五章 こっそりの善意
いつもより一段と騒がしかった夜が明け、翌朝、僕は、久方ぶりに迎えた何の憂いもない朝にまどろみながらベッドの上でもぞもぞと寝返りを打った。
昨夜はずっとお部屋に凍っていたロスヴァイセが久しぶりに尺にやってきてくれたんだ。お酒も可愛い女の子も大好きなエインヘリャルたちが浮かれちゃうのは無理もない。僕だってそうだ。
だから……普段クールを気取ってるグリンプルスティが誰より浮かれていたとしても、それは仕方がないことなんだよ。ロスヴァイセ復活の噂を聞きつけてやってきたのだから情報入手と行動力にはたまげたけど。
「ほんと、みんな嬉しそうだなったなぁ」
それだけロスヴァイセは人気があるのだろう。
彼女の復帰をお手伝いした僕は鼻高々な気分になりかけたけど、元はと言えば僕が原因を作ったんだから反省しないと。
幸せな気分で浸っていたいけどそういうわけにもいかなかった。
ヴィーンゴールブにいってブリュンヒルデに会う約束があったんだ。
それで朝食を食べ終えてさあ出かけようとしたら、向こうからやってきてくれた。
「ビューレイストさん、おはようございます」
「ビュー君、おはよう」
「ブリュンヒルデ様、ロスヴァイセ様も。おはようございます。奇遇ですね」
僕が従業員寮を出たところで、なんと空からお目当てのブリュンヒルデが下りてきたのだ。しかも、前よりももっと飛び切り元気なロスヴァイセも一緒だった。
お二人とも甲冑姿なのは、これから仕事なのかな? だとしたらなんでこんなところまでわざわざ足を運んでくださったのだろう。
僕の疑問を見透かしたみたいにブリュンヒルデがすかさず答えてくれた。
「実はですね、昨日というより昨日までのことでビューレイストさんにぜひお礼を言いたくて。本当にありがとうございました。姉妹一同、感謝の気持ちでいっぱいです」
「うん、本当に一杯ありがとうね。ビュー君!」
「い、いえ、そんな。もったいない。お言葉です! 僕は自分がしたいと思ったことをしたまでえすので」
「ふふ、ビューレイストさんは謙遜ばっかりです。もっと胸を張ってもいいと思いますよ」
「いや、これは謙遜とかじゃなくてほんとに大したことはしてませんので……」
「そうですか? ……腕まで切り落としたのに?」
「!? ブリュンヒルデ様、そのことは……」
ヒョミルの杯を割るために取った方法が、ロスヴァイセ様の耳に入るとまた気になさるかもしれないから、黙っておこうと思ってたのに。
「隠さなくても平気だよ、ビュー君。わたし、もう全部聞いちゃってるから」
「え、そ、そうなんですか?」
驚いたことにロスヴァイセはその事実を知っていたなんて。
「私ね、気付いたんだ。みんなは私のことを優しいねって言ってくれるけど、そうじゃなかった。私はね、ただ弱いだけだったんだよ。ビュー君が傷ついたら、私はそれ以上に傷ついた気になって、しかも、それを人のせいにしてた。そんなの優しさじゃなくて、ただの身勝手だよ、ただのわがままだったの」
「ロスヴァイセ様……」
そんなことないって、そう言ってあげたかった。でも、ロスヴァイセは変わろうとしている。優しいだけじゃない。強い自分に。そう感じたから、僕はあえて言葉を呑み込んだ。
「ビュー君、私ももっと強くなる。これからのビュー君が、何か大切な決断を迫られることがあったとして、その時の私は君の選択肢を狭めるような存在には絶対になりたくない。ビュー君が抱える痛みも苦しみも全部一緒になって背負えるくらい、私は強くなりたいの!」
真っすぐに告げられた想いには、もう既に力があった。僕の胸の奥にまで届いたそれはこれからの僕を支える糧になってくれる。
今わかった。元気を分けてもらうってきっと行為ことなんだ。
「そ、それでね、ビュー君」
「はい、何でしょうか、ロスヴァイセ様」
「えっと、その、ビュー君って、さ……す……好きな人とかいる……?」
「は……? はいいいって……!?」
「ロ、ロ、ロ、ロスヴァイセ、な、な、な、何を言っちゃってくれているんですか?」
突然の発言に何故かブリュンヒルデがめちゃくちゃ動揺している
ずっと可愛がっていた、まだまだ子供だと思っていた末の妹がいきなり凄い大きな一歩を踏み出そうとしているんだから無理もないかもしれない。
「だ、だって、わたし……ビュー君のこと好きかなぁって……だって、私のためにすっごい頑張ってくれて、心配してくれて、優しくしてくれて……なだか胸がもやもやするの。これってきっと恋かなって。ヴァルトラウテお姉ちゃんもそうだよって、言ってた」
「いや、それは風邪じゃないですかね? 全くヴァルトラウテも無責任なことを、ちょっと額を貸してみなさい。ほら、やっぱり、熱があります。お薬をもらいに行きましょう」
「ちょ、あの、ブリュンヒルデ様……」
どういうわけか、僕とのロスヴァイセの間の恋の道を全力でつぶしにかかるブリュンヒルデだった。いや別にいいんですけどね。
「僕はブリュンヒルデ様一筋だからロスヴァイセ様に億泊されても困っちゃうし」
二人に聞こえないよう小声で言う。
でも、そこまで露骨にやられるとなんだか凹むって言うかな。仕事関係までなら気のいいやつで許されているけど、恋愛までになると僕は愛しい妹にすり寄る害虫扱いされているのだろうか。
「私、風邪なの? 恋じゃないの?」
「えっと……その点……多分、ど、どちらにしても、もうちょっと時間をかけて考えてみてもいいんじゃないですか? なんて……ですよね、ビューレイストさん!」
「いや、そこで僕に振られても」
「ですよね、ビューレイストさん!」
「です、ブリュンヒルデ様」
