一章 みんなは肉料理が好き
プロローグ
世界の中心には一本の大樹があった。
太古より世界を支え歴史を見守り続けた世界樹は、ユグドラシルと呼ばれていた。はるかな高みまでそびえる無二の巨木の中心には、広大な平原が存在していた。
かつてはイーダフェルトといい、今はこの地に集まったアース神族によって作られたアスガルトと呼ばれている。
栄光と繁栄が息づいている大地だ。
「果たしていつまで続く栄光か……」
その地の地下深く。そこに広がる鍾乳洞に、しわがれた老人の嘆きが響く。アース神族の長老で最高神のオーディンであった。
彼が住まう宮殿ヴァーラスキャルブには、地下洞窟へと続く秘密の通路が隠されている。そこに流れるイヴィング川、その川に沿って伸びる世界樹の根を伝っていけば、神々の敵対者である霜の巨人が住まう世界ヨトゥンヘイムへとたどりつける。
しかし、今のオーディンの目的地はヨトゥンヘイムではない。その途中の根元の位置にあるミーミルの泉だ。
目指していた場所で立ち止まったオーディンは虹色にぬめる壁に手を添える。掌から魔力を流し込んだ瞬間、門のルーン文字スリサズが浮かび上がって壁は音もなく消え去った。
そこには静かな泉があった。静寂と神秘に包まれた空間へ歩みを進めたオーディンは、揺らぎもない水面に向かって厳かに語りかけた。
「我が叔父ミーミルよ、また助言をもらいたい」
呼びかけに応じて、水面から出てきたのは生首だった。生首は泉の前に立っている主神に目を向ける。
「……オーディン。お前がここを尋ねること、我には分かっていたぞ」
「流石は予言神の先見よ。早速だが単刀直入に聞こう。神々の黄昏についてだ」
「……運命は変わらぬ」
揺るぎない宣告は、オーディンの胸に容赦なく刺さった。
「アース神族の長オーディンよ、そなたはやがて訪れる神々の黄昏において死ぬ。避けられぬ終末、逃れられぬ運命なのだ」
オーディンは声もなく呻く。魔狼フェンリル、世界蛇ヨルムンガンド、隠死神ヘル、いずれも害を為すと予言された者たちは、脅威となる前にアースガルドより追放した。巨人の侵略に備えるための準備も充実を怠っていない。それでも、予言神ミーミルは呪いの運命は断ち切れないと言うのだ。
「……受け入れぬ。受け入れぬわけにはいかぬ。余と余の一族の栄光は決して揺るがぬ、終わらぬ、未来永劫限りなきものだ」
オーディンは神槍グングニルに力を籠める。偉大なる主神の力は槍を通して大地へ、それが世界樹に伝わって震わせる。
「ラグナロクなど決して招かぬ」
一章
「料理長! ハンバーグの下ごしらえできました!」
「ご苦労さん、ならこっちの鍋を見てくれ! 煮込みが出来るまでに盛り付けもやってくれよ」
「はい」
僕は威勢よく返事をする。
主神オーディンをはじめとするアース神族が住まう世界アースガルド、この中心には金一色で輝く広大な宮殿があった。宮殿の名をグラズヘイムといって、この中には壮麗な館ヴァルハラがある。
ここにはエインヘリャルのための巨大な食堂があった。エインヘリャルとは人間の世界で戦死した者たちだ。戦死した彼らの魂は戦乙女ヴァルキューレにヴァルハラへと連れてこられて、来るべき神々の黄昏の際に巨人族との戦いに備えている。彼らは毎日互いに戦い殺し合い戦士としての腕を磨いていた。夕方になれば戦死した者は生き返り傷ついた者も回復して、夜には盛大な宴をやっていた。
大勢の戦士たちが集まって大騒ぎするのだから、夜となれば一転してここが戦場となる。それを取り仕切っているのがアンドフリームニル料理長で、僕ビューレイストはその下で働くコック見習いの一人だ。
「料理長、鍋のスープがいい具合になってきました!」
食堂の喧騒に負けない大声で僕は呼ぶ。
「ようし、セーフリームニルをどんどん入れてやってくれ」
「はい!」
料理長に指示で僕は仕込みが済んでいるセーフリームニルの肉を鍋エルドフリームニルにどしどし入れていく。セーフリームニルとはヴァルハラにいる不思議なイノシシだ。エインヘリャルがどれだけ食い尽くしても、彼らが戦死しても生き返るようにイノシシも翌日に蘇る。だから大食いの戦士たちがどれだけ食べまくっても食堂から食糧が尽きる心配がなかった。
料理長以下の料理人たちによって作られた料理は次々と食堂に運ばれてあっという間に消費される。入れ替わりの追加注文も絶える気配がない。飲み食いの狂乱に絶賛夢中な戦士たちの間を駆け回っているのが戦乙女ヴァルキューレたちだ。
彼女たちは戦死した勇敢な人間をアースガルドに連れてくるのが仕事だが、もう一つエリンヘリャルになった彼らの給仕も仕事だった。
凄まじい激闘の宴も少しずつ下火になっていき、飲み食いに満足していたエリンヘリャルは宿舎に引き上げていく。
「終わった……」
「お疲れさま、今日も頑張ったな、ビューレイスト」
激闘を無事に乗り切って息を吐いた僕に料理長がねぎらいの言葉をかけてくれる。戦士でもないのにエインヘリャルになってしまった僕は雑用扱いでこき使われる日々だけど一向に構わない。僕には性にあっていたし、ヴァルキューレの中でも美人ぞろいで評判のヴァルキューレ九姉妹と接点が持てるのだから。
仕事を終えた九姉妹がやってきた。
「皆さま、お疲れさまです!」
「ビューレイストさん、お疲れさまです。お仕事の方は?」
「はい、粗方終わりました。……あの、ケーキ作ってみたんですが、どうですか?」
大勢の男たちの胃袋を次々に満足させて行く早くて、美味くい料理は料理長には及ばないけれども、こういうスイーツは僕なりに自信があった。
「まあ、いいんですか!? いつもありがとうございます!」
