(6)
『おい、聞けやこのアマ。俺は勇者なんだぞ。世界の救世主なんだぞ。いっぺんユーロピアの街角に立ってみろ、チャンバラごっこのガキどもが俺の役を取り合ってケンカしてるのが見れるぜ。分かったら今すぐこの手綱を取っ払いやがれ!』
目ん玉剥いてすごんでやる。答えるものは誰もいない。
『おい、聞いてんのかこんちくしょー! こら、こっち向け! 聞け、聞けって……』
人間、何がこたえるって、罵倒されるより嫌われるより、無視されるのが一番だ。言葉を連ねるごとに、俺の声と威勢は尻すぼみになった。
『ねぇ……お願いだから……聞いて、ください……』
最後は懇願口調になった俺の声にも、女は黒髪を空に流して文字通りのどこ吹く風だ。どうやら、俺がどれだけ語りかけても叫んでも、人間にはブルルと鼻を鳴らしているようにしか聞こえないらしい。「うるさいわね、興奮しないで」と温度のない声だけを返し、俺の首を立ち木にくくりつける。
あれから、一週間が過ぎた。
見も知らない雪の大地で、俺は黒服女たちの部族とともに過ごしている。
というか、飼われている。
一陣の寒風が鼻先を襲い、漏れ出た鼻息が、たちまち氷の針となって顔を痛めつけた。こんなにも空は晴れているのに、この寒さは一体何事だろう。
目の前にあるのは、どこまでもどこまでも――そう、本当に世界の果てまで続いているとしか思えない、とてつもなく広い雪原だ。あまりの寒さに雪が固まり、石灰をまき散らしたようにも見える平野。
ところどころ顔を出す土肌は砂礫と石まじりで、申し訳程度に短い草が生えている程度だ。白い地平線は海のように平らで、何時間も歩いてようやっと小さな丘が顔を出すくらい。もちろん人家なんかあるわけがなく、平野の上にあるのは、びっくりするくらいに高い青空だけだ。
もし仮に言葉が話せたとしても、いや、俺が人間の姿だったともしても、何の御利益もないと思う。人の数が羊の十分の一もいないこんな土地じゃ、マジェンタの被害なんてあるはずもなく、村人たちは勇者のゆの字も知らないに違いなかった。
その村人たちの会話からの推測――ここは、タタルという国らしい。
カールから名前ぐらいは聞いたことはある。世界に二つある大陸のうちのもう一つ、ユグール大陸。ユーロピアから東、玄関口のトルキス帝国を経た場所だ。ユーロピアが三つは入るという広大な大地に、国は二つだけ。すなわち南のソウと、北のタタルだ。
ソウは世界でも最古の歴史を持つ国で、拳術・医術に優れ、歴代の皇帝が何百万人という人口を治めているとか。ユーロピアからはるか離れているのに実態がよく知られているのは、交易路が確立されているから。ソウ特産の香辛料やら絹やらは貴族の間じゃひっぱりだこで、コショウの一粒が同じ大きさの砂金と同じ価値だってんだから恐れ入る。
一方のタタルはといえば――これがほとんど分からねぇ。そもそも国という体を成しているかどうかも怪しいところだ。ソウとだってまともに交流がなく、ましてやユーロピアの市井の人間に情報が伝わってくるわけはない。貿易も手がけてるカールが人づてに聞いた話だと、空は冴え雲は白く、だだっ広い土地にどこまでも花畑が続き、人々は黄金の馬に乗って自由気ままな暮らしをしているという。聞くと見るとじゃ大違いってヤツだ。
「んメェ~」
羊が一匹、のてのてと近づいてきた。脚を折って座る俺の顔を「んじぃ~」って感じで見つめてくる。悩みなんざこれっぽっちもないって顔が大層腹立たしい。シッシッと追い払うと、もこもこの体を揺らして群れへと帰っていった。
一体何百匹いるんだろう。雪の薄い草地の上は、メーメーたちで覆いつくされている。本気で数えたらきっと半分もいかないうちに夢の国だ。
そろいもそろった呑気な顔でもしゃもしゃとなけなしの草を食む羊たち、ときたまはぐれるヤツを回り込んで群れに戻すのは、馬に乗った黒髪の村人たちだ。
(こんな生活、よくやるぜ、まったく……)
連中の暮らしっぷりときたらユーロピアの旅芸人もびっくりで、なにしろ決まった家を持ってない。寝泊まりするのはゲルという例の円形のテントで、アレを解体しては持ち運んで草原をぐるぐると回る生活を続けている――ってんだから村と呼ぶのもなんだかあやしい。それもこれも羊やヤギ、牛に食わせる草地をめぐるためで、ようするに、彼らは家畜を育てて食ったり乳を絞ったりすることで生きているわけだ。カールがいつか言ってたな、なんだっけ……そう、遊牧ってヤツだ。