なんだか言い含められた感があるけど、実際恋心っていうのも難しい。
昨日今日好きになったのなら、見極める時間は確かに必要だ。特にロスヴァイセの場合、感謝の気持ちを恋と勘違いしている可能性は大いにあり得るからね。
「なんだぁ恋じゃないのか、ちょっとがっかりだよ。でもでもわかんないよね? これから本物の恋に発展するかもしれないし。これからよろしく、末永く仲良くしてよね、ビュー君!」
「は、はい、こちらこそよろしくお願いします」
「あ、そうだそれ、ねえ、ビュー君、私はもう敬語使っちゃだめだよ。これからは普通に話してね? だって、私と君の仲だもん!」
「は、え、あ、うん、わかり、分かったよ」
「それからわたしのことはヴァイセって読んで欲しいなっ! 友情の印だよ! 私もビュー君って呼んでいるし」
「そう言えばいつの間にかそうですね。でも、いや、さすがにそこまで、どうなんでしょう……?」
「え~なんでぇ、いいじゃない。私がビュー君って呼んでいるんだから、私のこともヴァイセって呼んでよ、約束だよ」
「は、はい、あ、うん、分かったよヴァイセ様」
「ヴァイセ」
「ヴぁ、ヴァイセ」
「やった、ビュー君、これから、そんな感じでね」
「あ、あははは」
喜んでもらえて何よりだけど、僕はちらりとブリュンヒルデ様を盗み見る。
ひぇ、ブリュンヒルデ様、クルミを帆奪ったラタトスクみたいに頬っぺたを膨らませて何か唸っていらっしゃる。
と、僕が神頼みならぬ、女神頼みをしてから用事を切り出した。
「おぉ、ビューレイスト、戦乙女を両手に花とは、真昼間からいいご身分だなあ」
トゲのある言い方をして近づいてきたのは武装した男たちで、先頭に立っていたのは百人隊長のフロージだった。
「フロージさん、おはようございます。えっと、何かすみません、気分を悪くさせてしまったのなら謝ります」
「そういうつもりで言ったわけじゃなかったんだが……そう聞こえちまったんなら謝るのはこっちの方だ。ちょいとばかし気が立っててよ、つい当たっちまったんだ」
「平気です。気にしてませんから。気が立っているのはひょっとして、この前話したことと関係があったりするんですか?」
「……そういや、お前相手に愚痴ったんだったな。その通りだよ」
フロージは悔しさを思い出したように唇を噛み締める。
「昨日の夜の宴で聞いたぜ。料理人なのにお前はまた手柄を立てたんだってな。なんでも海神エーギルに気に入られて取引を半額にできるようにしたんだって?」
「ええ、どういうわけかそうなっちゃいまして天…」
「どんなわけでも事実がそうなら関係ねえさ。とにかくその話を聞いたからにゃあ、俺も黙ってられなくてよ。思い切ってヴァーラスキャルヴに行って、オーディン様に直訴したんだ。俺たちも兵士として、手柄を立てる機会をくれってな」
「お、思い切りましたね。……それで、どうなったんですか?」
聞いてから僕は少し後悔する。フロージさんの刺々しい様子はあからさまだった。
「……黙って命に殉じろとさ。あの方は、結局俺らに一瞥もくれやしなかった。終始ピリピリしててよ、俺らが目の前にいたことさえ気付いていたかどうか怪しいもんだ。あの方にとっちゃ、俺たちエインヘリャルは、ひょっとしたらそこらの馬の糞くらにしか思われてねえのかもな」
「そんな……」
僕もオーディン様みたいな偉い方をよく知っているわけではないが、そこまで冷たいお方だったろうか。たまたま機嫌を損ねられていただけなんじゃないか?
と言っても、フロージさんたちが傷ついているのは確かなことで、こういう不満が放置されていくのはよくない気がする。
「あなたたち演習場にもいかずに、こんなところで何をやっているのです!?」
居丈高な声とともにやってきたのはヴァルキューレだった。名前は確か、ヘルフィヨトルだったような。食堂で見かけることもあるけれども、会話をしたことはほとんどない。というか、神様たちに覚えがめでたい僕でもヴァルキューレ九姉妹と仲が良いのは何もかも例外的なんだ。
「別に何でもないですよ。じゃあな、ビューレイスト、お前ができる奴なのは分かってるけどよ、今後は俺たちの手柄も残しておいてもらえると助かるぜ」
嫌味にならないように気を遣ったのか、おどけた調子で言いつつフロージたちは去っていく。
見送る僕が苦笑いを浮かべていたら、ヘルフィヨトルが鋭い目を向けてきた。
「あの人たちが何かしましたか?」
「いえ、そんなことはないようです。ただ……」
「何か言っていたのですか? オーディン様にはオーディン様のお考えがあるのです。それを煩わせようとするなど何を考えているのやら」
ヘルフィヨトルは溜息を吐くとフロージたちの後を追っていく。
ヘルフィヨトルは、僕が知っている範囲だけど悪い人ではないけど真面目というかビジネスライクなところがあった。エインヘリャルに対しても今のように士官みたいな態度をよくしている。目も回るような忙しい食堂では、羽目を外すエインヘリャルもいるからヘルフィヨトルのようなヴァルキューレがいてくれないと困るのだけれども、フロージたちには傷口に塩を塗っているんじゃないかな。
「ここのところのオーディン様は、あまり機嫌がよくないのは確かですね……」
「私が前に見た時には怒っているよりも焦っているように見えたかな」
ブリュンヒルデとロスヴァイセ……じゃないヴァイセがそれぞれ見解を示してくれる。
オーディン様の不機嫌と焦りか。
まさかとは思うけど……ラグナロクが近かったりするのかな? いや、もしそうなら今頃はもっと大騒ぎになっている。
