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ノラにささげる小説

作者: ステイル

パチリと目を開くといつもの天井があった。いつものように背伸びをし、いつものようにカーテンを開け、朝の日差しに目を細め、学校指定の制服に着替える。いつもの…いつも通りの朝だ。

「ねぇ、今日の朝飯、なに?」

「えっ…あっ、目玉焼きだけど…」

「ふぅん…」

居間に来た私はお母さんに尋ねた。私は眠たくて炬燵に潜り込み二度寝の体勢をとる。

いつも通り。そう…いつも通り。そんなことを思っていると母が話しかけてきた。

「ねぇ…昨日のことだけど…」

「何かあったっけ?」

「い…いや、覚えてなければいいの」

「…………あっそう」

ふぁ~と欠伸をして私は再び夢の中へ入ろうとしたが視界の端に入った時計の針が6と12を指していたので仕方なく体を起こす。もちろん学校があるから。それ以外にこんなに朝早く起きることはないだろう。

「はい、目玉焼き」

「ん…」

お母さんの目玉焼きはいつも硬い。私は半熟が好きなんだけどさ。でも文句は言わない。作ってくれるだけ、ありがたいから。

「いってきます」

「うん、気を付けてね」

「珍しいね」

「いやたまには言おうと…」

「ふぅん、じゃ、行ってくる」

私は少し違和感を覚えたけど自転車に跨がり駅に向かって走り出す。時間にして15分くらい。

途中、いつもの犬小屋に寄る。ここにいつもいるのは私の一番の親友で一番付き合いの長い仔だ。

名前は「ノラ」

もともと野良犬だったからとここの家の人は言っていたっけ。

でもやっぱりいない。まぁ朝はいつもいないんだけどね。たまに鉢合わせするぐらい。朝はね。

頭の片隅に何かが引っ掛かった。でも特にこれと言ってなにも浮かばないからまた自転車に跨がり駅に向かう。

ふと携帯を開いて日付を確認する。そうだ、だからこんなに急いでるんだっけ…。今日は私が当番の日だ。

頭の中でこれからやる作業の手順を繰り返す。

まず、鍵を開けて餌をあげて水入れて終わったら散歩して…。

ふと、気が付くと目の前に駅があった。

いけないいけない、何か考え事してるといつも気付かない内に着いてるんだから。

自転車の鍵を掛け、ポッケの中に入っている定期券を探しながら階段を駆け上がる。改札に定期を突っ込みちょうど着いた車両に飛び乗った。

いつも通りぴったり、さすが私!

な~んて言ってみたいけどそれよりも今はとにかく眠い。空いてる席に腰を下ろしはめ殺しの窓と座席の間にある隙間に後頭部を預け私はやっと二度寝に入る。

たたん、たたん…とリズミカルに揺れる車体が私をゆっくりと夢の中に落としていく…はずだった。

「間も無く~―――駅、―――駅~」

なんて声が聞こえるものだから仕方なく瞼を開けて足元に転がしておいたバックを持ち上げる。半ば閉まりかけていたドアを駆け込み乗車ならぬ駆け下り降車をして駆け抜ける。

少し息を整えてから目の前にある階段をゆっくりと上る。そしてまた改札に定期を突っ込み自分の自転車を止めたであろう場所を探す。

確か昨日は…えっと…どこに止めたっけ?

いくら思い出そうとしてもまったく思い出せない。

しょうがないから端から探すこと五分。やっと見つけるとサドルが無かった。ふつふつと心の奥底でマグマが音を立てていたが苛立ちをぶつける相手がいないので爆発することはない。肩が震えたけれど大きなため息を吐き出して少し落ち着くととぼとぼと学校に向かって歩き出す。

