第三話 回想
コミネアカリがはじめてあたしに話しかけたときのことを、今でもはっきりと覚えている。
それは校庭の桜が満開に咲きほこっていた季節で、あたしは強い風にあおられて舞い落ちる桜の花びらが身体にまとわりつくのを忌々しく思いながら学校に向かっていた。
教室の重い扉の中には、誰もいなかった。
G-SHOCKの黄色の腕時計を確かめたら、1時間登校時間を間違えていたことに気づく。
はあ、とため息をつきながら机に突っ伏して、お兄ちゃんが大好きなバンドの曲を聴いた。2曲目のギターソロが再生されたとき、とんとん、と優しく肩を叩かれた。
驚いて顔を上げると、小嶺灯が私の目の前に立っていた。
「おはよう。めずらしく早いね、いつも遅刻ギリギリでしょう」
コミネアカリが、あたしに話しかけている。クラスのカースト頂点に君臨する、あのコミネアカリが。
呆然としたままリアクションを取れずに固まるあたしを見て、小嶺灯は吹き出した。けらけら笑う横顔にストレートの黒髪がさらりと揺れる。
教室の外側からストーカーしているときよりもずっと、小嶺灯は親しみやすい女の子に見えた。
「どうしたの。緊張してるの?分かりやすいんだね、ふじさわさんて」
「いや、だって、今まで話したことなかったし。」
声がかすれて喉がつまった。急いで咳払いをする。リア充じゃないあたしは今まで、スマートな会話の方法を勉強してこなかった。
ずっと遠目に見つめていた、憧れの女の子との初めての会話だった。それなのに、どうしてこんなにダサい反応しかできないんだろう。
コミネアカリは音漏れしまくっているあたしのiPodを指差した。
「ねえ。聞いてるバンド、好きなの?それ、天使の梯子って曲でしょう。私、そのバンド大好きなんだよね。パンクなのにすっごく切なくて、まっすぐで、泣きそうになっちゃう。」
「 今ね、違う高校の子たちとバンド組んでで、コピーしてるんだけど、なかなかギターがうまく弾けるようにならなくって」
好きなバンドについて楽しそうに話し続けるコミネアカリに対して、何か言わなきゃと気持ちが焦った。
「別に、好きじゃない」
口から出た、拒絶の言葉。
きょとんとする小嶺灯の反応に気づいて、我に返る。
—ばかばか、最悪だ。せっかく楽しそうに話してくれたところだったのに。
「あーっと、このバンド、お兄ちゃんが好きで!お兄ちゃん、もうずっと引きこもりなんだけど、引きこもりながらこのバンド聞いてて。
いや、意味わかんないんだけど、お兄ちゃんは深夜にこのバンド聞くのが日課で、隣のあたしの部屋まで響いてくるの、ベースの低い音が。」
「それであたしも気になっちゃって、ツタヤにCD借りに行ったんだけど、うるさくて良くわかんなくて、たまに聞くくらいで。
あっ、でも、嫌いってわけじゃないんだよ!す、好きってわけでもないんだけど、その」
何か言わなきゃと焦るたび、コミネアカリが微妙な表情を浮かべるたび、言葉がもつれて舌を噛む。
焦りつづけるあたしに、コミネアカリはそっと微笑んだ。
「そうなんだ。ふじさわさんのお兄ちゃんって、引きこもりなんだね」
引きこもりのお兄ちゃんがいる、かわいそうな子。
あまりのかっこ悪さにさっと顔が赤くなるのがわかる。
ふたりの間に漂う重苦しい沈黙に耐えられなくなって、ついにあたしはその場から逃げ出した。あたしはまた、こんな風に、人とつながるチャンスを逃すんだ。
ふじさわさん、と呼び止めるような声が後ろに聞こえていたけれど、怖くて彼女を振り向けない。
それが、あたしとコミネアカリの間に起こったすべてだった。
それから今まで一度だって、コミネアカリとは言葉を交わすことはなかった。
いつもこんな風に、教室の隅から彼女を見上げるだけ。
彼女が好きだと言っていたバンドの曲はプレイリストのいちばん初めに登録して、何度も繰り返し聴いた。
きっと、歌詞を見なくたって最後までソラで歌えてしまうくらい。
小嶺灯は今日も窓際の机に腰掛けて、世界中の誰よりうつくしい顔をほころばせて笑っている。
コミネアカリは手を伸ばせば届くくらい近くにいるのに、あたしとコミネアカリの距離は永遠みたいに開いている。