月が輝く夜は木靴を履く少女の話
石畳の坂を歩くときは、人間の姿で、靴を履いていたい。
剥き出しの石は肉球には優しくないし、境目の溝が中途半端に爪にあたって歩き憎い。
塀の上の部分は歩きやすいけれど、別の獣に邪魔をされて通り抜けできないことだってあるもの。
月の輝く夜に散歩なんてするもんじゃないのは分かるけれど、しょうがないじゃない。
淡黄に輝く月が私を呼ぶんだもの。
お気に入りの普段着はオレンジのワンピース。茶色のエプロンは汚れを目立たせないため。履きなれた木靴で今日もスキップ。
物心がついたときには、マジョルカおばさんのところで下働きをしていた。
老齢で無口なご主人様はいつもお出かけ。たまに帰って来てもニコリともしない。とにかくお屋敷の隅々までが埃一つなく、清潔に保たれていればそれでいいらしい。
ご主人様がおいでのときには、いろんなご婦人がやって来る。うら若いというか幼さが残るようなご令嬢も、随分お歳を召しているような大奥様も。そこそこの装いでいらっしゃるのだけれど、おばさんが「おめかし」の仕上げをするのが習わし。
週に一度はご婦人のご招待がある。同じ方が二度といらしたことはない。
マジョルカおばさんは、ご主人の信頼を一身に受けている。しかし、ご主人様の愛人ということではないようだ。
ご主人様は郊外に豪華な邸宅をお持ちで、奥様と三人のお子様たちと、弟夫婦と一緒に暮らしておいでらしい。
なにかの研究のために、週に一度、この街の別宅にご婦人を招待しているのだそうだ。
マジョルカおばさんは、その「対応」に大忙し。ご主人様と、招待客の一切合財を一人で対応している。
招待日には私は外に出される。朝早くから夜遅くまで、一日中外で遊んでいろと。
晴れの日はいいけれど、雨の日も、風が強い日も、雪が降りしきる日も、霧の深い日だって夜更けまで帰ってくるなって。
暴風雨の日に屋根裏部屋に居たって気づかれないでしょうと言ったこともあったけれど、マジョルカおばさんは許してくれなかった。
でも、招待日以外はこき使われる。
朝から晩まで、お屋敷の隅々をきれいに清潔に掃除する。
ご主人様がいらっしゃらなくても、毎日ベッドメイクをする。たまに予告なくお立ち寄りになることがあるから。
マジョルカおばさんはお屋敷を常に完璧な状態にしつらえている。
この、一見してふしだらそうな、肉厚の中年女の容姿からは想像できないほど、潔癖な清潔さをお屋敷に展開させるのだった。
そして、そのために私をこき使う。私の亡き母に呪いの言葉を吐きながらも。
ある日、私は気づいた。
それは、やっぱり招待日だった。ちょうど三年ほど前のことだった。
この街に引っ越してきたアリューシャはいい身なりをしている割に冒険心に溢れていて、街の外れの広場でついつい遊び過ぎてしまった。
そうか、あれは私の一〇歳の誕生日だった。
夜更けまでとはいえ、一番星が輝くまでにはお屋敷に帰らなければならないのに、気づいたときにはたくさんの星が夜空に輝いていたのだった。
アリューシャが継母に片腕をもぎ取られんばかりに連れ去られるのを見届けてから、私はお屋敷へと一目散に走った。
いつまでも自分の前から消えることのない淡黄に輝く月を不気味に思いながら、お屋敷を目指して走り続けた。
狭い通りは多くの大人たちでごった返していた。
酔っ払って大声で喚いている人。
首の周りをやけに大きく開いている化粧の濃い女性。
こちらを睨みつけている老人。
私は大人たちの間をすり抜けるようにして走り続けた。
けれど、薬局の前には大きな犬がつながれていて、今にも私に飛びかかろうと身構していた。
鋭い牙を汚らしい黒ずんだ唇の端から覗かせ、グルルルと唸り声を抑え、眼光を私に向けていた。
立ち止まった私の背中を小突くように、大人たちが過ぎて行く。
それはほんの一瞬だったに違いない。
私は目眩を感じた。ぐるぐると目が回っているのを感じた。そして、倒れると思ったとき、ふわりと身体が宙に浮いた。
気がついたときは塀の上にいた。二メートルはあったろう。私は上の部分に四つん這いになって引っ捕まっていた。
目の前には大きな鴉がいた。黒光りする瞳がこちらに向けられていた。
「分かるだろ?」
どこからともなく声が聞こえた。
「ボクだよ。」
「…アリューシャ?」
間違いなく、さっきまで一緒に遊んでいたアリューシャの声がする。辺りを見回してみたけれど、アリューシャの姿はない。
私の前の鴉は、その嘴で塀の上の部分を三回突いた。まるで、こっちを見ろと言わんばかりに。
「…アリューシャなの?」
「そうだ!」
きっと、下方の大人たちには鴉の鳴き声にしか聞こえないだろうに、私にははっきりアリューシャの声が聞こえてとれた。
アリューシャは自慢げに大きな翼を広げて見せてくれた。黒光りする漆黒の大きな翼は、カッコイイという以外のなにものでもなく美しかった。
