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欠片も残さず食ってやるから

作者:
 うだるような、暑い暑い夏のことだった。
 風に揺れては木陰を動かすひまわりの下で、一匹のキリギリスが汗だくになっていた。こいつは、なるべく日陰から出ないように、大きな葉の下を選んで腰掛けているけれど、やっぱり夏の暑さっていうのは簡単にはしのげない。
 弓を持つ手がずるりとすべったものだから、危うく地面に落としそうになって大慌てで手を伸ばす。すんでのところで受け止めて、触覚が波打つくらいにホッと息をついていた。

 キリギリスはうっかり者だから、ちょっと気を抜くといつもこんな感じなんだ。危うく弓を折りそうになったのなんて、ムカデの足ほどある。
 それから、キリギリスは腿で手の汗をぬぐうと、ようやく弓を構えて一呼吸。
 そよ風が通りすぎるのと一緒に、弓をスッと走らせる。
 風と日差しがくるくる踊るのに合わせて、そいつのギザギザした指はぎこちなく動き始めた。ちょうど、ゲジゲジなんかが歩くとき、あんな動きをするんじゃないかな。
 すると、途端に頭の上のひまわりはしおれそうにうなだれ、隣の木で休んでいた雀たちも逃げるように飛び立っていって、しーんと音がなくなる。
 そこには目をまん丸にしたキリギリスだけ、ポツンと取り残されたわけだ。

「……おい、下手くそ。余計に暑くなるじゃねーか」

 ギュインギュインうなる弦に文句を言いたくなったのは、鳥たちのほかにもまだいたみたいだ。
 ハッとしてキリギリスが顔を上げるとと、少し離れた小石の上にアリがどーんと腰掛けていた。
 こいつはまた、体が大きくて立派なアリだ。不機嫌そうに眉を寄せて、膝の上で頬杖を作ると、アリはそのまま億劫そうに口を動かし始めた。

「いい楽器が泣く。蝉の声よりいまいましい」

 キリギリスはうっと言葉を詰まらせ、力なくうつむくと、もごもご声にならないものを口の中で噛みしめる。ぐうの音も出ないっていうのは、こういうときに使う言葉だった。
 まだ小さいころ、じいさんから譲り受けたこのバイオリンは、とてもとてもよい音を出すと評判で。もしものときはこれを弾けば食いっぱぐれないとまで言われていたすごいヤツなんだけど。
 ただ、それは上手く弾けたら、の話。

「……この調子だと、ぼくは冬に凍えるしかないのかな」

 キリギリスは肩を落として呟き、大きな大きなため息を落とした。
 周りのやつらが知ってるのと同じくらい、こいつは自分が下手くそなのをわかってる。幾度となくひどい音を響かせてはしかめ面をされ、今では弓を構えるだけで、みんなそそくさといなくなっちまうんだから、わからないほどバカでもなかったってことだ。
 でも、だからこいつは、いつもひとりぼっちだった。
 ご飯になる小さな昆虫を捕まえるのだって、言っちゃあ悪いが生まれたてのちっこいカマキリのがうまい。毎日毎日、食いつなぐのがやっと。これが冬になったら食料が減るから、きっとすぐにお腹が空いて倒れて雪に埋まる道しかない。
 だからキリギリスは、寒い寒い冬を迎える前に、食べ物を手に入れる手段としてすてきなバイオリンの音色を出せるようになりたかったらしい。

「おれはここで昼寝をするんだ。耳障りな音は蝉だけで十分」

 しっしっとアリに手で払われ、身をすくませたキリギリスは大人しく忍び足で離れると、木陰にある紫陽花の下へと潜り込んでいった。あのデカイ態度のアリに言い返そうなんて、これっぽっちも思わない。
 よく茂った大きな葉の隙間で、周りに誰もいないか首を巡らせてから、またため息をついて、それからギザギザの手で弓を持ち直した。

