六章 エインヘリャルの乱
「ふああ、いい天気だなあ、今日もアースガルドは平和だぁ」
寝起きの僕は部屋の窓から空を見上げて、大きな伸びをしながらつぶやく。
やっぱり平和が何よりだ。ここのところ、死にそうなって死んでしまったり手を斬ったり立て続けに色んな問題があったけど全部片付いてくれているのだから心の中も外も晴れやかでいたい。
「全くもう、昨夜はフロージさんが変な空気出すから無駄に警戒しちゃったよ」
どうやら杞憂に終わって一安心だった。僕は穏やかな日差しが降り注ぐ中で、二度寝しようかとさえ考えてしまう。
「……なんだろう? 下が騒々しいんだけど」
平穏だった空気が急に変わった感じだった。ひょっとして何か事件でも起きたのかな。
面倒なことにならなければいいなと祈りつつ、僕は外へと行ってみることにする。
「うわ、結構な人数が集まってるじゃないか。……あの、何かあったんですか?」
ヴァルハラの入り口前にやってくると黒山の人だかりが出来ていた。
「うわ、結構な人数が集まってるなあ。あの、何かあったんですか?」
「邪魔だ。ヴァルキューレが斬られたんだよ」
「ええっ」
ここにきて、僕にもようやく事の重大さが分かった。
目の前に広がる人の壁の隙間から覗いたら担架で運ばれていく人影が見えた。鎧姿の女性、被害者が戦乙女というのは本当だった。神々しさとは無縁に蒼褪めていたのはヘルフィヨトルだった。
それから数時間後、夜も深まって日が変わり、そろりそろりと夜明けの足音が聞こえ始める。
「うっはぁ、もう疲れたよぉ」
とっくに清掃も住んで静まり返っていた食堂内に、ヴァルキューレ姉妹の七女ジークルーネの疲弊した声が響き渡る。
そのままふらふらと進み、壁際のソファーに身体を投げ出すジークルーネを、遅れてやってきた四女のヴァルトラウテが緩くたしなめる。
「こら、ジークルーネ、女の子なんだからそんなはしたない声と姿勢にならないの」
「うーでも、ラウテ姉さん、ほぼ夜通し治癒のるーんの使いっぱなしだったのよ。あたしはもうクタクタだよー」
「もう、夜はこれからが本番なのにぃ」
わざとではないのだろうけど、九姉妹の中でも色気があるヴァルトラウテが言うと意味深に聞こえてしまうのは僕に邪な心があるからだろうか。
「あ、あの、お疲れさまで下。ジークルーネ様、ヴァルトラウテ様!」
そんなお二人に、待っていた僕はすぐさま労いの言葉をかける。
手振りだけでぞんざいに答えるジークルーネに対して、ヴァルトラウテはこちらに向き直ると、微笑みを向けてくれた。
「ありがとう、ビューレイストちゃん。ずっとあの人のことが心配で起きていたのよね。大丈夫よぉ、もう峠は応えたから」
「ほ、ほんとですか。良かったぁ」
僕はほっとする。確かにヘルフィヨトルとはヴァルキューレ九姉妹たちほどに親しくはない。悪い人でも嫌いな人でもないから死んで嬉しいなんてわけがない。それにエインヘリャルより格が上であっても、アース神族やヴァルキューレは死んでしまったら蘇りはしない。
「お疲れさまです」
「どういたしまして、ふう、どっこいせ」
笑顔で応えつつ、ジークルーネの隣に座るヴァルトラウテはやけに年寄り臭い掛け声を口にする。
二人はヴァルキューレの中でも治癒能力に秀でているそうだけど、彼女たちの力を持ってしても、一刻を争う様態のヘルフィヨトルを助けるのは相当に大変だったらしい。きっと助かっただけでも十分に奇跡なんだろう。
「それでもどうにか一命を取り止めた状態だからね。意識を取り戻すのはもうしばらく時間がかかるかな」
急場で食堂施設の空いている一室が治療室として使われたのだけれども、しばらく療養室になりそうだ。
「ということは、それだけ深手だったんですか?」
「だね」
あっさりヴァルトラウテは応えたけども、それがヘルフィヨトルに刻まれた傷以上に深い意味を持つことは僕にも想像できた……。
「よぉ、お疲れさん、ジークルーネ、ヴァルトラウテ」
頑張ってくださったお二人に、僕がお手製の飲み物を用意して運んできたところで、食堂にロキがやってきた。
というか、ロキは一人じゃなかった。一緒に来たのは、いや、一緒に来た方々は。
「あ、ロキ様、……オーディン様も!? ど、どうすて、こちらに? それに、トール様も、それに、それに」
ロキが引き連れてきた面々に気付いた瞬間、ソファーに寝転がっていたジークルーネは足と舌を縺れさせながら勢いよく飛び起きる。
僕もびっくりして立ち尽くしてしまった。主神オーディン、巨人殺しの雷神トール、軍神のフレイ、テュール、そして、光の神バルドル、おまけにここにいる二人以外の九姉妹たちやヴァルキューレを従えたフレイヤ、神様方が勢ぞろいしているのだ。
「ま、前代未聞の一大事だからな。とりあえず一揃い連れてきたわけだ。こいつは俺の勘だが、この一件は根が深そうな感じがするもんでな」
「……」
こんな時でも軽い調子で言うロキの隣でこともあろうにオーディン、いやオーディン様が僕を不機嫌そうに見えてきている。
「え、え、えっと」
な、何だろうか? 恐れ多くて目をそらしてしまったけども、睨まれる理由が僕には分からない。そんな押し潰されそうな空気を破ったのは、やっぱりというかロキだった。
「ジークルーネ、悪いがちょいと話を聞かせてくれ。あのヴァルキューレの傷は、刃物によるもので間違いねえか?」
「はい、それも正面から。袈裟懸けにばっさりと」
「へえ、正面からね、ならついでにもう一つ、不意打ちだったと思うか?」
「んー……傷の位置からも不意打ちの線は低いと思います。それにヴァルキューレの一人として言いますが、そこまで遅れを取るとはちょっと思えません」