何にせよ、今僕らがあれこれ考えても仕方がない。最近見てないけど今度またロキと会うことがあったなら、耳に入れておけばきっと何とかしてくれるんじゃないかな。
「それよりも、ブリュンヒルデ様、実はお願いがあるんです」
「私にですか? はい、なんでしょうか?」
「今回世話になったフェンリルに、お礼を言いに行きたいんです。でも、そのためには、またあのリングヴィまで行かなきゃならないので……」
「連れていってほしいということですね。分かりました。ですが、すみません、ビューレイストさん、今日はこれからロスヴァイセとエインヘリャルの選定任務がありまして、行くのはお昼過ぎになってしまうかもしれません」
ブリュンヒルデは申し訳なさそうに両手を合わせてくる。
「そんな。僕が考えなしで言ってしまったからなんで」
しまった、これからお仕事なのは薄々若手ったのにこのタイミングでお願いするなんて。
「任務なら、私一人で平気だよ、ブリュンヒルデお姉ちゃんは、ビュー君と行ってあげて」
「で、ですが……」
「ダイジョブだよ、引き籠ってる間みんなに迷惑かけっぱなしだったから、私沢山頑張りたいんだ。それにそうすればビュー君への恩返しにもなるよね?」
「それはもう十分すぎるほどに」
「えへへへ、じゃあ、決まり、お姉ちゃん、ビュー君をよろしくねっ!」
迷っているお姉さんを気遣ってか、有無を言わせぬ勢いでこの場からロスヴァイセは飛び去っていく。ああ、本当にお姉さんの想い健気な子だなあ。
「ええ、そういことみたいですので、ビューレイストさん、今日は今からお付き合いできそうです」
「そ、そうみたいですね、で、では、本日はどうすればよろしくお願いいたします……」
前触れもなく唐突にやってきた、二人きりで過ごせる夢の時間だ。これってデートみたいじゃないか。そう思って僕は横目で見る。ブリュンヒルデの顔が真っ赤にほてっていた。
こ、これはもしや、ブリュンヒルデも意識しているっていうのか。それともロスヴァイセはほんとに風邪でうつったのか。ここはぜひとも前者だと思いたいけど、実際どうなんだろう。
注意深く窺う僕に対して一切視線を向けることなくブリュンヒルデは真っすぐ顔を見詰めて言う。
「あ、あのビューレイストさん、フェンリルのところに向かう前にまずはヴァルハラの食堂に寄ってもらっていいですか?」
「もちろん、構いません僕も用事があったので、丁度良かったです!」
「そうなんですか、それではいきましょう。ビューレイストさん」
中々目を合わせようとしてくれないブリュンヒルデだが、でも、そのぎこちない感じがまた新鮮で可愛らしい。
彼女の新しい一面が見られそうな予感を抱きつつ、僕らはキッチンへ向かった。
キッチンにつくと僕はバックヤードの隅においていた冷蔵庫を引っ張り出す。ここにはセーフリームニルの肉が入っていた。
僕なりに考えていた感謝の形だった。ヴァルハラ一番の自慢のこの肉を、フェンリルにぜひ味わってもらいたいと思ったのだ。
「あ、それ、持っていくんですか、ビューレイストさん」
何やら料理の準備を進めつつ、ブリュンヒルデが尋ねてくる。
「えへへへ、これは昨夜のスペアリブの残りです。フェンリルに食べてほしくて」
「なるほど、いいアイデアですね。セーフリームニルの肉は本当に美味しいですから、フェンリルが喜ぶと思います」
「あれ、ブリュンヒルデ様も食べたことあるんですか? いつもヴァルハラにいる時はヴァルキューレの皆さんは給仕されているので」
ヴァルキューレが食事をしているのを僕は見たことがなかった。
「あっ」
ブリュンヒルデは僕の指摘を受けて、何故か「しまった」という顔をする、どういうことかとか尋ねると、そこに帰ってきた答えは実に彼女らしいものだった。
「日々の戦いで傷つき疲れたエインヘリャルを癒すのがあの場での私たちの仕事なので、私たちヴァルキューレはそうした姿を見られてはいけないことになっているんですが……」
「僕たちもお客がいるのに厨房で食事するわけにいかないですからね」
「はい。ですが、酔っぱらったエインヘリャルに進められて断れずに、少し食べてしまったのです。それからあまりのおいしさに病みつきになってしまって、しょっちゅうにつまみ食いを……」
あの仕事に妥協を許さない生真面目なブリュンヒルデが。新しい一面を見つけてしまった。僕にとってはそれは嬉しいことだ。
「言っておきますけど、つまみ食いをしていたのは私だけじゃないですからね。みんな上手くやっていると思ってるみたいですけど、私が知る限りでもつまみ食いはヴァルキューレの間では横行しています。ですから、その、私だけが食い意地が張ってるとか、思わないで……ってやだ、私、何言っているの?」
妹や同僚たちの悪行を明るみに出して、相対的に自分の罪を軽くしようとする。僕にとってはそんな彼女はかわいい。そして、そんな自分の行いを恥じて真っ赤になるブリュンヒルデはもっと可愛い。
いやあ、別にそんな言い訳しなくたって罪はないのに……商売をしているわけでもないから赤字にもならないし、食材が不足することでもないんだから。というより、仕事を真面目にしないといけないはずのヴァルキューレでさえ誘惑されてしまう料理を作っている事実は僕にとって誇らしく嬉しい。
「それより、ブリュンヒルデ様は何をなさっているんですか?」
「ああ、私はお弁当を作ってます。私のルーン魔術でニザヴェリールまで一瞬ですが、そこから私だけの移動では、リングヴィまでちょっと時間がかかります。到着は丁度、お昼くらいにNなると思うんで、その時のためにも」
「なるほど、そういうことでしたか……ってブリュンヒルデ様、一人分のルーン魔術じゃ時間がかかるなら、今回は愛馬のグラーネに乗せてもらえばいいのでは……」
