木々の酸っぱい匂いが立ち込める木陰で、羽を抱えてうずくまった蝙蝠みたいな黒々とした性器を剥き出しにして用を足していると、空から荒々しい風の音が聞こえた。


「見ろ」と上を睨みつけて蜂次がいった。


「同じふたりでもえらい違いだな。あいつらと、俺ら」


僕は空を見上げた。深い緑色の2機の戦闘機が、僕たちの真上をまさに通過しようとしている。蜂次はそれを正午の陽光の溜まった熱っぽい眼で見つめ続けていた。


「俺はあの戦闘機を見ると、愛と憎しみの入り交じったような、不思議な気持ちになるよ」


蜂次は勃起していた。彼の土に塗れた革袋みたいなぶ厚い包皮は綺麗に剥け、桃色のあどけなさの残る亀頭が夏の粘っこい大気の中にその姿をあらわしていた。


蜂次は自分の性器を掴んで、戦闘機を見つめながら僕の前で手淫をおこなった。彼はすぐに射精した。


彼が自分の精液と塵によってべたついた性器を灰色のズボンのなかにしまい込み、僕たちは歩き出そうとした、そのときだった。

蜂次が突然激しく咳き込みだした。ゴホゴホと、身体中の臓器を吐き出そうとしているかのように彼は噎せて体を抱え込んで何度も咳き込み、やがて突然ゴハッと獣たちによって均された砂利の広がる山道の乾いた地面に黒い血を吐いた。


「なんだ、これは、俺は何もしていないぞ」と彼は自分の血液への驚きと戸惑いをあらわしながらいった。


「蜂次、大丈夫か?」


僕は不意の出来事に混乱し、彼を気遣う言葉を彼に投げかけるだけで精一杯だった。


「これから歩けるのか?」


「ああ、噎せただけだ。少し休もう、大丈夫だ」と蜂次は自分に言い聞かせるようにいった。


僕たちはそれから長い休息を取った。移動を再開するとき、僕は彼を心配して、彼のぶんの風呂敷包みを自分がもつことを提案したが、彼は応じなかった。

僕の胸騒ぎをよそに、彼はいつもと変わらぬ力強い足取りで歩き出した。


僕たちは疲れの残っていない若々しく力みなぎる足で峠にたどり着き、そこから獣道の小枝を踏みしめ、下へ下へと向かっていったが、結果的に二日間山中をさ迷うことになった。食料は潤沢にあったが、生まれてからずっと孤児院で過ごしていた僕たちには、山々を下る道がわからなかったのだった。


山中で迎える三日目の夕暮れ、やっと山の中腹に差しかかると、農村に入った。農道を歩いていると、前から頬かむりをして色あせた紺色のモンペを履いた年寄りの農婦が歩いてきた。


「すみません、道を聞きたいんですが」と僕はいった。


農婦は怪訝そうに僕たちを見つめた。その眼には山間の村に住む人間特有の、異質な他者を排斥しようとする意志があった。僕たちを殴る憲兵の眼と似ているなと僕は思った。


「あんたらあ、どこから、来たのや」と口をゆっくりと開き、乾いた口腔に広がる唾液を少ない歯で噛み締めるようにして農婦はいった。


「新町から」と蜂次がいった。


「新町!」と農婦は叫んだ。


「いけん、いけん、立ち去れ!ここから出ていけ!」と突然農婦は頑なになって大声で喚き始めた。


「あんたらあ、あんたらあのとこは、空襲でたくさん死んでおるんじゃろう、知っておるぞ、ぎょうさん死んでおるんじゃろう!伝染る、死人の血から病気が伝染る!」


農婦は茶色く日焼けした顔に刻まれた深い皺を引き攣らせて、この山の中腹の平和な農村に突如現れた孤児院の脱走者ふたりを追放しようと、蒸れた汗の匂いのする臭い唾を辺りに撒きちらしてがなり立てた。


一体僕たちがこの小汚い農婦に何をしたというのだろう。僕たちは彼女を強姦したわけでも、彼女の一人息子を殺したわけでもなかった。

憲兵、農婦、僕たちを拒絶する人の群れ、それらは普段は大人しく草を食んでいる家畜の群れだと僕は思った。それが突如集団に伝播した狂気によって、僕たちに粘っこい熱さをもった敵意の視線を向けるのだ。


狂ったように喚いている彼女の薄くひび割れた唇、長命の爬虫類の乾ききった表皮みたいなそれを見つめながら、僕はゆっくりとこの社会でこれからも生きていかなければならないという実感に基づく果てしない疲れが僕の身体中を覆っていくのを感じた。


見ると周囲の家々から農民たちが僕たちの周りに集まってきていた。僕たちは軽く会釈をし、逃げるように山道を駆け下りた。



しばらく道なりに下っていくと、空襲の被害を受けていない山の麓の街の家々が見えた。

もう北の山は抜けたようだ。あの町までたどり着けば一安心だ。そう思うと僕は頭痛がしてきた。痛みはだんだんと増幅して、やがて頭に間断なく先の欠けた石を打ち付けているような鋭いものに変わった。


「蜂次、僕は頭が痛いよ。下山できるとは思うけど、夜までかかるよ。今日はここで一夜を過ごして、明日降りよう」と僕はいった。


「俺も、血を吐いたときからずっとそうだった」と蜂次は答えた。


「しかも、なんだか熱っぽいんだ。頭が痛いし。風邪をひいたのかな」と蜂次は続けた。


僕は、先の蜂次の吐血から頭の中に沸き起こりはじめていた漠然とした不安の観念が、急に具体的な形を成して僕を襲ってくるのを感じた。

「懲罰室」での憲兵からの暴力と戦争もそうだった。まず不安な先行きへの微かな胸騒ぎから始まり、そして一度始まってしまうと、僕たちの事情とはお構いなしに、僕たちの生活をまるっきり変えてしまうのだ。


