第十三話 隣の部屋
家に着いたのは朝日の昇ったあとだった。誰にも気づかれないように、そっと部屋に入るとお兄ちゃんの部屋からあのバンドの曲が流れているのがわかった。それはコミネアカリが大好きだと言っていた一曲だった。
その日、悪夢を見た。夢の中に出てくるコミネアカリは清純なイメージのするセーラー服を身にまとっていて、それがやけに似合っている。ベッドに腰掛けているコミネアカリの周りにやってきた何人かの男たちは、あたしを買った男の顔をしていた。コミネアカリはこちらに笑いかけながら、あたしを買った男に犯されていく。コミネアカリのぼんやりとした裸体の線や小さく漏れる喘ぎ声があたしの欲望を挑発した。
だけどあたしは目に見えない透明人間だから。コミネアカリの目には映らない女の子だから、どんなに触りたくても、彼女を満足させることはできない。目が覚めたとき、涙が頬を伝っていたことに気づいた。
*
二日後、「あけましておめでとう」から始まる長文のメールが優希から届いていて、少し驚く。あんな形で学校をやめてしまってごめんなさい、みーに迷惑をかけてしまってごめんなさい。謝罪の言葉をいたるところにちりばめたそのメールには、優希の恐怖が透けて見えた。それはあたしに嫌われたくない、という恐怖かもしれないし、もっと別の種類のものかもしれなかった。
少し迷って、そのメールには返信しなかった。上手い言葉が見つからなかったし、彼女をあんな形で見捨てることになってしまった自分にできることはもう何も残っていないと思ったから。
しかし、あたしの予想を裏切って、それきりになると思っていた優希からのメールは次の日も、またその次の日も届いた。メールは優希の精神状態を反映するかのように、短文のときもあれば、何度もスクロールしなければ読めないほどの長文のときもあった。メールの中で語られていたのは、学校をやめてからの優希の近況だった。
今は両親と共にとなり町に住んでいること。新学期から新しい学校に通うことになったけど、怪我が治るか心配だということ。薄々感づいていたのに、言葉で尋ねなかった虐待のことも綴られてあった。そこには、「本当は私に力になって欲しかった」と書いてあった。
一週間後に届いたメールを読んで、あたしは突っ立ったまま嗚咽した。「みー、助けて。あーし、おかーさんに差し出される。」
その一文を読んだ瞬間蘇ってきたのは、爪に泥の混じった男のきたならしい指先や、剃り残したひげに垂れる唾液だったりした。みーのそのメールは、何もしないことが自分の身を守る手段だと思っていたあたしの宗教を変えた。
引きこもったままのお兄ちゃんが住む部屋のドアをノックするまでに、そう時間はかからなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。」
返事はない。だけどかかりっぱなしのバンドの音楽が、少し小さくなったような気がして、続ける。
「あたし、今まで他人のことなんてどうでも良かった。面倒なことから逃げることばかり考えてた。でも、それじゃダメなんだよ。見てるだけじゃ、流されてるだけじゃ、欲しいものは手に入らないんだ。そんな単純なことにやっと気づいた。」
「遅すぎるかもしれないけど、あたし、これからあたしの欲しかったものをもぎ取りに行こうと思う。だからお兄ちゃん、あたしのこと見ててよ。」
無言の沈黙が、あたしとお兄ちゃんのふたりを包んでいた。でもあたしには良く分かっていた。お兄ちゃんは聞いているはずだった、固く閉じられた扉を通して、あたしの言葉の一つ一つを、聞き漏らさないように、声を潜めて。あらん限りの力を込めて乱暴に扉を蹴ると、中から物音がした。お兄ちゃん、驚いたかな。
あたしはお兄ちゃんに言ってあげたかった。生きている。お兄ちゃんもあたしも、今日この時を生きている。だから全然、まだ遅くないはずだよって。
階段を勢いよく駆け下りる。救い出してあげる、今度こそ間違えない。優希を迎えに行こう。あたしのたった一人の友だちかもしれない女の子を。