「あ「、えっと実はですね、グラーネはその、最近、ちょっと調子が良くなくて。今はゆっくり休ませているんですよ」
「あ、あーそうでしたか! そういうことなら無理はさせられませんよね!」
さすがだな。愛馬をそんなふうに思いやれるなんて。
「主様、こんあところにいたんですか、ほら、忘れもんですぜ」
とその時、キッチンの窓の外から元気に声をかけてきては、口にくわえたハンカチをゆらす一頭の馬だった。
「あれ、グラーネ……?」
あれ、おかしいぞ。ブリュンヒルデの話と違う。
「……あの、風邪を引いたんじゃ……」
僕が目をやると、ブリュンヒルデ様は顔を覆ってうずくまる。それを見たグラーネは一瞬の間を置くと、何故だか突然苦しみだした。
「え、えっとああ、おれは思い出した。風邪を引いているんだと思う。げほ、げほほげ、ああ、無理したせいで熱が、ぎっくり腰も併発してきて、目が霞んでもきた。腹痛で腹が痛い……主様、俺は静養が必要みたいだ。ハンカチはここに置いとくぜ」
ひどく咳ごみながら、ハンカチを窓に置いたグラーネは風邪を引いたにしては素早く、でもよたよたと去っていく。
「あ、あの、ビューレイストさん、今のはですね」
「グラーネ君、相当体調悪かったみたいですね。それなのに相当無理したいみたいで」
「あ、そうなんです、うーん、ビューレイストさんって鋭いのか鈍いのかよく分かりませんね……」
ブリュンヒルデ様は何やら複雑な表情になるとお弁当作りを再開する。
変な空気は出来たりしたけど、僕にとって二人きりの方がいいので気にしない。僕と二人で出かけるためにお弁当も作ってくれているんだし。
「さて出来ました。さあ、それでは参りましょう」
「はい、よろしくお願いします」
お手製の料理をつめたバスケットと、風呂敷で包んだ小型冷蔵庫、それと僕、意外と荷物が多くなって申し訳ないけど、今は甘えるしかない。
とはいえ移動中のブリュンヒルデは終始楽しそうだった。
そうして、僕らはフェンリルが拘束されている島リングヴィに到着する。
周りを囲む湖が放つ、青いい神秘のイルミネーションに彩られた中心地に降り立つと、フェンリルは大岩にもたれていた首を上げて僕を認める。
「この臭い、この間の小僧か」
フェンリルの他に人影が会った。
「う、ままじかよ、こんなところになんできた、ビューレイスト、それにブリュンヒルデ」
「あれ、ロキじゃないかな! 久しぶりだね!」
先客はロキだった。
トールのパーティーにお呼ばれされた日以来だから久しぶりだ。あれからどこで何しているかも知らなかったけど、まさかこんなところで会うなんて思わなかった。
「ロキ様、一体ここで何をさなっているんですか?」
「質問は俺が先にしたぜ、ブリュンヒルデ」
「申し訳ありません、私たちは、その……」
「僕らはフェンリルに世話になったから、その礼を言いに来ただけだよ」
なんだかブリュンヒルデが責められているように感じて、僕は咄嗟に助け舟を出す。
「ふーん、そうなのか?」
僕の話をいまいち信用してないのか、ロキは背後のフェンリルに尋ねた。
フェンリルは身動きできないとれない身体をもどかし気に肩をすくめて、殊更面倒そうに答える。
「世話なんざした覚えはねえな。暇潰しに雑談くらいしただけよ」
「雑談、へえ、お前が初めて会う人間と雑談とはねえ、くっくっく」
何か言いたげにロキが笑い、フェンリルは不貞腐れたように溜息を吐く。
「ロキはどうしたの? フェンリルと仲がいいの?」
「悪い」
「おい、連れねえこと言うじゃねえか。我が息子よ。パパは寂しいぜ」
「パパ、って、え、ロキがフェンリルの?」
驚く僕の質問を受けて、ロキは真顔で首を縦に振る。嘘くさい。そう思ってブリュンヒルデに目を向けると、彼女も同じ動作をする。
「本当に? フェンリルってロキの息子だったの? 父親は神と巨人のハーフって言ってたけど、なんだそういうことか。そんなのがポンポンいるわけないと思ったよ」
「チッ、親父と知り合いだったのかよ、お前、それもお前と気安くため口聞けるほどの」
「まあ親友といってよいくらいにな」
ロキが言うと何か下心がありそうな気が僕でさえしてしまうけど、ここではそれのほうがありがたい。
「それで、ロキはどうしてこんなところに?」
「おいおい、この流れでそれを聞くか。愛する我が子に会いに来たに決まってるだろ」
「はっ、よく言うぜ、口だけ達者な狡猾神、今までろくに顔も見せなかったじゃねぇか」
フェンリルはせっかくの父親との再会をあまりうれしく思ってくれていないみたいだ。よその家庭事情だけど、見過ごせない気にはなる。
「ねえ、フェンリル、会いに来てくれたってことは君が殺されそうになったのをとりなしたように、ロキは今でも気にかけているんだよ。じゃなければあのロキがここに来るわけがないじゃないか」
「おいおい、ひどい言いようだな」
「君だって口だけ達者な狡猾神って言ってるだろ。そんな父親が来てくれているんだよ」
ロキの抗議を無視して僕は言った。
「まあ……そうかもな」
ロキは納得できなさそうな口ぶりだけど刺々しさはなくなっていく。
「そんなことよりもだ。ビューレイストだったか? 何やら礼を言いに来たって話らしいが、生憎俺は心当たりがねえ、お引き取り願おうか」
「いや、そっちには覚えがなくてもこっちにはちゃんとあるんだよね。こっちの気が収まらないからここは無理やりでも押し売りさせてもらうよ」
「くっくく、諦めろ。フェンリル、こいつはこういう奴らだぜ」
「ち、親父が気に入りそうな頑固野郎かよ、こいつの肉は固そうだ」
