第五話 母親
夏期講習が始まって、数日が過ぎた。
学校の外でもカースト制ははたらいているようで、あたしに話しかけるような奇特な人間はまだ一人もいない。
ただ、顔見知りを見つけて必要以上にはしゃぐ高校生で賑わう教室でコミネアカリの姿を見つけられたことは、唯一の収穫だった。
偏差値を上げるための情緒のない授業も、彼女と同じ空間にいるのだと思えば、ひどく退屈な時間さえ、つまらなくはなかった。
掃き溜めに鶴。眉毛のもさもさしたメガネっ子ばかりの教室に現れた美少女を見初めるのはもちろんあたしだけではない。
休憩時間に男子の間で交わされていた「あの子かわいいよな」というさざめきに苛立つ自分の子供っぽさを少し恥ずかしく思う。
手元の模擬試験結果に記載されている、3つのアルファベットに目を落とす。志望校の欄には、名前を書けば通ると言われている県内のバカ大学2つと、東京の美術大学の名前を記入した。
それなのに、結果は3校とも容赦のないC判定。もっと努力が必要です、というコメントを頭の中で反芻する。
*
「今日、店長にセクハラされた。マジキモい。死んでほしい。」
ベッドに寝転がりながら白く光るスマートフォンの画面を見上げると、優希から物騒なメッセージが届いていた。
夏休みに入ってからすぐ、優希は駅前のファミレスで接客のアルバイトを始めた。高校を卒業したらそのまま就職するつもりなのかもしれない。
「ロリコンじゃん。蹴りたおしなよ」と返すと同時に、すぐに既読のマークがつくも、返事はない。
ツイッターをスクロールすると、明日香と真央のツイートが目に入ってきた。
演劇部の明日香は文化祭を目指して練習を重ねており、美術部の真央は毎日のように学校に行ってオタク友達と楽しく過ごしているみたいだ。
グループの内、夏期講習以外に何の用事もない人間はあたしだけ。
「ご飯できたわよ」、と言うお母さんの声が階段から聞こえて、ようやくベッドから起き上がる。
階段には肉じゃがの煮えるみりんと醤油のいい匂いが広がっていて、下がっていたテンションが少し立ち直った。
食卓にはいつも健康的な食事が並ぶ。
2年前に流行った「食育」という言葉を未だに鵜呑みにしているママは、こうして今日も主催副菜汁物とバランスのとれた食事を用意する。
あたしの子育ては失敗しないように、あたしがお兄ちゃんみたいにならないように。
油揚げとさやいんげんの煮浸しを口にしていると、お母さんがこちらの様子を伺っているのが分かった。
「あの、瑞季。また寝てたの?夏休みなんだし、友達と遊びに行ったりしたら?」
「んー。今後行くよ。あ、これ美味しそう。」
「瑞希、最近はどう?」
「何が?」
ママの聞きたがっていることにはおおよそ検討はついていたが、間をもたせる為にわざと聞き直す。
お兄ちゃんが引きこもった今、一人娘のあたしにかかるプレッシャーは倍になっている。
「その、勉強のことよ」
「別に。ふつうだよ。お母さんが心配することないよ」
「そう、そうね。お金のことなら遠慮しないでいいのよ、
私立でも国公立でも、瑞希の好きなところにしていいから」
「うん。ありがとう」
それきり黙りこくった私が乱暴に箸を置くと、ママはびくっと身体を揺らした。
あんなに美味しそうに見えた料理の味がしない。砂を噛んでいるみたいだった。白いご飯が虫の生んだ卵みたいに見えて吐き気がする。
ごちそうさま、と言って空いた皿を流しに投げ込むように置いた。
無性にイライラしていたのは、ママの遠慮がちな態度からだけじゃなかった。
何もかもに腹が立っていた。
ひとりぼっちの夏休みや、やりたいことがない自分、将来への不安や、あたしのご機嫌を取ろうとするママ、いろいろなもの全部にムカついた。
沈黙を守るお兄ちゃんの部屋からは、今日もパンクバンドの騒音が聞こえる。
ギャーギャー叫んでいる男のしゃがれた声が、耳に届いて不協和音を奏でる。
お兄ちゃんはずるい。容赦なく進んでいく時間を止めて、自分の未来を投げ出そうとしている。
安全に引きこもっていられる時間も環境も、誰かの負担の上に成り立っていることにも気づこうとしないお兄ちゃんはこの世界の誰よりも卑怯だ。