「イビサ、急いでいなかった?」
「ええ、早く帰らなくっちゃ!でも、アイツ…」
今やワンワンと大きく怒鳴っている犬を私は見下ろした。
アリューシャはまたもや翼を広げ、飛び立ちながら、その足先で私の身体をつまむようにして掴んだ。それはとても優しく、爪が刺さらないように包み込んでくれた。
淡黄に輝く月を背に、私は夜空をアリューシャと共に舞っていた。
お屋敷の屋根裏部屋の窓辺に舞い降りたとき、窓硝子に映る一匹の猫を見つけた。
華奢な身体つきに深緑の眼が印象的な、黒光りする美しい猫だ。
アリューシャは大きな翼で私を包み、これが私だと気づかせてくれた。
アリューシャはおやすみのキスをくれると、すぐに飛び立って行った。
私は窓から屋根裏部屋に入ったもののどうしていいやら分からず、猫の姿のままベッドに潜り込んだ。
翌朝、目が覚めると私はいつもの人間の姿に戻っていた。
まだ朝の五時、落ち着かずに台所へ降りて、朝支度を始める。
準備が整った頃にマジョルカおばさんがやって来た。
おばさんは私の異変にはまったく気がついていない様子だった。
招待日だって、私が帰って来たことなんて真夜中過ぎにベッドを確認するだけで、玄関先で迎え入れてくれる訳じゃないから気づくこともなかったのか。
だとすると、ベッドに入ってすぐに人間の姿に戻ったのだろうか?
そんなことよりも、私はアリューシャと共通の秘密がもてたことにワクワクしていた。
アリューシャとは、週に一度、招待日にしか会えなかった。
予告のない招待日には、私から会いに行くこともあったけれど、いつもメノルカに邪魔された。こまっしゃくれた嫌味な女の子!
そしてメノルカはいつもアリューシャの継母に私の悪口を言っていた。
継母はアリューシャに私に会わないようにと言っていた。
でも、招待日にアリューシャが私に会わないなんてことはなかった。
アリューシャは鴉の姿で、私は猫の姿で、私たちはいつもじゃれ合った。
この姿の方がじゃれ合いやすかったのだ。
こんなことになってから、三年が経っていたのだ。
今日もご主人様はご婦人を一人招待していた。
今日のご婦人は二五歳というところか、美しく、姿勢良く、凛として頭も良さそうな感じ。
私は決まって招待客の姿を見てから家を出るのだった。
そして一日中、アリューシャと幸せな時間を過ごした。
いつものように一番星が輝く前には家路につきました。ええ、もちろん、人間の姿で。
勝手口をくぐると、マジョルカおばさんの姿があった。
「お茶でも飲むかい?」
珍しいこともあるものだと、私は台所のテーブルでおばさんと向き合いました。
ご主人様はちょうど先程帰られたとのことだった。
「来週はね、イビサ、お前を招待したいそうだ。」
「ご主人様が?」
「ああ。」
マジョルカおばさんの顔は心なしか、青ざめているように見えた。
「招待って、…なにをされるの?」
「知ってるだろ。ご主人様の研究のお手伝いさ。」
「もう何年も、一体なんの研究?」
「そりゃあ、アタシらなんて、聞いたって分からないさ。」
「なのに、今度はアタシ?」
「ああ、ご主人様がそうおっしゃるから。」
「一度だけよね?」
「もちろん。」
マジョルカおばさんは、なんとも言えないおかしな表情をした。言うつもりではなかったことを口走ってしまったような。
そういえば、招待客はいつもどこからやって来て、どこへ帰って行っているのだろうか。
一人としてこの近辺の人だったことはないと思うし、二度と見かけた人もなかった。
皆、馬車で遠方から来ているような雰囲気ではあった。けれど、夕方には帰っているのだろうと思い込んでいた。けれど、この辺で夕方に街から出ていく馬車を見かけたことはないようにも思う。
なんだかおかしい。
そう思い始めると、自らの身に起こるであろうことが想像できず、不安が募るばかりであった。
その晩、私はお屋敷を抜け出した。もちろん、猫の姿で。
石畳の歩き難いことに気づいたが、少女の姿に戻って真夜中の通りを抜けることはできなかった。
アリューシャの屋敷に到着すると、塀を登り、壁を伝って、アリューシャの部屋の窓辺に辿り着いた。
爪をたてるように窓硝子を叩くと、アリューシャは部屋に私を招き入れてくれた。
「そんなにボクに会いたかったの?」
自惚れるアリューシャを尻目に、私はことの顛末を説明した。
アリューシャはおかしいといきり立って、私にはお屋敷に戻らないようにと言った。
けれど、私はマジョルカおばさんを放って、このままアリューシャと共にいることなんてできないと分かっていた。
「まだあと六日あるから。」
その夜はそう言って、私はお屋敷に戻った。
次の日の夕方、アリューシャがお屋敷にやって来た。
物売りのふりをして、勝手口からマジョルカおばさんに話しかけたのだ。
ああ、なんて勇敢なアリューシャ!
