(14)
「じゃあ、行ってくるよ、じいさん。家のことは頼んだぜ」
「ああ……ケガだけはせんようにな」
「おいおい。これから最後の戦いだってのに、ケガすんなはねぇだろう」
「む。そうか。まあいいじゃないか。何だって命あってのものだねだ。これを持ってけ」
「なんだ、こりゃ。アラムアラムの花びらか?」
「昔からの風習だ。お前みたいな若いモンは知らんだろうがな。アラムアラムは、生涯に二枚だけ花弁をつける。形も色も大きさも同じ、双子のようにそっくりなヤツだ。昔の人間は、親しい人間が旅に出るとき、そのうち一枚をこうやって相手に渡した。対となる花びらが淋しがらんように、必ずまた帰って来い、という意味でな」
「帰ってきたところで、切り離した花びらは元に戻らねぇだろ。大体一日もありゃ枯れちまうよこんなもん」
「気持ちの問題だ、気持ちの」
「ったく、年寄りってのはこうだからな」
「何を。わしはお前のことを心配して……」
「ありがとな。じいさん」
「む?」
「生きて帰るよ。必ず」
「……ああ。達者でな。息子や孫たちもそう祈っとる」
浅い思い出から浮かび上がる。太陽が目に痛い。
『ん……また、夢、か……』
『よく眠れるね、このクソ暑いのに』
一匹の蚊が、耳障りな音を立てて目の前に飛んできた。ジグザグに飛び回るその動きは、本人いわく「つつましやかな怒り」を示すものらしい。何のこっちゃ。
『おかげさんでな……。ってか、蚊って暑さ感じるのか?』
『そりゃ感じるさ。けど、どっちかってぇと人間だったときの感覚のせいかね。アタシぁ北国の生まれだから、こういうところは大嫌いなんだよ』
それは正しいかもしれない。かくいう俺のほうは、出たそばから汗の蒸発していく故郷の気温に、すっかり元気を取り戻しちまったんだから。全身を覆っていた長毛もトルキス高原に入った途端根こそぎ抜け落ちて、たいそう身軽になった。
顔を上げれば、俺たちを見下ろすのは、タタルのにも少しは見習ってほしいくらいに元気な、でっかいでっかいお天道さまだ。
――伝承に言う。
太陽は冷酷な男である。地上の生き物を憎み、焼け死ぬほどの熱を落としてくる。
月は情け深い女である。闇夜を照らし、旅人を導いてくれる。
良い女は、往々にして男運が無い。不幸にも太陽と結婚することになった月は、夫と一夜を共にするだけでやせ衰え、もとの姿を取り戻すのに一月かかってしまうという。
タタルから西へ、太陽と月の交わりを見上げること、三度。
俺は砂漠の大国・トルキス帝国へと帰り着いた。
チャリオッツ・ダービー開催まで、あと一ヶ月――。
トルキスの首都・ブールヴァールは、かつて「ユーロピアの蓋」と呼ばれた難攻不落の城塞都市だ。三方を湾に囲まれ、唯一の陸地である西側には高さ六十五メード、ババアに言わせても間違いなく世界で一番堅固だっていう石積みの壁、ミマール城壁が仁王立ちに立ちはだかっている。
ユーロピアの国々から五百年以上も都を守り続け、友好条約を結んだ今も、街の守り神としての威容は衰えない。都にマジェンタの被害が少なかったのもこの城壁のおかげで、俺たちトルキス人はこの無愛想な巨人に文字通り頭が上がらない。
城門の前は人工のオアシスに緑の低木。砂地のそこかしこに張られたテントの下で、フードをかぶった人とラクダが涼んでいる。高原を越え砂漠を越え、ソウからの品物を運んできたキャラバンだ。
長旅を終えてようやく人心地といった感じだが、税関の列の並ぶ人々の上には日よけがなく、うだった顔の旅商人たちが、剣呑な目つきで俺を睨んでいる。