ジークルーネの返答を聞いた途端、ロキの吐息に暗い落胆の色が混ざったのが僕にも分かった。
「やっぱそうかよ、となるとこいつは中々にまずい状況だな……」
呟いたロキだけでなく、その場に集まった神様たち全員が重苦しく沈黙する。
アースを束ねる最高神オーディンでさえ例外でないことに僕は胸がきりきりするような緊張をしてくる。
「あ、あの……何がそんなにまずいの……ですか?」
「何が? そりゃ違うぞ。何がじゃねえよ、何もかもがまずいのさ」
僕の質問に答えつつ、ロキは言った。
「ヘルフィヨトルの実力は知っているか?」
「どれくらいかは知らないけど、相当強いとは」
ヴァルキューレの中でもうるさ型でいられるのは、実力あってのことだとは僕も聞いたことはあった。
「恐らくヴァルキューレの中でも一、二を争う。竜さえも討ち取ったという大英雄に匹敵する力だ。そんなのが不意打ちではなくて真正面から向き合って、瀕死の重傷を負わされたということなんだぜ?」
「相当な使い手、それこそ我々神族を脅かすほどの」
ロキの後を続いてシュヴェルトライテが言う。
それほどの実力者を倒せるほどの強力な使い手が、このアースガルドのどこかに潜んでいる。
今の状況がどれだけまずいかってのが僕にもようやく理解出来てきた。
「ヘルフィヨトル様をやったのは、誰なんだろう?」
僕が誰にともなく尋ねた、その時だった。それまでずっと押し黙っていたオーディンが、腕組みを解きながらゆっくりと口を開いたのだ。
「聞きだすことなどいくらでもできたであろう。下手に助けるなどせずにヘルヘイムにでも行って魂にでも問い質せばいいのだ」
まるでヘルフィヨトルを救ったのが余計なことだったと言い方に僕でさえ責められている恐怖と、それ以上にやるせなさに襲われそうになる。
無謀だと分かっていても黙ってなどいられない。ヘルフィヨトルを救った二人のヴァルキューレ姉妹の前へと僕が思わず踏み出そうとしたら、ロキが笑顔になって手でそれを押しとどめてきた。
「そう言ってやるなよ、兄貴。見捨ててわざと死なせるようなことをやったら、アンタのどこに神の威厳が残るんだ? ちったあ頭を冷やしたらどうだ。あんたは戦の父、勝利の父でもあるんだぜ。いつから畜生道に落ちぶれたんだ?」
「人の世に広まった我が呼び名、ケニングであったか。そうであったな、この儂としたことが、少々冷静さを欠いていたようだ。……儂はそれほどまでに焦っているということか」
ロキから指摘されて、オーディンは重く息を吐いて頭を振る。どうやら、義弟の言葉を聞き入れるくらいの度量はまだ残ってみたいで、僕は心底安心する。
それにしても、よりにもよってオーディンの口から焦りなんて言葉が出てくるなんて……。この前、ロスヴァイセ……じゃなかったよね、ヴァイセがちらりと言っていたけど、ここ最近のオーディンは不機嫌で、どうやら焦りのせいだというのは事実のようだ。
「……儂はな……ラグナロクの危機を常に考えている。ミーミルはそれは避けられぬ運命だと予言している。ラグナロクとはどれほどのものなのか、儂は正直……恐れている」
威厳ある主神の仮面の隙間から、オーディンは弱気な本音を白状してきたのは、八つ当たりじみた行為を詫びるためなのかもしれない。
主神としてアースガルドの運命に気に病むのもわkるけども、僕は言いたい。恐れることは決して恥じゃないんだ。オーディンには頼れるご子息、盟友が大勢いるのだ。偉大な方々が協力すればラグナロクがどんなものであってもきっと乗り越えられるはずだよ。
「この俺様もまだまだヒヨッ子なのかねえ、親父にそんな情けない台詞を吐かせちまうとはさ。親父、顔を上げろや。竜だろうが、竜殺しだろうが、それこそ巨人だろうが、関係ねえよ。 俺様たちアース神族に盾突く奴ぁ、この雷神トール様が全部まとめてぶっ潰してやるからよ!」
分厚い胸板をドカンと叩き、真っ先に啖呵をきってみせたのはトールだった。表情を見れば分かる。この場にいる全員が同じ気持ちのようだ。
「……よし、主神オーディンの名において命じる。まずは此度の事件の犯人を探し出せ。そして、犯人が巨人であったのなら、これをラグナロクと断定する。全軍を集め、ギャラホルンの角笛を吹き鳴らすのだ!」
気持ちを切り替えたオーディンからの重々しい命に、まさに天を突くような意気が神々からあふれ出し僕でさえ煽られる。
ただの料理人見習いだけど、僕だってやってやるんだ
「うわ、眩しいな。もう朝だったんだ」
勇んでヴァルハラを出た僕は、真っ赤な朝焼けを演出する西の空を見て、時間の移り変わりと徹夜をしていたことに気付いた。
食堂での下働きだから遅寝早起きな生活であっても仕事に支障が出てはいけないから睡眠はいつもちゃんととってて、徹夜なんて考えもしない。そういう毎日をやっているから、ちょっぴり身体がだるかった。
「この後、どうするつもりなんだ?」
何故だかロキが当然のように僕の後をついてきて問うてくる。僕は気だるげな素振りさえせずに差しあたってのやりたいことを答えることにした。
「まずはやっぱりラタトスクを探すところからかな。あのリスだったらきっといい情報を持っている気がするんだよね」
「流石だな。俺も同意見なんだが、どうにもさっきから野郎の気配がないんだ。どっかに隠れてやがるのか。……おお、ブリュンヒルデ、丁度いいところにいたな。お前のセクシーな姿をちょっと見せてやってくれねえか。そうしたら、ラタトスクの野郎が一発で釣れるはずなんだ」
僕らより少し遅れてヴァルハラから出てきたブリュンヒルデ様を見つけた途端にロキはとんでもない提案を持ちかける。
僕が逆立ちしてもとても言えないことを平然と言ってのけちゃう。さすがロキだ。そこにシビれる! あこがれるぅっ!