「お礼を言うのは僕の方です。ブリュンヒルデ様たちの感想は僕にとってとても勉強になってるんです」
そう言って僕はメモを取り出す。
「ビューレイストさんの仕事熱心な姿勢には頭が下がる思いです。毎回メモまでとって研究してくれているなんて立派ですね」
「一日でも早く立派な料理人になりたいですからね」
はははは……参考にするのは嘘ではないけど、別の目的もあってブリュンヒルデ様の観察の日記というのもあるんだけどね」
ご本人にはとても明かせないけれども。
「今日のもまた美味しいですよ。野イチゴを活かしたところがまたいいですね」
ケーキを口に運ぶブリュンヒルデ様の微笑みに僕の顔も思わず緩む。甘いものを食べている女性の表情は魅力的だ。僕に絵の才能があったならブリュンヒルデ様の表情を記録できるのに。唇についた生クリームをちろっと舐める姿がまた……。
「ビューレイスト、こそこそ書いているのはお姉さまからの感想だけですか? 何か余計なこと書いてやしたりしません、私たちの勤務についてとか。ちょっと確認させてくださいな」
横合いから言ってきてメモに手を伸ばしてきたのは二女のゲルヒルデであった。
「や、やめてください。ゲルヒルデ様、だめです。これは秘密の資料なんですから」
「秘密? あからさまに怪しいじゃないの。ゲルヒルデ姉さん、そのメモ帳、是非私にも見せてくれませんか?」
「ジークルーネ様まで!」
ヴァルキューレ九姉妹の次女と七女からの攻めにメモ帳を守る僕は陥落間近だ。
「駄目だよ、お姉ちゃんたち。ビューレイストくん、本気で嫌がってるじゃないの。可哀想なことしちゃだめだよ!」
二人を制止したのは緋色の甲冑姿と幼い顔立ちのギャップが不思議な魅力になっている末の妹のロスヴァイセだった。
「そうですよ、二人とも調子に乗りすぎですよ」
「す、すみません、姉さま。ほんのちょっとの遊び心だったのです。ねえ……」
「そうそう。情だったんだったっていうか、まじだったわけじゃなくて、怒ってる?」
ジークルーネから上目遣いで見られては僕も悪い気分になれない。
「怒ってませんよ。全然そんな。お二人に対して怒るなんて」
「よか……あ、そう、別に私はあんたがどう思おうが気にしないけどね。ほんとうよ、本当だから」
ずかずかと去っていくジークルーネの後姿を僕は笑いを堪えながら見送る。相変わらず姉妹の中で一番忙しい人だ。
「お二人とも、ありがとうございました。それでお礼ではないんですけどロスヴァイセ様もどうぞ」
礼を言って僕はお手製プリンを差し出す。
「うわー私にもあるの? 嬉しいね、ありがとうね。困った時があったら言ってよ、いつでも私にも力になるよ……美味しいっね! ありがとご馳走さま!」
ぺろりと平らげたロスヴァイセは飛び出すように走り去っていく。
「……なんだか」
「小犬ですか? 我が妹になんですが。でも、可愛いですよね」
僕が居そうになった言葉をブリュンヒルデが微笑みながら言う。
そうですねえ。僕はへへえとだらしない笑みになりかける。彼女はああ言うけど彼女が困った時こそ僕が力になってあげたい
「ビューレイスト、さぼっちゃだめ。片づけも明日の準備もまだある」
ちょっとカタコトで注意してきたのは濃厚な甘い香りの液体がたっぷりと入った壺を運ぶヘイズルーンのヘイゼリアだった。ヘイズルーンはヴァルハラで働く二本で歩く山羊だった。エインヘリャルのために蜜酒を提供しているのだけれど乳山羊の役目以外にも僕と同じ雑用もやっている。
「ごめんごめん。ペイティ、すぐやるから」
「あなたもお疲れさまね。小さな体で立派だわ」
抱き上げたブリュンヒルデが褒めているようにペイティはヘイズルーンでも小柄だ。だけれども、非力ではないっていうより、僕より断然力がある。
「うん、ガンバった」
「そうね、料理長もきっとそう思ってるわ」
「ほんと? ほんと?」
「ええ、なんだったら本人に聞いてみなさいな」
ブリュンヒルデが言うと、ペイティの目がキラーンと光った。
あ、と僕が思った時にはペイティはブリュンヒルデの腕からすり抜けて料理長へ突進ししていく。
山羊なのに肉食獣が草食獣を食らいつくみたいにペイティは料理長へ飛びついた。
「料理長、ガンバったよ。褒めて」
「えらいなあ。さすが、だね。ペイティちゃん、え、えらいね」
「ほっと褒めて、褒めてナデナデして」
ペイティは積極的にアプローチしてくる。僕が心ひそかにブリュンヒルデ様に夢中なようにペイティは料理長にぞっこんなのだった。職場の新人が男前のボスに憧れ恋になる構図だ。彼女は僕なんかよりずっと開けっ広げなのだけど。
「もっともっとも」
言っている間にペイティの姿が人になる。口調からくるイメージに幼いのに体型も姿も扇情的になって見た目危ない光景だ。
「ははは、ほらほら、は、はは、、ははあは、ほ、ほら」
にこやかにあやしていた料理長だったけどだんだん顔が引き攣ってきた。嫌ってはいないが料理長はペイティのアプローチをもてあましてる。
「ビュー、ビューくん、ビューレイストくん、ちょ、ちょっと」
料理長が小声で呼びかけてきた。
他人の恋路に邪魔して馬でなくて山羊に蹴飛ばされるのが嫌だったが、上司の命令は虫もできない。
「なんですか?」
「ああ、ごめんね、ペイティ、ビューレイストくんと仕事のことで話があるんだ。うん、ごめんね」
空気を読んだ僕もこうこくと頷いた。ペイティは僕の顔を見ると名残りおしそうだが料理長から離れてくれた。
「僕をあの子から逃げる出汁に使わないでくださいよ」
「いいじゃないか。それに用事があったのは本当なんだ」
「用事ってなんですか?」