まぁ、たまに歩くのも悪くないかな…なんて前向きに考えながら通学路を歩く。

途中、コンビニでおにぎりと飲み物を買っていく。今日のお昼にするつもり。馴染みの店員さんに今日も早いねぇと声をかけられたのでおはようございますと返しておいた。

コンビニを出て右に進み、田んぼ道を数分歩くと私の学校が見えてくる。

自転車だったらもっと早かったのに…、とも思ったが前から白猫が歩いてきたので意識をそっちに向ける。綺麗な白猫だなぁ…なんて思いながら。

私と白猫の目が合うと白猫は長い尻尾をくにゃりくにゃりと曲げながら私に近づいてくる。そして私の目の前で触ってもいいよとでも言っているかのように体を横たえた。

「あら、あんた人懐こいのね」

って言ったら白猫が「みにゃ~」って返してくれるものだから右手の掌で優しく優しくお腹をさすってあげる。白い毛はシルクのように柔らかく瞳は黄金のように妖しく光る。

その瞳は私の心の中をすべて見ているようでなんかちょっと怖かった。

空いた左手は喉元でわしゃわしゃと白い毛を弄る。白猫はそれが好きなのかぐるるる…と鈍く低い音を立てて目を細める。

しばらくそこにいたけど今日は私の当番の日なのを思い出して仕方なく白猫から離れる。

白猫はもう終わり?とでも言いたげにその黄金色の瞳で私の瞳を覗いてくる。

「しゃけ…食べる?」

このまま離れるのもなんだか忍びないのでお昼用に買っておいたおにぎりの具を取り出して差し出す。

塩がかかってるけど今これしかないから我慢してねと心でいいながら。

最後に頭を撫でてゆっくり立ち上がる。

「じゃあね」

私はそろそろと学校に向かって歩きだす。餌をあげにいかないと。

少し小走りで道路を走りながら白猫の毛皮の感触を思い出しつつ馬術場に向かう。馬術場につくと待ってましたと入口のジョイという雑種の茶色い犬が飛び上がる。

私はジョイの頭を撫でながらバケツの中に作っておいた餌をバケツごと右手と左手に引っ掛け、馬のいる小屋に向かう。

「おはよう」

私はそう目の前にいる馬たちに話しかける。いつもならこの瞬間に阿鼻叫喚ともとれるほどさまざまな声が響くのだけど今日は違った。

私が餌箱に餌を入れてる間、特に何も言わなかった。ひたすら無言で私の顔を見つめてくる。いつもと違う雰囲気に私は戸惑いながらも仕事をこなす。

そして、私の愛馬ハリーというのだけれど…の餌を入れようとハリーに近づいたところ私の頬に擦り寄ってきた。

私は驚いて餌が入っているバケツを落とす。落ちた餌を拾い、餌箱に入れながら考える。珍しい…と言うよりあり得ない。と言うのもハリーはいわゆる「噛み馬」と呼ばれていて誰彼構わず噛みつくやつだった。もちろん私も例外じゃない。首筋を噛まれたこともある。…耳を引きちぎられた先輩もいるって話だ。

そんなハリーが私に擦り寄ったのだ。

しかし、油断は出来ない。いつ噛まれるか分からないし何より、もし噛まれたら誰も助けてくれる人がいないのだ。

しばらく固まっているとすっと離れて餌箱に顔を突っ込む。なんだか呆気にとられていると見てんじゃねぇよと言わんばかりに睨まれたからひとまず退散。教室に行く前にもう一仕事。

「おはよ、ジョイ。今日も一丁行く?」

ジョイは大きく、ワン!と吠えるとくるりくるりとその場で回り始める。

馬術部の先生がずっと前に拾ったというヨークシャーとなんか中型犬まじりの雑種。毛色は茶色の強いクリーム色。毛並みはボッサボッサ…正直お世辞にもかわいいとは言えない。

「はいはい。準備するからちょっと待ってて」

小屋の上に雑に置かれているリードの端を手繰り寄せ、ジョイの首輪にカチリと繋げる。私は高校三年になってから毎朝、ジョイとこの時間を楽しんでいる。

朝早いこの時間、肌寒いけどそれがいいのだ。どんなに沈んだ気持ちでもひと度走り出してしまえば澄んだ空気が沈んだ心を押し上げてくれるような気がするんだ。田んぼの畦道をジョイが朝露を蹴りあげながら先行して走り、その後ろを私が息を白くしながらついていく。

