第十一話 ライブ
「灯、ライブ出るの?行く行く、絶対行く!何時から?」
コミネアカリの取り巻きの一人のはしゃいだ声に耳を傾けた。
明後日、一月一五日、駅前のライブハウスで10時から。教室の端にいても聞こえる彼女のとんがった声量に感謝しながら、読んでいた文庫本にそっと書きつけた。
ー1年前の春、初めて会話したあの日、練習していると言っていたギターをどうしても聞いてみたいと思ったから。
その日の夜、赤いマフラーを首もとに巻きつけて、あたしはライブハウスの前に立っていた。
音漏れして聞こえている有名なロックバンドの曲に後押しされるように、重い鉄扉に手をかける。
ビールとタバコの混ざった臭いが鼻腔をくすぐる。人々は思い思いに音楽の波に揺られていて、大人の空気に足がすくんだ。
あたしはその場に突っ立ったまま、あの子を待っていた。
この世でたったひとりだけ、あたしの心を支配する女の子。
ホテルに入っていく横顔を思い出すたび胸がちりちり焦げ付くけれど、それでもあたしはあの子を見つめることをやめなかった。
10分後、ステージ上の音が止んだ。
真っ赤なドレス姿に身をつつんだコミネアカリがレスポールギターを抱えながら、教室で見るやわらかな微笑みを浮かべて立っていた。
コミネアカリは、その場の空気を変えてしまう力を持っている人だ。大げさでもなんでもなく、会場にいる男たちの目線がコミネアカリだけに集中する。
そのなめ回すような無遠慮な視線から、彼女を遠ざけたくてたまらなくなりながら、焦るようにコミネアカリを見上げた。
ー誰にも、コミネアカリを傷つけさせたくなかった。
コミネアカリのギターのノイズから演奏が始まった。ボーカル、ギター、ベース、ドラムの4人編成のパンクバンドはお世辞にもうまいとは言えない。
ボーカルは途中から声量が小さくなったし、ベースラインはリズムがめちゃくちゃだし、ドラムはスティックを3回落とした。でも、彼らの演奏なんてどうだってよかった。
コミネアカリがステージに立っている姿が見られるなら、それでいい。
コミネアカリの指で触れたピックが弦を弾くと、その音がアンプから全体に放出されて、音の粒子があたしの耳に届く。あたしの身体に入ったでたらめなバンドのメロディは、あたしの中心まで駆け抜けて、硬く縮こまった心臓を小刻みに震わせて息を吹き返させるような気がした。
空気を切り裂いてびりびりと震える音、そのひとつぶひとつぶの重さを、あたしは一生忘れないと思う。
CDの音源で聞くよりもずっと、それはうつくしくて激しくて、純情でまっすぐな愛をうたったメロディだった。
Bメロの途中、ベースの男の子に上目遣いの視線を送るコミネアカリに胸が高鳴った。照れたように目配せを返すボブヘアのおしゃれな男の子に殺意に似た嫉妬を覚える。
ステージと観客のエネルギーが一体化し、会場の熱気がピークに達していく。男や女にもまれながら、あたしは必死にコミネアカリに視線を送った。
彼女にあたしを見てほしかった。彼女の深い茶色の瞳に、一瞬でもいいからあたしを映してほしかった。
最後の一音が少しずつ小さくなって消えていく。コミネアカリの演奏が終わっていく。
名残惜しさに思わず泣きそうになりながら、コミネアカリの名前を呼んだ。コミネアカリはざわめく観衆に小さく手を振って、スモークの奥に消えていった。
ステージの上がからっぽになって観客が散っていっても、あたしの頭は、熱に浮かされているときのようにぼうっとしている。こんなにも人の心を揺さぶる音楽をあたしはほかに知らなかった。
*
気づくと控え室の前に立っていた。
パスがないなら入れません、という監視員に「妹なんです」と嘘をついて通してもらった。
ノックもしないでドアノブを回すと、コミネアカリがギターの少年にキスしている映像が目に飛び込んできた。突っ立ったまま、強く握りしめてしおれかけている赤いバラの花束をその場に落としてしまう。
花束を包むビニールが冷たい音を立てる前に、コミネアカリに存在を気づかれてしまう前に、この場から立ち去らなきゃと考える。それなのに、光の速さで考えを巡らせたって、あたしの両足はブリキのきれたおもちゃのロボットみたいに固まって動かない。
—その人のこと、好きなの。コミネアカリにそう問いかけたかった。
コミネアカリが頷けばいい。そうすれば、あたしのきらきらしてドロドロしたぐちゃぐちゃなこの気持ちを、こなごなにぶっ壊せるかもしれないと思った。
絶対に私の手には入らないあの子の笑顔を見ていると、時々死んだほうがマシなくらい胸が切なくなるこの気持ちを。
もう終わりにしたかった、あの子のことが心配で眠れなくなってしまう夜を。