「僕の肉より、柔らかくて食べやすい美味と評判の肉を持ってきたから」
「ああ、そうなのかよ、そりゃ悪かったな」
呆れたフェンリルを見て、僕はここぞとばかりに小型冷蔵庫の包みを解く。中から取り出したセーフリームニルのスペアリブだ。
「じゃじゃん、さあ、これがお礼の品だよ。今流行のヴァルハラの三ツ星つきさ! さあ、お上がりよ」
「ほお、まあまずくはなさそうだな」
「頬が落ちちゃうくらいだよ。だけど、この剣は邪魔だよね」
せっかくの僕の料理がこれじゃあ、存分に味わえない。それは何というか……料理に対しての冒涜だ。おいしく食べられてこそ意味があるんだ。料理に携わる者として、この状況は許せない。
「あのさ、僕、フェンリルを自由にしてあげたいんだけど駄目かな」
僕の何気ない一言を受けてブリュンヒルどころかロキも、フェンリル自身でさえも息を呑む。
「ビューレイストさん、それは流石に容認できません、実父であるロキ様には申し訳ありませんが……この者を拘束するのに神々は少なくない代償を支払われています。ありとあらゆるドヴェルグの拘束具を破壊しつくwし、挙句にはあのテュール様の右腕を買いちぎったこの魔狼を解き放てば世界はどうなってしまうのか、ビューレイストさんだってわかるでしょう?」
必死に危険性を訴えるブリュンヒルデだけど、僕はこっそり謝る。すみません、その危険性が理解できないんです。
「神々は、代償を支払う目に彼と対話をしましたか?」
「え……?」
「逆に考えてみてください。ミーミル様の予言、ただそれだけに拘束されようとしている。無実の狼が、逃れようと大暴れすることに何の不思議があるのでしょう」
「そ、それは」
そう、答えられるわけがない。だって、それは、ごく当たり前の防衛本能、誰の心にだって生じる、理不尽への抵抗なんだ。
「ブリュンヒルデ様、あなたは今朝僕にお礼を言ってくださいましたね、その言葉は本来なら僕ではなく、フェンリルに言うべきです。何故なら、ロスヴァイセ様の暴走の謎を解くカギをくれたのは他でもない、彼だからです」
「フェンリルが」
ブリュンヒルデ様は言葉を失った。
「だからお尋ねします。ブリュンヒルデ様、ここにいるフェンリルは、悪なのでしょうか」
僕の訴えにブリュンヒルデは俯いて押し黙る。美しい眉間に皺寄せて柔らかそうな唇を引き結んで思い悩むのは迷いからではない。
「私には、賛成も協力もできません、ですが、聞かなかったことにはできません」
僕にとっては今はそれで充分だよ。反対も邪魔もしてくれない。
「ありがとうございます。ねえ、ロキ、あれ、ロキ」
ロキに手伝ってもらおうと思ったのに、肝心のロキは放心したように僕を見ている。
「ロキ!?」
「あ、いや、すまねえ、まさかお前がそんな提案するとは思わなったからよ」
「それって、そんなに驚くようなことなの? フェンリルのことを思ったら普通だと思うけど」
「ちげーよ、そもそもこいつのことを思う奴がいるのかって話だ。ミーミルの大予言を聞いて定められたオーディンの意向は絶対だ。アースガルドの不文律に則って世界の終末まで封じておかなきゃならねー怪物を解き放とうだなんて、そんな大それたことを考えるのが普通と言わねえよ。怖いくらいだ」
ロキは笑みを浮かべてフェンリルの前に腰を下ろすと僕を見据えてきた。
「ビューレイスト、お前がそう言ってくれたから、俺はお前に真実を明かす。今日、俺がここに来たのは、別に息子の顔を拝みたくなったからじゃええ。本当はこいつを介抱する算段が付いたってことを伝えるためだったのさ」
「え、そうだったの!?」
「親父、本当なのか? もったいぶった話しかしねえから何をしに来たのかとイラついてたんだが、そういうことは最初に言えよ」
非難するフェンリルに悪いわりと手振りで応えてロキは話を続ける。
「ブリュンヒルデなら知っていると思うが、俺は前からちょくちょくアースガルドを抜け出しては世界を巡ってたんだ。目的はフェンリルを拘束するグレイプニルを断ち切るための剣を探す為だった。正確には、その剣を作れる鍛冶師だな」
「そんな鍛冶師がこの世界にいるの?」
「そもそもグレイブニルを作ったのがドヴェルグだ。あなら同じドヴェルグの鍛冶師にそれができる奴がいてもおかしくねえ。ところが奴らは警戒心が強い種族な上に、神族を恐れてやがるから、鍛冶師の情報さえ寄越そうとしなかった」
「失礼ながら申し上げますが、彼らが神族を恐れるようになった原因は主にロキ様にあるのではないでしょうか……」
「ぐは……い、いや、それは確かにグングニルを始めとする宝具を手に入れるために、色々やったがそりゃ俺の首がなくなる瀬戸際だったからで、アンドヴァリの時はむしろ兄貴がやれっつったからであってな」
ブリュンヒルデの鋭いつっこみに、ロキは結構ダメージを喰らったようだった。ロキにはロキの言うにやまれない事情があったかのかもしれないが、日ごろの悪行のためか僕ですら言い訳にしか聞こえない。
「それはいいじゃねえか。それよりも鍛冶師の話だよ。俺が欲しかったのはグレイプニルを断ち切るような規格外の代物だからよ、それだけの腕がないと話にならねえ。フレイの勝利の剣を売ったヴェルンドに頼めるなら話は早いが、奴は兄貴のお抱えだ。頼みたい仕事の内容を考えたら迂闊には話せねー。そこで俺が目をつけたのが、かの名工イーヴァルティってわけよ。ニザヴェリールの片隅で隠棲してやがった生きる伝説を、俺はようやく取っ捕まえることができたんだ」
ドヴェルグの鍛冶師イーヴァルティ、偉大すぎるその名前を、僕も聞いたことがある。