「え、ああっと、ごほん、突然だけどこれを君にプレゼントしよう」
「ほんと突然で、今思いついたみたいですねー……」
料理長が持ってきたのは一抱えもする箱だった。
「日頃の一生懸命働いているのをこれでも評価しているんだよ。開けてみてよ」
「はい、……こ、これは……なんですか?」
箱の中にはまた箱が。外は木箱でこっちは金属製だが見た目より軽い。箱の中にまた箱があって材質が効果になっていくのかな。最後は金やダイヤモンド製の箱が入っているとか……おや箱の蓋には別の薄金が埋められていて文字が彫られている。
「ルーン文字だ」
「そうだよ、これは氷のルーンのイクサだよ。しかもオーディン様の直筆」
「どんな効果があるんですか?」
「保冷だよ。携帯できる冷蔵庫さ。魔力を調整すれば冷凍だってできる。これなら手に入れた食材は鮮度を活かしたまま保存できるんだよ」
「便利ですね。ありがとうございます、料理長!」
食材探しの時には必須のアイテムになってくれそうだ。
「サイズ的に相当大きなものでも入りますよね」
「君が死んでしまったのなら遺体を保存しておくのにも使えるよ。誰かに入れてもらわなければならないけどね」
「うははは……」
これでもエインヘリャルの一員だから、そんな目に遭うのはいつでもあっておかしくはないけれどできればそうはなりたくないなぁ。
「料理長、ありがたくもらいますけどわざわざのプレゼントの本当の目的はなんですか?」
「さっき言ったことに嘘はないよ? ただ」
料理長は話が終わるのを待ってるペイティをこっそり見る。
「これを切り抜けるために彼女を足止めしろってこと?」
受け取ったのだから断らないわけにいかないけど……山羊であっても恋する乙女の猛アタックの壁にならないといけないなんてしたくないなぁ。
翌朝。
僕は無事に朝日の光を浴びることができていた。昨夜はあれから料理長が食堂から抜け出す時間を稼ぐためにペイティの行く手を阻もうとしたのだけど、彼女の突進を正面から受けて意識を失った。どうやら死にはしなかったみたいだ。料理長が無事逃げおおせたかは気になるけど会っても触れない方がいいかもしれない。
外へ出てアースガルドの黄金の風と日差しを受けて伸びをしていたら、金色の塊が突風のように空をかけてやってきた。
「いつ見てもだらけてるな! ええ、ビューレイスト」
流暢で挑戦的に話しかけてきたのは豊穣の神フレイヤの乗り物グリンプルスティだ。全身金色なのはさすが神様の乗り物の風格はあるが猪である。猪ではあるが、水中や空中の移動で彼に叶う者はない。それだからなのか自信過剰で挑戦的だ。僕には特にそんな感じ。
「君と違って僕は低血圧なんだ」
悪い奴ではないが金ぴかの突っかかってくるイノシシに会いたい気分ではない。
「それで朝からなんなの? フレイ様にセクハラ働いて追い出されて失業したから、再就職先にセーフリームニルと同じ食材を志願してきたの?」
「ば、ばかもの。俺様ほど速く移動できる獣が首になるわけなかろうっ!」
「セクハラしても?」
「セクハラなどしておらん!」
「そうかなー……見てると怪しいよ? フレイ様乗せているの見た時も凄い鼻息荒かったし」
乗り物といってもアースガルド一と評判の女神はグリンプルスティに跨るのではなくて車を引かせているのだが、それでも興奮できる奴はいるらしい。僕は全然想像できないけど。
「あれは安全確実高速にフレイ様をお連れするために懸命になってるだけで断じて喜んでなど……いや、フレイ様にお仕えしているのは誉で喜びなのだがそういう意味では断じてない!」
「でも首になったから朝っぱらからここにきたんでしょ?」
「首になどなってない!」
鼻息荒く僕の軽い冗談をグリンプルステイは否定してくる。直後にさっと鼻を手で押さえるあたり意外に気にしているようだ。
「冗談だよ。んで、何しにきたの?」
「用件はこれだ!」
グリンプルスティは手紙を差し出してきた。
「……ごめん、君のこと嫌いじゃないが好きでもないんだ。こういうのは受け取れない。僕には心に決めた人がいるんだ」
「そ、そんなものではない!」
「新メニューの要望? そういうのは料理長に渡してくれないと」
「そうではない! 俺は伝達の役目で来たのだ。だからとにかく受け取り読むのだ!」
押し付けられた手紙の中身は招待状だった。
「なになに、パーティーの招待……トール様!?」
主神オーディンの息子で、雷の神にして最強の戦神とも言われている。
「驚くのも無理はない。だが、ドッキリでもなんでもない。トール様から注目されるなど戦士としての最高の誉れだぞ」
戦士としてと料理人見習の立場で言われると複雑な気分ではあるけれども、評価されるのは僕も誇らしくなる。
「招待は受けるなというか断ることなど許されん。あと同伴させたいものであれば一名であれば許可するとのことだ」
「え、いいの? 良かった」
僕はほっと胸を撫で下ろす。そんな華やかな場にのこのこ一人で行くなど心細いところがあった。
「となると、どなたにお願いしようかな……」
パーティーへ一緒となったら、お願いしたのは女性なのは当然だ。
「やっぱり、ブリュンヒルデ様かな」
「貴様はヴァルキューレ九姉妹の長女ときたか。俺なら断然、ロス……」
げふんげふんとグリンプルスティはわざとらしく咳払いをする。
「ロスヴァイセ様も確かに素敵だよね。君が夢中になるのも分かるよ」
「ああ、そうだろうそうだろうって、なんで貴様はそれをっ!?」
本人は隠しているつもりだったらしいけど単純だから普段の話しぶりだけで分かるよ。
「ねえねえ、ロスヴァイセ様のどういうところが好きなの?」
「ななな、なんで貴様になど教えてやらねばならんのだ!」
