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太陽王の蹄の唄  作者: 古池ケロ太
勇者、馬になるの章
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(4)


『のはずが……なんで、こんなことになってんだ……?』

 四つん這いで雪の上にへたばり、俺は死にかけのドブネズミのような声を漏らした。


 森の果てを求めて歩くこと数時間、太陽は天頂に昇りつめていた。この間、人影は皆無。木々の黒と雪の白だけの景色は一枚の絵のようにいつまでも変わらず、聞こえるものと言えば、小鳥のささやき、虫の羽音、そして俺の蹄の音だけ。出口の見えない不安だけが疲れとともに降り積もってゆく。

 とにかく参ったのは、馬の体で歩くってことの不自由さだ。


 まず体の構造からして違う。馬の前脚の中ほどには関節があり、人間でいうと肘に見える部分だが、これが実は肘じゃない。手首だ。肘は脚の付け根の部分にある。

 後ろの脚も同じで、膝に見えるところは実はカカト。で、蹄というのは手じゃなく、爪。つまり馬が歩くってのは、人間が両手両足の爪先だけで四つん這いになって進むのに等しい。しかも四本ある脚をどういう順番で出していいのかさっぱり分からねぇ。カールの言うとおり、もっとよく馬に乗って観察しておけばよかった――と思っても、後の祭りだ。


 一体どうしてこんなことになったのか――なんて。実は考えるまでもなかった。

『あの、クソババア……』

 あのとき、ただじゃ終わらないっつってたのは、こういうことかよ。

 最後に見た白い光、ありゃあ自分を殺そうとする敵を畜生の姿に変える魔術かなんかか。で、ついでに辺境の地にすっ飛んじまえってオマケもお付けして――ってか? てっきり自爆でもするのかと思ったが、なるほど、ヘタすりゃ死ぬより屈辱だよな、コレは。


『ううっ……寒い……』

 マジャルの寒山をしのぐ寒さだ。全身を長い冬毛に覆われているから、実際にはそれほどでもないはずだが、服もなけりゃあ靴もない、キンタマまで丸出しで外を歩いてるって意識が、体を内から冷やしてくれやがる。

 それにも増してヤバいのは、喉の渇きだ。池の水は凍って飲めず、雪なんて食っても舌を濡らす程度にしかならない。馬の体はひときわ水を欲するようで、喉の奥はすっかりひからびていた。どこかで水場を探さないと、確実に野垂れ死んじまう。


 ああ、なんで俺はこんなところにいるんだろう。せっかく世界を救ったってのに。

 トルキスに帰りたい。生まれ育った国へ。

 砂漠に転がり、砂の匂いを嗅ぎ、オアシスの水で遊びたい。サルファのヤツとバカ騒ぎし、ファティマの髪をいじり、カシムのおっさんに怒鳴られたい。市場をうろついて羊肉ケバブを食べ、紅茶チャーイを飲みあさりたい。

 家の扉を開けて、ただ一言を言いたい。ただいま、と――。


 どれくらい歩いたか、わずかに開けた場所に出たときだった。ばさり、と遠くで大きく雪が落ちた。続けて混じる、ばさ、がさ、と枝のこすれる音。風か――いや、違う。何かが幹にぶつかり、激しく雪を踏んでいる。真正面から近づいてくる――速い!


 俺は四肢を踏ん張った。目の前に倒木があるせいで、相手の姿は分からない。音が迫ってくる。遠くの枝の揺れが、こちらに向かって伝播する。来る!


 倒木を飛び越え、巨大な影が覆いかぶさってきた。目の前に着地し、

『うおっ!』

 伸びあがりながら急停止、黒い毛に覆われた腹と、宙を掻く蹄の裏が、俺の視界を覆い尽くした。慌てて飛び退いたまさにその場所に、ズシン、と前脚が落っこちる。


『う、馬?』

 青黒い毛の馬だった。俺もビビったが、向こうはもっと驚いたらしく、興奮さめやらぬ様子で四肢をバタつかせている。息がひどく荒い。全身汗だくで、シワの目立つ顔――年老いた馬だろう――は、疲労に青ざめていた。


 と、そこで俺はようやく、そいつが手綱をつけられていることに気づいた。

 揺れた枝から、さら雪がこぼれた。斜めに降りた木漏れ日の道を、琥珀色の結晶が伝い落ちてくる。全てがひどくゆっくりに見えた。

 見とれていたのだと思う。雪に? ――いや、雪の下、手綱を握る人間の姿に。


 若い女だった。

 見たこともない衣装。木綿の長袖を右肩と右脇で留め、下はズボンとブーツ、腰には細い帯を巻いている。漆黒の服の背に、黒い絹のような髪が滑り落ちた。肌は日に焼けて浅黒いが、言いようのない艶やかさがある。眼の色は黒真珠のそれで、明らかにユーロピアの人間じゃない。面長の輪郭、長い睫毛、尖った鼻梁、切れ長の瞳――思い浮かんだのは、初めて手にした刃物の鋭さだ。


 温度の低いその眼が、俺を見下ろした。ごろり、と胸の中で何か重い音がした。

 長く思えたが、実はほんの二、三秒だったかもしれない。射るように俺を見据えていた女は、いきなりグワッと手を伸ばしたかと思うと、

『……? いでででっ!』

 俺のたてがみを引っ張りやがった!