散歩コースの折り返し辺りで朝一番で登校する先生が車で登校してきた。朝一番同士だからか結構その先生と仲がいい。

私がこの学校に入学するまでは俺が一番乗りだったんだけどなぁ…なんて初めて話した時に言ってたっけ。先生は私の横で真っ黒い車を止めると窓を開け私に話しかけてきた。

「おう、今日も朝早いねぇ。よかったな、ジョイ。こんなに散歩に行けて」

「おはようございます」

足元でジョイが先生に答えるように大きく吠える。

「お前くらいだからなぁ…ジョイの散歩に毎日付き合ってる奴なんて」

「しょうがないじゃないですか。この時間しか学校に間に合わないですし、この時間人もいないし何もすること無いし…」

ははっそれもそうだ!と景気よく先生は笑うとそういえば…と何か思い出したように話し出した。

「こないだジョイを動物病院に行ったら凄いねって連れてった奴が言ってたな」

「年取ったって言われたんですか?」

「いやいや、むしろ逆だって。去年より歯とか毛並みとか筋力とか若々しくなったって」

ま、そのおかげで注射すっとき抑えらんなかったって言ってたんだけどな、と笑いながら腕時計を見る。

そう言えば、ちらほらと生徒が登校してくるころだ。

「おっと、そろそろ行かないと、それじゃ授業でな」

そういって先生は車を走しらせた。

さて、私は散歩を続けよう。どうせ、教室に行っても誰もいないことだし。

そもそも、このくそ寒いのに体を動かさないで教室にいるなんてそんなことはしたくない。

私は足に力を込め、朝露でしっとりと湿った地面を蹴り上げる。そして私の目の前をジョイが走る。ジョイが地面を蹴り上げるたびに泥が飛び、私の足につくがそんなことはどうでもよかった。

今はひたすらにこの寒空の下、ジョイと共に走ることを楽しもう。この冷たく冷え冷えとした空気を胸一杯に吸い込んで白い息に変えながら畦道を駆けていく。

途中、霜が溶けてぬかるみになっている場所を踏み、滑って転ぶが別に気にしない。制服は泥だらけ、ズボンの裾はぐっしょり。でもいいのだ、替えがあるから。

ジョイがフッフッと息を荒くして先に進もうとする。はいはい、ちょっと待ってね。今、立つから。

立つときに空がとても青く見えた。

とてもとても澄んだ青。どこまでも青。何故か笑みが零れた。私はいつもよりも満足感に満たされた気持ちで教室に入る。案の定、誰もいない教室。寒々とした空気が私を包むが運動を終えた私にはちょうどいい。ただ、このままだと風邪を引きかねないし、これから来るクラスメイトに文句を言われるだろうから仕方なくストーブの電源ボタンを押し込む。

最近新しく導入したそのストーブはゴゴゴ…と唸り声のような声をあげ、ボッと火をつける。私は少しだけストーブから距離を取り、ボーッと携帯に映る映像に目を向ける。

携帯の中で最近話題の芸人がわちゃわちゃとなんか色々やっている。…のに何故か面白くない。いつもなら大声をあげて笑うのに面白さが感じられない。

……なんだろう。いつもの日常なのになにかが違う。何かって何だと聞かれたらよく分からないって言うしかないけど……とにかく何かが変。いつもの日常じゃないような気がする。それが私の心で不安という感情に成り代わる。

面白くないからと言ってもこの何もない教室には携帯以外に暇をつぶせるようなものはない。ので仕方なく面白くもない芸人たちに視線を落とす。

ちらほらと生徒が登校し始めると先ほどまでの違和感もどこか遠くに行ってしまった。友達が登校してきたのが大きいかもしれない。しかし、ちょっと気を抜くとあの違和感が大きくなる。そして胸を締め付けられるような不安に変わる。でも友達といるとその違和感はやってこない。