確か、シヴの神、スキーズブラズニル、そして、グングニルの三つを作りだしたのが、イーヴァルディの息子たちだったはずだ。
「老いぼれたイーヴァルティは、とっくの昔の鍛冶師を引退してたんだけどよ、死ぬ前に息子たちの屈辱を晴らしてやれと発破をかけたら返事二つでやる気になってな。早速剣の制作に取り掛かってくれることになったんだが……残念ながら今はそこで足踏み状態だけどな」
「え、どうして?」
「素材がねえんだ。それだけの剣を打つからにゃあ、それだけの素材がいるのは当然だろう。ちょいっとばかり難航をしているんだ」
「どんな素材なの?」
「それはおいそれと明かせねえな。お前を信じられないわけじゃないが、俺や神族に比べてルーン魔術への耐性が低い。万が一でも誰かに魅了でもかけられたら目論見が一発で丸裸。そうなっちゃ目を当てられねーだろ」
「た、確かにそれはちょっと怖いかも」
どんな時でも要人するのがロキらしいやり方だ。
「でもさ、ロキ、いつかは教えててくれるよね」
「へ、当たり前だろ。いざって時は言えん力頼りにさせてもらうから覚悟しておけよ、兄弟」
手を伸ばし、僕の目の前にぐっと突き出してくるロキの手を僕は合わせせる。
「ところで、さしあたってだけど、こいつの口の剣だけでもどうにかならねーかな」
「っていきなりなんなの」
親指で肩越しにフェンリルを刺して、早くも僕の知恵を頼ってくる。
全くもう、前にフェンリル本人からお願いされてるしね。
「っと、みんなで慎重に引っ張れば。結構簡単に外せるんじゃないかな。見た感じ器具とかで固定されてるわけでもないし」
「外すだけならそれでいいかもな。だが、問題はその後だ。剣が外されているのが他の奴に知られたらことだぜ? 当然兄貴の犯人を血眼になって探すだろうし、フェンリルンは拷問確定だ。だからやるからには、剣を外されたことも、外れていることもばれねえように事実を隠蔽しないと駄目だ」
「うーん、確かに理想ではあるけれど、それはなんでも無視がよすぎない? 具体的にはどうすればできるのさ」
「そうだな、例えば偽装とかな」
「偽装?」
鸚鵡返しに呟いて首をひねる僕に、ロキは続けた。
「ああ、そうだ。口の剣が外されたことを知られないためには、口に剣が入ったままじゃないといけない。だが俺たちは剣を外したい。そのどちらも満たすのには、剣を別物に差し替えた上で偽装するのが一番だ。具体的に言うとだな……口から常時外すんじゃなくて、必要な時に簡単に外させて、すぐに自力で口に戻せるな……そんな剣が欲しいわけよ」
「簡単に外せる剣ねえ、それってふにゃふにゃの剣があればいいってこと? ゼリーみたいな」
「それだと口から外した時に形が崩れるだろう。もっとこう弾力があった方がいいな。別に剣そのものにこだわらなくてもいいぜ、形状さえ似てりゃあ、俺の幻惑のルーンで剣に見せかけることもできるからな」
「でも、大きさは? フェンリルの口に収まる特大サイズの剣何てなかなかないよ」
「ああ、その辺も気にしなくていい。サイズなら成長のルーンでちょいよいと修正できる」
「うーん、そう言われてもなあ」
ロキの要望を統合すると、つまり、こうなるよね。この剣に似た長細い形状で、弾力性があるものか。そんな便利なものがあったりするのか。
「あっ……い、いえ」
黙認してくれていたブリュンヒルデが、何か閃いたような声を上げたが、すぐに打消してくる。
だけどそれを見逃すようなロキではなく、案の定、にやりと悪い笑顔を浮かべてブリュンヒルデに迫った。
「ブリュンヒルデよぉ、俺たちは耳塞いでおくからよ。ここで一曲歌ってくれねえか」
「一曲……ですか、ワンフレーズでいいなら」
まわりくどい会話がロキとブリュンヒルデ様の間で交わされる。二人の表情からこれって要するに「今思いついたことを教えろ」「貧とぐらいなら」的なやりとりだよな。目と目で語り合う光景に僕はちょっと妬いてしまう。
「そうですね……探し物は、料理長に尋ねればないか分かるような、そうでもないような……」
あえて歯切れ悪く言われてるけど、分かりやすい部類だ。
「分かりました。帰ったら僕が料理長に相談してみます、それでいいかな?」
「おう、何かが分かったなら言ってくれ」
「ま、期待はしてねえけどな」
明暗極端な言葉が帰ってくるけど、フェンリルもまんざらではない期待をしているようだ。
とにかくこれで話は決まったよ。あとは帰ってブリュンヒルデ様から頂いたヒントを活かすだけ。
なんだけどバスケットが一敗残っているのを思い出した。
「蹴る前にお弁当、食べましょうか」
「あ、そうですね、そうですね」
僕らはロキと交えて極上のお弁当を堪能する。混獲は申し訳ないけど、フェンリルにはまだ丸のみで我慢してもらうことになる。
そして、その夜に、僕は料理長に剣のことを早速相談しようと思ったのだけど、内容が内容だけに気軽にできないでいた。フェンリル絡みである。「何に使うの?」と尋ねられでもしたら、正直に答えられるものじゃない。
どんなふうに聞いて、話を運んだら自然に誤魔化せるだろう。
厨房の隅でうんうんと僕が唸っていたら、山羊のペイティがとことこやってきた。
「実はさ、僕は料理長に大事な話があるんだけど、切り出せずに困ってるんだ」
「それはダメ、プロポーズするのはペイティが先だよ」
「しませんからそんなこと、もう安心して言ってきなよ」
「そうする」
ペイティは短く答えると流し台でまな板を洗う料理長のもとへ向かう。人間の姿に変身して、ペイティも色仕掛けというものをわきまえているようだ。
「ダーリン、まな板が好きなの?」
「うお、ペ、ペイティ君か、いや、まな板が好きだから洗ってるわけじゃないけどね」
