(3)
赤ん坊が、母親の乳を吸わず、血を吸った。
はじまりはそれだったらしい。
マジェンタ――皮膚が赤紫色に変色することからそう命名された『彼ら』がユーロピアの辺境の村に現れたのは、二十年前のことである。
マジェンタはマジェンタを生む。マジェンタに牙を立てられ吸血された者は、理性を強烈な吸血衝動に塗りつぶされ、自らもまた人の生き血を求める肉人形としてこの世をさまようことになる。
親が子を襲い、子が親を襲う。兄が妹を吸血し、妹は弟の血をすする。一人が二人になり、二人は四人、四人は八人、血みどろの連鎖は瞬く間にユーロピア全土を包み込んだ。
犠牲になったのはもちろん、人の密集した都市の人間だ。ここ数十年の豊作と農法の発展で、ユーロピア六カ国の人口は爆発的に増加、城壁に囲まれた大都市が雨後のボウフラのごとく沸いて出た。そんな袋小路の中にマジェンタが一人まぎれ込めば、次の瞬間には街一つが逃げ場のない腐獣の檻になる。どれだけ門番を立てようが、その門番が向こうのお仲間になってしまえばおしまいで、数えきれないほどの都市が一夜にして赤紫の地獄の釜と化した。
人々は生まれ故郷を打ち棄てて、農村に流れ込んだ。当然、そこで起こるのは村人との衝突。柵の前での「中に入れろ」「入ってくるな」のいさかいは殺し合いにまで発展する。
その村の中とて安全なわけはない。街の人間が流れてくるならマジェンタだって流れてくる。ろくに武器も持たない農民たちは、夜闇にまぎれて襲い来る半死人たちに成すすべなく貪られ、自らもまた、守るべき家族の首筋にむしゃぶりついていった。
人々の心はすさび、家族の絆も道徳も死んだ。惰眠を貪っていた貴族や騎士たちに事態を収められるはずもなく、ただ悲鳴と血涙ばかりが大陸を覆い尽くした。
原因を追ってさまざまな憶測が飛びかった。
神罰、呪い、病気、大気の汚染、終末の到来。しかし、どれも核心には至らなかった。
マジェンタは陽の光に弱い。十字架に弱い。処女の血が大好物でニンニクが大嫌いで、コウモリに変身して夜空を飛び回る。そんな根も葉もない噂がどこぞから沸いて出た。
ひたすら教会で祈り続けるものもいた。自らを鞭打つ苦行に走るものもいた。朝から晩までアロン酒におぼれるもの、枯れ果てるまで乱交にはげむもの、そしていつもどおりの日常を貫こうとするもの――民衆の反応はさまざまで、そして、マジェンタはそんな人々を、彼らの信じる神よりもはるかに平等に貪っていったのだった。
原因も対処法も分からないまま、人々は混乱と絶望と悲鳴と牙と血の中に沈み、十数年の間に、ユーロピアの人口は半分にまで減った。
それでも人間というのは、案外愚かではない。
ある街に一人の男がいた。
街の中に一人取り残され、周りは血に飢えたマジェンタの群れ。すっかり囲まれ、どう考えても生きのびれらるはずはない。涙と小便と撒き散らして、こうなったらヤケクソだ、どうせ死ぬなら一匹だけでも道連れに、とそこらに落ちていた木の棒を拾う。うめき声を上げてマジェンタたちが襲いかかり、ちくしょう神様! とめったやたらに振り回した棒が、そのうちの一人をとらえ、ギャッと叫んで倒れる半死体、ああ次は俺が悲鳴を上げる番かと目をつぶってその時を待つ。が、いつまでたっても牙は来ない。おそるおそるまぶたを開けてみると、そこには一人残らず息絶えている、マジェンタの骸、骸、骸……。
何が何だか分からないが、これぞ天の助け、神様ありがとう――で済まさなかったのが、彼の偉いところだった。逃げ出したその足で駆けこんだのは都の大学。学者先生にこれこれこうと話をすれば、白ヒゲの先生はフムとうなずいて、席を立った。
「実験」は都の郊外、とある村の納屋を使って行われた。