「言わなくても分かるけどさ。ロスヴァイセ様、可愛くて優しいよね」
本心から僕が言うとグリンプルスティが勢い込んで食いついてきた。
「それだけではないぞ。貴様はあの方の良さのほんの一部しか分かっていない。純粋無垢で、元気溌剌、それでいて献身的で家庭的なところもあるのだ」
「ははーん、そうだよねー」
僕がにやりとして納得すると自信家のイノシシは真っ赤になって煮立った鍋から噴き出す蒸気のように物凄い鼻息を吐き出した。
「と、とにかく伝えたからな。俺は役目をしかたと果たしたぞ」
グリンプルスティは叫ぶと風のように去っていった。
僕ものんびりしていられなかった。ブリュンヒルデが空いているうちに同伴のお願いをしておこないと。
ブリュンヒルデのもとへ行くたびに僕が向かったのは光の橋と呼ばれる場所だった。アースガルドとミッドガルドを繋ぐ虹の橋ビフレストの粒子が集まってくるところで、その力を使えばアースガルドのどこへでもあっという間に移動できる。
ビフレストと同じく虹色の輝きをしている石の台座がその光の橋だった。それに僕が乗ろうとしていたら別の方向からもやってくる人影が会って、向こうから親しげに声をかけてきた。
「よう、兄弟」
「ロキ様!?」
思わぬ遭遇に僕はびっくりする。巨人族出身ではあるが、主神オーディンとは義兄弟、不思議な神だった。
「なんだよ、相変わらず連れないなあ。俺とお前の仲なんだからそういう水臭い話し方はやめようぜ」
「は、はい、そうでしたね」
どうしてか自分ではよく分からないが、僕はロキにやたらと気に入られていた。戦士でもないのにエリンヘリャルとしてアースガルドに来てしまって以来、目にかけてくれている。神族の間で僕のことが知られているのもそれが理由の一つだ。それはとんでもなくラッキーなはずなんだけど、ロキ自身の風評もあって僕はつい警戒してしまう。見た目美しく、格式ばってなくて砕けた気のいい態度の神様であったが、変身上手で口が達者、悪知恵も働くことで有名だった。
「ロキさ……ロキはどこへ?」
「ちょっとな、まあ野暮用だ。お前もかい?」
「ブリュンヒルデ様に会いにね。実はトール様からお招きを受けてて同伴をお願いしようと思って」
「ほう。早速か」
「早速ってやっぱりロキが何かしたの?」
神族絡みで僕に接点ができるとなるとロキが原因と睨んではいたけどやっぱりそうだったのか。
「大したことはしてねえよ。ただちょいと面白い奴がいるって話をしただけさ」
ロキも招待に驚いているようなのでこれは素直に信じてもいいようだ。
「ロキもパーティーには来るの?」
「声はかけられるんだが遠慮しているんだよなあ。トールが嫌いなわけじゃないんだ。むしろ仲はいいんだが、ただあいつの屋敷に行くのはちょっとなあ」
「何か嫌なものでもあるの?」
「嫌なものか……そう言えなくもないが」
歯切れ悪く言うロキは苦笑いしそうな表情で遠い眼差しをする。
「昔さ、ちょっとした遊び心であいつの屋敷に忍び込んだことがあったんだが、悪戯ついでにあいつの妻のシヴの髪をばっさりと刈り取ってしまったんだよ」
「悪戯ついでに大したことしてるよね!?」
「やり過ぎたとは思ってるさ。だけど、そのおかげで、オーディンの神槍グングニルや、トールのミョルニルなんかが手に入るきっかけになったんだが、悪い話じゃなかったと思うんだがね」
「なんで、女神さまの髪を切ってそうなったの?」
「シヴのための髪を作らせるついでに作らせてやったんだよ。フレイの魔法の船スキーズラズニル、猪のグリンプルスティもそうだったな。ともかくそういうことだから、本人は知らないようなんだが、そのせいでシヴが苦手なんだよ。だから俺に遠慮なんかしないで楽しんでくれ」
「わかった」
ただの悪戯心がきっかけの桁違いの驚きと恐ろしい事実を教えてからロキは快活に言ってくる。
「そうだった。ブリュンヒルデに用があるなら、あいつ今さっき、グラーネに乗ってビフレストに向かっていったぞ」
「え、そうなの? ありがとう、危うく行き違いになるところだったよ」
「追いつきたいなら急いだ方がいい」
「あ、助かるよ。ありがとう」
「じゃあな。楽しんで来いよ」
陽気なロキの言葉に見送られて僕は台座の上になる。
薄い光に包まれた円形の中で行きたい場所を念じた次の瞬間にはビフレストが間近にある場所に移っていた。
アースガルドとミッドガルドを繋ぐ七色の虹の橋、眩い色彩の上に一対の人馬の姿があった。
ロキの言う通り、エメラルドグリーンの甲冑と白い羽根飾りが麗しい戦乙女ブリュンヒルデと灰色の毛並みの愛馬グラーネだ。
「ブリュンヒルデ様!」
「ビューレイストさん、どうしたのです?」
「あの、トール様からですね」
用件を伝えかけて僕は口をつぐんだ。にこやかに話しかけてくれながらもブリュンヒルデは隙のない静かな気迫を漂わせた姿で、完全に戦乙女の職務中だった。そんな状態の彼女にノーテンキにパーティーの誘いをするのは気後れする。
「どうした、小僧、主様に急ぎの用事があって来たんじゃないのか?」
すかさずグラーネが話しかけてくる。
「急いではいたんだけど……」
トール様からパーティーの招待を受けて、もし良かったらだったんだけどブリュンヒルデ様にご一緒してもらえないかなってお願いをしようとしたっていうか、お話ぐらいはしてみようかなって気になって。
心の中で言葉はすらすらと浮かんでくるんだけど。変な空気になりかけたところでやたらと元気な声がしてきた。
「ただ~いまっ! と……あれれー? どうかしたの? ブリュンヒルデお姉ちゃんだけでなくビューレイスト君もいる」
