(17)
『なんて、な』
馬小屋の天井に向かって、俺はくぁー、と大あくびをかました。馬は口で呼吸できないから単に大口開けてるだけなんだが、ま、気分だな、気分。
寝っ転がると、上物の藁のなんともいえないくすぐったさが来た。さすがダービー出場馬のためにあつらえた馬小屋。広さといい、風通しのよさといい、清潔さといい、タタルとは雲泥の差だ。
って、サラたちはここより億倍も上等な宿をあてがわれてるんだろうけど。あいつら、どうせベッドじゃ眠れねぇんだから、俺と替われよ。
木組みアーチの出入り口から、プ~ン、とババアが飛んできた。
『よう、おつかれさん。何か収穫はあったかよ?』
プ~ン、プ~ン。
『……おい。返事くらいしろよ』
『どこ見てんだい、青いの』
ありゃ、と振り向いてみれば、俺の尻の上にとまっているのがババアのほうだった。
『アンタね、もう二か月の付き合いなんだから、いい加減他の蚊と区別つけとくれよ』
『ンなこと言ったって、どこをどう見分けりゃいいんだか』
『一目でわかるだろ。ホラ見たんさい、このつぶらな瞳! すらりと伸びた手足!』
『見えねぇって』
とにかくもう、この体格の違いはいかんともしがたい。特に俺は相手の目を見なきゃ話のできねぇタチだから、余計に苦労する。何しろ相手の眼はこっちの万倍も小さくて、しかもどこを見てるか分かりゃしねぇんだから。
『で、どうだった?』
『ああ。あの二人、駆け落ちしたそうだよ。織物商のおぼっちゃんと召使いの小娘。親父さんたちの目を盗んで、ゆんべのうちに街を抜け出したんだと』
『ナニ! そうかぁ、やるなぁ。若いっていいなぁ……。って、ちげーよ! 元に戻る方法、探してこいよ!』
俺が怒鳴るのに、ババアは口をとがらせるように、波型に飛んだ。
『ンなこと言ったってねぇ。手がかりの一つもないんだからしょうがないじゃないか。人気の錬金術師の館ってのに行ってみたんだけど、これがボンクラもいいところ。ただの石ころに金粉塗って賢者の石だと。冗談にしたって、ありゃひどい』
そっか、と俺は首を落とした。
ここに寝泊まりするようになってから、というかトルキス入りしてからずっとだが、ババアには道中のまじない関連の店で情報を集めてもらっている。案の定インチキばかりで、せめて都に入ればと思ったが、この三日めぼしい情報はなく、物のついでにババアが仕入れてくる市中の様子や、男女の逢引の目撃談なんかのほうがよっぽど耳に楽しい。
ちなみにババアの食事だが、俺の飼葉に入ってるリンゴの汁を横からチューチュー吸うだけ。てっきり俺が血を吸われる役を仰せつかると思ったが、「蚊が血を吸うのは卵を産むときだけ。この年で子持ちは勘弁」だそうで、まあそりゃよかった。痒いのキライ。
『それよりどうなんだい、脚の具合は』
『んー、まぁ八割がた回復ってとこか。また無理したら分かんねぇけど』
サラによると、昨日の勝負後に感じた右前脚の痛みは、ナーダムで負った傷がそもそもの原因らしい。
あのジャンプのとき、着地時の体重がモロにかかったためだ。ここまでの三か月は歩き中心だったからよかったが、久々の全力疾走で表に出ちまったらしい。
『まったく……お嬢ちゃんが勝負を避けたがったのは、それを分かってたからだろうに。アンタが挑発に乗ってどうするんだい』
『へいへい、すみませんね。でもまァ、かえってよかったんじゃねぇの? 実力の差ってぇのが痛いほど分かってよ。俺ァ、あれでスッパリ諦めがついたわ』
ババアは俺の前に飛んでくると、目線の上で叱るように羽ばたいた。
『……あんた、悔しくないのかい?』
『悔しい? 何で? 負けたのは俺じゃねぇ、ダヤンハンだぜ』
なかなか気の利いた言い方だと、俺は自分で感心した。
『大体、何で勝った負けたで大騒ぎしなきゃならねぇの。ここに来たのはレースのためじゃねぇ、人間に戻るためだ。そうだろ?』
無言のまま、その場で八の字に回るババア。俺の意見が気に入らない――というより、本心かどうか探っている感じだ。昨日みたいに口じゃ言ってるが結果的にサラを助けたこともあったからな、無理もねぇ。
が、残念ながらこいつは本音中の本音だ。
『そりゃ、サラの馬を死なせちまった責任は、ちったぁ感じてるよ。けど、ありゃタタルの馬が束になったって勝てねぇ。できないモンをできないと言って何が悪いよ』
『「速さ」で負けたからって終わりとは限らないだろう。「強さ」でもってやり返せば』
『それこそ今更だぜ。この三か月、あいつが一遍でも剣を振り回したことあったか?』
ババアはその場に小さく円を描き、だまりこくった。
チャリオッツ・ダービーに向けてサラが選んだ作戦は一つ。一切の武器を持たず、一切の攻撃を受けずに駆け抜ける――つまりナーダムのときと同じだった。
間違いじゃなかったと思う。サラは格闘に関しちゃドがつくくらいの素人だ。馬上槍かなんかをマスターしようとしたって、数か月の付け焼刃じゃかえって火傷するだけ。だったら余計な重量を背負いこまずに他馬よりわずかでも速く走るっつーのはいい選択だ。
ただし、俺より速い馬がいなけりゃあ、の話だ。
俺が言えた義理じゃないが、サラにも慢心があったと思う。どれだけ世界が広かろうと、ダービーがでかい大会だろうと、タタルの馬より速い馬はいない。厳しい自然と広大な大地を相手にしてきた自分たちより優れた馬なんて、いるわけがない。彼女に言わせりゃそれは慢心じゃなく誇りなんだろうが、それが木っ端微塵に砕け散ったのは、見ての通り。
結局、世界は広かった――その一言だ。
『な? 残り一か月でどうこうできる問題じゃねぇ。ジタバタしたってムダなんだよ』
『そうかねぇ』
『そうなの。サラだって同じことを考えてるはずさ』
『とは、思えないけどね』
ババアが馬小屋の入口を指すように飛んだ。視線だけをそっちに向ける。
黒髪黒眼に黒いデール――全身黒ずくめの魔女が、ムチを片手に立っていた。
「特訓の時間よ」