「ロキ様、そんな……でも、だって……だけど……」
ブリュンヒルデはこの世の終わりみたいな顔になって固まってしまう。
「お、おい、ブリュンヒルデ、待ってくれよ、今のは勿論ジョークだぜ、分かるよな?」
「違います、ロキ様、そうじゃなくて、あれを見て下さいませ!」
ロキの言い訳を無視して、震える指先でブリュンヒルデは西の空を指し示す。
「……ただの太陽じゃねーか、あれがどうしたのか?」
軽い調子で答えるロキの隣で僕も頷きかけて、はっとする。
「もし、今は朝ですよ。どうして、朝日が西の空にあるんです!?」
衝撃の事実をブリュンヒルデから告げられて、ロキもようやく異常に気付いたようだった。
「……なんで? ブリュンヒルデ様の言う通り、あっちは西田。おかしいよね? 東の空から太陽は昇るはずじゃないか。あれじゃあ、まるで夕日だよ」
「……たまげたな。何故そうなったかは知らねーが、こいつはぁ、本腰入れてかからなきゃならねえ大事件かもしれねーぜ」
ロキは不敵な笑みこそ浮かべているが、うっすらと汗を浮かべていて事態の重大さを雄弁に語っていた。ひょっとしたら、このアースガルドどころか、九世界全てを震撼させるような何かが起こっているかもしれない。
ここは一度、世界中を見渡せる魔術を持つオーディンに状況を報告して対応を恃むべきじゃないか。僕が提案しようとした時、その声は響いた。
「大変ですわ! エインヘリャル達が、宿舎におりません!」
ヴァルハラ本館入り口前に血相を変えて戻ってきたのはヴァルキューレ九姉妹の次女ゲルヒルデだった。
「エインヘリャルたちがいない? どういうことだろう?」
僕が早起きをしているせいで余計にそう感じるのかもしれないけど、基本的に彼らの朝は遅い。
「早朝の特訓なんてのは考えられないが、ゲルヒルデ、ちょっくら演習場を覗いてみてくれねーか?」
「いえ、ロキ様……どうやらその必要はなさそうですよ……」
ロキの頼みをゲルヒルデは震える声で拒む。
言い切らないうちにロキの顔つきも険しくなる。
ロキの鋭い視線は僕の背後に投げつけられている。振り返りたくなかったけど、僕もそうしないわけにはいかなかった。
「これはこれはアースの神様方じゃないですか、おはようございます」
聞こえた声を合図に振り返ったその先に、ヴァルハラ本館の入口前の広場に宿舎にいないはずのエインヘリャルの姿があった。一人二人ではない。何十人どころか、何百人もいて、続々と増えてくる。
西の朝日を浴びて立つのはただのエインヘリャルの群れではなかった。完全に武装してむきだしの戦意を撒き散らす連中は臨戦態勢の軍勢だ。普段は縁がない僕であるけれども、演習中の彼らはいつもそうだ。そこに変わりはない。
戦意が敵意の形になってこちらに向けられていなければ。
「よぉ、俺の勘違いかもしれねえから、一応聞いておくぜ。一体何の真似だ?」
不穏な空気もものともせずにロキが軍勢に問う。
むすっとした兵士たちの群れから不遜な態度で一人の兵士が進み出てきた。
「何の真似かって、いやいやおっしゃる意味が分かりませんな。俺たちにゃ、これからいつもの演習です。お偉い神様方の命令でしょう?」
ヴァルハラを包囲する軍勢を代表するような言い方をする人物を前に、僕は絶句する。
嘘……。なんで……。
フロージさん……。
可能性を考えていなかったわけじゃない。予感といえるものもあった。だけど、帆のつにこうなってしまうと、考えたくなかっただけかもしれない。
「オーディン様はおりやすかい? 演習前にちょいと相談があったんですがね……どうもヴァーラスキャルヴにはおられなかったようですから、ひょっとしたここにいるのかと思ったんですが」
「儂ならここにおる。……ただの相談にしては随分と物々しいな、人間」
フロージさんの呼び声に応じて、ヴァルハラの中からオーディンその人がお姿を現わした。まだ何の問答も始まってもいないのに、兵士たちから早くも殺気立った気配が出てくる。僕は破局的事態の恐ろしさに震えがくる。
「物々しいのはご勘弁ですぜ。なんせこれから実戦形式の演習があるんでね。ただ……今日のそれがいつものような演習になるか、それとは違う実戦になるか、それはあなた様次第ですがね?」
「回りくどい話は好かぬ。さっさと要求を述べよ」
「話が早くて助かりますな。では単刀直入に申し上げますが、我々エインヘリャルは待遇の改善を要求します」
「待遇の改善? 妙な言い草だな。貴様らエインヘリャルには既に普通の人間では得られない格別の待遇をもって応えているではないか? 演習が嫌になったか?」
「あんたはやっぱり俺たちを舐めてるな。そういう事じゃねえんだよ。死に続ける事に不満はねえ、だがよ、俺たちはいつまでたってもその先に何も見えねえんだ。そこの料理人見習いは手柄を立てているんだろ? なら俺達にも、俺ら兵士にこそそのチャンスをくれと言っているんだ。俺はもう、竜さえ殺せるんだ」
フロージは、ただの百人隊長のはずなのに竜殺しの英雄、ヴァルキューレ屈指の実力者と同じだけの実力を持っているのか?
「貴様、何を嘯いておる?」
「自慢の知恵はどうした? 察しが悪いじゃねえか、ええ、オーディン。ヘルフィヨトルを斬ったのはな、この俺だよ」
そんな……ヘルフィヨトルを襲った犯人がフロージだっていうのか。
「一体なんで?」
僕の疑問をフロージは無視する。
「オーディンよ、あんたは俺の話に耳を貸さなかったから覚えがねえかもしれねえが、俺はもう何度もあんたに訴えてきてたんだ。だが、その都度みじめに追い返されて挙句に門前払いだ。武勲一つも立てる機会すら与えられずに飼い殺しなんざ、俺は真っ平だ。ここに集まった連中も俺と同じ思いだぜ。なあ!」
手を高々と掲げて振り返ると、エインヘリャルたちは雄叫びで賛同してきた。全てのエインヘリャルが加担しているとは思いたくない。
ヘルフィヨトルが斬られた時にはその場にいた大勢のエインヘリャル達は慌てていた。恐らく決起の時はこれほどじゃなかったはず。でも、それを少しの時間のうちにフロージさんがまとめてしまった。彼の意外と言っては悪いかもしれないけど才能があったにしても、それだけの不満が誰にもあったんだ。
「さあ、選べよオーディン、要求を呑んで俺たちに栄誉を与えるか。要求を拒んで俺たちに何もかも奪われるか……二つに一つだ」