「とにかく、ここで休むことにしよう」と僕は大木の木陰にある朽ちかけた農作業小屋を見ながらいった。


「ああ」と蜂次がいった。


「俺はとにかく横になりたい」


僕たちは狭い小屋に体を押し込めて寝た。


*


目覚めると横に生あたたかい古いゴムのような蜂次の皮膚が触れた。


「蜂次」と僕は寝ている友人を起こすために声をかけた。


蜂次は答えない。僕は頭を上げて彼のほうを見た。


僕の横には、固められた土でできた床に筋肉質な身体を沈みこませている新鮮な死体があった。固まった体液で変色したシャツの周りに蝿が飛びまわっている。


彼は目を開けたまま、眼球と鼻と口から赤黒い血液を吹き出させて死んでいた。彼の手は口元に乗せられており、深夜に不意の恐慌のように彼を襲った咳の発作のイメージを僕に想起させた。

僕を深い悲しみが襲った。


「蜂次、蜂次」


僕は半狂乱になり、昨日の老婆みたいに泣き叫んだ。


「蜂次、蜂次」と僕は狂ったように叫びつづけ、彼の体を揺さぶった。僕の目からは涙が溢れて止まらなかった。僕はこの世界にたったひとりの、共に「見棄てられた」友人を失ってしまったのだ。

僕は世界から、戦争から、そして蜂次から見棄てられた!

僕は強健な体をもった15歳の強気な少年、僕のすばらしい友人から見棄てられた・・・。


僕はその日中泣きつづけた。その夜、疲れきった僕は近くの川へ行き、壊れた家からくすねた椀に入れた水で彼の体の汚れを丹念に落としてやった。彼のシャツに固まった血を落とし、体を拭いてやり、顔の泥を拭い、精液と尿のこびりつく彼の性器を洗った。


次の日、清潔さを保った死者の横で一夜を過ごした僕の体調は、以前と比べるとだいぶ良くなっていた。

僕は見違えるように綺麗になった彼の死体を背負い、彼のぶんの風呂敷を置いて残り少ない山道を降りた。


*


街へたどり着くと憲兵が至る所で死体を並べて火葬していた。死体の量からいって、僕たちの街の他に、さらに隣の街でも空襲があったようだった。兵舎にさしかかると、そこでも死体を焼いていた。洗っても洗っても取れないような重たい感触をもつ、濃く野蛮な死者の匂いが僕の鼻にしつこく侵入した。


国の威容を象徴するための軍の施設から一般人の死体を焼く煙が登っているのを見て、僕はこの国と、戦争を憎まずにはおれなかった。


俺たちを排斥した戦争が、無神経に俺たちの行く手を阻むなあ。


蜂次の声が僕の頭の中で響いた。


しばらく僕はぼうっとその様子を眺めていた。


「おい」


振り返ると憲兵だった。しかもかなり位の高い兵隊なのだろう。あの義足の兵隊と違い、夏の陽射しを跳ね除けるくらい濃い国防色の清潔な軍服に身を包み、やはり兵隊特有の暴力的な威厳をもって僕を見下ろしていた。


「お前はなんだ、どこから来た、ここの人間ではないようだが」と強く尋問するような調子で憲兵はいった。


「北町から」と僕はいった。僕の直感は、新町といっては僕の生活に不都合な事情が生まれることを感じ取っていた。


「北町か」と憲兵は安堵したようにいった。


「空襲とは災難だったなあ。その後ろの男は死んでしまったのか?」


兵隊という人種は、なぜこうも人の気持ちを推し量るということをしないのだろうかと僕は思った。僕は僕の身体を流れる汗の不快感とむせ返るような火葬の匂いに耐えながら微かに頷いた。


「それで火葬しにきたのか。飯をやろう。着いてこい」


憲兵は胸を逸らして大仰な足取りで歩き出した。僕も蜂次を背負ったまま後に続いた。


「はい。でも、慣れていますから」と僕は歩きながら平然といった。


「ただ、いちばん災難なのは新町のやつらだな」と憲兵はいった。


「あそこでは敵が新型の爆弾を使ったようなんだ、直接外傷を受けないでも、あの場に居ただけで数日後に血を吹き出して死ぬ」


「ほら。見ろ」と憲兵が兵舎の塀の一角に並べられている死体のひとつを見下ろしながらいった。


そこには数日前の義足の兵隊が、無精髭に血をこびりつかせ、全身の力を虚脱させて横たわっていた。彼の眼はもう何も見えていないようで、茶色に澱んだ水晶体は夏の陽射しをただ跳ね飛ばしているばかりだった。


僕はそれを見てまた不意の激しい頭痛に襲われた。

世界から、戦争から見棄てられた僕をさらに糾弾するような、爆風に砕け散ったガラスの破片がそのまま脳に突き刺さったようなとがった痛みが僕をとらえて離そうとしなかった。


僕はその場に蹲り、蜂次の死体をゆっくり下ろした。


「おい、大丈夫か?どうしたんだ?」


「大丈夫です、少しくらっとしただけだから」


そういって僕は立ち上がった。頭痛の発作は収まったようだった。しかし次の瞬間、僕は激しく咳き込み、何か熱いものが体の奥底から沸きおこるのを感じた。僕は赤黒い血を舗装された地面に撒き散らした。

突然の吐血を憲兵に弁解する暇もなく、身体中の力が急速に抜けてゆくのを感じ、僕は平衡を失った身体を地面に向けて倒れこませた。

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