「やっぱり大きい方が好きなんだ。ペイティ自身あるよ」
「ってそっちの話かい。まあ否定派しないけど」
「あのね、ダーリン、今日はペイティの大事なお話しを聞いて欲しい」
「あ、や、今ちょっと手が離せないから」
「じゃあ、待ってる」
そう言うと、ペイティは料理長の隣で待ちの体制になってしまった。あれだと僕も待たないといけないことになってしまう。
その後の展開を考えると待っていられない。
「料理長、実は僕からも大事なお話しがありまして」
「やめてくれよ、ビューレイスト君、僕は君にもそんな気はないよ」
「いや、僕はプロポーズじゃないですから! どうして真っ先にそっちを連想するんですか?」
「すまんすまん、ついそっちかなって。で、話って?」
「えっとですね、剣みたいに真っすぐ長くて、それで弾力性がしっかりあるもってなーんだ?」
「なんだい、なぞなぞかい?」
そうです、なぞなぞです。僕にもロキにもさっぱりわからなかったブリュンヒルデからの挑戦状だ。ブリュンヒルデいわく、料理長になら解けるらしいけど。
「うーん、分からないなあ。ヒントはないの?」
「ヒントですか、ヒントは多分ですけど……食べ物? 料理? もしくは食材とかですかね」
当てずっぽうで言ってみたけど、料理長になら解ける問題なら、そういうことになると僕も思う。それとも、ミッドガルド出身って部分にかかってるのかな。
「真っすぐで柔らかい、肉……骨……野菜……あ、大根か? でも、柔らかくないよなあ、煮込めば大体柔らかくなるけど、なあ、ビューレイスト君、柔らかいって一口に言うけどどれくらい柔らかいんだ?」
「口に入れて、かみしめても痛くないくらいが理想でね」
「あ、ちょっと待った。分かったぞ、自分で言って気付いたよ」
「え、ほ、ほんとですか!?」
料理長は自信ありげな笑みで応えてみせた。
「こう、剣みたいに真っすぐ細長くて柔らかくて、おまけにちょっとした弾性も備わっている物といえば、それはずばりヘチマのことだ。そうだろう?」
「ヘチマ? 確かにまっすぐ伸びている印象が強いですけど、あれってでっかいキュウリみたいなものじゃないですか、あれのどこが柔らかいんです?」
「なんだい、知らないのかい? あれを煮詰めて皮を剥いて、乾燥させ得ればと柔らかいヘチマたわしが出来上がるのさ。なんなら今度二人で作ってみるかい?」
「ぜひとも、明日にでもお願いします」
身を乗り出して答える僕に料理長は少々気圧され気味になる。
「確かレーラズの裏にある農園にもヘチマってありましたよね。これから収穫してきますので、明日、朝いちばんに作りましょう」
「それで構わないけど、なんでまた突然そんなものが欲しくなったんだい?」
「うっ、え、と実はあれです、最近寝つきが悪くて抱き枕代わりになるものが欲しかったんです」
「普通にそのためのものを買えばいいじゃないか」
「て、手作りの方が愛着が沸いて癒されるんじゃないかな」
「なるおど、一理あるね。ならせっかくだから枕カバーにもこだわってみるかいブリュンヒルデ様のイラストカバー付きなら、更に安眠間違いなしだ」
「や、やだなあ、料理長、そんなカバーつけたら興奮しちゃってむしろ眠れませんよ」
そのアイデア頂きだ。
「う、うわ」
幸福な未来に胸を熱くしていたその時、大人しく聞き手に回っていたペイティがかっと目を見開いた。何かインスピレーションが働いたようだった。
「カバーに絵を描くより、カバーに本人入れれば……ふふ」
予想以上に発想が恐ろしいよ。
僕は早速ブリュンヒルデに謎を解いたことを伝えると、ヘチマたわし作成に立ち会ってもらえるようにお願いした。なんだかんだ頼り切ってしまっている上に馬車代わりにしているみたいで心苦しいけど、ニザヴェリールまでの足もこれで御無事確保できた。
あとロキに連絡しないとなんだけど、そう言えばロキって普段どこにいるんだろう。
溜息を吐いていたら視界の隅でネズミが動いた。いやあれはリスだ。モフモフの毛並みが愛らしい淡い栗色のリスだ。ユグドラシルを動き回る情報屋で連絡役もやっている小憎たらしいリスだ。
「ラタトスク」
僕の呼びかけに、耳を立ててクリッと小首を傾げる。
「きゅ!?」
「きゅじゃないよ、なに可愛い小動物やってるんだよ」
「ああ、これは旦那、あっしに何かご用事で」
「丁度いいところにやってきてくれた。実はロキを探しててさ、悪いんだけど、伝言をお願いしたいんだ」
「へえ、お安い御用でさ、どんな内容で」
「明日、ヴァルハラに来てって感じで」
「ふむふむ、ばっちり覚えました。明日の朝ヴァルハラで決着をつけるぞ、枕で眠れるのは今夜で最後だ、覚悟しろこら」
「来いは伝えているけど、意味は変わってるよね」
「そうなんでやんすか? あっしは気を遣って本心をくみ取ったつもりなんです」
「ありもしない行間を読まないでお願いで」
このリス、滅茶苦茶に煽りやがって。聞けばユグドラシルの根元にいる邪竜ニーズヘッグはこいつを連絡役に使っているっていうけど悪評やトラブルはこいつが原因じゃないのか。
「分かりやした。言葉だけお伝えします」
「ぜひそうして。絶対だから」
「では」
元気よく敬礼したラタトスクはその場でひょいと飛び跳ねるとあっという間にいなくなる。
「よし、ヘチマを収穫して明日の用意をしとこう」
早速農園に向かった農園で僕は一番立派なヘチマを確保した。
次の日の朝、僕は料理長に会いに行った。
「おはようございます、なんかお疲れですね」
「昨夜もヘイズがね」
夜通し追い掛け回されたのだろ。披露している様子から丸分かりだったけど僕は容赦なく引っ張ってロキたちが来るのを待った。