「……その答えは初めから一つであろう。噛みついてきた飼い犬の頭をこの儂が撫でて許すと思うか?」
「分かっちゃいたが、我らが主君様はつくづく傲慢だな。だが、こっちも、飼い主に似ちまったのか負けないくらいに傲慢でね。交渉が決裂したのなら、アンタはさっさと玉座から降りてもらうぜ。……竜殺しならぬ神殺しの始まりってわけだ」
フロージは背負った大剣を手にすると、合図を送るみたいに剣を天に向かってかき回す。その瞬間に、信じられない光景が僕たちの目の前に現れた。
「そ、そんな、ロキ、あれって……」
「驚いたか。これで俺達は死んでもすぐに復活できる」
地平線の表と裏を素早く太陽が行き来する。太陽の運行を管理しているのは女神ソールであったが、既にエインヘリャルたちの手に落ちているのだろう。
そしてこの状況下において、日没ごとに蘇生するエインヘリャルにとっては不死ということだ。
「おっと、大事なことを忘れてたぜ。オーディンよ、あのお高くとまったヴァルキューレを斬ったのは確かに俺だが、その実力を俺だけが持っていると思うなよ。あんたの命じた殺し合いでここにいる連中はみんな腕を磨いてきているんだ。わかるか? ここにいる何千、何万の連中がだぜ!」
フロージは高笑いをすると、親しい仲間たちとともに兵士たちの群れの中に消えていった。
それが開戦の合図だったのかその場に残った軍勢は剣を抜き放ち槍を突き出す。
「舐めやがって。全員挽肉にしてやるぜ」
「待てトールよ、奴らの出方が何かおかしい」
血気にはやるトールをオーディンが引き留める。
「フレイ、テュール、この場を任せる」
軍神二人に命じると、オーディンはどうしたのか他のものを館の中へと導いた。
「親父どういうことだ? 全員叩き潰してやれば済む話だろうが」
「考えるのだトール。あの場にいる者を皆殺しにしたとして、それでどうなる? 今の奴らは何度でも、それもすぐに蘇る。それに目に見えている兵士だけが敵ではない」
「なら何度でもぶち殺すまでだ」
「侮れぬ相手ではあるが、そなたなら可能であろう。だが、無限にあいつらを相手にするつもりか?」
オーディンの指摘がかっかしていたトールを冷静にさせたらしかったが、僕にとっては状況はますます絶望的にしか思えない。
「まあ、案ずるな。奴らが物量に任せて雪崩込まぬのは奴らもこちらを恐れているということだ。いくら生き返れるとはいえ、死が苦痛ではない。それに我らと戦えば普段の演習とは比較にならぬ絶望と恐怖を味わうことにもなろう」
余裕ある態度で言ってるのにオーディンは物憂げだ。
「ですが、それならエインヘリャル達はいずれ」
ブリュンヒルデが懸念を露わにする。彼らの魂をアースガルドに連れてきて日々演習に励ませているのは、来るべきラグナロクに備えるためだ。そこまで実力を育んできた彼らを一挙に大量に失ってしまうのは戦力的に大損失だ。勿論逆らった彼らには相応しい報いかもしれないが、不満があって反乱に参加した兵士たちの中にも温度差はあるんじゃないか。
情なのか計算なのか僕には見当がつかないけどオーディンたちが考えていることはわかる。
「だが、奴らとて考えがないわけではあるまい。ここまでやってきたのだから、こうしていても勝てる算段があるのだろう」
エインヘリャル達の切り札。それってつまり今以上に厄介なことがまだ残されているってことになるんだけど……それって。
「もしかして、彼らが望んでいるのは、こっちの自滅……かも?」
「ほう、そこに思い至るとはな。一介のエインヘリャル、それも、兵士ですらないのにロキが一目置くだけはあるということか」
オーディンからそのように褒めてもらうと僕はにやけそうになるけど、こういう扱いが他のエインヘリャルとの格差を生んだかと思うと……。
「ビューレイストが言うように、おそらく奴らの狙いは神々の自滅だろう。何しろ奴らが如何なる力を有していようが所詮は人間だ。だが、こちらが奴らを圧倒できるのは万全であるうちだ。もしも、我らの本領を封じるような事態となれば、竜殺しの軍勢は神々すら脅かす存在となるだろう。そしてそんな事態を引き起こすであろう我らの弱点は、若さの果実、黄金のリンゴに他ならぬ」
「そういうことか。無限蘇生戦術で長期戦に入られたら、こっちはいずれ老いが始まる。そうなら後はお好きにどうぞになるな」
「そうだロキ。外にいる者はさしずめ、我らをこの場に釘付けにする陽動部隊といったところだ。ならば我らはリンゴの確保を何より優先せねばならぬ。しかし、それは容易ではなかろうな。外を見てみよ」
オーディンに言われて僕たちが視線を投げた先では今も休むことなく連続日没が繰り返されている。
「太陽の女神ソールが既に敵に落ち、そこに都合よく連続日没が始まったことを考えると、奴らは既に儂の玉座フリズスキャルヴを抑えて戦況を把握しているであろう。あの臆病なラタトスクが姿を見えぬのは、中継役として使われている可能性が高い。ここまで周到な連中が、我らの生命線たるリンゴの管理者イズンを放置しているなど考えられぬ」
「だったら、どうするっていうんだ、親父」
全てが後手に回ってしまっている。この状況を覆すのは至難の業だ。だが、オーディンの隻眼は鋭く輝いていた。
「無論打って出る。悠長に構えている時間はない。リンゴを手に入れたのが数日前のことだ。明日には老化が始まる者が現れるかもしれぬ」
そんな。となったら、ブリュンヒルデ様も……とブリュンヒルデの顔を思わず見そうになった僕はすんでのところで堪える。そんな予想してはだめだ。いやいやたとえそうなっても愛するあの方ならどんなふうになろうとも。
僕は首を振って邪魔な想像を振り払うと、オーディンの話に意識を集中する。
「作戦の重要度から言えば、イズンの救出はトールに任せよう。向こうもすぐにこちらの思惑に勘づくだろう。ヴァルハラの防衛はフレイ、テュールに引き続き任せる。そして、奴らの戦法の要である連続日没を止めるためにソールの奪還はバルドルに任せる。問題は、バルドルやトールが邪魔されぬよう、できるだけ敵を引き付ける役目が必要なのだが」
オーディンは言葉をきるとロキを見るが、ロキはさらりと無視する。
「ロキ……そなたしかおらぬ」
「いや、いるだろ、兄貴が自分で行けばいいじゃないか!」
「儂はほれ、主神として敵の目を引き付けておく役目がある。それに儂がここでどっしりと構えていることで、皆を落ち着かせる責務がある」
