第106話 これのどこが医療院なんだ!?
地獄へようこそ(`ー´) クククッ
ケミナ村を発った慎也たち一行はその後、何事も無くキアナの街へ帰ってくることが出来た。
怪我人だらけとはいえ、20人近くの騎士に護衛されながらの移動だった為、盗賊はおろか魔物と出会うこともなく、半日ほど平穏に移動した後、無事にキアナの街の市門に辿り着いた。
前日までは冒険者ギルド襲撃による職員殺害事件の影響で封鎖されていた市門は、この日の朝から解放され、いつも通り住民や冒険者、行商人たちが行きかっていた。
そこへ、戦場帰り――ある意味その通りだが――さながらの大量の重傷者を乗せた荷馬車の一団が通りかかったので、事情を知らない通行人たちが一時色めき立ったが、出発前に先発していた伝令の騎士から連絡を受けていた門番たちは冷静に一時業務を中断してそのまま一行を市内へ通してくれた。
お蔭で順番待ちをすることもなくスムーズに街へ入り、その足で医療院へ向かうことになったのだが……
「つーかちょっと待て」
市内に入ってしばらく経った頃、さすがに黙っていられなくなった慎也が口を開いた。
「どうしたの、シンヤ?」
シアーシャが尋ね返すが、その表情はどことなく引きつっているように見える。
「オレたち、これから医療院に向かうんだよな?」
「そーだよ」
ちなみに、冒険者組で要治療と見なされたのは腕を切断した慎也だけで、他の女性陣は皆軽傷であったので必要無し、ということになっていた。
「怪我の治療の為に行くんだよな?」
「当たり前じゃない」
「だったらなんで皆、死刑台に送られる死刑囚みたいな有様になってるんだ!?」
そう、何故か慎也と同じく医療院行きと判断された騎士たちが、皆お通夜ムードを通り越して死刑宣告をされたように暗く沈んでいたのだ。
怪我をした騎士が乗せられている前後の馬車からは「短い人生だった……」とか「いっそひと思いに……」「早まるな馬鹿!」とか「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」などという悲痛な声が聞こえてくる。中には「妻へ。今日まで私を愛してくれてありがとう……」などと呟きながら紙になにか書き込んでいる騎士もいる。遺書だろうか?
「傷が痛むからブルーになってるんですよ、きっと」
ワザとらしく目を反らしながらフェルナが言った。
「だったら何故、通行人が憐みを込めた眼でこっちを見てるんだ!?」
街路を行く馬車の両脇には、街の住民や商人たちが、一様に憐憫の表情を浮かべて慎也たちを見送っていた。
途中、品の良さそうな中年の夫婦らしき男女の会話が聞こえてきたのだが――
「あの人たちどうなさったの? みんな怪我をしてるみたいだけど……」
「なんか凶暴な魔物が出て、討伐はしたけど怪我人が大勢出たそうだ」
「あら、大変ねぇ」
「それでこれからエンキ先生に治療してもらうらしい」
「まあ! お気の毒に……」
――と、心底同情する様な視線を送られた。
その他にも冒険者たちとも何度かすれ違ったのだが、その度に「地獄行きか……」「可愛そうに」「魔物に喰い殺された方が幸せだっただろうにな」などと縁起でもない言葉が聞こえてきた。
「きっとみんな同情してくれてるのよ」
と、シアーシャはあくまで気のせいだと言いきった。目を反らしながら……
「じゃあ、なんであの爺さん婆さんたちはこっち見て念仏唱えてんだ!?」
見れば、街路の脇に集まっていた数人のお年寄りたちがこちらに手を合わせて「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と声を揃えて呟いていた。
「ああ、そう言えばあの「ネンブツ」ってなんの意味があるんだろうね?」
「異世界から伝わった風習らしいんですけど、私たちも良く知らないんです」
シアーシャとフェルナが揃って首を傾げていた。