これだけの家畜を離れ離れにならないようにするには、馬に乗るしかない。実際、村には七十頭の馬がいる。そして、このたびそのへんをうろついてたのを助けてもらい、めでたく七十一頭目に加えていただいたのが、他でもない俺ってワケだ。
そういう今も、気まぐれに走り回る羊どもを追っかけて、一時間もかけずり回ってきたばかり。息は切れ切れ、全身疲労。つくづくババアはいい復讐を考えたもんだ。この世に馬ほど人間にこき使われている動物はいない。もしも、いや、必ずだが、元の姿に戻れたのなら、故郷に大きな屋敷を作って国中の馬たちを保護してやろうと思う。
「起きなさい。調教の時間よ」
どこぞに消えていた黒い服の女が戻ってきた。
女の名はサラントヤという。年は十七だそうだが、大人びて見えるのはスラッと伸びた背筋のせいか、それとも鋭利な美貌のせいか、はたまた冷たく低い声のせいか。
深い闇色の眼がいきなり眼前に迫り、ぎょっとした隙に、サラントヤの姿が消えた。
背中に飛び乗ったのだ。あまりの素早さに何が起こったか分からなかった。
「チョゥッ!」
横腹を叩くと同時に出す、独特の掛け声は「進め」の合図だ。
『でぇい、うっせぇ! さんざん羊の番をやらされて疲れてんだ、やってられっか!』
と、俺は進むどころか体を左右に振った。が、サラントヤの体は内股にトリモチでもくっついたように離れない。そうこうしているうちに、
『いででっ!』
ケツを鞭で叩かれた。と、とんでもねぇヤツだ。こいつ……
それでも俺は動かない。ここまでくるとほとんど意地だった。――と。
「ほーらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほらほら」
首筋をなでまわす柔らかい手。だ、ダメだ、それはダメだ……い、意識が……
――気がつくと、俺は従順な馬そのものの体で雪原を走り回っていた。
(ち、ちっくしょう……)
あれからというもの、俺はこいつの持ち馬として、朝に晩にかけっこの練習をさせられている。調教って言葉は屈辱的だから断じて使いたくない。
こいつがかなりの乗り手ってのは、馬術の心得なんぞない俺でも分かる。
一度他の村人に乗っかられたことがあったが、その重いこと痛いこと。背骨が折れそうな痛みに、つい振り落としちまった。馬は人間を乗せるもんだと何の疑問もなく思ってたが、人間一人の体重を背負って走る負担てのはハンパじゃないのがよく分かった。
その点、こいつは乗り方からして違う。
他の連中が鞍の上に腰を下ろす、または鐙を台に立ち乗りするのに対して、こいつは腰を下ろさず、極端に短くした鐙の上で爪先立ち、両膝で俺の背中を挟んでバランスを取る。そしてそこからうずくまって背を丸め、たてがみに埋もれるようにして前を見るのだ。横から見ると、馬の背で四つん這いになっているような格好――本人が「はさみ乗り」と呼ぶこの騎乗法は、背骨に体重がかからない分、走りやすさが段違いだ。
が、だから何だってんだ。俺は人間だぞ。しかも世界の救世主だぞ。それを……
「……ほえ~、大したもんだべぇ! もう乗りこなしちまったべか? さっすがタタル一の馬乗りだべな!」
自分の馬を並走させながら声をかけてきたのは、藍色のデールを着た例の小太りの男、ドルジ。こいつもサラントヤと同じ年らしいが、こっちはこっちでいつもへらへらしていて、違う意味で年齢不相応ではある。
サラントヤ……ああもう長ぇ名前だなもう。サラでいいやサラで。サラは内臓まで突き抜けるような冷たい視線をドルジに送った。
「ドルジ。前から言っているでしょう。腕だけで手綱を止めようとしない。腰を拳に引きつけて固定するの。そうでないとハミが掛かって余計に馬が興奮するだけよ」
「う……め、めんぼくねぇ」
一瞬申し訳なさそうな顔を見せたドルジは、しかし、その一秒後にはへらりと何も考えてなさそうな笑顔に戻って、
「それよっか、サラントヤ。ナーダムまであと少しだな、調子はどうだ?」
ナー……ダム?