太陽がきらめいたかと思うような笑顔でミッドガルドの方からやってきたのはヴァルキューレ姉妹の末の妹のロスヴァイセだった。
「何しているの?」
人懐っこい表情で話を向けられて僕の口は自然と軽くなっていた。
「だったら、私が一緒に行ってあげるよ」
「えっ」
僕とブリュンヒルデの声が重なった。
「だって、お姉ちゃんはまだ仕事があるでしょ?」
「でも、仕事が終わったばかりでお疲れなんじゃないですか?」
「全然平気、まだまだ元気いっぱい、それにお昼からのパーティーだよね。ならこれからちょっと休めるし。それともブリュンヒルデ姉ちゃんの代役が私じゃ、だめかな?」
「とととっととんでもございませんことですっ! 光栄の至れり尽くせりです」
「す、すごいテンションだね。でも、よかったぁ。それじゃあお昼に光の橋で待ち合わせね。それじゃあ、お姉ちゃんとグラーネもお仕事頑張ってね」
びしっと可愛い敬礼をしたロスヴァイセは、女神の館「ヴィーンゴールブ」に向かって疲れも感じさせない勢いで飛び去っていく。
「ビューレイストさん、せっかく誘ってくれたのにすみません。ではロスヴァイセのことお願いしますね」
「はい、分かりました」
「あと……」
「はい?」
「次回があるなら、必ず、必ず予定を合わせますから」
「はい、その時は必ずお声をかけさせてください」
「お願いしますね、約束ですよ」
やたらと念を押してくるブリュンヒルデに僕はしっかりと返事をする。
ともかく一人で行く事態は避けられた。ほっとした僕だけれども重大なことに気付いた。光の橋はどこへでも行ける便利なものだけど戻りに使うことはできないのだ。
ということは自分の足で戻らなければならない。
ここからの距離を考えるとのんびりしていられなかった。
急がないと大変だ。
お昼時にロスヴァイセはきっちりと待ち合わせの光の橋のところへやってきた。
「お待たせ、ビューレイストくんって、どうしたの? 何だか疲れ切っているね」
「はぁはぁ、いえ、ちょっと食前の軽い運動みたいな……」
「ああ、私もお腹空かせておけば良かったかなぁ」
ロスヴァイセはころころと笑って、僕も笑顔になるが少し引き攣り気味だ。本当のところはあれから休まずにビフレストから走ってきて直前に到着したのだ。
「じゃあ、早速行きましょうか」
「はい。トール様のお屋敷って、ビルスキルニルでしたよね?」
「うん、実はわたし、一度も行ったことないんだぁ。だから、楽しみだよ」
「僕も何です。さあ行きましょう」
光の橋を使って一瞬で移った先は雄大な山々が見える場所だった。
「ってじゃない? え、え、ここがビルスキルニル……?」
巨大さに僕はびっくりする。一見山にしか思えなかったそれが、どうやらトールの住まいである大屋敷ビルスキルニルらしい。
アースガルドの首都とも言える黄金宮グラズヘイムにはさすがに及ばないとはいえグラズヘイムの中にあるどの宮殿よりもはるかに大きい。主神であるオーディンの宮殿ヴァーラスキャルブよりも大きい。
「あら、見慣れない方ね」
声がした方に振り向いた瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
屋敷の中から現れて声をかけてきたのは、見目麗しいご婦人だった。流れる金纏の髪は目もくらむ美しさ。神々しさは、もしかして、これがドヴェルグが作ったと言われるシヴの髪なのか。ということは、到着した僕らに真っ先に声をかけてきたのは、こともあろうにトールの奥方……?」
「もしかして、シヴ様でしょうか?」
「ええ、そうよ。あなたは?」
「ビューレイストと言います。本日トール様にパーティーに招いてもらい……」
「ああ、あなた。あなたがあの。私も噂は聞いておりますわ。初めまして、私がトール妻シヴです」
シヴは館の奥方らしく優雅に挨拶をする。
自然と僕の目は彼女の髪に目が行ってしまっていたが、頭を上げた彼女もそれに気付いたようだった。
「髪、気になりますか?」
「え、あ、あの綺麗な髪ですね」
「はわ、ビューレイストくん、その話題はダメッ……!」
緊張から咄嗟に口にした僕の言葉にロスヴァイセ様が慌てて止めてくる。
し、しまった。どうしてわざわざ虎の尾を踏んでしまったんだ。僕は頭を抱えそうになるがシヴ本人は気にしたふうではなく喜んでいるようだった。0
「あら、ありがとう、この髪はね、私の自慢なの。元々美しかったのだけれども、ある日を境にお手入れもいらなくなってのよ。ただどういうわけが全然伸びなくもなったしね」
「そ、それはそうでしょうね……じゃなくて、それは素晴らしいですね」
口振りに僕は不思議な感じがしたが疑問はすぐに解けた。
「私の髪が刈り上げられるという悪夢にうなされたことがあってね。それからなのよ。目覚めてみれば髪は以前よりも美しさを増して、皆様からはドヴェルグの傑作と並べられるほどの評価をいただいているのよ」
「あー、それは素晴らしい……」
現実逃避のやり方が。
僕は同じ思いになっていたらしいロスヴァイセと顔を合わせて胸を撫で下ろした。
「ところで、ビューレイスト、招待状をお持ちになって?」
「あ、はい、こちらに」
僕はポケットから招待状を取り出して慌てて跪く。
「ふふふ、そんなに畏まらなくていいのよ。今日の主役は貴方なんですよ」
「え、まさか。そんなとても、恐れ多いですよ。お招きいただいただけでも光栄だというのに、主役だなんてとてもとても……」
「畏まらんでいいつっているだろーがっ!」
「!?」
雷鳴のような怒号が大気を震わせ、僕だけでなくロスヴァイセもそれ以上に震え上がる。いや、待て。なに、なに今の? ねえ、何?