どうしてこの世界の人間が念仏など唱えているのかと思いきや、過去にこの世界に来た日本人が伝えていたものだったらしい。
もちろん慎也はその意味を知っている。
「死者の鎮魂、もしくは冥福の為のお祈りだよ」
「「ああ、なるほど!」」
「納得してんじゃねぇっ!!」
普段は性格の違いから言動のかみ合わないフェルナとシアーシャが、異口同音に納得したのを見て慎也が喚いた。
「落ち着きなよ、慎也君」
「そうですよ。騒いだら傷に障りますよ?」
「ステイ、なんだよ」
結衣、ユフィア、セリシエルの3人がそう言って慎也を嗜めた。
「じゃあ、お前らも診てもらうか?」
「わ、私は疲れてるだけだから、必要ないと思うな!」
「自分で回復できますから、お気遣い無く!」
「怪我なんかしてないんだよ!」
慎也に話を振られて速攻で断る3人の少女たち。
事情を知らない彼女たちも、これから慎也が送られるのが恐ろしい場所だと悟ったらしい。自分たちは送られないので軽いものである。
「……」
仏頂面で座り込む慎也を他所に馬車の車列は街路を進む。
目的地が近づくに連れて騎士たちの恐怖が高まっていくのが判った。やがてそれが最高潮に達したところで、一行は目的の医療院に到着した。
「ちょっと待て、ちょっと待てっ、ちょっと待てぇッ!!」
建物を目の当たりにした慎也の第一声がそれだった。
「これのどこが医療院なんだ!?」
怒鳴り声を上げる慎也の指が突き付けられた先にあるのは、どう考えても医療院には見えない建物があった。
その外見を一言で言い表すなら「冥府の入り口」だろう。
建物自体は2階建てで、さして大きいとは言えないのだが、白いレンガやタイルを加工して造られたその外観はちょっとした城のようにも見える。
だが、どういう訳か玄関の上には大きな髑髏の装飾が飾られ、両脇には異様にリアルなガーゴイル像が鎮座していた。さらに屋根には大きな蛇の彫刻が乗っかっている。しかもその上には大量のカラスが屯している。
お世辞にも医療院と呼べる外観ではない。
この建物をみて医療院だと判断できる者は皆無だろうし、そもそも真っ当な神経の持ち主なら中に入るどころか近づくことさえ躊躇うようなおどろどろしい建物だ。
夜中に前を通りかかったら、それだけでトラウマになるかもしれない。
「なに言ってるのよ、シンヤ。どう見ても医療院じゃない」
「そうですよ。ちゃんと書いてあるでしょう?」
相変わらず目を合わさず超棒読みでシアーシャとフェルナが言った。
「ああ、書いてあるな。書いてあるとも! 『ヘル・ズ・ゲート医療院』ってなッ!!」
直訳すると「地獄の扉」と言ったところか。命名者のネーミングセンスどころか正気を疑うレベルである。
「ついでに言わせてもらえば、玄関に『この扉をくぐる者、汝、一切の望みを捨てよ』って書いてあるのも見えてるぞ!!」
正面入り口の扉に書かれた脅しとも取れる言葉。しかも何故か赤いインクで雑に書かれていて血文字にしか見えない。
「こんな建物が街にあったなんて知りませんでした……」
「入りたくないというか、近づきたくないよね……」
「医療院って、怖い所なんだ……」
ユフィア、結衣、セリシエルの3人もドン引きだ。
その扉が開いて、先に入っていたイアンが出て来た。
「取りあえずエンキに話は通しておいた。重傷の者から順に治療してくれるそうだ。最初の生に……患者はシンヤだ」
「いま生贄、って言おうとしましたね!?」
びしっとイアンを指さして慎也は喚いた。
怪我をした他の騎士たちの同情の視線が彼に集まる。
実際、トリアージの常識で判断すれば、怪我人の中で一番重傷なのは右腕を切断している慎也で間違い無いのだが、如何せん、医療院の外観が恐ろしすぎる。こんな場所に住む医師がまともであるはずがない。
「冗談じゃない! 帰るっ!」
少し前までの決意はどこへやら。こんな恐ろしい場所に入るくらいなら片腕のままで良い、と踵を返そうとした慎也を――