そんなこんなで放課後になり部活に向かう道の途中で別学科の馬術部の友達とすれ違う。

「あれ、もう大丈夫なの?」

「何が?」

私の頭の中で自分が放った何が?という言葉が反響する。何か…何かを忘れてる気がする。とても大事なことを…。

視界が曇ったように白く霞み、彩りが無くなっていく。私の視界に映るすべての景色が白いキャンパスに描かれた下書きだけの線になっていく。色が抜けていく……。



今日の朝の夢を思い出した。

白い世界に私は一人、ポツンと立っていた。

夢だと理解はしている。しっかりと自分の意思もある。

でもここがどこなのかは考えなかった。なぜ、私がここにいるのかも考えなかった。

地面もなければ空もない。あるのは地平線の線だけ。あと私。それだけ。

そう思ったのに後ろを振り返ると焦げ茶色の犬がいる。

ノラ…と私は声をかける。

ノラは私に駆け寄るとピタッと足元で座る。

私は何も言わずノラのピンと立った耳を撫でつける。柔らかな短い毛に覆われたノラはお返しとばかりに私の顎を舐める。

ノラのお腹も顎下も全部撫でる。やさしくやさしく忘れないように…。

しばらくするとスクッとノラは立ち上がる。

「もう行くの?」

そう口から漏れる。

私は額をノラの額に押し付ける。これは私とノラのお別れの合図。

「じゃあね」

本当はまたねって付け加えたかったけどいつになるかわからないし、会えるかどうかもわからないから言えなかった。その言葉を聞いてノラは元気に地平線の向こうに走って行った。

私はまだ向う側には行けない。

たとえ、それが夢の中であったとしても向こう側は私たち「生きている者」の世界じゃない。

白い世界が崩れていく。

足元から白以外の色が漏れだす。私は私の生きる世界に戻って行く……。



「じゃあ、今日ハリー乗ってね?」

「え、あ……うん」

世界に彩りが戻ってくる。

友達はそう言って走って行ってしまう。

ハリーが今朝、どうして噛んでこなかったかやっと思い出した。

昨日、私はノラの死を知ってハリーに泣きついたんだ。そしたら、ハリーは目を丸くしてジッとこっちを見てたんだっけ。まるで泣くなんて思ってもなかったと言った顔で。

そして、今日、私はハリーに乗った。

ハリーはいつもよりもペースを上げて、四肢に力を込めて、風を切るように、すべてを忘れさせるようなそんな鬼のような走りをした。

柵の外で先輩たちが騒いでいる。危ない、だとか落ちるだとかなんかいろいろ。

でも私は怖くなかった。ハリーの首と背中に体重を預ける。ハリーはぐんぐんスピードを上げた。ハリーの匂いとともに声が聞こえたような気がした。

楽しいか?って。

そう言われたような気がした。

うん、楽しいし、凄いよハリー。

ハリーは誇らしげにブフンと鼻を鳴らした。不思議と笑みが零れた。口角が下がらない。

しばらくするとハリーがゆったりと足を止める。まるでもう大丈夫だろうとでも言いたげに息を荒げて私のほうに顔を向けてくる。

ありがとうと心からの声をかけて軽く首を叩く。そのあとなんで止めなかったんだって、先輩たちに怒られた。でもハリーの前を通る度にその先輩たちは噛みつかれていた。ザマミロww

幸い、大した怪我はなかったけど驚いてよろけた拍子に転んで擦り傷を作っていた。原因を作ったハリーがこっちを見た。

俺は強いだろ?

そうハリーの目が語っていた。

そうだね、と私はブラッシングの手を止めることなく呟く。

帰り際、ハリーがピンと耳を立てて遠くを見つめていた。私も釣られて遠くを見る。

フワッとノラの匂いがした。涙がつうっとほほを伝う。後ろにいたハリーが鼻で背中を押してくる。

そうだね、もう帰らなきゃ。

太陽が地平線の彼方に沈み始め、空が藍色に染まる。

のんびりと歩きながら色々考える。考えてはいるけど何を考えればいいのか分からない。考えることを考える。

私の足は機械的に動き、自然と駅に向かう。あっという間に駅についていた。

駅についてからベンチに座りまたボーッと空を見上げる。辺りには誰もいない。

タタン……とトタン屋根に鳥が乗る。私は鳥の足音を目で追いかけた。

今、屋根に乗っているのはどんな鳥だろう。足音から察するにカラスではない。もっと小さくて……多分雀くらいの鳥だと思う。

そんなことを考えているとプァ~ンと甲高い音を立てて黄色いラインの入った電車が駅に入ってくる。

ドアが開くと同時に私は乗り込んだ。時間が時間なだけに誰もいなかった。四人掛けの席に座り荷物を脇に置く。ぼーっと視界が霞む。世界から色が抜けたかのように私が今、何をしているのかわからなくなった。

暫くして大きな駅についた。

乗り換えのために一旦降りて別の電車に乗る。

ふとノラの顔をを思い出そうとしたけれど思い出せない。どんな顔だったのか、さっぱりわからない。写真もない。気がついたらノラの毛色も匂いも声も何もかもが思い出せなくなっていた。

忘れた自分に腹が立った。心が潰れそうなほどに息苦しくなった。自分の存在を否定したくなった。

私と言う生き物はどうしてここにいる?

