私はあなたを上手に愛していますか
チラチラと綿帽子のような雪が舞い落ちる静かな夜、私はいつものように愛犬のモモを呼んだ。
「モモ、もうベッドに行こう。 おいで」
今年で11歳になった黒柴犬のモモ。 顔に白髪が増え、昼寝をする時間が長くなった。 若い頃はひとっ飛びしてベッドに乗ってきたのに、今は私がベッド脇に作ったスロープをゆっくりと登ってくる。
「おいで、モモ」
モモの頭を撫でると、嬉しそうに目を細めて私の手を何度か舐めてから、寄り添うように体を横たえた。
私は枕元に置いてあった読みかけの小説を3ページほど読んでから、サイドテーブルのランプを消す。 これが日課になっていた。
モモの小さないびきを聞きながら、1日が無事に終わったことに感謝してゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏で、青紫色の光がオーロラのようにうごめくのが見えた。 次の瞬間に爆風に押されて体が宙を浮き、そのまま意識を失った。
パチパチパチ……
何、この音。 暖炉? 背中が暖かくて気持ちがいい。
ゆっくりと目を開けると、大きな揺り椅子に座る、丸い銀縁眼鏡をかけたお婆さんが見えた。 お婆さんはリズムをとるように椅子を揺らしながら、赤い毛糸を編んでいた。
え? 巨大人間?
突然の出来事に頭がついていかない。 私、自分の家のベッドで寝てるはずだよね。 これは夢なの?
あたりを見回してみると、ガラス戸に映った茶色い毛の小さな犬と目があった。
犬、と目が合った……?
頭を振ってみると、ガラス戸に映った犬も頭を振った。
立ち上がってみると、その犬も立ち上がった。
私、夢の中で犬なんだ!
そっか、そっか。 面白いなぁ。
大きな揺り椅子の周りをグルグル駆け足してみた。
「どうしたの、レオ。 元気いっぱいだね」
お婆さんが目元に皺をいっぱい寄せて微笑み、優しい声で話しかけてきた。
うん、元気だよ。 犬って、こうやって走ってるんだ。 楽しいなぁ。
お婆さんの足に手をかけて、「ワン」と抱っこのおねだりをしてみた。
「おいで、レオ。 お前はいい子だね」
お婆さんの膝にかけられた花柄のキルトの上で、尻尾をブンブン振って「く〜ん」と甘えた声をだす。
「よしよし」
愛されてるって、こういう気分なんだろうな。 すごく気分がフワフワして安心する。 お婆さんの大きくて暖かな手を背中に感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
どれくらい時間が経ったのだろう。 私は突然、床に投げ出された。
なに? どうしたの?
振り返ってみると、お婆さんが床に倒れていた。
どうしたの、お婆さん。 大丈夫?
一生懸命に顔を舐めてあげたけど、お婆さんは苦しそうに顔をしかめて唸り続ける。
私、何も出来ない。 ごめんね、お婆ちゃん。 ごめんね。
二日後にお婆ちゃんの家族が来るまで、私は冷たくなったお婆ちゃんの横に寄り添って泣いていた。
お葬式が終わり、私は保健所に連れて行かれた。
仕方ないよね。 私、いらない子になったんだもの。 お婆ちゃんがいない世界の空なんか、もう見上げたくないよ。
狭いケージに他の小型犬と一緒に入れられて、それから何週間もコンクリートの床を眺めて暮らした。
「ねえ、この子、可愛いよ。 この子にしようよ」
甲高い声が聞こえた。
ポニーテールの似合う、小さな女の子の腕に抱かれて車に乗った。
私、また幸せになれるのかな。 なってもいいのかな。
女の子の名前はエレナといって、小学1年生になったばかりだった。 ひとりっ子の遊び相手として、共働きの親が犬を引き取ることにしたらしい。
エレナは大声て笑うのが癖で、私はそのはじけるような笑顔が大好きだった。 学校から帰ってくると、ランドセルを玄関に放り投げ、「レオ、ただいま」と大きなハグをしてくれるエレナに、私は愛情いっぱいのキスをたくさんしてあげた。
公園でボールを追いかけて一緒に走り回った。 疲れたら一緒に昼寝をした。 おやつも一緒に食べたし、宿題も私が監督してあげた。 何をするのもエレナと一緒だから楽しかったんだ。
お婆ちゃん、また幸せを感じることができたよ。
私はほんのりとした春の匂いを、胸いっぱいに嗅ぎながら、青い空を見上げて笑ってみた。
エレナが小学3年生になると、テレビゲームに夢中になり、遊んでくれなくなった。
ねえ、エレナ。 私を見てよ。 外で一緒に遊ぼうよ。 外を走りたいの。
「もう、うるさいなぁ。 勝手に遊んでてよ」
私はリビングの窓から外にポーンと投げ出された。
一番星の輝く夕焼け空を見上げながら考えた。 そっか。 幸せって長くは続かないもんなんだ。 期待しちゃいけないもんなんだ。
庭の隅の柵に穴が空いていることは知っていた。 今までは大好きなエレナといることが幸せだったけど、エレナに必要とされなくなった今、私がいなくなることがエレナにとって幸せなのかな。
小さな穴に体をグイグイ押し込んで外の道路に出た。
ここを左に行くといつもの散歩道だ。
毎日、エレナと歩いた道だから知っている。 この通りを越せば、エレナと一緒に遊んだあの公園に出るんだ。
突然、大きなブレーキ音が聞こえて目の前が真っ暗になり、全身に激痛が走った。
お婆ちゃんみたいに大きくて暖かい手が、私の体をそっと撫でている……。
「痛かったね。 ごめんね。 頑張ったね」
目は開かなくなったけど、さっきまで感じていた激痛は既に無くなっていた。
「もう大丈夫だから、安心して眠ってね」
知らない女性の優しい声が耳に響く。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
「幸せをくれて、ありがとう」
「もう、楽になっていいんだよ……」
ああ、私、生まれてきて良かったんだね。 いらない子じゃなかったんだね。 幸せを貰って、あげることも出来たんだね。
そっか、そうなんだ。 良かった。
ガソリンが切れたエンジンのように、心臓がゆっくりと最後の鼓動をうった瞬間、瞼の裏に青紫色の光がうごめき、爆風を感じた気がした。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。
大きなアラームの音で目が覚める。 カーテンの隙間から入り込んだ柔らかな朝日が、部屋をうっすらと明るくしていた。 私は何故か泣いていた。
もちろん、私が犬だったことも、事故死したことも夢だ。 でも、あまりにもリアルな夢だった。
私は暖かい手を持つあの人が看取ってくれたから、安心して死ぬことが出来た。 最後の瞬間に幸せだったと思うことが出来た。
残念なことに、それが出来ない犬達もたくさんいる。 それが現実なんだ。
私の傍でイビキをかいて眠るモモの頭をそっと撫でた。 モモの口元がニッと笑ったような気がした。
モモは年寄りだから、そのうち耳が遠くなるね。そしたら毎日100回、愛してるって耳元で囁いてあげる。
目が見えなくなったら、毎日100回、その可愛いお鼻にキスをして、私はここにいるって教えてあげる。
そして最後の瞬間は、寂しくないように、ずっと抱きしめていてあげる。
私が今、出来ること。 それはあなたを愛すること。
私はあなたを上手に愛していますか。 愛せていますか。
モモ、これからもずっと一緒に幸せでいよう。 愛しているよ、心から。
生まれて初めて書いた小説です。 老いた愛犬を撫でているうちに、話が浮かびました。 コメントを頂けると嬉しいです。
読んでくれて、ありがとうございます。