「ああ、やっぱりきみかあ。悪いけど、別のところで頼むよ」

 そこに上からのんびりした声が降ってきたのは、キュキュキュッと弦が悲鳴を上げたときだった。
 キリギリスが見上げると、上の葉からカタツムリが頭を伸ばしてこちらを見ていた。
 眠たげに触覚の目をパチパチさせて、ふああと大きなあくびをこぼしたけど、こいつはいつもこんな調子だ。でも、キリギリスはすぐに音を止めてバイオリンを小脇に抱えた。

「ご、ごめんなさい。気づかなかったよ」
「いいや、わたしも眠っていたからね」

 まあ、起こされてしまったけれど。とむにゃむにゃ言うカタツムリに謝りながら、キリギリスは慌てて茂みから駆け出していった。
 あの音で起こされたのなら、ずいぶん目覚めも悪かっただろう。初めて聞いたときは、しばらく頭がガンガンしたって言うやつもいるくらいだ。
 キリギリスはじりじり肌を焼く日向に出ると、ピョンピョン跳んでひまわりの前を通り過ぎていく。
 ちらりと見てみると、さっきの偉そうなアリが小石の上に寝そべってぐうぐう寝息を立てていた。その少し向こうでは、働き者のアリたちがせっせと食べ物を運んでいるのが見えている。たぶん、あのアリと同じ巣穴の出身だ。

「あの、彼は?」

 通りかかった別のアリに、キリギリスはそっと指差してみせる。
 すると働き者のそいつは、さっきのキリギリスといい勝負なくらい、大きな大きなため息を返して触覚をぶるぶる揺らした。

「知らないのか。あいつはアリ一番の怠け者さ。働きアリなんて周りが勝手に言ってるだけだ、てちっとも動きゃしない」

 口をへの字にして不満たらたら。
 後から来た別のアリも、荷物を持ちながら器用に肩をすくめてピクピク触覚を動かした。

「ただ、ごらん。あの立派な顎。機嫌を損ねたらムシャムシャ食われちまうから、誰もなにも言わないのさ」

 そんなアリもいるのか。キリギリスはアリが働き者ばかりだと思っていたから、心底びっくりしたらしい。
 じゃあまたね、なんて荷物を背負い直したアリたちが手を振るのに頭を下げて、キリギリスはお礼を言った。
 もう一度小石を見ると、ちょうどあのアリがごろりと寝返りを打つ。眉間にしわを寄せた顔がこっちを向いたので、キリギリスは慌てて草むらに飛び込んだ。
 まともに練習もできないんじゃあ、上手くなるなんて夢のまた夢。
 音が届かないように少し歩いた先のヤマブキの木陰で、キリギリスは何度目かのため息をこぼす。ため息だけは一丁前に奏でられるなんて、まったく頼りないったらない。






 次の日も、そのまた次の日も次の日も、キリギリスは誰もいないところを探してはバイオリンを構えた。
 腹が減って餌取りに出歩く以外は、ずっとずっと弓を握っていた。それでも歌うような音色は出ない。じいさんのときは、聞かせて聞かせてとみんながせびったはずなのに。こいつの手にかかれば、聞きつけた虫たちも耳をふさいで逃げていく。
 簡単だとは思わないけど、ここまで難しくて、才能が空っぽなんて。キリギリスは知っていたけどやっぱり打ちのめされて、がっくりと肩を落とした。

 月が高く上がった真夜中。
 キリギリスは、空腹で目が覚めてまたため息をこぼした。吐息でますますお腹が減ってしまいそうだし、追い討ちをかけるみたいにぐるると腹が鳴っている。
 そっと寝ぐらを抜け出して、やつはひまわりの下までやってくると根元へと腰掛けた。
 しんとした夜だった。
 ひまわりは眠っているように下を向いている。その長い茎と葉の裏にアブラムシがいるのを見つけて、キリギリスはようやくこの日の食事にありつくことができた。
 ガツガツ食べて、ひと息。
 見上げれば深い濃紺に朝露みたいに輝く星が散らばっている。月がはっきり大きくて、もうすぐ秋。すると、あっという間に寒い寒い冬だ。

「……おい、まさかまた邪魔する気か」

 とろりとした暗闇に低い声が響いて、キリギリスは思わず弓を取り落とした。これで二十七回目だ。
 驚いて目を凝らすと、小石の上に寝そべったアリがいた。あの仕事をサボってぐうぐう寝ていた、あいつ。