なぜ生きてる? なぜ、私と言う存在生まれたの?

なぜ、なぜ、ナゼ……?

『次は~ーーー駅~ーーー駅~』

ハッと気づくといつも降りる駅についていた。閉まりかけたドアを腕で押さえて無理やり降りる。

あがった息を整えて階段を重い足取りで登る。

ちょっとでも気を抜くと死にたくなる。自分で自分を壊したくなる。

頭の中では自分の胸に自分でナイフを突き立てるイメージが沸き起こる。ゾンビのように自分を刺しても刺しても私は死なない。それは所詮イメージでしかないから死ぬことはないのだけど。

これは本当にヤバイと思い、星が出ている空を見上げた。

すぅっと自分が星空に吸い込まれそうになる。見上げたらちょっと安心した。自分がとってもちっぽけでこの宇宙の広さに比べたら私の考えなんて細かい塵のような気がしてなぜかほっとした。

お母さんを呼んで迎えに来てもらおうかどうか悩んだけどいつも通り自転車に跨がり漕ぎだした。街灯もない裏路地を自転車のライトだけを頼って進んでく。真っ暗な道路の上を車輪が音をたてて進んでく。どんどんスピードに乗って私の足が千切れそうなほどペダルを回す。

ノラの小屋に近づくほどに私はおかしくなる。足はスピードを上げようとペダルを踏み込み、肺は息を力強く口から押し出し、口からは不思議と笑みが漏れた。

私は暗い夜道を笑って突き進む。どんな笑いかたをしているのかわからない。ただ、どうしようもなく笑っていた。死というとてつもなく大きな「もの」にぶつかって、どうしようもなくなって、私もいつか死ぬんだと思ったら怖くなって、でも仲の良かったノラはいないからこの感情を話す相手がいなくて……。

ノラの小屋があった場所についてやっと涙が出た。そこにはノラの小屋はなくて、いつものふわふわな姿もなくて……。

ノラがいないことにようやく心が気がついたような気がした。今まで心は信じてなくて頭だけが先走ってるような気がしていたから。

ノラ……なんで私を置いてったの?

ねぇ、なんで? なんでよ!?




「ご飯は?」

「いらない……」

「でも……」

「いらないったらいらない!」

玄関から家に上がるなりお母さんが声をかけてきた。私は空腹よりも悲しみと腹立たしいのと虚しいのとぐちゃぐちゃに混ざった感情が湧いて来ている。

後ろ手で思いっきり扉を閉めて制服のままベットに沈む。

体が重い……まるでなにかが背中から押さえ付けているような……絶望ってこんな感じなのかな。目の前が真っ暗になるような世界が全て吸い込まれるような……上も下も右も左もわからなくなる。

「ハァ、ハァ……!」

息が上がり、呼吸も浅くなる。

助けて、助けて……誰か…!

暫くしたら息も落ち着き深く深呼吸出来るようになった。ふぅ……と息を吐き出してゆっくり携帯に手を伸ばす。気づくと日付を跨いでいた。0時12分になっている。

そろそろとベッドから降りてお風呂に向かう。このまま寝るには汗が気になるから。

「ふぅ……」

湯船はいい。ゆったり落ち着けるし、何より何も邪魔してくるものがないから。私はブクブクと水面に口を浸けて泡を吐き出した。

ぷくりぷくりと泡は浮かび、消えていく。まるで人の生き死にが表れたようなそんな光景。ふと、シャボン玉という曲を思い出した。あれこそ人の生き死にを表しているようなそんな曲。泡が人で、壊れて消えるのがいわゆる死。

………………やめよう、死にたくなる。

思いっきり息を吸い込んで水中に潜る。鈍く音が響き、思考が鈍る。考える必要がないくらいゆったりできる。このまま溶けてしまえたらどれだけ楽だろうか。きっと考えることもできないくらいにゆったりとできるに違いない。でもそんなことできずに息苦しくなる。仕方なしに顔を水面から出すと長い私の髪が顔に張り付いた。いつもなら何とも思わないこの髪が今はとっても煩わしく、邪魔だった。