正確には俺の隣、行列の先頭で、税関の男と長々言い争いをしている黒髪の女を、だ。
「もう一回聞くよ。おたく、住所はどこだって?」
「ないわ」
「だからさ、ないってことはないでしょ。空にでも住んでんの、おたく?」
「タタルの民に決まった住処なんてないの。勉強が足りてないんじゃないかしら、貴方」
キャラバンを構成するのは大抵が東トルキスかシンの商人で、タタルの人間なんてこっちじゃめったに見ない。
たまーに流れ着くヤツはたいてい部族から弾き出された浮浪者で、日々の仕事に飽きがきた役人が鬱憤を吐き出す相手としちゃ最適ってわけだ。
で、そういう扱いをされて大人しくしているサラじゃなく、もうさっきからずっと、
「ええと……で、名前はなんつったっけ、おたく?」
「サラントヤ、よ。よろしければその耳の形をした節穴に百回流し込んであげましょうか」
「はぁ、そりゃありがたいねぇ。田舎モンの訛り言葉が百回で聞き取れりゃいいけどねぇ」
この調子だ。もう完全に嫌がらせでやっている係員と、それにトゲまみれの言葉で応えるサラ、そして火に油を注がれる係員……不毛だ。あまりに不毛だ。
「おーい、いつまでやってんだ!」「こっちはクソ暑い中、荷物抱えて待ってんだぞぉ!」
列の後ろの人間――大半はラクダを引き連れた旅商人たちが、いいかげん焦れてきた。
係員はさすがに飽きてきた感じで「ふぅ」と机から顔を上げ、そして、ぱちくりと瞬いた。サラの顔を今やっとはじめて見たかのように――というか、十数分も言い争って本当に今はじめて向き合ったんだろう――ちょっと驚いた顔を見せ、次いでコホンと咳払い、
「んんっ。……うん、まぁそうだね。いいでしょ。身分上は特に問題ないと認めます」
「当たり前でしょ。それだけのことに何時間かける気よ」
「ゴホンッ! た・だ・し。現在、我が国におきましては移民の大量流入によって犯罪が多発しており、入国者の審査にことのほか力を注いでおります」
「だ・か・ら。それは問題ないって言ってるでしょうさっきから」
「だ・か・ら。それを判定するのは我々の方です。……ちょっと動かないでくださいよ」
そう言うと、鷹揚に机の後ろから出てくる。いぶかしむ様子のサラの後ろへ、面倒くさそうに――ってそれもなんだかワザとらしいんだが――回り込んで、下から手を伸ばし、
「いや、私個人としては気がひけるんですがね。規則ですから身体検査を……ゲボッ!」
頭から吹っ飛ぶ係員。後の列へ激突して、たちまち火のついたような騒ぎだ。
『おっといけねぇ、つい脚が。気ぃつけろよ、おっさん。馬の後ろには立つんじゃねぇ』
あと言っとくけど、この女の尻は……硬いぞ。贅肉が削げ落ちてるからな。
「よくやったわ、ダヤン」
いくぶんスッとした顔で首を撫でてくるサラ。ちなみに、こいつは俺の名前を面倒くさがって一度もフルで呼ばない。自分で命名しておいて、これだもんな。
係員のおっさんが、乱れた人垣の中からヨロヨロと這い出てくる。サラはやれやれとその身を助け起こし、
「どこを蹴られたの?」
「こ、ここ……」
半泣きのおっさん、左の頬を指す。サラは「そう」と頷くと、反対側の頬へ、
「フンッ!」
平手打ちをかました。
ええええっ! と群衆が残らずどよめいた。俺もビビった。鬼か、こいつ。
「さっきのはダヤンの怒った分。これは私の怒った分。それはそれ、これはこれよ」
とんでもない理屈に、両方の頬がリンゴのように腫れたおっさんは、言葉もない。