「ほら、我がまま言わないの」
「ちゃんと治してもらわないとダメですよ」
シアーシャとフェルナが左右から拘束した。
「離せ! ここは入っちゃいけない場所だ! オレの勘がそう言ってるんだ!」
「気持ちは判りますけど、我慢して下さい」
「男の子が情けないこと言わないの」
まるで注射を嫌がる子供をそうする様に、フェルナとシアーシャが暴れる慎也をずるずると引きずっていく。
「慎也君、私たちは待ってる間、ちょっと買い物してるからねー」
「シンヤさん、ちゃんと腕を治してもらってくださいね」
「がんばってー!」
と、結衣、ユフィア、セリシエルが笑顔で手を振りながら慎也を見送っている。同行する気はさらさら無いようだ。
「お前ら覚えとけよ……」
涙目で怨嗟の言葉を漏らしながら、慎也は地獄の入り口へと引きずり込まれていった。
◇◇◇
「あれ?」
医療院の中に入った(引きずり込まれた)慎也の第一声がそれだった。
外観があまりにもあれなので、てっきり中も同じかと思っていたのだが、意外にも普通だった。
玄関をくぐってすぐのフロアは待合室になっていた。当然のように他の患者は1人もいない。それほど広くない待合室の中央には10人くらいが並んで座れる長椅子が背中合わせで置かれている。壁は清潔感溢れる白だし、窓から射し込む光でずいぶんと明るい。
どこもおかしなところはない、ごく普通の医療院に見えた。
「なんだ? 三角木馬みたいな拷問器具が色々置いてあると思ったか?」
一緒に入って来たイアンが笑いながら尋ねて来た。
「えーっと、まあ……はい」
まったくその通りだったので、慎也はバツが悪そうにしながらも肯定した。
「ここ医療院だよ? そんなのある訳ないじゃん」
「そうですよ。身体を癒す場所なんですからね」
シアーシャとフェルナも笑いながら言った。
「なら、なんであんな外観なんだ? それに、みんなここに来るの凄く怖がってたし……」
「まあ、その辺はすぐに判るさ」
意味深に肩を竦めてイアンは待合室を横切ってその奥――診察室と書かれた扉をノックした。
「エンキ。言われた通り連れてきたぞ」
イアンが扉越しに言うと――
「入れ」
(ん?)
扉の向こうから聞こえてきた声に、慎也は眉を顰めた。
声色からして中年、もしくは壮年の男性だと思うのだが、なんと言うか、医者という職業に似あわぬ凄みのある野太い声だった。
「失礼する」
そう言ってイアンが扉を開いた。
(……医者じゃない)
扉の向こう――診察室にいた人物を見て、慎也は凍り付いた。
(医者じゃないッ!!)
そこにいたのは、身長2メートル半近くある並外れた大男だった。
浅黒い肌に岩から彫り出した金剛力士像を思わせる鋼の鎧の如き筋肉。黄金色に輝く相貌はそれだけで人を射殺せるんじゃないかと思えるくらい鋭い。銀色の髪を短く刈り上げ、短い髭を生やした精悍な顔には深い皺と共に、鋭利な刃物で切られたと思われる傷が額から頬に掛けて顔を裂くように走っている。
なにより特徴的なのはその側頭部と額からそれぞれ2本ずつ生えた、計4本の角だ。
(鬼人族!?)
鬼人族とはその名の通り、鬼のような角と屈強な肉体を有した亜人種だ。
あくまで本から得た知識ではあるが、慎也も名前だけなら知っている。
闘争民族などと揶揄されることもある種族で、男女共に非常に高い戦闘能力と闘争本能を有する種族で知られている。人族とは比較にならないほどの怪力と高い生命力を有する反面、魔法が一切使えない種族で、戦いではもっぱら頑強な肉体と怪力を生かしたパワフルな戦いを得意とする。
最大の特徴である角は個人によって形や本数が異なる。鬼人族にとって角は種族としての誇りであり、角の数が多いほど優れた能力を有していると言われている。
大抵の場合は1本から多くても3本なのだそうだ。それが4本あるということは相当突出した能力をもった鬼人族ということだ。
(それがなんでこんな所で医者やってんの!?)