なんだこの長く黒い邪魔者は…いっそのこと抜いてしまおうかとふっと思う。くっと一本つまんで引っ張ると頭皮に痛みが走る。

…………何やってるんだろう、私。

はぁと息を吐き出して湯船にまた沈む。外の音がくぐもって耳に届く。

まるで自分が別の世界に行ってしまったかのような実感を体に覚えさせて本当にそうなったらいいのにと思い始める。

それかこのまま、おぼれ死んでもいい。じゃなきゃ、人という生き物であることをやめたい。別の生き物になりたい。

このまま、顔を上げたら別の世界なんていうことはないかな?そうだったらいいなぁ。そうなれば私は当分こんなこと思わなくて済むもの。新しいものに目が行って、きっとこんなこと考えてる暇なんてなくて人生が明るく見えるかもしれない。

そういう考えをもって水面から顔を出す。しかし、やっぱりいつもの風呂場。なにも変わらない。仕方なく体と頭を洗ってちゃちゃっと風呂から出る。

着替えを済ませてドライヤーに手を伸ばす。熱い熱風が髪の一本一本に潜り込み水分を空気中に持っていく。これでやっとこの鬱陶しく纏わりつく髪とおさらばできる。鬱屈としていた気分が少し晴れる。さらりと空気を含んだ自分の髪をいじりながらベッドに向かう。ベッドに体を横たえると強い睡魔に襲われた。私はそのまま睡魔に押し流されるように眠りにつく。最後にフローラルなシャンプーの匂いがした。





「ムァァァァ、ムァァァァァ!」

朝日が目に染みる。あぁ…朝が来た、来てしまった。来なくていいのに、と呟いたところで猛烈な空腹に襲われる。そうだ、昨日の夜、何も食べてないんだっけ。

ノラが死んでから、二年の歳月がたっていた。私は今、地元から遠く離れた大学で頑張っている。

「ムァー!」

「起きる、起きるから!」

ここだけの話、この部屋には同居している生物がいる。ちょっと変わった鳴き方をする猫。名前はふみ。麦わら色の和猫。この子がいなかったら今まで頑張れなかったかもしれない。私は未だにペットロスを引きずっている。ふとした瞬間にノラのことが頭をよぎり死にたくなる。ノラが死んでから私の夢というものがなくなり、心の拠り所がなくなったことに気が付いた。一人暮らしを始めたら確実に自殺するような気がして大学が決まった瞬間にペット可の物件を借りることを決め、契約した。

しばらくは大丈夫だった。新しいことが目白押しで考える暇など与えてくれなかったから。でもしばらくして包丁を持った時に自分の胸に突き立てたくなった。額から嫌な汗が噴き出し、頭に蛆がわいたように死にたいという欲望が強くなる。本気で怖くなって布団に逃げ込んだ。トラの大きなぬいぐるみに抱き付いてこの欲望が過ぎるのをじっと耐えた。落ち着いたころにはスマホを立ち上げて保健所の情報を検索していた。養う存在がいれば私は死にたいとは思わないはずだ。そう思って調べたらふみと出会った。

本当は犬を飼いたかったんだけど大家さんが大型犬はダメというので仕方なく猫を飼うことにした。

親には言ってない。言えるわけがない。父親が極度の猫嫌いであるからだ。まぁ、もうあの家に帰る気はないし、大学を卒業したらこのままこの近辺に居つくつもりだけど。

「ムァァァァァ!」

「ご飯、ご飯ね……あっ」

そして猫缶がないことに気付く。ふみの食事は猫缶半分、ドライを半分といった食事がお決まりで、しかも猫缶がないと食べないと来た。どうしようかと悩んでる私の後ろから早くと催促の視線が痛いほど突き刺さる。

「こうなったら…」

調味料の棚から鰹節を取り出してドライフードの上に山のように盛る。ふみががっついてるうちに外出の準備を始める。ものの五分で準備を終え外に出る。

「行ってきまーす!」

鍵を閉め、澄んだ青空のもと駆け出す。相変わらず私は馬術部を続けている。今日はハナちゃん(馬の名前)に会えるから楽しみだ。坂道を駆け下りていくと途中で視界の隅で見覚えのある犬を見たような気がした。振り向くと茶色く懐かしい犬がいた。

「なんで…なんでここにいるの?」

口からそう漏れた。君は死んだはずじゃ…と思ったところで飼い主と思われる人が物陰から出てきた。その犬は私の顔を見るや否やこちらに向かって駆け出す。飼い主は驚いてリードを離してしまう。

ノラ……ノラ…ノラ!