「は、ごめんあそばせ。私ったらいつもの調子でつい……。怖がらないでね、いつもは決してこんなんじゃないのよ?」
「今いつもの調子って」
「何か言ったかクソガキ」
「な、なにも言ってないですよ? あはははは」
さすが荒ぶる巨人も行く手を阻むなら片っ端から殺していくという戦神トールの奥様……なのかな。
さ、最近の女神さまきついや。
お淑やかそうな見かけに反して凶暴……もといお茶面な方らしいシヴ様に案内されて、僕たちは屋敷の中へ。中にはいくつもの扉があり、沢山の人間が行き交うところも含めて雰囲気は「ヴァルハラ」とそっくりだった。
「この邸で働いているのはミッドガルドの農民でも特に働き者だった人間なのよ。彼らはここで勤労に相応しい幸せの報いを受けているわ」
エインヘリャルよりも僕もそっちの方が相応しかったのかもしれないな。ただ戦の神の屋敷で働くのが農民とは少し似合わないというか。
「戦には兵糧攻めがあるわよね。どんなに優れた戦士でも空腹には勝てない。そういう意味では作物や家畜を育てる農民こそが、この世で最も強き者である、それが夫の考えのようね」
察したように説明してくれた女神の横顔は、どこか誇らしげだ。きっとそんなところも含めてシヴはトールを愛していらっしゃるんだろう。
妙な安心感を抱きながら廊下を進んだら大広間に辿り着いた。
中心にいたのは燃えるような赤い髪と目、筋骨たくましい大男、アースガルドの戦神、巨人殺しのトールがいた。お酒片手にすっかり出来上がっていた。
「ガッハッハッハッハ。おらおらどんどん持ってこい。おい、酒が足りねぇぞ!」
「ま! こんの馬鹿亭主っ! なんでたった数分も待てないのさ。そこらの犬以下じゃないの! ったくもう、さっきちょっと褒めてやったらこれよ」
「ま、まあ、シヴ様。ある意味これがあってのトール様ではないですか」
おぉ、激怒するシヴ様をなだめている神々の中でもひときわ麗しいお姿は、フレイヤの兄上であるフレイだった。元ヴァン親族の軍神だもん。声がかかって当然だよ縁。
「うーん、それにしてもフレイ様、なんというイケメン」
フレイ様は神族の中でアイドル視されているフレイヤ様の兄上だけあって、そのイケメンっぷりは凄まじい。長身でスタイルも良くて眉目秀麗、フレイヤと同じライトブラウンの髪のしなやかさは、一見して女性のそれだ。
光の神バルドル様とアース神族の女性人気を二分するスーパー美男子だけど、強く優しく美しい最強の三拍子が揃っているなんて。神族相手に思ってもしょうがないかもしれないけど世の中不公平のような。
「はっはっは。フレイ殿仰る通りですぞ、シヴ殿。このように何事にも豪胆でなければあの巨人どもとは渡り合えますまい。どれ小生も見習って一杯!」
と、場の混乱に乗じて悪乗りを始めたのは軍神テュールだ。盃を持つのは左手で、隻腕の神だ。右手は魔狼フェンリルをとらえる代償に失われていたが、この出来事でアース神族一の勇敢な神と尊敬されている。
ここでトールがようやく僕のことに気が付いた。トールはずかずかと大股でやってくると僕の背中をビシバシ叩いてきた。
「よう、ビューレイスト、よく来てくれたな」
「はい、お招きいただいてありがと」
「いいっていいって、そんな堅苦しいことは」
酒臭い息を吐きながらトールは賑やかに言ってくる。
「そういえばよ、聞いたぜ、ロキの奴によ。お前、エインヘリャルなのに、変身できるんだろ。しかも、ドラゴンに」
「はあ、一応」
エインヘリャルにあっても落ちこぼれといっても間違いなく、料理人見習いの僕がロキと親しいのもこの特技のおかげだった。パーティーに招かれた時から、そんな予感はしていたけども戦神様のお目当てもそれだったようだ。
「俺様たちの間でも噂になってるぜ。何でもよ、首が百本、翼が千枚もある超絶級の化け物ドラゴンらしいじゃねえか」
「いくらなんでも盛りすぎですよ。いったい誰からそんな与太話を」
「誰ってラタトスク」
あいつか。ユグドラシルに住む世界一素早くて世界一の情報通にしてトラブルメーカーのリスの姿を僕h亜思い出す。
「なあ、今ここで見せてくれよ、ドラゴン」
「え、ここで、ですか。だけど……」
「屋敷の主人の俺がいいって言ってるんだから、構いやしねえよ」
「……うーん、分かりました。でもドラゴンといっても普通のですから変な期待しないでくださいね」
アース神族でも上位の神であるトールにそこまで言われては僕も断れない。
では、と僕は手を組む。
「そは九の世界の根源
原初の巨人のうちにあった深淵
世界を象りし奇跡
知を欲する者の願い
変化をもたらす力
フサルク十三番目の秘技
エイワズを用いて我は欲する
我が姿を変えよ」
呪文を唱え終えると僕の身体は青白い光に包まれる。
光が消えた時には僕は巨大な竜の姿になっていた。
「おおぉ、こいつはすげえ、すげえな!」
見上げるトールが子供のようにはしゃいでいる。
っていうか、あんた、何を手にしているんですか。
「ちょ、ちょっと待って、ミョルニルなんか何に使うんですか!?」
「あっと、悪いしぃ、つい血が滾っちまってな。その、何だ俺様の自慢の逸物で、一発やらせてくれねえかっ?」
「いや、そんな黒光するものをちらつかせながら言われても」
「あぁん、これか、見せかけで超ビビってるな? だらしねえな、一般的なのに比べりゃ俺様のはそうデカくもねえはずだぜ」
「サイズの問題じゃありません! だってミョルニルですよ? その雷槌を一発でもぶち込まれたら、僕は一瞬でぺしゃんこかばらばらになっちゃいますよっ!」
「だったら、しょうがねえ、こっちも丸腰で行こうじゃねえか」
「アーッ、駄目駄目、レスリングでも駄目に決まってしょ!」
「ちっ、そうかいそうかい、なら俺様の不戦勝だな!」