マジョルカおばさんは見た目がかわいらしく、軽快なおしゃべりをするアリューシャをすっかり気に入って、台所に招き入れた。
「ところで、こちらのご主人はなにをされているのですか?」
おばさんは口をつぐんでしまった。
「研究よね、おばさん。」
「なんの?」
おばさんはそう聞かれると、有無をいわさずアリューシャを叩き出してしまった。
「あんたの差し金かい?」
扉を閉めるや否や、私を詰問した。
私は首を横に振った。
「ご招待まで、あと五日ね。」
私がそういうと、おばさんはとても申し訳無さそうな表情を見せて、テーブルの上を片付け始めるのだった。
ご主人様の部屋を調べるといっても、マジョルカおばさんの目があって、そう簡単にはいかない。
いろんなことを思い出そうとしても、ご主人様が一体このお屋敷でなにをしているかなんて、一向に分からなかった。
メノルカがさらに告げ口をしたらしく、アリューシャは私に会いに来れなくなっていた。
いよいよ明日は私の招待日、私はご主人様のお部屋をいつもと同じように掃除し始めた。
「いいよ、今日は。」
マジョルカおばさんが、明日は私が招待客なのだからこの部屋の掃除は自分がやるというのだ。
ではとご主人様のお部屋の掃除はおばさんに任せた。私はすることがなく、ここぞとマジョルカおばさんの部屋に侵入した。
マジョルカおばさんの部屋は思ったほど清潔ではなかった。
やはり、完璧な清潔感というのはご主人様のためのものであって、自らの部屋には不要らしい。
整然とし、そこそこに清潔な生活感のあるマジョルカおばさんの部屋にも、ご主人様の研究を知るための手がかりとなりそうなものは見当たらなかった。
けれど、洋服ダンスの一番下の引き出しの一番奥に、お母さんの写真があった。古いセピア色の写真はシワも入っているけれど、右側はマジョルカおばさん、中央に立っているのは…お父さん…だろうか?
私の右目からは涙が溢れ、頬を伝った。
私は慌てて涙を拭い、おばさんのベッドの下を見てみた。
なんの変哲もないきれいな床にも見えたけれど、一箇所、変な窪みができていた。
その窪みを押すと、隣の床板が持ち上がり、中から鍵が出てきた。
錆びてはいないけれど、鈍い銀色の重々しい鍵だった。
どこに使用する鍵なのか、検討がつかなかった。
マジョルカおばさんの足音が聞こえて来た。この部屋に近づいてくる!
私は慌てて猫に姿を変えて、窓から外へと出た。そして壁伝いに自分の屋根裏部屋に辿り着いた。
そこにはアリューシャが待ち受けていた。
「逃げよう、イビサ!ボクと一緒に!!」
アリューシャの気持ちは嬉しかったけれど、そんなことできるはずがなかった。
とにかくそれよりも、この鍵の使いみちを知りたいと思った。
アリューシャは鴉の姿で屋敷の中をひとっ飛びしてくると言った。
階下では、おばさんがアリューシャと格闘する音が聞こえてきた。
私はまず自分の屋根裏部屋にそれらしいところがないかと見回してみた。
そういえば、この鍵を見つけたのはマジョルカおばさんのベッド下の床だった。
自分のベッドの下は?