オーディンは重々しく言って、さらりと不安そうなフレイヤを見る。わかりやすい反応で、僕さえ呆れそうになってしまう。
「ったく、分かったよ。だが、やる以上はそれだけの戦力を分けてくれよ」
「ヴァルキューレたちを隊としてそなたの援護につかせよう」
すっかり無視されているのをいいことに、さあ神様方の成功を祈って、料理長と一緒に料理の準備でもしてようかなと僕は思ったりもしたけどでも何もしないというわけにもいかない気がする。
「ねえ、ロキ、ボクにも何かできることはないかな?」
「お、何だ、暇なら一緒に来るか?」
「いやいや、もっと別方向でお願いします」
「くっくく、冗談だ冗談だ。何しろ竜殺しが相手だからな。お前が竜に変身できるって言っても、ただ鴨にされるだけだしな」
「料理人見習いの僕が料理されるのか」
笑えない冗談だ。
「そんな訳だから、お前は大人しく留守番してろ。手持無沙汰で困ってるってんなら、そうだな……同僚の奴らを安心させて回るもよし、あのヴァルキューレの看護をして待つのもよしだ」
言って、ロキはオーディンによる話し合いに加わる。
そっか……そうだよね、考えてみればそういうことこそ僕にお似合いの役目だ。決意した僕はレストランの奥にある治療室になった部屋へ向かうことにした。
「……お邪魔しまぁす。って、あれ、ヘルフィヨトル様、もう目が覚めたんですか?」
まだ眠っていると思って不用意に入ってしまった僕は驚きの声を上げてしまった。
さすがヴァルキューレでも実力者と言われるだけはある。
「ああ、えっとあなたは、料理人よね……」
「ビューレイストと言います」
「そうそう、そうだったわ。ところで、私は、どうしてこんなところで寝ているのですか?」
目が覚めたとはいえヘルフィヨトルの受けた傷は軽いものではない。
「まだ動かない方がいいですよ。フロージさんにひどい怪我を負わされてしまって、眠り続けていたんです」
「この私が怪我……? ああ、それでこの怪我なのね……よく生きていたわ。だけど、一体誰に? ああ、あの百人隊長、フロージよ。あいつは、今どこにいるの?」
「そ、それは……」
「あいつを止めないといけないの。今すぐに。オーディン様たちが察知する前に」
「それって、神々の反乱のことですか?」
「なんでそれを、あなたがそれを知っているということは既に……?」
僕の答えにヘルフィヨトルはがっくりと項垂れる。
「フロージが何かよからぬ企てをしているのは薄々感づいてはいたわ。だけど、アースガルドに彼を連れてきたのは私で、彼のことを私なりに知っていたし、彼らの不満も分からなくはなかったから、できるだけ穏便に解決したかったのだけれども」
僕が知らないだけでヘルフィヨトルも彼女なりにエインヘリャルのことを考えてくれていたのだ。
「何とかしないといけないのに、なんでこんな」
怪我のせいで自由にならない自分の身体がもどかしそうにヘルフィヨトルは呟く。
普段のお高くお堅い様子から想像できない姿に僕は黙っていられなかった。
「ヘルフィヨトル様、僕は思うんです。まだ彼は元の善意が残っているって。だって、ヘルフィヨトル様にとどめをささなかったんだから。任せてください。僕が連れ戻して見せます」
治療室を飛び出た僕は今まさに出立しようとしていたロキたちに向かって叫んだ。
「待ってロキ! 敵の本陣に切り込む作戦ってさ、敵の大将とぶつかるってことだよね?」
「ああ、そうだがそれがどうした?」
「だったら、僕も連れていってよ」
ロキだけじゃなくその場にいた全員が僕を凝視してくる。
「さっきも言ったが、今回の相手はいくら竜化できるお前でもおいそれと太刀打ちできる相手じゃねーぜ?」
「ううん、僕はフロージさんと戦いに行くわけじゃない。戦いを始めさせないために行くんだよ。そのために扇動している彼を説得するんだ」
「面白い冗談だな。あいつの目を見ただろ? そんな甘い考えが通じる相手だと本気で思っているのか?」
ロキは驚くというより呆れたようだっただが、僕は真顔で頷き返す。
「……どこまでも本気なのか。ま、したけりゃ勝手にすればいいさ。お前の自由だ。だが、一つだけ確認しておくことがある。もし、奴が説得に応じなかった時……お前はどうするつもりなんだ?」
「その時は、僕が責任をもって彼を倒すよ」
「簡単に言ってくれるな。まあ、好きにしろといった以上はそこまでやらせるさ。だが辿り着くまでお前の面倒を見る必要があるな。ちょっと手を増やしてくれるか?」
ロキの要請にオーディンが少し呆れたふうだったけど応じてはくれた。
僕、ロキ、ブリュンヒルデ、シュヴェルトライテ、ヴァイセの五人で一隊をとなる。頼もしい面子で、特にヴァイセは僕に借りを返す機会と意気込んでいるけれどもそんな場面がこないでほしいと祈る。
ゲルヒルデたち他の姉妹やヴァルキューレたちが調べてくれた結果、フロージさん率いる反乱軍の本隊はアースガルドの中心地ヴィグリードに陣を構えているようだ。目立ったものはない平野だが決戦舞台に相応しい場所だ。
「ビューレイストさん、本当に大丈夫ですか?」
目的地へ向かうべく空を飛翔中にブリュンヒルデが問いかけてきた。ヴァイセも気になるようで距離を詰めてきて聞き耳を立ててくる。
「ブリュンヒルデ様は反対でした? 僕が戦いに加わるのは?」
「決意されたことを私も尊重したいのですが、ビューレイストさんは優しいから。戦いは似合わないと思います」
「僕は戦いが嫌いです。でも、それ以上に争いが嫌いなんです。特に仲間たちがこんな形で。争わないために戦う必要があるなら、僕は逃げたくないんです」
「……なるほど素敵ですね、その考え方」
「うんうん、ビュー君、やっぱりカッコいいね。お姉ちゃん、ねえ、私、風邪なんだよね? これいつになったら治るの?」
「風邪? ロスヴァイセのそれは風邪ではなくて恋……」
「あああ、シュヴェルトライテ、今は任務中ですよ、私語は慎みなさい」
「む、そうでした。集中します」
シュヴェルトライテの向こうでロキがにやにやしている。
「しばらく見ねえうちに色んな意味でカラフルになったな。お前の周り」
「そ、そうなのかなあ?」
和やかな空気も少しの間だけだった。
そして僕らは辿り着く。
際限なく日没を繰り返す狂った空の終着点。決戦の地ヴィグリードに。