「こ、こんばんは」
「こんな夜になにしてんだ」

 ごろりとこちらを向いたアリに、臆病者のキリギリスは、ビクリと肩を揺らして眉を下げた。絵に描いたような情けない顔だった。
 体はどう見たってキリギリスのほうが大きい。それなのに、こいつはこのアリに敵うわけがないと思い込んでいるから、恐る恐る口を開いた。

「……昼はうまくご飯を取れなかったから、お腹が空いて」
「獲物を取るのも下手なのか」

 うっとキリギリスは喉に言葉を詰まらせた。毎回そうだけど、返す言葉もないらしい。
 アリはキリギリスの抱えているバイオリンへ視線を向けると、おもむろに体を起こした。

「それで? 飯を食うのにソレもあるのはどうしてだ」

 リーンリーンと鳴き始める鈴虫の美しい声ならいざ知らず、キリギリスのバイオリンでは子守唄になるはずもない。
 こんな夜に、なにをする気なのだとアリは元から悪い目つきで鋭い視線を向けてくる。ぶるりとキリギリスは体を震わせた。

「……夜なら、聞こえにくいかと思って」
「飛び起きて怒鳴られるだけだろーが。年がら年中触ってるのにその程度だ、たかが知れてる」
「そんなぁ」

 他人から見ても、そこまでこき下ろすほどなのか。キリギリスは小さな声でもごもごしゃべっていたのに、最後のやつはほとんどため息と一緒だった。
 哀れっぽく嘆いたのに合わせて、しょんと頭の触覚が垂れ下がる。ぎゅっとバイオリンを抱きしめたキリギリスは、体を小さくさせてうつむいた。
 たしかに、ちっとも上達しない。だから、こいつがバイオリンにこだわる必要もないし、むしろこだわらないほうがいい気までしてくる。

「でも、ぼく、上手くならないと冬を越せないんだ」
「あ?」

 ボソボソと口を動かすと、アリがピクリと触覚を揺らした。キリギリスはますます体を小さくさせる。

「ご飯も取れないなら、バイオリンをお礼にして、誰かに手伝ってもらおうと思って。せっかくすてきな音が出せるんだもの」
「どんなにそれが名器でも、弾き手がおまえじゃゴミと一緒だ」

 低い声が、キリギリスのうんと近くでこぼれた。
 びっくりして顔を上げると、目と鼻の先に、あのふてぶてしいアリ。さっきまで、石の上で寝そべっていたはずなのに。
 大きくて立派な顎がそこにあるのを見て、キリギリスは身を強張らせて言葉を失う。本当にこいつときたら、すっかり油断したってわけだ。

「フン。おまえみたいなトロくさいキリギリス、冬も待たずに今すぐ、まるっと食ってやる」
「そ、そんなぁ」

 アリは遠慮なくキリギリスを小馬鹿にしている。それもそうだ、こいつはどこまでもうっかりしているからしかたがない。
 カチカチ鳴る顎は、キリギリスの腕も腹も長い足も、バリバリと難なく噛み砕くだろう。
 今、キリギリスが勇気を出してピョンと跳べば、逃げられるかもしれないのに。
 やっぱりそこはこのキリギリスだ。足がガクガク震えて、頭が真っ白になったらしい。動けないでアリを見るだけ。
 そんでもって、身の危険はいつだってあるのに、冬までは生きれると思っていた自分の変な自信にもびっくりしていた。

「ま、待って」

 カチカチ。その音が、怖くて。キリギリスは余計に震えた。
 でも、こいつだって大人しくどうぞ食べていいよなんて言わない。キリギリスは涙をこらえながら、こいつにしてはめずらしく自分を奮い立たせて口を動かす。

「アリくん、きみの言うとおりぼくは間抜けだから、きっと近いうちに死ぬと思う。だから、ぼくを食べるなら死んでからにしてくれないかな。生きてるのにじわじわ食べられるなんて怖すぎる」