「チョゥッ!」

 鞭のような声が響く、と同時に黒馬が再び走り始め、俺を森の横道へと引きずりこんだ。

『あだだだだだだだ! 痛い痛い、何しやがる、こんにゃろー!』

 抗議の声は聞き入れられない。止まらない女と黒馬、密集した木々の間を魔法のようにすり抜けて、走る走る、駆けてゆく。

 ――速ぇ。

 なんて感心してる場合じゃなかった。止まろうもんなら毛が皮膚から引き千切られる。追いかけるというより、半ば引きずられる格好で、体が木に当たる、足がもつれる、石や根っこにけつまづく。ま、待て、待ってくれ。俺ぁ人並み、もとい馬並みに歩くのにも苦労してんだ、そんなに早く走らんでくれ。というか何で俺はこんな目に遭ってんだ?


「にーちゃ、にーちゃああああ!」

 空気の軋むような泣き声と乳臭さが顔に張りついた。女の背中に、子供がくっついていた。三、四歳くらいのガキだ。女と同じ形の服を着て、ぎゃあぎゃあと泣き叫びながら女の腰布にしがみついている。

 さらに、だ。後ろから覆いかぶさってくる不吉な音。複数の脚が雪を踏んでいる――軽いが、速い。そして、獰猛な息づかい。


 振り返る必要はなかった。馬ってのは顔の両側に目があるから、前・横・後ろが一度に視界に入ってくる。正面と後ろの木が同時に見えたりして、最初は気持ち悪かったが、今、後ろに見えるのはじっと佇む木じゃなかった。


 狼だ。それも十匹以上がいっぺんにヨダレをまき散らしながら追ってくる。この女とガキと馬は、森に入り込んだところを狼の群れに襲われて、逃げる途中だったワケだ。

 それは分かった。分かったが、なぜバッタリ出会った俺を巻き込む? このままじゃ俺まで一緒に食われちまうじゃねぇか。


 脚も心臓ももう限界だった。もつれ、倒れかかる俺の視界が、しかし、不意に白んだ。

 太陽だ! 森を抜けて出た先は見渡す限りの雪原だった。これで助かる――


『何ぃ?』

 狼たちはまだあきらめない。雪を蹴り散らして、猛烈なスピードで追いこんでくる。

 視界が開けたせいで、ハッキリ分かった。逃げられない。あと五秒で追いつかれる。

 歯ぎしりする俺の前で、突然、前を行く黒毛馬の体が横にヨレた。

 年老いた馬は、俺より先に限界を迎えていたらしい。力を失った体がみるみるスピードを失い、俺の右横まで下がってくる。いや、もう、俺よりも後だ。


「バヤル! チョゥッ! チョゥッ!」

 女は必死にかけ声をかけ、さらに胴に鞭を入れるが……もうダメだ。

 ヴァ、と強く雪が舞った。先頭の狼が飛びかかったのだ。力の衰えたほうを的確に見抜き、食いついたのは黒馬の尻。続けて二匹目が背中に爪を立てる。悲痛ないななきとともに老馬はたたらを踏み、そこをめがけて狼たちは波のように襲いかかっていく。


 女が俺を見た。ガキを脇にかかえると、何をするつもりか、陥落しかかる馬の背の上で膝立ちになる。この状況で、女の顔には汗の一粒もなかった。そして、怯えも、迷いも。

「ハッ!」

 跳んだ。時間が泥水のように溶け、刹那、黒い服が視界から消えた――かと思うと、

『ぐえっ!』

 背骨が折れるかと思った。背中の上に女がまたがっていた。飛び乗りやがった!


 最後の糸が切れたように、主を失った黒馬はとうとう前のめりに倒れた。狼たちが我先にと群がってゆく。――この女……自分の馬を囮に……!


 だが女のアテは外れた。獲物にありつけなかった後続の狼たちが、今度はこっちに狙いを定めてきたのだ。歯止めの利かない狂った瞳が、幾重にも重なって俺に殺到する。


 激痛が走った。女の鞭が俺の尻をメチャクチャに叩いていた。こいつ、今度は俺を乗り潰すつもりでやがる。俺を拾ったのはそれが目的か。

 追っ手はもうひとっ飛びの距離まで迫っている。湿った息がケツに当たり、無数の足音が蹄から伝わり、それでも脚は思うより先に行かない。しかも女の重量が加わって、もう走っているのか歩いているのか分からない速度だ。


 ようやっと現実感と絶望が追いついてきた。終わるのか。長い長い旅と闘いの果てのあったものが、こんな結末なのか。わけのわからないまま、わけのわからない場所で、見も知らない女に利用されて、人として葬られることもなく――死ぬのか。


(ちくしょう――ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!)

 おそろしく間隔の短い足音が、後脚までやってきた。覚悟半分、あきらめ半分の気持ちで爪が突き立てられる瞬間を待つ……が、それはなかなか来ない。この野郎、狼の分際で焦らしとは味なマネを……

 気がついた。足音は、狼じゃない。

 俺だ。俺の足音だ。走っているのは――俺なんだ。

(脚が――)

 脚が動いている。

 女の手が、俺の右前脚の付け根を撫でていた。ただそれだけで筋肉が動き出す。いや、あるべき動きを思い出す。


 四肢が躍りはじめた。脚を地につける順番が分かる。右前、左前、左後ろ、右後ろ、そしてまた右前。勢いのついた水車が猛烈に回るように前進する体。

 背中にかかる体重すらも消えている。まるで魔法。世界を加速させる、掌の奇跡。

(なんだ、これは――)

 視野が狭まってゆく。景色が流れてゆく。雪も空も雲も丘も木も、すべてが溶けて後ろへぶっ飛んでゆく。人間の姿で全力疾走するのとは、比べ物にならない。こんな世界があったのか。これが「走る」か――これが「駆ける」か。

 雪の上を、俺は、俺たちはどこまでも駆けた。

 はるか後ろで、力尽き、崩れ落ちる狼たちの姿が見えた。

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