「誰かしら来るとは思っていたが、まさかてめえも混じってやがるとはわな。ええ、ビューレイストよ」
反乱軍の先頭で呟いたのは指導者のフロージだった。
ここに差し向けられた神であるロキではなく、僕について言ってくるなんてちょっと意外だ。フロージさんは僕が思っている以上にエインヘリャルの格差を重く見ているのかもしれない。
「もうやめましょう。オーディン様はご自身の焦りから他者にきつく当たったことを既に認めています。今すぐに投降すれば今回のことはきっとお許し下さると思うし、これからはちゃんと意見にも耳を傾けてくれるはずです」
僕は必死に訴える。まだきっとやり直すことはできるはずだ。
だって、エインヘリャルが対巨人の尖兵だっていうのなら、むしろ神に仇なすくらいの強さでなければ価値がない。いよいよ十分に育ったのなら喜ぶ出来、この反乱はそういう意味で嬉しい誤算のはずなんだ。
だけどフロージはそうは受け取ってくれないみたいだ。
「今更オーディンが反省したからってなんだ? 端から奴らは俺が使えるべき王の器じゃなかったんだ。ただそれだけの話だろうがよ。今回それに気づけたのはむしろ幸運だったぜ」
「黙って聞いてりゃ言ってくれるな。つまり神に選定された人間が今度は神を選定しようっていうのか?」
「選定? はっ! この際だからはっきり言っとくぜロキ、ビューレイストもだ! こいつは反乱何て生半可なものじゃねえ! 侵略だ! 宝は奪う、邪魔するなら神であろうが殺す、女神は犯す。何故ならこの世界を総べるのは俺達だからだ!」
フロージの猟奇的な宣言に、他のエインヘリャル達からの同調する野蛮の叫びが波のように押し寄せてくる。
「おいおい、これでもまだこいつらに説得の余地があると思うか?」
「待ってロキ! フロージさんはあんなこと言う人じゃないんだ。もう少しだけ説得させて」
とは言ったものの、竜殺しの実力の成果、それとも無限の蘇生能力の成果。今の彼は増長しすぎていて、言葉だけでは無理かもしれない。
やっぱり力でうぶつかり合うしかないのか。
「フロージさん、聞いてください」
「ふん、聞いてやるぜ。俺はオーディンの奴とは違うからよ」
「ありがとうございます。それでは一つお願いがあるんのですが、フロージさん、僕と一対一の勝負をしてくれませんか?」
「ビューレイストさん、突然何を……?」
僕の提案にブリュンヒルデが真っ坂に反応して驚きの声をあげたが僕は更に続ける。
「フロージさんはオーディン様や神様方が僕を特別扱いしているように見えるのが不満なんですよね?」
「与えられたチャンスをものしていくのはてめえの勝手だ。のし上がれるならのし上がってきゃあいい。だが確かに不満はある。チャンスは平等に与えられるべきだ。俺たちは同じエインヘリャルなんだからよ」
「そこです」
「ああ?」
僕はこの先の言葉に気持ちが揺れたけどあえて言わないといけないと押し切る。
「勘違いしないでくれますかフロージさん。僕とあなたは同じじゃない。僕の方が確実にダントツであなたより優れ散るんですよ」
挑発的な発言にロキやブリュンヒルデでさえ眉を顰めている。
僕も本心じゃない。でもこういうすることが犠牲を最小限に抑えるためにも必要なんだ。
「ねえフロージさん。もしも僕がこの勝負に勝ったなら大人しく軍を退いてくれませんか?」
僕が言い終えてもフロージは平静だった。
「ああ、乗ったぜ。その勝負」
そうじゃなかった。押し殺した静かな怒りが彼の身体からあふれ出てきている。
「たかだか料理人が調子に乗りやがって。後悔させてやる。いっそてめえ自身を料理にしてくらってやるぜ! 手出しをするなよ野郎ども!」
背負っていた大剣を振り下ろしてフロージは野獣のように咆哮する。
よし……よし一騎打ちに持ち込めたぞ。これで他のエインヘリャル達との戦闘はなくなった。
だけどフロージを余計に怒らせて僕が一人浴びる流れになっちゃったけど。
「それではロキ、ブリュンヒルデ様、こちらも手出し無用でお願いします」
「ビューレイストさん、本当にそれでいいんですね? 大丈夫なんですね?」
「そんなにご心配なさらずにブリュンヒルデ様。僕だってエインヘリャルの一人なんです。それに勝算だってあるんだから。そうヴァイセのおかげでね」
「え、私? 私が何かしたの?」
急に名指しされてヴァイセは狼狽えるが結果としてそうなったのだから思い当たらないのも仕方ない。
「それじゃあ始めましょう。ギャラホルンはならないけど、ひょっとしたらこれが僕らのラグナロクです」
僕も戦いの嚆矢となる叫びをあげて僕も持てる全魔力を介抱して秘技の詠唱に入る。
だが、最後の部分だけはいつもと違う。雷神のパーティーでも披露したら神様たちは驚いていたが、これを見たらまた驚くに違いない。
「我が名は、魔狼フェンリル!!」
神聖なる世界アースガルドの中で、僕は破滅の遠吠えをとどろかせた。
「な、なんだよ、そりゃ。冗談じゃねえ。冗談じゃねえぞ」
完全に怖気づいたフロージは一歩も動けないようだ。むしろ声が出せるだけでも臆病ではない。
「お、おい、ビューレイスト、その姿はどういうことだ?」
ロキでさえ問いかける声は驚きであっても震えていた。
「別の生き物に変身するルーン魔術があるは勿論知っているよね?」
「ああ、勿論知っているが」
「これもそうだよ」
「いや、理由になってねーよ」
若干食い気味に絶叫ツッコミをロキはしてくる。
「そう言われても困るよ。僕にとってはこれは竜化と同じだもの」
「いやいやいくら変化できるといっても、何もかもにはなれねえよ。たとえば馬には変身できるかスレイプニルやグラーネにはなれねえ、ただのイノシシにはなれるがグリンブルスティにはなれねえ。ましてやおまえ、ただ姿だけそう見えるようにしたわけじゃないんだろ? 前提がぶち壊しだ」
「別になんでもなれるってわけじゃないよ。だって僕はロキが言うようにグラーネやグリンブルスティにはなれないからね」
「そうかい。そうかい。で、そんなお前がよりにもよってフェンリルになれたのはどういう手品だ? よろしければ詳しくお聞かせ願えませんか?」
ロキは神界きっての変化の達人の面目をつぶされてこんな時でも面白くなさそうだ。
「いや、僕も詳しくは分からないって言うか。一つ言えるのは僕がフェンリルになれると自覚したのはフェンリルとの一件が終わった痕だよ」