「な、なんてことするべや、サラントヤ!」
自分の馬を引いたままカカシみたいに突っ立ったドルジが、やっとこ口を開いた。
「はああっ、こんたなえれぇことしでかして……出走取り消しになっちまうべ!」
その言葉に敏感に反応したのは、サラ――ではなかった。
「……出走?」「そういや、タタルから来たって……」「まさか……」
後ろにいたトルキス人の男が、サラの肩を掴み、褐色の顔をワッと近づけた。
「あんた、チャリオッツ・ダービーに出るのかい!」
サラが戸惑い気味に頷くよりも、群衆が爆発するのは早かったと思う。
「うお――っ、すげえ!」「タタルの代表が女だってウワサは本当だったのかよ!」
「なんだよおい、それならそうと早く言ってくれよ!」
と係員のおっさんまで、腫れた顔面を笑顔で飾ってぬかしやがる。
……鼻血出てるぞ。
「ささ、行った行った! おい、道を空けてやってくれ! ダービー参加者のお通りだ!」 ポーン、と音のしそうな勢いで書類にハンを押すと、さっきまでとてんで別人の態度でサラの背を押す。次の関所でぎゅう詰めに詰まっていた行列も、ダービーの言葉が出た途端、驚愕・笑顔・歓声の連続技で道をゆずる始末だ。
『ははあ、こりゃあ驚いた。チャリオッツ・ダービーってなァ、アタシの思ったよりよっぽどデカいお祭りなんだねぇ』
ババアもあきれ顔だ。もっとも、表情は分からないけども。
もはや無用の長物と化した関所を抜けて、あれよあれよとたどりついたのは、城壁の中。
――ああ。
俺は万感の息をついた。
白亜の王宮まで一直線に伸びる広小路――グラン・バザールは、浅黒い顔に長衣のトルキス人たち、布の屋根を冠した露店でうずめつくされている。
羊肉の焼ける匂い。紅茶の香り。立ち上る砂煙。
故郷の景色だ。故郷の匂いだ。
「おっ、アレだよアレ! タタルの!」「おいおい、別嬪さんじゃねぇか!」「がんばれよー! 期待してるぞ!」「おおっ、いい馬だなぁ、こりゃあ! はっはっは!」
ここでも道いっぱいの人々がべたべたと俺の体を触ってくる。あまりの喧騒にドルジの馬が興奮して暴れ出し、ドルジが慌てて制止する――と思いきや、当の本人、なぜか若い女たちにきゃいきゃいともてはやされて、でれでれと鼻の下を伸ばし、
「ドルジ……」
ヒッ、と縮こまる。しかし、そういうサラもガラになく緊張気味だ。こんなたくさんの人間、生まれて初めて見るって顔に書いてある。
『おいおい、すげえな、こりゃ……』
人ゴミをかきわけて大路を進むと、露店の一角に一際騒がしい集団が見えた。
どうやらここは賭場で、白壁に炭で何やら文字と数字を書いては消す、声のデカい男は胴元らしい。めまぐるしく変わる数字を見ながら、ああだこうだとやかましい客たちの手にあるのは銀貨と木の掛札、そして顔に張り付くのは熱狂だ。
なるほど、このバカ騒ぎの正体が分かった気がした。マジェンタに苦しめられた数年間、人々は明日の見えない苦しみに閉じ込められて、ろくに遊びもできなかった。
これは、檻の中から出た鳥が、まさにいっぱいに羽根を伸ばそうとしている景色だ。そして、チャリオッツ・ダービーは彼らにとっての青空なんだ。
(俺は、本当に世界を救えたんだな)
よかったと思う。心の底から嬉しいと思う。そして――
『なんだい、ニヤニヤして。気持ち悪いね』
ババアの思いっきりイヤそうな声にも俺のニヤニヤはおさまらなかった。
ここにいる全員が俺の姿を見たらどういう反応をするだろう。
喝采に包まれる想像が、ひとりで俺の口元を緩ませた。