あれだけ言っても不安はあったけどラタトスクは抜かりなく使命を果たしてくれたみたいだ。
「よぉ、ビューレイスト、ラタトスクから聞いたぜ。なんでも、俺を瞬殺して神族の座を狙ってるらしいな」
「よりひどく伝わっている!!!」
僕は絶望的な叫び声をあげるが、さすがロキと言ってよいのか、悪知恵働く彼は他人の悪知恵もあっさり泳見通しのようで、本気にしてないようだった。
ロキが和解をする頃には仲良くブリュンヒルデ様もやってきた。
僕らはキッチンへ移動する。料理長を中心にして辺地魔の繊維質を抽出することに成功する。
僕は料理長にお礼を言うと、ロキとブリュンヒルデ様に連れられてフェンリルのもとへ向かった。
「昨日の今日とは仕事が早ぇな。どうした諦めたのか」
「その逆だよ」
「ほう」
僕が自慢げに頷いてロキを見ると、ロキは歩み寄って地面に置かれたヘチマたわしを両手にかざした。その手に魔力の波動を念じた瞬間、ロキは秘術の詠唱をする。
呪文を終えると同時に、二つのルーン文字が浮かび上がり、残光をちらしてヘチマの中に溶けていく。するとヘチマはまばゆい光を鉢ながらどんどんと巨大化し、やがてフェンリルの口に押し込まれた剣と瓜二つになった。
「これが幻惑のルーンの力」
さすがロキだ。二つのルーンを使って見事に再現してしまっている。
「持ってみろよ、これだけでかくても、軽い。剣に見えちゃいるがヘチマだからな」
ロキから渡されて持ってみたらホントだ、とても軽い。これなら僕でも自由自在に扱える。しかも、弾力があるから押しても曲げても元の形状に戻る。
協力してフェンリルの口の剣を慎重に引っ張り出すと入れ替える。
「ふう、取れたあ。ねえ、ロキ、この剣はどうすればいい?」
「湖に捨てておけばばれやしないだろう。そいつの処分はお前に任せるぜ」
僕は剣を引き摺っていき、湖に放り投げる。証拠隠滅は完了だ。
「ごくろうさん。これで一段落だな。いっちょ乾杯でもするか。フェンリルも一緒にな」
「うん」
僕らは早速このために用意してきた料理を広げる。もちろんフェンリルのための肉も用意してきた。
僕が持参した特性の肉を差し出すと、フェンリルは美味そうに咀嚼して料理を味わってから呑みこんだ。
「うめえ、こんなんだったな。久しぶりだ」
フェンリルの、それだけの言葉に万感の思いがこもっていた。
その日の夜遅くいつも通りの宴の喧騒も追ってくれて、どうにも寝付けずに僕は部屋の窓辺から夜空を眺めていた。
「いい笑顔だったなあ、フェンリルの奴」
あんなに喜んでくれると料理人見習いであっても料理仕事に誇りを持ちたいって気持ちが僕にも理解できる気がする。
一人でも多くの人に僕も美味しいと言ってもらえる料理を作れるようになりたいなあ。
そんなことを思っていても月を眺めていたらフェンリルの姿が浮かんでは消える。繰り返されるうちにどんどんはっきりしていって、それに合わせて手足も熱く、それは初めてファルニールになった時の感じにとてもよく似ていた。
もしかして僕は……。
「……あれ?」
僕は夜空から下の方へ視線を移す。
ヴァルハラ本館に向かって歩いてきた人影は、フロージだ。
「そういえば食堂では見かけなかったけどどこに行っていたのかな?」
最近話すことが多かったせいで、大勢のエインヘリャルの中でも姿を見つけられるようになっていた。だけど今夜は一度も目にしていない。
「オーディン様に直訴しに行っていたのかな」
表情の暗さは夜のせいではない感じだ。
お節介だとは思ったけど気になった僕は自然と部屋を飛び出していた。
「フロージさん」
ヴァルハラの本館内のエインヘリャルの宿舎で、俯いて自室に戻ろうとしていたフロージに追いついた僕はそっと呼び止めた。
「ビューレイスト、こんなところでどうした? 夜遊びしてて酔っぱらって帰る部屋を間違えたのか?」
答えるフロージは皮肉たっぷりだが、覇気がない。やっぱり良くないことがあったのか。
「あの……オーディン様にお会いしていたんですよね?」
「オーディン様に? 別に会ってねえよ」
「え、あ、そうなんですか、何だ、今外から帰ってきたみたいだからそうだとばかり」
「会って下さらなかった」
「え?」
僕の言葉を遮るようにフロージの声が重なって、僕は思わず聞き返す。ベルゼさんは暗い光を宿した目で僕を睨むと、低い声で告げてきた。
「分からねえか? 門前払いだよ。俺のごときの言葉なんざ……いや、そうじゃねえな。俺という存在なんざ、あの方にとっちゃあ、そこらに漂う塵以下ってこった。気に留める勝ちすらねえ、正直言ってきついぜ……まさかここまで相手にされてねえとはな」
「そんな……何かの間違いじゃ?」
「ククッ、その言葉……ヴァーラスキャルヴの門前で俺が何度呟いたかお前に分かるか? 気にすんなよ、お前は主神を始めとする神族のお気に入りなんだろうが、俺や他のエインヘリャルは有象無象のごみくずだ。端から同列だなんて思っちゃいなかったさ」
フロージは笑顔を浮かべていたけれど何もかも諦めたような、かなぐり捨てたようで、僕は一抹の憐憫を抱く。そんな瞬間の後に僕の全身を冷たい震えが駆け巡った。
「……この下らねえ、価値観は取り払う以外にもう道はねえってことだな」
身も凍るほどの殺意を漂わせながらフロージは部屋に消えていく。
「だ、大丈夫だよね、だって、フロージさんには仲間がたくさんいるんだし、親身になってくれる人だって」
僕は祈りを込めるように夜空の星に思いを託す。
だけど、わざとらしく声に出した僕の独り言は、まるで不協和音のように、暗い世界に取り残された気がした。