「フェンリルとの一件だあ?」
「ほら、彼の口の剣を外す……げふんげふん、一緒にご飯を食べたことがあったでしょ。あれだよあれ」
危なかった。フェンリルの口の剣を外したのはロキとブリュンヒルデ以外には内緒だったんだ。
「ともかく、今回はヴァイセのおかげでたまたまフェンリルと知り合う機会があったからこうして彼に変化できるようになったんだ」
「あ、そっか。それでさっき私のおかげだって言ったんだね」
僕の言葉の意味を理解してヴァイセは手を叩く。
「そうなるとよ、ビューレイスト、お前は竜ファルニールとも知り合いだったってことになるんじゃないか?」
「あ、そう言われてみれば。でも、気付いた時にできるようになっていたんだよね」
「初めてヴァルハラに来たお前と会った時もそんなことを言ってたな。ったく俺以上に謎が多い奴じゃないか」
「あのう、ごめん」
僕のせいではないと思うんだけど謝ってしまう。
「……というわけで行きますよ。フロージさん。言っておきますけど、手加減はできません。この姿であまりお付き合いもできないんで」
向き直って宣言した僕は四肢を躍動させてヴィグリードの地を疾走しだす。
「ち、外見で騙されてたまるか」
フロージは動揺をあっという間に捨てると大剣を手に挑みかかってくるが、彼から感じられるのは勇気ではなくて狂気だ。
「ぜりゃあ!」
フロージの鋭い先制の一撃を僕は身体を丸めて後方へ宙返りして避ける。激震を伴う着地とともに鋭い爪も一撃を返した。
「まだまだ」
竜とは比べ物にならないくらいしなやかな狼の身体は僕の意思以上に敏感で加速していく。強靭な四肢による踏み込みは初速から風を追い越して猛スピードでフロージに飛び掛かる。
フロージに攻撃を避けられ、僕の身体は流れかける。だけど地に爪を突き立ててそれを支店にすぐさま反転、長い尻尾でバランスを取る。僕自身最初は戸惑う感じはあったけど爪と尻尾による身体の使い方にどんどん慣れていって、緩急をつけた連続攻撃でフロージを責め立てる。
「ざけんなよ、ただの犬ころのくせに」
叫ぶフロージの動きも並ではない。
戦闘は激烈を極めて、ヴィグリードの空気を圧していく。これが戦いの喜びなのか。僕は恐怖や敵意以外の何かがあるのを始めて理解したが同時にそれを捨てた。
「グルァ!!」
咆哮した僕は閉じ込めていた野生を解き放つ。
軸足を置いていた大地が轟音を伴って砕け散り、互いの距離を一瞬でゼロにする。
「はやい!」
背後に回っての一瞬、鋭い爪の一撃をフロージはぎりぎりで受け止めたがそこまでだった。
手にした大剣が真っ二つに折れて衝撃と風圧でフロージは木の葉のように舞う。
轟音と土煙の中でフロージの身体は地面に叩きつけられたのを見届けた僕の魔力も底をついてフェンリルの姿は維持できずに元に戻る。
……それ以上に消耗しすぎていた。僕は疲れてまともに動くことさえできない。
「ふいー、ど、どうですかフロージさん。この勝負、僕の勝ちです。約束通り軍を退いてくれますね?」
激戦の跡地に仰向けに横たわるフロージを見つけた僕ははいずりながら問いかける。
「これで、終わる……かよ」
「え?」
知に倒れたままのフロージは腰の短剣を手にすると自らの喉を掻き切った。
「!?」
気が触れたのか。僕は思ったけどそうではない。これはある意味最も合理的な手段だった。エインヘリャルである彼は日没が来るたびに何度でも新しい体で生き返れるんだ。
しかし、だからといって、ここなおそれをするのかこの人は。
「……ちっ。魔力の消費で疲れはするがまあ些細なことだな。よお、ビューレイストこれで買った気でいるんじゃないよなあ? まだまだこれからだぜ」
「がは」
新しく生き返ったフロージは疲労で動けない僕を思い切り踏みつける。
「確かにさっきは圧倒された。だがよ、俺達エインヘリャルは死んでからが本番だ。そのための連続日没なんだから。そら、お前も死んでいいぜ。仕切り直しといこうや!」
容赦なく降り注ぐ足が僕の全身を踏み砕く。
だめだ、このままじゃ僕は死ぬ。
だけど仕切り直しはできない。生き返った身体は傷は癒えるが蘇生のためには魔力を消費する。それではフェンリル化できないしできたとしてもフロージが待ってくれるとは限らない。
自力では勝負にならない以上僕にはもう彼を倒せない。
「やめて。それ以上やったら許さないよ」
悲痛な叫びに目をやれば、そこには神技を使って狼化したヴァイセと、鎧を解放させたブリュンヒルデ、抜剣のシュヴェルトライテの姿があった。ロキも冷たい目をしてフロージを見据えている。
「おいおい、まとめて相手してやるぜ。ただし、そっちがその気ならこっちも総力戦だがな」
フロージが言うと見守っていたエインヘリャル達が武器を構える。
迂闊に動く危険を誘ってブリュンヒルデたちは歯を食いしばる。その様子に勝ち誇った笑みを浮かべてフロージは両手を上げて空に叫ぶ。
「はははは。これだ。これだぜ。やっぱり戦争は蹂躙してこそ戦争だ。無力を思い知れよ。神の時代はここまでだぜ」
「あら、それはどうでしょう?」
その時赤と黒とがしきりに移り変わる不気味の空を背にして一人の戦乙女が舞い降りた。ゲルヒルデだった。
「また増えやがったか。今更何しにきやがった?」
「もっと歓迎してくれてもいいんじゃない。さてさてみなさん、ラグナロクごっこはもうおしまいですよ。それをお伝えに参りました」
「どういうことだ?」
尋ねるフロージに嘲笑を送るとゲルヒルデは高らかに伝える。
「エインヘリャルの皆様方、命が惜しければ今すぐ投降してください。あなた方が無限と思っている蘇生の力は、もうおしまいですよ」
戦場は途端に水を打ったような静寂に包まれる。その静けさの中で言葉の意味を噛み締め、やがて理解に至った時、戦場は混乱の坩堝と化した。
「鎮まれ馬鹿野郎ども、出任せに耳を貸すんじゃねえ」
「あら、残念。こちらは親切に申し上げているのに。私の言葉を疑うのは結構ですが、実際に死んでからでは後悔できませんわよ。何でしたらどなたかお試しになって?」
挑発的なゲルヒルデの言葉を受けて反乱軍の兵士は互いに視線を向け合う。その眼には明らかな戸惑いが色濃く浮かんでいる。すっかり膠着状態となった戦場に変化が訪れたのはその直後だった。
「あぐ、フロージ、何を」