どう考えても、目の前にいる鬼人族の風貌は「医者」というイメージとはかけ離れたものだった。一応白衣は着ているが、かつてこれほどまで白衣の似合わない者を慎也は見たことがない。
なによりその威圧感が尋常では無い。ステータスなど見ずとも、彼のレベルが自分よりも圧倒的に高いことが肌で伝わってくる。
怖い。怖すぎる。あの人に診察してもらう? 冗談じゃない。それならゴブリン・エンペラーやアシュケロンに1人で立ち向かう方がずっとマシだ。
「いや、あのオレやっぱ……」
震えながら後ずさりした慎也を、背後からフェルナとシアーシャが、がしっ、と捕えた。
「ほらほら、大丈夫だから」
「男なんですから勇気を出しましょう、シンヤさん」
2人はニコニコしながらも、頑として離さないぞ、という強い意志を感じる。
「なんで鬼人族が医師なんかやってんの?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「言ってねぇよ! つーか、お前らワザと黙ってたな!?」
「大丈夫ですよ、シンヤさん。ああ見えてエンキ先生はスアード伯爵領きっての武闘派医師ですから」
「武闘派医師なんて単語初めて聞いたわ!」
3人がそんなことを言い合っていると――
「おい」
鬼人族の医師――エンキの口から洩れた一声で、3人は一斉に沈黙した。
低く小さい声なのに、そこには有無を言わせない凄まじい威圧感が込められていた。
「なにごちゃごちゃ言ってんだ。さっさとこっち来て座れオラ」
「は、はい……」
従う他なかった。言う通りにしないと殺すぞ、と言わんばかりの凄みのある命令口調だ。
慎也は震えながら診察室に足を踏み入れる。重たい足を懸命に持ち上げながら歩み、あらん限りの勇気を総動員してエンキの前に置かれた椅子に腰かける。
「じゃあ、私たちはこれで――」
そう言い残して、フェルナが診察室の扉を外から閉めた。
中に残ったのは慎也とエンキ、そして何故かイアンも一緒に残っていた。
「名前は?」
「し、慎也です……」
震える声で慎也はなんとか答えた。
「シンヤか。話はイアンから聞いた。異世界人なんだってな」
「えっ!?」
ぎょっとして振り返ると、イアンは「すまない」と早々に謝罪してきた。
「そのくらいでオタオタしてんじゃねぇ!」
「はい、すいません!」
強めの口調でエンキに言われて慎也は条件反射で謝罪した。
「患者の情報は正確に伝えてもらわなきゃ適切な治療が出来ねぇんだ。だが安心しろ。口外はしねぇ。オレも異世界人に会うのは初めてじゃねぇしな」
「え!?」
思わぬ事実に慎也は呆けたような声を漏らした。
「と言っても、会ったのは300年以上前だがな」
「300年!?」
驚きの声を上げた慎也だったが、すぐに本で読んだ知識を思い出す。
鬼人族はエルフや天使族ほどではないが、人間に比べて遥かに長命な種族で、寿命は700年~800年ほどらしい。
「失礼ですが、エンキ先生、年はお幾つなんですか?」
「457歳だ」
驚くべき年齢に慎也は声も無く驚いた。少なくとも、慎也が知っている者の中ではぶっちぎりの最高齢だ。鬼人族の寿命で考えれば、人間で言えば50代くらいということになる。
「ちなみに、彼はもう100年以上前からこの街で医師をしているんだ」
「100年ですか? 凄いですね……」
イアンが補足してくれた内容に、慎也はまたしても驚かされる。
「話を戻すぞ」
いつの間にか逸れてしまった話の路線をエンキが戻した。
「取りあえず、事情はイアンから聞いてる。腕を戻して欲しいんだってな」
「は、はい」
「一度、傷口を確認する。包帯を取るぞ?」
エンキは慎也の切断された右腕の傷口に巻かれた包帯を慎重に解いていく。回復薬と回復魔法のおかげで血は止まっているが、傷口はそのままだ。
大柄な鬼人族だけあってその指の1本1本が子供の腕よりも太い。にも拘らず、その手付きは繊細で一部の無駄すら無く、包帯を解く際に慎也に苦痛を与えないように細心の注意が払われているのが判る。勤続100年を超える医者というのは伊達ではないらしい。
