第八話 優希
海に行ったり、花火大会に浴衣で出かけたり、カラオケではしゃいだりすることもなく、あたしの無意味かつ怠惰な夏休みは終わった。
ファミレスでの一件以来、明日香たちとは連絡を取っていない。登校日の朝を迎えるのが怖くて、昨日の夜は一睡もできなかった。
意を決して教室の扉に手をかけると、肩を叩かれて「ぎゃっ」と思わずかわいくない声を上げる。振り返ると、ぎこちなく笑う優希がピースサインをしてあたしを見つめていた。
青白くて不健康に見える肌に、ほんのすこし赤みが差している。
「みー、なんでライン無視すんだよー。心配するじゃん」
表情は笑っているのに、放った言葉が震えていることに気づく。
無理につくったような歪んだ笑顔が痛々しくて、あたしの胸がすこしだけ傷んだ。数日前に届いた優希からのラインを無視したのは、明日香や真央と距離を置くべきだと思ったから。たったそれだけの理由だけど、優希にうまく説明する言葉が見つからなかったのだ。
「ごめん、ごめん。土日も塾入ってて、なかなか返事できなくて。」
「ベンキョー大変?」
あたしの顔色を伺いながら尋ねる優希の首には、青あざは見当たらなくて少しホッとする。
「うん。あたし、落ちこぼれだから、これから追い込みって感じかな。」
「みーなら大丈夫だって。あーしより全然、努力家だし、頑張ってるし。」
健気で、無意味ないつもの優希の励ましは、あたしを少しうんざりさせた。どうして優希は、あたしのことを全て分かっているみたいな顔をするんだろう。
—あたしの中の半分も、優希に見せたことなんてないのに。
教室に入って二人の姿を探した。ロッカーにカバンを入れるところの明日香と目が合う。すっと目を逸らして席に戻る明日香の後ろ姿を見て、ああ、やっぱり、と心の中でつぶやいた。
覚悟していたこととは言え、露骨に「嫌いだ」と態度に示されると傷ついてしまう。あたしは強い人間じゃないから、この場所から心を切り離すことなんてできない。
いつも眠たくて仕方ない古文の授業を受けながら、キリキリする胃のあたりを手で押さえる。今日から、昼休みは誰と過ごしたらいいんだろう。カースト上位の女の子は一つ下のグループに入ることができるけど、あたしは元々一番下だから他に入るグループなんてない。明日香と真央と優希に謝って、赦してもらえるように頼もうか、と本気で考えたあたりで首を振る。間違ったことを言ったわけじゃないから謝罪なんてしたくないけど、そんな最高にかっこ悪い方法しか見つかりそうにない。
昼休みを知らせるチャイムが鳴ると同時に席にやってきた優希は、「みー。パン買いにいくの、ついてきて。」と有無を言わせないような勢いであたしの手を引いた。細い体にどこにそんなエネルギーが詰まっているんだろう、と感じるくらいに強い力だった。
優希の表情は、枝毛だらけのボサボサの黒髪に隠れていてよく見えない。
購買のパンの列に並ぶのは一ヶ月ぶりだった。
パンを売っているふくよかな中年のおばさんに「桜あんぱんと焼きそばパンふたつずつ」と頼んだ優希に、戸惑いを覚える。毎日ミネラルウォーターを昼ごはん代わりに口にしているくせに。
ふたりで屋上付近の階段に腰をおろす。「これ、食べなよ。」と差し出されたパンを受け取った。優希のぶっきらぼうな声のトーンにどぎまぎしながら焼きそばパンを一口かじると、チープなソースの味が美味しい。優希はいかにも不味そうに桜あんぱんを口に含んでいる。
「何か、あったの。明日香と真央、みーをグループから外すって。」
無駄な会話をせず、いきなり核心に触れてしまう。そんな優希の率直さをあたしは密かに慕っていたけれど、あまりに想定外のことで、頭が真っ白になる。見かねたのか、優希はあたしの頭をぽんと軽く叩いた。
「別に、話したくねーなら、それでいいけど。あーしは、みーとここで飯食うから。
そんな、心配そうな顔しなくていーよ。」
「でも、あたしと優希が一緒だと、二人は気に入らないんじゃないかなーと、思うんだけど。
気持ちはうれしいけどやっぱり、優希は教室でふたりと一緒に食べた方がいいよ。」
優希は黙って、あたしを見つめた。長い睫毛に彩られた悲しそうな瞳にとらわれて、目を反らせなくなる。今まで知らなかったけれど、優希の瞳は、曇り空を思わせるうつくしいねずみ色をしていた。
流れのはやい雲が、窓から差し込んでいた光を隠す。
夏の名残の残る風が、優希のセーラー服の白いネクタイを揺らした。
優希は「あー」と頭をかきむしりながら呻き、あたしの手をとってぎゅっと強く握った。他人との身体接触が滅多にないあたしは反射的に赤面する。
優希の手のひらが、すごく熱いってことに気づく。
「なんでそうやって、みーは、いつも自分の中に閉じこもるの。あーし、そうやってキョヒされる度、悲しくなって、心臓が痛くなんだよ。
みーが嫌でも、あーしは、いつもみーと一緒にいる。もう、そう決めたから。だから逃げないで。あーしから。」
優希の瞳の中に強い光が宿っていた。強くてまっすぐで、純粋な光。
まるで、それは不器用な愛の告白のようだった。
熱のこもる言葉にうろたえて俯くと、肩に触れられて、抱き寄せられる。生身の人間のあたたかさに怯む。どくどくと波打つ人間の心臓の音を感じる。
あたしのことを唯一、大切に想ってくれているのかもしれない。
世界でたったひとり「友達」と呼ぶことができるかもしれない、不器用な女の子の存在を、そのとき初めて意識したような気がした。