 は? とアリが首を傾げた。
 なにを言ってるんだこいつ、と顔全体で言っている。その気持ちはなんだか同意したくなるけど、手を合わせて頭を下げたキリギリスが先を続けた。

「お願いお願い。全部食べていいから、ね? ね?」
「フン。しょうがねーな」

 どう頑張ってもこのキリギリスは生きるのも下手くそなのだからしかたがない。だったらせめて、安らかに死にたいってことなのだろう。
 じっと夜の闇の中、アリの目がキリギリスを射抜くように見つめた。
 カチリ、と顎が鳴る。

「じゃあ、こうしよう。おれはアリだ。巣に戻れば食い物なんてたんまりある。万が一おまえが生き延びて冬が来たとしてもな。飯を食わせて、暖も取らせてやるかわりに、最後の最後はおれに食われろ」
「いいの?」
「おまえが食ったものは、どうせおれの腹に収まる。好きなだけ食えばいい」

 ここにいるのは、無事に冬を越したいキリギリスと、キリギリスを食べたいアリ。
 キリギリスはアリの目を見つめ返したまま二回大きくうなずいた。

「約束する。ぼく、きみに食べられる。だから食料を集めるのを手伝って」
「よし、交渉成立だ。――いいか、逃げようと思うなよ? おれはおまえより足は遅いが力は強い。仲間の数も多い。いつだって見張ってるし、必ず見つけ出すからな」

 そしたらきっと、このアリのことだ。間抜けなこいつが悲鳴をあげる隙も与えず、バクバクぜーんぶ食い尽くしてしまうのだろう。
 キリギリスも想像してぶるりと震えた。けれども、このアリを前にして逃げようなんて思えなかった。なにせ、キリギリスはなにをするにも上手くいったことはない。
 ごろりと小石に戻ったアリに、キリギリスはひまわりの茎に寄り添うと背中に向かっておやすみなさいと呟いた。
 さて、どうなることやら。





 次の朝からキリギリスの生活は不思議なものになっていった。
 今までずっとバイオリンの練習をしていたけれど、それも必要ではなくなってしまったはずだ。けれども、キリギリスは変わらずひまわりの根元で弓を握った。不器用なこいつは、練習をやめる気にはなれなかったのである。

「弾くのはいいが、せめてそのひどい音をどうにかしろ」

 逃げないように見張っていると脅かしたアリは、言葉どおりあの小石の上に寝そべっている。
 キリギリスが相変わらずのひどい音を出しても、意外なことにしかめ面でそこから動かなかった。

「せっかくのいいバイオリンだから、やっぱり弾けるようになりたいんだ」
「阿呆はいつまでも阿呆なのか」

 無駄だと毎日言われているのにやめないから、アリはすっかり呆れ返っているらしい。
 ずっと練習しているのにひどい音だから、周りに他の虫たちは寄り付かないし、ひまわりとアリだけが頭を割るような音に耳をふさいでいる。

「アリくん、ぼく、違う場所に行くよ?」
「探すのが面倒だからそこにいろ」

 この音に付き合うのは嫌だろうに、これまた意外なことにアリはいつもこう言った。
 キリギリスが逃げないように見張るつもりなのと、飢え死にさせないようにすると言ったのは本当らしい。アリは寝たりゴロゴロしたりする合間に、ふらりとどこかに行っては食べるものを持ち帰ってきていた。
 このアリは、誰かと違ってなんでも器用にこなしてしまうようだ。
 さっき捕まえたチョウの羽をバリバリ食べながら、アリはキリギリスにも一枚よこす。

「早く太れ。食うのが楽しみだ」

 ニヤリと悪い顔で笑うアリに、キリギリスは困ったように眉を下げて、居心地悪そうにひまわりの根元に座り直すしかできない。
 そうこうしていれば、夏の日差しはすっかり力をなくして、涼しい秋風が吹くようになる。ひまわりは種をつけたと思ったら茶色くなってあっという間にしおれてしまった。
 紅葉やどんぐりがたくさん地面を覆う季節はせっかちで、キリギリスが木の葉の隙間を渡り歩けば、ちらりちらりと雪が降る。