やはり、そこには変な窪みがあった。
窪みを押すと、隣の床板が開いた。
そしてそこには、鍵穴があった。
そこで手の中の鍵を差し込んでみたら、ちょうどうまく嵌った。
ギシリ、ギシリと右に回した。
まるで、回っているのは鍵ではなくて、家全体が回っているように思われた。
鍵が一回転したところで、床下が大きく開いた。
そこには、招待客のものと思われる写真が収められていた。
一枚、一枚、裏側には名前と日付(恐らく招待日と思われる)が書かれていた。
何百枚という写真が、幾束にもなっていた。
若かりし母の写真もあった。
そして裏にはこう書いてあった。
「もう一度この味を。最高の焼き加減であった。娘が育つまでは待てない。」
嗚呼、私はすべてを悟った。
ご主人様の「研究」がなにであるか。
ご主人様のお部屋は居間を改造して作られており、普通の部屋にはないような暖炉がある。
マジョルカおばさんは「ご主人様は寒がりだから」と嘘をついていたけれど、真夏でさえ暖炉に火をくべるなんてやっぱりおかしいのだ。
でも、おばさんはどうして。
ご主人様に弱みでも握られているのだろうか?
アリューシャは屋根裏部屋に逃げ帰って来た。
私の報告を聞くと、力づくでも私を連れて行くと言い張ったが、私には考えがあるから明日力を貸してねと説き伏せた。
夜になるとマジョルカおばさんは私を食卓に招いた。いつもの台所ではなく、真白なテーブルクロスが輝く食卓で豪華な晩餐を振る舞ってくれたのだ。
「どうして、おばさん。」
私が聞いてもおばさんは答えてくれなかった。
「おばさんは、お母さんのことキライだった?」
「ああ、姉さんなんて大嫌いだったさ。」
「お父さんも?」
おばさんはギクリとして、返事をしてくれなかった。それはそうだろう。私だって、父親のことなんて今まで口にしたことがなかった。
母親の悪口ばかりいうおばさんの前で、生まれたときにはすでに居なかった父親という存在、むしろご主人様が自分の本当の父親ではないだろうかと疑ったことはあったけれど、さっきのさっき、母さんとおばさんと男性とが三人で写ってる写真を見るまで、自分の父親のことなんて考えたこともなかったのだ。
「明日は大事な研究の日だから、もうお休み。」
なんだか優しい口調のマジョルカおばさんは気味が悪かった。
「助けてはくれないの?」
おばさんは俯いたままこう言った。
「どうしようもないんだよ、アタシには。」
為す術もなく、朝はやって来た。
朝食はいつものように、台所の食卓で七時には済ませた。
アリューシャのために、こっそりパンと牛乳を屋根裏部屋に持ち込んだ。
間もなく、おばさんに階下から呼びつけられた。
招待客だからと。
いつも招待客にするのと同じように、まずはお茶を淹れてくれた。
そして着替え。私のために高級品を用意してくれたらしい。サイズはピッタリ。薄い水色のシフォンドレスにパフスリーブ。ビロードの青い靴が輝いている。
そしてご主人様のご到着。
ご主人様の部屋に通される招待客の私。
「下がっていい。」
呟くように、でもはっきりと聞き取れる声の大きさでそう言うご主人様に対して、お辞儀をしたマジョルカおばさんはご主人様に突進し、右手に隠し持っていた火箸を高く振り上げた。
ご主人様は老人とは思えぬ身のこなしでおばさんを颯爽と交わし、右腕を捻り上げた。
私は恐怖に慄き、声を上げることもできずにそこに立っていた。
「年寄りだと思って、馬鹿にするな!」
ご主人様はおばさんを下敷きにし、馬乗りになって、取り上げた火箸でおばさんの額を打ち続けた。
そこへ、鴉の姿になったアリューシャが飛び込んで来て、その鋭い嘴でご主人様の目を突いた。
私は猫の姿になって、ご主人様の全身をくまなく引っ掻いた。
アリューシャは大きな翼を広げ、両足でご主人様の肩を背後からひっつかみ、暖炉の中へとご主人様を追いやった。
おばさんは、なんとか起き上がり、マッチを擦って暖炉に火を放り込んだ。
マジョルカおばさんは振り返りもせず、肩を震わせてこう言った。
「出てお行き、薄汚い野良猫め。」
アリューシャは翼を広げ、両足で私を包むように捕まえて、大空へと飛び立った。
私とアリューシャは、猫と鴉として、いつまでも幸せに暮らした。
ときどきは、必要に応じて人間の姿に変えることもあったけれど。