「さっぱりね。この子ったら出足が悪いし、歩様もめちゃくちゃ。息の入れ方が下手だし、すぐ左右にヨレるのも気にいらない。そして何より私の言うことをきかない」
『めちゃくちゃなのはお前の言い草だ! 何様だ、てめ!』
俺の文句は当然聞き届けられるはずもなく、
「まあ、最後のはいいわ。すぐに躾けてみせるから」
青ざめる俺、苦笑いのドルジ。
「はは、おめぇもてぇへんだなぁ、てっぺんハゲ。ん?」
この失礼な呼び名が、俺の名前であるらしい。額に掌ほどの丸い白毛があって、それが円形のハゲに見えるから、誰ともなくそう呼ぶようになった。他の馬はダグワとかサルヒとかそれっぽい名前があるのに、何で俺だけ……。
(……にしても、どうすっかなァ、これから……)
一体ユーロピアはどうなってるんだろう。魔女を倒して、本当にマジェンタは全て死に絶えたんだろうか。カールは生きて帰れたんだろうか。俺がいなくなって、みんな心配してないだろうか。つーか、そもそもあれからどれくらいの日にちが流れたんだろう。
ともすれば日数の感覚まで忘れちまう生活だ、このままじゃこの辺境の地で一頭の馬として人生(?)終わることになりかねねぇ。
とにかく、俺が人間だってことを誰かに伝えなきゃはじまらねぇ。が、言葉が通じないんじゃ手の打ちようがない。地面に文章を書いて伝えるってアイデアが頭をよぎったが、ダメだ。こいつらが文字の要る生活をしてるようには見えないし、それ以前に俺は文字を知らん。くそ、カールよ。なぜ俺に字を教えてくれなかった。
やがて何往復かの訓練が終わった。サラとドルジがそれぞれ馬を下りる。
と、思いがけないことが起こった。サラは息を切らす俺をじっと見つめると、
「よく頑張ったわ。いい子ね――」
氷の温度の声と手が耳元をくすぐり、
『!』
頬に唇が触れた。
つい、と顎先に人差し指の感触を残して顔を離すサラ。手櫛を通した髪が黒い水のように流れていく様子を、俺は硬直したまま眺めていることしかできない。
「サ、サ、サラントヤ!」
すっとんきょうな声を上げたのはドルジのほうだった。
「何」
「い、いや、今、何っ……そっ、は……」
「落ち着きなさい。ただのご褒美じゃないの」
「ご、ご褒美って……そ、そんたな、接吻なんて、おめ、あば、あ、ああああ……」
人語を忘れたかのようなドルジに、サラは出来の悪い弟子を見る偏屈学者のような目で応えた。
「ドルジ。この世で一番大事なこと、分かる?」
「大事なこと……?」
「それはね。境目よ」
「はぁ……?」
「境目。境界線。分かれ目。物事の折り目をつける場所。国と国の境目を決めておかないから、縄張り争いが起こる。善と悪の境目を教えておかないから、子供が悪さをする。スキとキライの境目をつけないから、人間がいいかげんになる。きっちり線引きをしないことが、世の中すべての不幸を生むのよ」
一息に言い切ったサラに、
「おめえ、すげえなあ。難しいこと言うなぁ」
と、ドルジはなぜか心底感心したようなため息をついて、
「で、それと、こいつに厳しくするのと、どう関係があるだ?」
「だから。…………もういいわ」
ぷいっと背中を向けて羊の群れへと去ってゆくサラ。ドルジは「えー?」なんておたつきながら、それを追いかけてゆく。
そして、残された俺は、今だ頬に残る感触に固まったまま。
――どうしよう、カール。
これがいわゆるアメと鞭ってヤツか。分かっちゃいるのに心臓のバカは狂ったワルツを止めやしねぇ。
どうしよう、このままじゃ俺……俺……
『調教されちゃう!』