都の貴族のボンクラ息子が村娘との逢引に使っていた場所である。かかる世情に外をふらつくとはボンクラここに極まれりだが、天罰テキメン、幾度目かの逢瀬に向かう途中で彼はマジェンタに捕まった。村娘は泣きわめいて納屋の奥に逃げたものの、赤紫の半死体と化したボンクラはバカは死んでも治らないの法則に従って納屋に侵入、通りがかった村人が駆け付けたときには、文字通り娘の尻にかぶりついていたところだったという。村人にできたのは、せめて被害が拡大しないよう納屋にカギをかけることだけだった。
――そういうわけで納屋の中には二人のマジェンタがいる。キミ、行って楽にしておあげなさい。ただし――ボンクラ、もとい出来のよろしくない御子息のほうだけを、だ。
若い愛弟子に向かって、白ヒゲの先生は言った。
武器商人の嫡男で、学問はもちろん腕にも覚えがある若い弟子は、馬と手槍を持って単騎村へとおもむいた。納屋の中には内側から扉を押しあけようともがく男女のマジェンタ。風通し穴からのぞくボンクラ男の額に、弟子は寸分たがわず槍を突き立てた。
すると――なんとしたことだろう、触れてもいない女中のほうまでが、その場に倒れ、動かなくなったのである。これは一体どういうことか?
先生は一つの説を打ち立てた。
マジェンタはマジェンタを生む。それは、血を吸うことで何らかの力を分け与えているためである。そして、マジェンタたちはその不可視の力でつながっており、「親」のマジェンタが活動を停止すれば、「子」のマジェンタも力の供給を断たれ死ぬ。ちょうど、一本の川から分かれた無数の流れのように、主流が枯れれば支流も果てるというわけだ。
ならば、である。正真正銘の川のはじまり、最初の一滴を潰せば――どうなる?
初めて示された説得力のある説に人々は飛びついた。マジェンタのはじまり、最初の一滴探しがユーロピア中ではじまった。
だから同じ時期に、大陸の北端の国、マジャルでこんな噂が持ちあがったのも、けして偶然ではない。
地元の人間にとっては半ばおとぎ話となっている話だという。ある森の中、とっくに廃墟となった城の中に、一人の少女が住んでいる。ときおり人里に下りてくるのだが、そのとき決まって何人かの村人が行方不明になる。そしてその少女は、村の長老が鼻たれの子供だったころから、いや、そのじいさんのじいさんのそのまたじいさんが生きていたころからずっと変わらない、子供の姿のままだという――。
討伐隊が結成された。
各地の貴族が、名誉をかけて騎士たちを集め、槍と剣を手に「はじまりの魔女」の待つ廃城へと攻め込んだ。しかし意味はなかった。かろうじて生き伸びた――というか逃げ帰った者によれば、件の魔女は姿を見るどころか、城内にあふれかえったマジェンタのために近づくことすらできなかったという。
仮説はほとんど確証へと変わったが、疲弊した貴族たちにそれ以上の軍を編成する力はなく、腕に覚えのある武芸者、あるいは一山当ててやろうというハラのならず者たちだけが、単身山に入るばかりとなった。もちろん、その連中の中に生きて帰ってきたものはいなかった。
その男が砂漠の国トルキスを旅立ったのは、ちょうどそのころだった。
それから……ええと……ええと……そっから先は……まぁ、いろいろあった。
ロマーノ王家に伝わる剣を石畳から抜いちまったり、そのせいで伝説の勇者扱いされたり、白ヒゲ先生の弟子・カールと出会ったり、プロシアの姫様とあれやこれやしたり……真面目に説明したら羊皮紙本が十冊あったって足りやしねぇ。ともかくすったもんだの末に、俺は諸悪の根源のもとにたどりつき、そしてそれを倒した、と。
うん。やっぱダメだな。カールに手伝ってもらわねぇと自伝なんて書けやしねぇ。
まぁ、少なくとも最後の一文は決まってるんだ。めでたしめでたし――ってな。
それでいいだろ? カール。