「あん? なんだこりゃ?」
包帯を解かれて露わになった腕の切断面を見て、エンキは訝し気な声を漏らした。
「この傷口、刃物で切断されてるじゃねぇか。オレは魔物に喰いちぎられた、って聞いたが?」
「えっと、厳密には魔物に喰い付かれて外せそうになかったので、自分で斬り落としたんです。どのみち腕は噛み砕かれて使い物になりそうもなかったので……」
「ほぅ」
慎也の告白に、エンキは感心したように自分の顎を撫でる。
「咄嗟の判断で自分の腕を切り捨てられる奴はそうはいねぇ。根性と決断力は認めてやる」
「ど、どうも……」
「ふむ。切り口も綺麗だし、毒や呪いを受けた形跡もない。これなら問題無いだろう」
まじまじと慎也の腕を観察してからエンキはそう結論付けた。
「じゃあ!?」
「慌てるんじゃねぇ。あくまで傷口の問題だ。他に確認しなきゃならねぇことがある」
腕を治してもらえる、と先走った慎也をエンキが窘める。
「お前<苦痛耐性>スキルは持ってるか?」
「あります」
何故<苦痛耐性>スキルのことなど聞くのか、という疑問が頭を過ったが、取りあえずそれは無視して慎也は答えた。
「レベルはどれくらいだ?」
「500代半ば、といったところです」
「ふむ。その数値だと際どいな。ちょっと試しとくか」
試す?
慎也が疑問を口に出す前に、エンキは徐に右手を高く振り上げた。
「ぅっ!」
それを見たイアンが背後で後退る。
「おい、歯ぁ喰いしばっとけ」
「へ?」
慎也はエンキの言葉の意味が判らず、疑問符を返すしかなかった。
そんな彼の視界から、振り上げられたエンキの右腕が突如として搔き消える。
次の瞬間、慎也の視界がブレた。
「!!!!????」
慎也は一瞬、自分になにが起こったのか理解できなかった。
エンキの右腕が視界から消えた瞬間、突然、顔の左側にもの凄い衝撃を見舞われた。目の前が一瞬にしてぐちゃぐちゃになり、同時に、バチィィィィン!! という爆音にも似た凄まじい音が耳朶を打った。その音の正体に気付く前に、彼の身体は為す術も無く床に叩き付けられていた。
「ぐっ……お……あ……?」
気付いた時には意味を成さない言葉を口から洩らしながら天井を見上げていた。
一瞬後、左の頬に凄まじい激痛を感じて、慎也はようやく自分になにが起こったのかを理解した。
エンキにビンタされたのだ、と。
後ろに立っていたイアンは、事の成り行きの一部始終を目の当たりにしていた。
残像すら残らないほどの速さで振り下ろされたエンキの右手が慎也の左頬を打ち、慎也の頭が衝撃で思い切り右側へと振られ、それでは留まらず身体までが宙に吹き飛ばされ、空中で華麗な3回転半のトリプル・アクセルを決めた後、為す術も無く床に叩き付けられたのを。
その凄まじい打撃音はイアンに強い耳鳴りをもたらしただけでなく、診察室の空気を揺さぶり、それが診療所の外にまで伝播して診療所から200メートル以上離れた場所にまで音と衝撃を轟かせた。
診療所の屋根に屯していたカラスたちが一斉に飛び立ち、診察待ちの騎士たちが涙目で悲鳴を漏らし、街の住民たちは息を飲み、冒険者たちが哀れな犠牲者の冥福を祈った……
「ぉぉぉおぉおぉ……」
その哀れな犠牲者である慎也は、衝撃から立ち直ることが出来ず、打たれた頬を押え、のたうち回ることすら叶わず床の上で未だ痙攣している。
人生最悪の激痛というか、これまで生きてきた17年間に感じてきた痛みのすべて凝縮してもこれには及ばないだろう。
痛い。痛すぎる。なんと言う痛さ。
<苦痛耐性>がまったく役に立たない。ゴブリン・エンペラーに殴られた時や、アシュケロンに腕を噛み砕かれた時の痛みなど比較にならない。
激痛などと言う生易しい痛みではない。
骨の髄。心の奥。精神の芯。魂の根底まで届く恐るべき痛み。
これほどの痛みがこの世に存在していたとは……異世界恐るべし!