一方的に勝利宣言をされてしまったけど、僕は悔しさは少しも感じない。戦死しても蘇るエインヘリャルといっても、僕の場合は余計に戦神を相手にして殺されたら生き返る気がしなかった。
よく分からないうちにやってきた死の危険はよく分からないうちに去っていってくれたらしい。
危機の回避に欲していた僕のところへ、今度はフレイとテュールがやってくる。
「すみません、私たちにもよく見せてくれますか? ほぅ、なるほど驚きました。ユグドラシルの根元にいるニーズヘッグもかくやですね。聞きしに勝る力強さを感じます」
「ふぅむ、肌に伝わるこの闘気、確かにこれは見事だ。片腕をなくした今の我輩では太刀打ちできぬかもしれませんな」
「い、いや、そんなことは……えへへ」
お二人は軍神、つまりは神々の中でも特に戦いにたけた神様たちだ。そんなお二人にこんなに褒めて頂けるなんて。
でも、それより先に照れるというか。正直に言うと気後れする。これは贅沢な考えかもしれないけど、なんだか居心地が悪くなってきそうだった。
「ビューレイスト君」
神々に気兼ねしているのか、ずっと隣にいてくれていたロスヴァイセがひっそりと声をかけてきた。
「あとは私が付き合いするから、ビューレイスト君はちょっと休んでいいよ。ずっと偉い方たちのお相手をするのは気疲れすると思うし。変身、それもドラゴンなんて変身したら結構魔力消費がきついんじゃない?」
「助かります」
事情を分かってくれての助け舟に僕は助けられた気分になる。さすが気遣いの戦乙女様だ。
好意に甘えて僕はこっそりと大広間の隅へ移動する。職業的なサガなのか、華やかな場ではこういう目立たない裏方の位置のほうが僕には落ち着く。
気楽な気分でぼけっとしてたら、声をかけられた。
「ビューレイスト、改めてこんにちは」
「な、フ、フレイ様! な、何ですか!?」
近づいてきた物好きはなんとフレイだった。
「うふふ、そんなに畏まらなくても良いですよ。実はですね、我が妹フレイヤは君お手製のスイーツを食べて以来、君にだいぶ惚れ込んでいるようでしたので、いつかこうして話してみたいと思っていたのです」
「惚れ込んでいるなんて滅相もない。気に入っていただいたのは本当に光栄ですけど」
僕が作るスイーツは神族の女性方にひっそりと人気ではあったのだけども、僕が思っているより話が広がっているようだった。
「ふふ、噂通り腰が低い方なのですね」
「気に障りましたでしょうか?」
「いえいえ、逆です。慢心ばかりの我が家のグリンブルスティにも少しは見習ってほしいものですよ。力や名のある者はみんな、おごり高ぶる。御覧なさい、あれを。いい気になって振る舞う者ほど見苦しいものはありません」
フレイの目線はさっとテーブル席の方を刺す。そこには得意げに何かを話すテュールと、それに笑顔で耳を傾けるロスヴァイセの姿があった。酔っぱらうのはいいけれど、テュールのロスヴァイセとの距離感や手つきはセクハラ親父で、確かに見苦しい。
憎まれ口を叩きつつも、フレイの目はとても優しい。うんうん、同じ軍神であるお二人の暑い信頼関係が窺える。
「ううん、どうなされましたかな、フレイ殿。何やら我輩にご用事があるようで、ヒック」
自分が話題になっているのを目聡く気付いたテュールがいかにも酔っ払いの風情で近づいてくる。
「まあ、お酒くさいですわね。お呼びなどしておりませんわ。お酒にも自分にも酔った殿方の自慢話はいい加減、飽きてしまっております」
「はっはっは! そう連れないことをおっしゃられるな。我輩の勇敢さは世界の終末まで語っても語りつくせぬ英雄譚ですぞぉ!」
「あ、僕も気になります。たとえば魔狼フェンリルを退治した時の話とか!」
「あ、駄目ですよ、ビューレイスト、彼の話に耳を貸しては」
フレイが大慌てで止めようとされたけど、もう遅かった。テュールの目がきらりと光った。
「フェンリル退治ですと? なんとなんと、ビューレイスト殿はそこからして分かってない。あれは退治などではなくて契約だったのです。誰も傷つかないための! ん、小生が傷ついているじゃないかって。いやいや、小生にとってはこんなもの掠り傷にも数えられませんぬな。フェンリルへの仕打ちを思えば小生の右腕など何本でもくれてやりましょう! って右腕は一本しかないだって。こりゃ一本取られましたな。ありゃ、左右の腕がなくなってしまうことに」
「あははは、それは大変ですね……」
しょうもない親父ギャグに早くもうざい気分になった。
僕は隣りで困り顔になっているフレイをこっそりと見る。
フレイ様、とめるならもっと全力でとめて下さいよ。この話が続くなら、世界の終焉ラグナロクが今すぐにでも来てほしいと願ってしまう。
「って、フェンリルへの仕打ちですか? それって、まるで神様たちの方が悪かったみたいな口振りですね?」
「あ、いや、その、言葉のアヤと言いますかな、戦の場に立つ武人として相手にするものにはたとえ魔狼であろうが敬意をという。あの邪悪な魔狼の血が流れればアースガルドの地が穢れてしあう。小生は神々の安寧と清浄なる世界のために、自らの腕を犠牲にして奴を油断させたのですが、腕を奪うほどの凶悪な相手だったのであるからして我輩なりに言ったまでのことですよ。わははは、では」
やけに芝居がかった口調でまくしたてると足早に会場の中心へとテュールは戻っていくが、僕はまずいことを言ってしまったのかもしれない。
「何がまずかったでしょうか?」
「気にするようなことではありません。彼なりに気にしているのでしょう」
「何をですか?」
「実はですねテュールはフェンリルの親代わりだった時期があるのです。フェンリルが捕らえられたのも、彼が囮になってくれたから油断したのですが、テュールからすればそれで騙したことに情もあって余計に気にしているのでしょう」
フェンリルの凶悪な噂は僕もよく聞くところではあるけれども、信頼する人に罠にはめられたというのは気の毒な気がする。
