(7)
星明かりだけの暗い暗い夜に、白い歯をさらす。上下の前歯でロープをくわえ、ぞる、ぞる、ぞる。左右の前脚と後脚をそれぞれ結ぶいまいましい縄が、その太さを失ってゆく。
(ようし……もうすぐだ、もうすぐ自由の身だぞ……)
こんなところでいつまでも油売ってたって、人間には戻れやしねぇ。俺の正体を看破してくれる人に出会って、話はそれからだ。皮肉というか、さんざんサラに躾けられたせいで、走りの技術は会得してる。土地勘が無いのが痛いが、西へ行くキャラバンか何かについていって、ユーロピアに戻るほかない。月の出ない今夜がチャンスだ。
暴れ馬のレッテルを張られてる俺は、夜の間、このロープで縛りつけられている。が、こんなもん、ただの馬ならいざ知らず、俺には通じねぇ。
ブツン、と痛快な音とともにロープが切れた。イエス! 寝こけている他の馬を起こさないよう、ゲルの居並ぶ裏を忍び足で抜けてゆく。
と、反対側で人影が動いた。慌てて身を隠すが、どうやら見つかったわけじゃないらしい、ゆっくりとした速度で動く影を見て、俺はほっと息をつき、次いで飛び上がりそうになった。
影は二つ。並んで歩いているのは――マジかよ――サラとドルジだ。
二人の男女は神妙な面持ちで、寄り添うようにゲルの中へ入って行った。あ、あの二人、スデにそんな関係に? あのツンツンしたそぶりは演技だったのか? そしてこれから、二人っきりのデレデレな夜が始まるのか? 想像できん。あの氷の女の甘えた姿がまるで想像できん。……が、それだけに、ううっ……見てみたい。
吸い寄せられるようにフラフラと入口へと近づく俺に、もう一人の自分が語りかける。
(おい待て落ち着け、今はノゾキなんてやってる場合じゃないだろう。ロープを切っちまった以上、明日から警戒が強くなるのは必然、今夜が最後のチャンスだ。これを逃したら一巻の終わり、さぁ、分かったら今すぐ蹄を返して村の外へ『うるっせぇ!』
一瞬でねじ伏せた。
こちとら四本脚になってからもう半月近くもごぶさたなんだ。せめて目の保養ぐらいさせろっちゅーねん。
そそくさと表に回り、入口のスキ間から片目をのぞかせる。真ん中のストーブにほんのり火が灯っていて、手前に見えるのは二人の背中。と、その向こうから、
「遅くにすまなんだな、二人とも」
アレはドルジの親父? ……バカな、複数人で、だと? し、しかも親子でっ?
まぁ座れ、とうながされるまま、腰を下ろす二人。と、その横にさらに三人ほどのオッサンたちが座っているのが見えた。俺はもうバカのように口を開け閉めするしかない。
「サラントヤ。わしぁ、回りくどい話は好かね。したっけ、単刀直入に言う」
ドルジの親父は、息子とまるで似てない謹厳そうなヒゲ面をしかめて言った。
「今年のナーダムには、出るな」
――ん?
「理由を聞かせてもらいたいわね」
すぐさまサラがぴしゃりと返す。
「理由、か」
「ええ。七年連続の優勝者に出るなと言うのだから、それなりの理屈は用意してるんでしょうね?」
「そんたなこと、言わずとも分かっとろうが!」
と、横から口をはさんできたのは、金壺眼もいかめしい年かさのオッサンだった。
「下がっとれ、ウッジド」
親父がなだめるのに、オッサンはフンと鼻を吹かせた。
……ええと、ひょっとして俺の思ってたような展開とは違う、か?
「……今日、羊が五匹喰われた。狼にな」
「……」
「幸いケガ人はおらなんだが、草ば食わせに行ったエネビシやゲセルが、えれえおびえてたべ。こんたな平地にまで狼が来たのは、初めてだがらな」
サラの肩はぴくりとも動かない。
「わしらだけでねぇ。ここ一年、タタルのあちこちで同じことが起こっとる。それもこれも、ウブジ山の水が枯れてしもうたせいだ。今日、ドルジに見て来てもらったべが、下流のオルホン川の水がなぐなったらしい。あそこは水流が多くて、冬でも凍らん。それが枯れっちゅうのは……わしも長いごと生きとるが初めてのことだ。ウブジ山の水はここいらの生き物ぜんぶの命だ。それが枯れりゃあ、獣たちは水を求めて平野に降りてくる。それを追って、狼たちもな。サラントヤ、おめえが先日襲われたのも関係のねぇ話ではねぞ」
ゲルの中心で、焚き火がパチン、と爆ぜた。
「ナーダムは伝統ある競馬の大会だ。タタル二千の部族が一同に会して、この国一番の馬乗りを決める。おめぇが十の歳から勝ち続けてくれたおかげで、わしらみてぇな小さい部族も一目置かれるようになった。そのことには本当に感謝しとる。じゃが、今は場合が違う。川が枯れりゃあ下流の湖もほどなく消える。水汲みの手は増やさねぇといけねぇし、狼から羊を守る番も必要だ。馬も人手も、いぐらあったって足りねぇ。いや、そうでなぐともこの冬ば越せるかどうかあやしい状況だ。競馬のために調教してる場合でねぇのは、おめぇだって分かろうが」
ドルジはしきりに不安げな瞳をサラへ送る。サラの後ろ髪はやはり動かない。
「おめぇが見込むくれぇだ、あのてっぺんハゲは大した馬なんだろう。あいつとおめぇがいりゃあ、狼たちから羊を守ってやれる。いや、そうしてもらわねぇと困るだ。分がるな、サラントヤ?」
しん、とゲルの中は静まった。
天井にゆらめく人々の影を見ながら、俺は考えた。
部族の一日は近くの水場へ水を汲みに行くことからはじまる。
近くのつっても、草場の近辺に水場はないことが多い。たとえば今朝なら湖までは村から片道一時間の距離だった。着いたら着いたで、待っているのは厚さが数十センチもある氷を湖面から切り出して叩き割る作業。もちろん村人総出の重労働だ。木槌で間違って手を叩き、大泣きする子供を何人見たことか。
砂漠生まれとしちゃあ、水の苦労は人後に落ちないと自負してたが……正直、参った。少なくともオアシスの水は凍らない。雨も降らないこの土地じゃ、水不足は命のかかった事態――親父さんたちが躍起になるのも当たり前だ。
と、サラはやおら立ち上がった。
「話はそれだけ?」
「サラントヤ」
「もう寝るわ。明日、ナーダムに向けて出発しないといけないから」
今度こそ、横のオッサンが怒りの声を上げた。
「サラントヤ! おめぇ、長様の恩を忘れたか!」
返しかけたサラの肩が、ぴくりと止まった。
「ヨソ者だったおめぇを助けて、ここまで育てたのは誰だと思っとる! 今こそ恩の返しどきでねか! それをこんな、こんな……長様もあの世で嘆いとるべ!」
神妙な空気が流れた。サラは何か殊勝なことを言うかと思いきや、
「死人は泣かないわ」
オッサンはもう言葉もないという様子で、目を見開き、何かを言おうとして果たせず、その場にどっかりと座りこんだ。押さえた目頭から、涙がこぼれていた。
もう誰も何も言わなかった。
サラはまだ言いたいことがあるかというふうに、ぐるりとゲルの中を見回し、一同に声がないことを確認すると、そのまま外に出た。




