(9)
広い広い枯草の絨毯の上に、色とりどりの幟がひしめいていた。まっ白な天幕、馬を囲った柵、デールを着こんだ人々が酒を酌み交わし、笑い声に怒鳴り声、祭りの空気――。
村から歩いて実に一週間。ナーダムの日がやってきた。
瓦葺きの家もちらほらと見える、タタルの都ツェツェル。その郊外にある広大な平原が戦いの舞台だ。タタルの西から東まで、二千以上の部族から一番の馬乗りを決める、この国最大のお祭り……なのだが。
『人、少ねぇ……』
土地が広すぎるせいもあるのだが、会場に見える人影はどう考えたって五百人を数えるくらいで、まばらという表現がピッタリだった。それともまさかこれが全土から集まった人間なのか、と一瞬考えたが、サラたちの顔を見る限り、そうでもないらしい。
「やっぱり東のほうはおらたちと一緒で、ウブジ山からの水で生ぎてるからなぁ……。参加する人も少ねぇなぁ……」
とは、横を歩くドルジ。なんだか自分たちが来たことを遠まわしに責めるような文言に、サラは俺の鞍上から一言、
「来なければよかったのに」
「うえっ? い、いや、そんたな意味で言ったんでね! ただ……」
「違うわよ。そんなにひどい顔になるなら、ってこと」
ドルジの顔は青タンだらけだった。片目のふさがった顔を照れ臭そうに歪めて、
「い、いやあ、ひさびさに出てみたんだども……やっぱり相撲は厳しいべ」
「ひさびさも何もどうせ万年初戦負けだったでしょ。結果は分かってたのに」
「ハハハ……まぁ、なぁ……」
どうやら並行して格闘技の大会も開催していたらしく、ドルジはそれに参加してこっぴどくやられたらしい。もっともそれが口実だってのは明明白白だった。
『お前もモノ好きだよなぁ。親父さんらの反対押し切ってサラに付き添うなんて』
呆れ半分に話しかけた内容が分かったわけじゃあるまいが、ドルジは俺に向かって「へへ」とはにかんだような笑みを見せた。やれやれ。
「おおっ、サラントヤじゃないか!」「今年も頑張ってくれよ!」「期待してるぞ!」
道を行くと、髪の毛一本まで酒臭さが染みついたオッサンたちや、日に焼けた匂いのするガキどもが声援を送ってくる。一年のうち顔を合わせるのはこのときだけだろうに、他の部族から一目置かれてるってのは本当らしい。サラが仏頂面のままちょこんと揺れる程度の会釈で応えるのも、彼らにはチャンピオンの貫禄に見えるに違いない。
と、案内役とおぼしき少年が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「あ、サラントヤさん! 二万メードの会場はこっちですよ!」
『ブッ!』
に、に、に、二万メードだと? 何時間走らせる気だ、おい!
「いいのよ、二千のほうに申し込みしてるから」
「え? 二千……って、今年からできたヤツです、か?」
「悪い?」
「え、悪くはないですけど……いいんですか、本当に?」
食い下がるような少年の言葉に、サラはいいのよ、とだけ残して先を急かした。
……話が見えにくいが、察するに一口に競馬と言っても、距離別にいろんな種目があるらしい。で、サラがこれまで出ていたのは二万メードで、今年は、新設された二千って短距離レースに出る、と。……なぜ?
まあ、二万でなくてよかったと、一瞬考えてから、俺は可笑しくなった。
(そうそう、二万だろうと二十万だろうと関係ねぇんだったな……)
会場は丘のふもとに盆地の北側、やや急な丘のふもとにあった。平地は観客席になってるようだが……なんだこりゃ、おい。
人が少なすぎる。ロープで区切られた客席は茶色の枯れ芝が丸見えで、酔っ払って寝ているか、サイコロを囲んで博打に興じているオッサンが数えられる程度。遠くでは幟をかかげて声援を送っている一団もあるが、さっき他の騎手と話していたところを見ると、身内の人間だろう。輪をかけてさびしい人の入りだ。
(要するに、この大会のメインは、二万メードのほうってことか……)
サラのヤツはなんだってわざわざ地味なほうを選んだんだろうか。プライドのために出るんなら、楽に勝てるから、なんて理由じゃないと思うんだが。
――ま、いいか。どっちに出ようが結果は同じだ。
ふもとから丘を見上げる。傾斜はそれほどじゃないが、頂上まで千メードはあるだろうか、おそろしく長い。斜面に沿って木の柵が二列に並べられていて、つまりその間を通って走れっつーことらしい。
「馬の蹄、ね」
とは、サラの言葉。なるほど、言われてみりゃその通りで、コースは全体が馬の蹄のような楕円形になっている。丘のふもとをスタート地点として、まず右斜めに丘を上り、頂上付近まで行ったところで左へ大きく迂回、ターンし終わったら今度は斜面を下り、スタート地点がすなわちゴール……ってか。ご苦労なこった。
「まもなく競技開始です! 参加者は赤い旗の立った出走地点へ集合してください!」
係員のデカい声に従って、旗のもとへ進む。
「んだば、サラントヤ。頑張ってけろ!」
心づくしのドルジの見送りに、サラは肩越しに手を挙げるだけで応えた。
出走地点ではすでに他の馬たちが準備を終えて、ウォーミングアップにその場で回ったり、小走りを繰り返したりしている。
「ヨォ、サラントヤ」
後ろから白と茶のまだら模様の馬と、それに乗った若い男が近づいてきた。三白眼に八重歯の突き出た、変にギラギラした匂いの野郎だ。
「一年ぶりだなぁ。積年の恨み、今日こそ晴らしてやるから、覚悟しろよ」
サラはジッ…………っとそいつを見つめ、
「……誰?」
男はガクッ、と落馬しそうになった。
「バートルだ! ミンジ族の! 毎年顔合わせてたろが!」
「ああ、思いだしたわ。七年続けて準優勝の『あの』バートル君ね。何してるの、こんなところで?」
「いや、ちょっと散歩にね。……ってバカ! これに出るんだよ、俺も!」
何なんだお前は。
「ヨォ、それよかどういうこった! 何で二万メードのほうに出ないんだ! 俺はおまぁに勝つために、この一年、いや、この七年、ずーっと長距離の調教ばかりしてたんだぞ!それをいきなり二千なんぞに鞍替えしやがって! あっ、さては逃げたな! 俺に負けるのが怖くて逃げたんだろ、ヨォッ!」
「どうして私が逃げないといけないのよ。貴方ごときに」
「ご、ごときぃ? ぐっ……そしたら何だ! そんなに賞金が欲しいのか?」
――賞金?
降って湧いた生臭い単語に、思わずサラの顔を見上げる。
「貴方には関係ないでしょう」
「おっ、否定しないってことは認めたな。この守銭奴が。名誉よりカネか、ヨォッ」
「五月蝿い。そういう貴方こそ、どうしてこっちにいるの。そんなに名誉サマが大切なら今からでも遅くないわ。二万のほうに失せなさい」
「フン、おまぁの出ない競馬に勝っても仕方ないわ。今日という今日は、泣きっ面見せてもらうからな、ヨォッ!」
「お尻でよければ見せてあげるわよ。走ってる間中、ずっと」
フン、と互いに鼻を吹き鳴らして、そっぽをむく二人。
しかしいろんな所に敵を作る女だな、こいつは。