 寒い。寒い寒い冬だ。
 アリはこのところ、何日か空けてキリギリスに食べ物を持ってきていた。さすがのあいつでも、この季節ともなれば食料を見つけるのに苦労するのだろう。
 下手くそなバイオリンを聞きながら、馬鹿だ阿呆だと憎まれ口も叩くけれど、なんだかんだとキリギリスに付き合い続けている。
 キリギリスは前みたいに腹が空きすぎて夜に起きることもない。だからキリギリスはあのアリに感謝していた。

 そろそろ、アリは来てくれるだろうか。
 かじかむ指で弓を握って、キリギリスは白い息を吐いた。
 そういえば、あいつが最後に来たのはいつだったか。キリギリスもそう思ったらしく、ふと、手を止めて考える。今回はいつもよりも日が経っているような気がして、めずらしく、キリギリスの腹がぐうと鳴った。
 なにかあったのかもしれない、とキリギリスはハッとする。強いとは言ってもあいつはただのアリ。アリにだって天敵はいるし、命を落とすことはある。そんなのはよくある話だ。

 それからまた何日が経っただろう。
 寒くて寒くて、体が動かなくなって。目も霞んで、声も出なくなって。バイオリンを抱えたまま、キリギリスはもう枯れてなくなったひまわりの咲いていた場所で雪に埋もれていた。間抜けなこいつは、ずっとずっとここにいる。
 寒い。寒くて凍えてしまいそうだ。あのアリは、大丈夫だろうか。彼のほうが寒さで困っていないだろうか。雪に潰されながら、そんなことばっかり考えている。

「……まだいたのか。馬鹿なやつだ」

 キリギリスの頭の中にいよいよモヤがかかって、真っ白になるとき。あの低い声が聞こえた。

「アリくん……?」
「冬をあれだけ嫌がっていたくせに、なんでこんなとこにいるんだよ」
「……だって、きみは、探すのが面倒だろう? ここにいたら、必ずきみに会えるもの」

 低い声は、しんと黙ってしまった。
 キリギリスの目はもう開かなくて、あいつが今、どんな顔をしているのかもわからない。
 冬を越すために約束を交わしたはずなのに、そんなことももう気にならなかった。
 いつもいつもひとりぼっちだった、間抜けなキリギリス。
 こいつは、誰かと季節を過ごしたなんてこと、初めてだったんだ。

「……よかった。きみに、なにかあったのかと、思ったよ」

 大丈夫なら、いいんだ。そう言って、キリギリスはふんわり笑みを浮かべた。
 ああ、なんて間抜けなんだろう。嘆く間もなく、ぐいと強い強い力が首のあたりにかけられて、ああ、そうかとキリギリスは思った。
 約束だ。約束。
 この身がアリの糧となるなら、それも悪くないじゃないか。もう痛みも感じないだろう。そう思ってから、ふうと息を吐き出して、キリギリスはあっさりと意識を手放した。





 ああ、お手柄だ。あんなに丸々としたキリギリス、よく持ってこれたな。今までなんで本気を出さなかったんだよ。
 遠くの、あちこちで、そんな賑やかな声がする。
 ざわざわする空気に、パチッと目が開いた。
 キリギリスが気づくと、そこはあたたかな寝床である。
 土の壁でできた部屋の中にはたくさんの食べ物が並んでいて、ここなら長い冬もなに不自由なく過ごせるだろう。

「やっと起きたか。どこまでトロくせーんだおまえ」

 ぼんやりしていた頭がはっきりしたとき、あの低い声が聞こえてキリギリスは目を落としそうなほどまん丸にした。
 自分を見下ろすと、手があって、足もあって、首もつながっている。

「ア、アリくん、食べなかったの?」

 せっかく意識もなくて死ぬところだったから、痛みもないはずだったのに。キリギリスはパチパチとまたたいた。
 もしかして今からバリバリと、なんて想像してサアァと血の気が引いていく。するとアリが心底呆れた視線をよこした。

