鉄と鳶
もう何度、視界を暗くすれば、俺は天国へ行けるのだろうか。
最近、横長に掘られた溝の中で、鉄の杖を握りしめたまま、そんなことばかりを考えている。
龍の咆哮のような爆音は未だ鳴り止まず、これが聞こえない日を、もう何日も知らない。
泥で汚れた服と、ベタつく体と、血の匂い。
腹の奥がゆっくりと痛む。
「もうだめかねぇ、ここも」
隣から声が聞こえて、目を開けて見てみると、そこにはいつも同じテントの中で寝ている男がいた。
名前は覚えていない。もう名前を知っている仲間は全員死んでしまい、名前を覚える暇もなく新しい人間が回されてくる。
こいつもすぐ死ぬかと思っていたのだが、三日は一緒にいる気がする。
「あんたも悪運が本当に強いようだ。わしと一緒で死にぞこないの目をしてる」
長く伸びた髭を撫でながら遠くを見て笑う。
男はそこそこに歳をとっていて、まあまあな量の戦場を歩いてきているようだった。
普通だったらこんな前線で歩兵なんてやっている歳ではない。
「一緒にするな。俺は昇格を蹴って前線にいるような狂人ではない」
話すのは初めてだが、大体の事情はわかる。
このぐらい壊滅してくると、訳ありの奴らの訳なんてたかが知れてくるのだ。
案の定、男はカカッと喉が鳴るような笑いをする。
「あんたほど若い男は、どこまで行っても野望野心を捨てない。だがわしはそういうのは本当に嫌いじゃない。美しい死とは、それだけで価値のあるもんだ」
話を聞いているのかわからない。どこか遠くを見て、通じているのかわからない返しをしてくる。
バンッと音がして、すぐそこのほうで立ち上がり、走りだそうとした兵士が飛んだ。
どうやら突撃しようとして撃たれたらしい。
俺は頭を出さぬようその死体の傍まで行き、銃から弾と銃剣を、腰のカバンから携帯食料を拝借して自分のカバンへ入れた。
ヘルメットの紐をキツく締めた。
「なぁあんた、もっとあさっとくれ」
「なんだ」
「その仏さん、煙草の一本でももっとらんかと思ってな」
「そんなもの、自分で探せ」
「狭くて行きづらいのよ」
しかたなく、もう少しだけ漁る。すると小さな箱の中に二本だけ煙草の入ったものを見つける。
俺はそれを手にとって男に投げた。
「へへっ、ありがとな。これだけが楽しみよ」
そう言って匂いを嗅いだ後ポケットへ煙草の箱をしまう。
遠くの銃声の数が減ってきた。もう一つ前の塹壕が少しずつ突破されているのだろう。
ここが潰れるのも時間の問題だと肌で感じる。
そろそろ潮時かと後ろ側の様子を見る。
上官が生きていると生きて帰るのは難しい。
何とか上官が死んで衛生兵にでも拾ってもらえればまだ生き残れる。
「あんたはなぜこんなところで生きている」
男が急に口を開いた。
「どういう言う意味だ」
「なぜそこまでして生きるんだと、不思議になってな。死にたい死にたいという顔をしながらその体は必死に生にしがみつこうとしておる。心と体が相反しながら生きておる人間の動きだ」
「生きてるんだから死にたくない。当たり前のことだ」
「死に場所を探すのは苦しかろうて」
憐れむような声と口調に腹が立つ。
俺は男に銃口を向ける。手は自然と動いていた。
「そうせぐな。そんなことしなくとも、わしもあんたもいずれすぐに死ぬんだ。ここで死んだところで楽しいことなんかなかろうよ」
また乾いた笑い声をあげている。俺はなぜかそれが妙に腹立たしかった。
「鳶よ、人の命を盗みながら生きるのはつらかろう。わしはつらかった。そうして手に入れた武器や食料を血肉にする、生の営みとしては当たり前のことだが、いざ同族を相手にするとなるとどうしようもなく自覚してしまってな、嫌になってくる」
「俺は、そんなこと考えてない。死んだ奴に権利なんかない。ものだってそうだ。持ち主がいなくなったら誰のものでもないだろ」
「いいや、命の権利に生きてるも死んでるも関係ねぇ。鳶よ。あんたは盗んでるんだよ」
俺は等々苛立ちが抑えられなくなり、だが変なことはできないと自制心に動かされて、その銃を地面に突き立てた。
先についていた銃剣が地面をえぐる。
「いいか鳶よ。それは悪いことじゃない。そこで頭に鉛球を食らってくたばってしまったそいつもまた、世をふらふらと飛び回る鳶よ。そこにはいつだって世の理がある。あんたが背負って死ぬこたねぇ」
そう言って男は煙草に火をつけた。
「あんただけが鳶じゃねぇんだ。わしも、奴も、反対側の塹壕で、必死に銃を振り回してるあいつらもな」
男は敵とは反対側の、曇った空を見上げてそう言った。
反対に、視線がズルズルと下へ下へと落ちていく。
よくわからないが、俺にもそれなりの罪悪感があったらしい。
俺は俺のことを、そこそこ優秀な兵士だと思っていた。殺すのに躊躇はないし、ちゃんと生きて戦場から帰るし、物資も無駄にしない。
感情を露わにして、生き急いだやつらほど、簡単に爆ぜていった。
俺も、本当はそちら側へ行きたかったのかもしれない。
そうやって死んでいったやつらが、血肉になった人間たちが、心のどこかで妙に恐ろしく見えていた。
「あんた、煙草は吸うかい?」
「もう何年も前に止めてしまった」
「じゃあまた思い出すといい。こいつはいい。どこに行っても変わらん。煙はずっとわしらの脳の裏にいる」
そう言ってさっき渡した煙草のもう一本を差し出してきた。
仕方がないと口をつけて吸ってみる。少しむせそうになったが、暖かいような冷たいような、わからない何かがスッと体に流れてきた。
懐かしい感覚だった。
煙草なんて、たまに上官どもに金代わりに渡すくらいで、しばらく自分では吸っていなかった。
「若い鳶や、飛べそうかい」
「あぁ、何だったか、しばらくは何とかなりそうだ。忘れていたよ」
俺はゆっくりと漏れ出る煙を掴むと、もう一度目を閉じる。
「俺は、雲の上を見たことがない」
「そうか」
「見えるなら、見てみたいな」
「見えるさ、あんたなら」
「あぁ、ぁぁ・・・」
身体が軽い。
いつだったか、体の痛みもなくなっていた。