唐突に一人のエインヘリャルが短剣で胸を貫かれて息絶えた。
「よし、いつも通り、蘇生したな。さて、なら問題の二度目と行こうじゃねえか」
「オイ、待て。ほんとに二度目がなかったら、グハッ」
一度死んで生き返った戦士に振るわれた狂刀が二度目の死をもたらす。
あまりの出来事に僕らはとめにはいることさえできない。
「こねえ、オイ、こねえぞ、生き返りが。まじでどうなっているんだ。オイッ」
ゲルヒルデの忠告が無情にも実証されて、その事実が反乱軍に行き渡るとあちこちで武器を取り落とす音が連鎖した。
自分の伝令によってエインヘリャルが一人無駄に犠牲になってしまったことに責任を感じたのかゲルヒルデが冷たい美貌に悲痛さを帯びながら静かに言った。
「フレイ様とテュール様がお相手したヴァルハラを襲撃した隊も一度は蘇生しましたがそれきり。二度はありませんでした。たとえ日没が一日に何度訪れようともね。あなたたちが誰によって創造され、誰によってここでエインヘリャルとしていられるか考えたら分かるでしょう? オーディン様が決断されたのです。一回は蘇生できるのはエインヘリャルとしての特典のあまりのようなものですわ」
心配だった黄金のリンゴの確保が確実になったのだろう。心配していた点が解消されてオーディンはエインヘリャルに対して思い切った手をできるようになったんじゃないか。理由は今は想像でしかないだけど、無限蘇生という切り札を失った現実ははっきりしていてエインヘリャル達はすぐさま投降しだした。いずれはソールを捕まえていた反乱軍も自壊してこの異常な空も収まるに違いない。
「そりゃねえよ、そりゃあよ」
フロージだけは納得できず絶望的に呟き続けている。
「フロージさん……」
慰められもしないけど僕は声をかける。
フロージは顔を上げたが表情を見て僕はぎょっとする。絶望感があったけれども、彼の顔から狂気は消えていなかったのだ。
「こうなったら、お前だけでも!」
フロージが手にしたままの短剣を振り上げる。
身動きできない僕の身体に突き刺さろうとしたその時、風のように何かが傍にやってきてフロージは鮮血を撒き散らして大地に転がった。
「ビューレイストさん!」
「ブリュンヒルデ様、助かりました……」
僕は窮地を救ってくれた愛しいヴァルキューレに抱き起される。
「フロージさん」
その名を口にして僕は倒れる彼を見る。
「お、俺は……戦場の兵士として戦ってそれで死ぬ……それだけだ……」
悔悟なんてないみたいなことを言い続けるがフロージの声はだんだん小さくなっていく。
声が聞こえなくなってどれほど時間が経っても彼が蘇生することはなかった。
アースガルドを揺るがしたエインヘリャルの乱はこうして終わった。
何もかもがいつも通りに戻り僕もこれまでのように食堂で大忙しだった。オーディンにより再び復活の加護を取り戻したエインヘリャル達は演習に明け暮れてそれ以前と同じく食堂に押しかけて盛大に飲み食いをしている。
最小限の犠牲ですんだと思いたいけどそれでも食卓を生めるエインヘリャルたちの中に見覚えのある顔を見かけないということが何度かあって、それが僕を少し悲しい気持ちにさせる。
慰めはヘルフィヨトルが無事に回復して仕事に復帰したのと、エインヘリャル達とヴァルキューレとの間の関係も修復されたように見えることだった。エインヘリャル達からも不満は感じられない。
オーディンは本当のラグナロクを気にしているみたいだけどこればかりは僕も一緒に心配していてもどうにもならない。
「ビューレイストよ、しみったれた顔しやがってよまだ気にしているのか?」
珍しく食堂にやってきたロキがエインヘリャルと同じくセーフリームニルの肉を齧りながら話しかけてくる。
エインヘリャルの数は減っているはずなのに今夜はいつもよりセーフリームニルの肉や食材の消費が激しい。彼らなりの弔いなのかな。
「そういうわけじゃないけど……」
もっと上手くやれば僕ならみんなを救えたなんて傲慢なことは思わないけど心残りがないといったら嘘になる。
「ビューレイストさんはそれだけ優しい人なんです」
給仕をしていたブリュンヒルデが話に混じってきた。
「ありがとうございます、ブリュンヒルデ様」
「……い、いえ、本当のことを言ったまでですから」
空になった酒壺を新しいものに交換してブリュンヒルデはエインヘリャル達のもとへ戻る。
「……お前らしいのかもしれないけどな。なんであれ俺は今回の件でますますお前が気に入ったし、興味もわいてきたぜ。息子のフェンリルにまでものの見事に化けられるエインヘリャルなんてたまげた存在なんて面白くないわけがねえ。これから先お前がこのアースガルドどんどん刺激的にしていくに違いない、俺の勘がそう告げてるんだよな」
「ロキ、なんかろくでもないこと考えてない?」
彼が浮かべる笑みはいかにも下心がありそうだった。
「そんなわけないよこの俺だぜ」
ますますありそうだよねと突っ込もうとしたらロキが僕を手招きして顔を寄せてきた。
「これは兄貴に提案しているんだけどな、エインヘリャル達が不満をまた爆発させないよう懐柔させるのにヴァルキューレたちにコスプレをさせたらどうかってよ。俺としてはもっとセクシーなのにしたらいいと言ってるんだが、ビューレイストやらせるならどんな格好をさせたい?」
「ええ……!?」
いきなりの提案に僕はびっくりして食堂を忙しく動き回るヴァルキューレ達を見る。
ブリュンヒルデ、ヴァイセ、ゲルヒルデたち九姉妹、それに他のヴァルキューレたち。
「今回の手柄もあるからなお前の頼みなら褒美代わりに聞いてくれるかもしれないぜ」
「え、ええ、えええ!?」
僕の希望通りにブリュンヒルデ様たちを好きな姿にできるなんて!
「どんなって、どんなって……」
あれこれとめまぐるしく浮かんできてしまって僕は顔が緩んでくるのが自分でも分かる。
じっくり煮込んだイノシシの肉よりたるんでいた僕の頬をはたくみたいに厨房の奥から料理長の声がしてきた。
「ビューレイスト君、何やっているの? 油売ってないで! 今夜はいつも以上に忙しいんだよ!」
「はあいただいまあ!」
返事をして慌てて僕は厨房へ戻る。
料理人見習いの僕にとっての戦場へ。
今夜もまだまだ大忙しだ。
これで一話が完結です。
面白かったら二話も書きたいです。
それでなくても北欧ものまた書くつもりです。
面白かったら感想下さい。