魔狼への同情をしていたら、それを邪魔するみたいな地響きかと思うような大音響の鼾が聞こえてきた。
「トール様はすっかり潰れてしまったようだ」
フレイの呟きに僕も見れば、トールが会場のど真ん中でトールが大の字になっていた。
「今日は随分と早いですね。、よほど楽しかったのでしょう。さて、名残惜しいですが、私もそろそろ。トール様のことをこのまま放っておいたらシヴ様がかわりに雷を落としてしまいますからね」
それは恐ろしい事態だ。
内心びくつきながら僕はお辞儀をする。
「フレイ様、本日は僕なんかの相手をしてくださり、ありがとうございました」
「お礼を言われることではありませんよ。また近いうちに顔を出します。今度はもっとゆっくりお話しできるといいですね。では」
ニコっと柔らかい笑みを残してフレイは立ち去っていく。後ろ姿も優雅で、さすがアース神族屈指の美男だ。
「なんと麗しい……はっ!」
いかん。危ない危ない。危ない。僕としたことがうっかり男神の笑顔に見とれてしまっていた。さすがはあのアイドル女神の兄上だけある。危うく違う道に入りそうになってしまった。
だけど、宴もたけなわというのに、僕はお腹を空かせるだけ空かせていながら実はちっとも食べてない。これでは何のために来たのかわからない。
僕はテュールからも解放されて一人になっているロスヴァイセのところへ行く。
「ロスヴァイセ様、ありがとうございました。トール様もご退場なさったことですし、ここから先は何も気兼ねなく料理を楽しみましょう!」
「えっと、一応私もお手伝いしにいくべきなのかなぁ」
「いやあ、多分平気じゃないですか? 仮にそうじゃなくても僕が許しますよ。なんだって僕はこのパーティーの主賓なんですからね!」
冗談めかして言うと、ロスヴァイセも笑ってくれた。
「あははっは、そうだね、うん、じゃあ、一緒に楽しもう」
僕たちは早速二人で楽しく料理を堪能したのだけれども、どれも大酒呑み達にはもったいないほど絶品だった。
「レシピをもらえたり、料理を作っているのを見学させてくれないかな……」
一口食べては頬が落ちそうな気分になって、それから調理の方法を考えていたら、ちょんちょんと肩を叩かれた。
ロスヴァイセが一口ほどの大きさに切り分けた料理を目の前に持ってきている。
「ビューレイスト君、はい、あーん」
「えっ」
「はい、あーん」
「じゃ……あーん」
いくら主賓とはいえこんなことやってくれるなんてビューレイストは幸せ者であります。
幸せを堪能していた僕の視界の端でさっと見慣れた姿が消えていった。シヴ様の金色の神に負けない輝きは、グリンプルスティだった。パーティーに出席していたのか。フレイヤ様がいたのだからおかしくはないけど、ブリュンヒルデを誘うと言っておきながら、連れてきたのがロスヴァイセで、しかもこんな仲睦まじいところを見られたのはちょっときまずいかも。
「ビューレイスト君、はい、もうこれも美味しいよ。あーん」
「あ、はい」
甘い誘いに断るなんて考えられず僕はまただらしなく口を開けた。
トール様主催のパーティーは滞りなく終了し、僕たちはお屋敷ビルスキルニルから外へと出る。ソールがお運びになる太陽は既に、西の空へ向かっている。
「今日は本当にありがとうございました。ロスヴァイセ様。御蔭でとっても楽しい時間を過ごすことが出来ました」
「こちらこそ! お料理美味しかったし。楽しかったです。ビューレイストが満足してくれて、私も嬉しい限りでありますっ!」
「は、はあ」
何だろう? ロスヴァイセの様子がちょっとおかしい。口調も変だしそわそわしている。
「ロスヴァイセ様、ひょっとして、何か僕に言いたいことがあるのでは?」
「ギクッ! ど、どうしてそれをっ!?」
自覚はあまりないようだけどロスヴァイセは隠し事ができない性格だった。
「言ってくださいロスヴァイセ様。あなたの頼みとならばなんだってお引き受けします!」
僕は愛嬌たっぷりにおどけながらも真剣さを見せる。ロスヴァイセはそれでも渋ってたけど、引き下がる気配のない僕に根負けしたのか最後には思いを明かしてくれた。
「実はそのぉ、……ビューレイスト君にお願いしたいことがあって、今回同伴を引き受けたのって、お願いを聞いてもらいたかったからっていうのもあったりしてね」
「なあんだ。そんなの交換条件じゃなくても引き受けてくれたのに。そうじゃいと引き受けてくれないと思われてたなんてそっちのほうがショックですよ」
「ああ、ごめん、そんなふうに思ってなかったけど個人的に頼みにくいことだったし。ビューレイスト君と一緒にパーティーに行きたかったのもちゃんとあるんだよ?」
「あ、それなら許します」
「ありがとう」
二人して笑顔で言い合う。
「そ、それじゃあ、私のお願い聞いてくれるの?」
「もちろんです」
「ありがとう、ビューレイスト君! でも今日はもう夜のお仕事の時間が近いから、お願いはまた明日聞いてもらえるかな」
「わかりました。では、ロスヴァイセ様のお願いはまた明日改めて」
「うん、約束だからね。じゃあ、帰ろうか。ヴァルハラに!」
夕暮れが近づくアースガルドの赤い空を、戦乙女に手をとってもらってともに飛翔する。
安定感は抜群で満腹状態でも心地良い。姉妹であっても飛び方一つに個性はあって、次女のゲルヒルデは普段から高速曲芸飛行というようなスリル満点のものだ。穏やかな飛び方はロスヴァイセの個性にあっているように感じる。そっと盗み見て鎧の上から窺える胸は、速度ほど大きさは劣ってらず掌に収まりそうで形の良さは決して負けていない。
「あの、ビューレイスト君。今ないかとても失礼なこと考えてない?」
「滅相もありません」
そう失礼も滅相もあるわけがない。だって、僕はどっちも大好きなのだ。
ずっと設定ばかり書いていた構想をはじめてお話にできました。