だがなにより不可解なのは――
(なんでダメージを受けてないんだ!?)
冗談抜きで慎也は死を覚悟した。
というかもう死ぬと思った。
文字通りの意味で死ぬほど痛かった。
状況を理解した時点で自分がまだ死んでいないことに驚いたくらいだ。
どういう訳か、死を覚悟するほどの凄まじい激痛だったにもかかわらず、慎也のHPはまったく減っていなかったのだ。
「な……な……な……ん……で……?」
「ほぅ?」
どうにか言葉を絞り出した慎也を見下ろしながら、エンキは感心する。
「いまのを喰らって失神せず、しゃべれるのか。人族のくせに、なかなか良い根性してるじゃねぇか」
慎也を褒めるエンキだったが、当人はまったく嬉しさなど感じていなかった。
痛い。ひたすら痛い。
「いきなり殴るなよ、エンキ!」
さすがに慎也を哀れに思ったイアンが批難の視線をエンキに向ける。
「ちゃんと予告しただろうが」
「予告云々じゃなくて、殴るのを止めろ、と言ったんだ! お前がそうやって毎度毎度患者にビンタを喰らわせるから、誰も診療所に寄り付かなくなったんだろうが!」
「馬鹿野郎。診療所が暇なのは良いことだろうが。だいたいビンタの1発や2発怖がってるような軟な根性で、騎士や冒険者が務まるか」
「それはお前自身が自分のビンタの痛さを知らないから言えるんだ! お前にビンタされた奴はみんなそれがトラウマになってるんだぞ!?」
そんな2人の会話を聞きながら、慎也は何故騎士たちがこの診療所に来るのをあんなに嫌がっていたのか、心から、そして身を以て理解した。
(つーか、医者なのに患者殴るってどうなのよ?)
2人が言い合っている間にどうにか痛みが治まってきて、どうにか普通にしゃべれるくらいまでに気力と精神が立ち直った。
「なんで……オレ……殴られたんですか?」
いまだジンジンする頬を摩りながら、涙目で慎也が口を挟む。
「ああ、お前を試しただけだ。喜べ。結果は合格だ」
「……喜んで良いんですか?」
本心を言うとまったく喜べないというか、喜びたくない慎也だった。
「喜んで良いぞ。腕が治る可能性が高い、ってことだからな」
「……どういうことです?」
ひとまず椅子に座り直し、しかしエンキの手が届かない程度に離れてから慎也は尋ねた。
「イアンから聞かされてると思うが、オレは欠損した身体を再生させることの出来る薬を持ってる。それをお前に使ってやること自体は問題無い。だがこの薬には厄介な副作用がある」
「そう言えば、イアン様もそんなことおっしゃってましたね。具体的にどういうものなんですか、その副作用というのは?」
「一言で言えば、とんでもなく“痛い”んだ」
「痛い?」
「お前の腕の傷口の状態からして、薬を投与すれば1時間ほどで腕は元通りに再生されるだろう。だが投与してから完全に腕が再生されるまでの間、お前はとんでもない激痛に苛まれ続けることになる。大抵の人間は傷が治る前に痛みに耐えきれずにショック死する」
「……え?」
エンキの言葉に、慎也は呆然とした呟きを返した。
鬼のように怖い武闘派医師エンキ先生のモデルは……言わなくても判りますよね? 作者は大好きです。