「まだ死んでねーからしょうがねえだろ。――おれたちを楽しませるって約束で、冬の間置いてやるって話をつけてきた。だからさっさと起きて飯食え」
「え」
「バイオリン、弾けよ。女王様が楽しみになさってる」
「えええええ」

 ここにきてアリまでおかしなことを言い出した。
 こいつの腕前なんて、やつが一番知っているはずだ。それなのに、こんな条件をつけるなんてまったく。

「いいから、弾け。おまえ毎日馬鹿みたいに練習しただろう」

 キリギリスの横には、きちんとバイオリンが置かれている。
 それがまたずいぶんと艶やかで、キリギリスが見た中でいっとううつくしかった。こんなバイオリンを見たのは、こいつのじいさんが弾いていたとき以来だ。

「だ、だって、アリくん、ぼく――」
「うるさい。試しにやってみればいい」

 カチリ、とアリが顎を鳴らした。
 それにキリギリスが逆らえるわけがない。目でバイオリンを示されて、キリギリスはしかたなく顎で挟み、弓を構えた。
 ふっと息を止めて、なめらかに弦へ走らせる。

 バイオリンは、あのバイオリンは。
 高々に、音を紡いだ。
 やわらかに広がった音は、弦の震えに合わせて伸びやかで、どこまでも澄んでいる。
 思わずキリギリスは手を止めてバイオリンを見つめた。
 目が、これでもかってほどまん丸になっている。唖然としてアリを振り返った。

「な、なんで」
「おまえ、本当にトロくさいよな。今まで、バイオリンの調整もなにもしてなかっただろ」
「調整」

 弦の張り、ネジの締め方、駒の角度。
 胴体を磨いたり、駒の掃除をすることで音が変わるのだと聞いたことがある。
 そういえば、このアリは手先が器用だったなあ。こいつがぐーすか寝ている間に、すっかりきれいにしたのだろう。
 が、そうか。さてはこの間抜けは、手入れなんて知らずに放ったらかしだったわけだ。
 じいさんからもらったときのまんま、大事に大事に使っていたのだ。いろんな意味でそのまんま、手を加えることなんてなく。

「それでこんなに音が変わるなんて、相当だぞ。でもまあ、よかったな。あれだけ馬鹿なりに練習したんだ、すぐに弾けるだろ」

 女王様に乞われても、不興を買うこともない。
 アリは、抜かりなく全部整えていた。このキリギリスが冬を越せる場所も、そのお膳立ても。

「ありがとう。ありがとう、アリくん」

 ぎゅっとバイオリンを抱きしめたキリギリスに、アリはカチリと顎を鳴らして視線を外した。

「フン、しぶといやつだ。せっかく食えると思ったのに、ムカつくことに息だけはしていやがって」

 不機嫌にそう言うのに、こんなときに限ってキリギリスはくすくす笑いだしている。
 そんな失礼なやつに向かって、アリはぐっと眉を寄せてうんと低くした声を響かせた。

「いいか、おまえを食べるのはおれだ。約束は違えない。冬はここで越せばいい」

 キリギリスは、それに微笑んだ。

「うん、うん。約束、忘れていないよ。ぼくを食べるのは、きみだ。でもアリくん、そうするとぼく、いつ死ぬかわからないよ?」
「……だから、そのときまで目を離さないってことだ」

 フン、と鼻を鳴らしてアリはごろりと寝転んだ。眉は寄ったままだけど、怒っていないんだってキリギリスでさえわかっている。
 食えよ、とぶっきらぼうに言って並べてあった食べ物を投げたので、キリギリスはありがとうと両手で受け取った。
 寒い冬は長い。
 けれども、あたたかな春も、また訪れる暑い夏も。
 キリギリスは今から楽しみでしかたがないらしい。のんきに笑みを浮かべるのに、アリはもう悪態吐くこともしないでごろりと寝返った。そこに、子守唄みたいなやわらかな旋律が響き始める。
 今までとは違ったなにかが、きっと待ってる気配もするから、これは目が離せないことになりそうだ。
 いつか来るそのときまで、すてきなすてきなその音が響いていることを願って、もうしばらくの間彼らに付き合うことにしよう。

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