最後の一蹴りでその犬は私に向かって突っ込んだ。

私は抱きしめた。私の心の奥底にあったノラとの記憶がブアッと花開く。君と一緒に歩いた森の中の記憶、君が鼻を鉢に刺された時の記憶、私の家に気まぐれで来てくれたときの記憶、君の匂い、声、表情何から何まで……全部…全部思い出した。

ツゥッと頬を涙が伝う。今まで出なかった本当の笑みが私の表情に現れる。

「はると、ダメじゃないか…大丈夫ですか?」

息を切らして私のもとにかけてきた飼い主がおそらくこの犬の名前であろう言葉を紡ぐ。

そうだよね、ノラなわけがないよね。もうノラはいないんだもの。

飼い主に連れていかれるその「はると」という犬の後姿を目で追いかける。角を曲がったところで「はると」の姿は見えなくなった。

少しの間、放心していたが行かなければいけないので牧場のほうに足を向ける。「はると」にお礼を心の中で言いながら前を向いて坂を駆け下りる。足がコンクリートの地面を蹴り上げる。田んぼのあぜ道のように 泥濘ぬかるみに足を取られることはないし何より服が濡れないのは嬉しい。

けど、私はやっぱり高校のあのピンと張りつめた空気の下でジョイと走るのが一番楽しい。

「うわっ、ちょ、はるとっ、ダメだって!」

実家に帰ろうかなぁなんて考えていると背中から重い衝撃がのしかかった。前に出していた右足に目一杯力を込めて倒れ無いようにしっかりと自分の体を支える。しかし、重力とは無情なもので右足一本で支えていた体が背中に新たに加わった重みでそのままゆっくりと前のめりに倒れ始める。

目の前はコンクリート。顔から倒れるのは実にまずい。私の大事なお顔がズタズタになるのは非常にまずい! 例えそれが見せる人のいない顔だったとしても!

せめて顔は逃がそうとぐりっと右足を軸にして体を反転させた。それを最後に右足は完全に支えることをやめ、体と一緒に倒れ始める。

「ぎゃっ!」

コンクリートに右腕を打ち付けてやっと止まる。あぁ、この地面が田んぼのあぜ道だったらこんな痛みも来なかったのに…!

ふと横を見るとノラの顔…をした「はると」が澄ました顔で宙を見ていた。このやろう…と思うより先に「はると」はいったいどこを見ているのだろう…と思った。そして私もつられて宙を見あげる。

でも何もない。あるのはいつもの何の変哲もない空と流れる雲。そのまま眺めていると飼い主が慌てて走ってきた。「はると」を叱るとそのまま連れて行ってしまった。そのまま二人を交差点の角まで眺めてからやっと体を起こす。

まぁ、いろいろあったけどとりあえず牧場に行こうと三度足を進めたがふとノラに呼ばれた気がした。バッと後ろを振り向くと坂の上からまぎれもないノラがいた。「はると」じゃない。絶対にノラだ。ひらりとノラは坂の向こう側に消えて行ってしまう。私は何もできなかった。追いかけることも、ノラを呼ぶことすらも。でも悲しくはなかった。それが死んだ者と生きている者の線引きで少なくとも私にはそれを破ってはいけないものなんだと思った。

「ノラありがとう…」

そうつぶやくと空の上から声が返ってきたような気がした…。

君がいなくなってもう二年目だよ。君が死んだって聞いて私は毎晩泣いたんだ。世界の色が抜けて、君の声が思い出せなくなり、一日置くごとに君のことがどんどん頭から抜けていく気がするんだ。せめて忘れないように…少しだけでも君のことを覚えていられるように…この小説を書いたんだ。

もちろん、一部再構成してるし、あと私は女じゃないけど、それ以外は本当のことだし、今でも君に会いたいと思っている。この小説を本当は君の一周忌までに書き上げようと思っていたけど、どうしても書くのが怖くて、君のことを思い出せないのが辛くて今まで引きずっていたんだ。ごめんよ。

ノラ、もし君にもう一度会えるなら……私は君とずっと一緒にいることにするよ。

例え、君が生きるために私の寿命を使うことになっても。きっと……きっと……。

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