心の闇
総一はカップに手を伸ばして持ち上げると、口も付けずに元に戻した。それを見ていた真沙子がカップを手に取り、無言でキッチンへと向う。
「済まないね」
礼を言われ、笑顔を向けると、どういたしまして、と返しながらコーヒーを入れ始た。総一は三人の方に視線を戻し、また、話し出した。
「彼女が転校して来てから、半年位経った頃か、四人で昼食を食べている時に、少し寂しそうに、ぽつりと言ったんだ。ここには人間しか居ないのね、って」
これには実夏が即座に反応した。どうやら黙って聞いているのが苦手の様だ。
「人間しか居ないって、そんなの当たり前じゃない」
「そうだね。僕も何を言ってるんだ、そう思ったよ。だけど、武人は違ったみたいだった。確かに此処には人間しか居ない、彼はそう言ったんだ。まるで、自分も人間じゃ無いみたいな言い方だった。でも、寂しさを感じさせる言い方ではなかった。その場はそれで終わったけれど、学校帰りに、僕が、つい聞いてしまったんだ。お昼のあれ、まるで、自分が人間じゃない、って言ってる様に聞こえたんだけど? ってね。今では浅はかだったと思う。僕が言わなければ、あんな事を言わせずに済んだのに……」
その苦りきった表情は、その事を今でも後悔している様で、そのまま口を噤んでしまった。だが、雄人は何故、母が人間しか居ない、と言ったのか、その事に興味が涌いた。
「母さんは何て言ったんですか?」
総一は、ハッとした。自分がミスを犯した事に気が付いたからだ。過去の事で彼に話さない方が良い事も有るのは理解していたはずなのに、今、その入り口となる部分の話をしてしまった。気が緩んでいたとはいえ、これは浅はか過ぎた。こうなっては全てを話すか、ここで話を止めるかの、二択になってしまった。総一は考えるまでも無く後者を選択した。
「たぶん――、いや、たぶんじゃないな――。絶対、君にとっては辛い話になる、と思う。そうだな、こう言った方がいいね。〝自分自身の存在を否定せざるを得ない〟話。だから、聞かない方がいい」
脅しにも聞こえるが、あくまで雄人を心配しての発言だった。もし、この話を少しでも知ってしまえば、今の彼では、これまでと同様に過す事など出来ないと思ったからだ。だが、総一のそんな心配を他所に、彼は首を振った。
「自分を否定するって事は、父さんと母さんも否定するって事ですよね? そんな事、俺には出来ません。だって、そうでしょう? 今、俺はここに居るし、俺が居るって事は、父さんと母さんも居たって事なんですから」
「それはそうなのだが……。でも、話を聞いてしまえば、確実に君は両親、それも、茉莉花さんの事を否定するはずだ。これは、そういった類の話なんだよ。実際、僕自身が否定しかけたんだからね。それに、君の場合は僕以上に、気持ちが追い付いていかないと思う。きつい言い方をさせてもらうが、君はあの後、両親の死をすぐに受け入れられなかった。まだ小さかったとはいえ、君の心には脆すぎる所があるんだ。それに、心は肉体と違って成長が遅いし、人間には心の弱い部分を別の感情で隠そうとする性があるんだよ。それでもまだ、その感情が前向きならば問題は無い。だが、君の場合は……、それを負の感情で隠した。そんな感情で隠された過去の心の傷は癒えているはずがない。傷の癒えていない君に、この話を聞かせてしまえば、その心が耐えられるとは、とても思えないんだ」
「でも……!」
身を乗り出して、何か言おうとした雄人を制し、総一が言う。
「あの火事が放火、というのは君も聞いていは居るだろうけど、でも、君が聞いていない事が一つだけ有るよね」
眉間に皺を寄せ考え込み、総一の言った事の真意を掴み取ろうとするが、上手く行かない。それでもまだ考え込んでいる雄人の耳に、総一の次の一言が流れ込み、その心の奥底に閉じ込め、克服したと思っていたものを、呼び覚ましてしまった。
「それは、放火犯の事だ」
彼の目付きが変る。眉根は釣り上り、その瞳には暗い色が宿る。それだけではない、その表情までもが憎しみ、という名の狂気の色に染まり始めたのだ。
「それだよ。その顔だ。未だに過去に囚われ続けている。そんな顔をする限り、君にはこれ以上話す事は出来ない」
まるで鬼の様な、それも、人間にそんな目付きが出来るのか、という程の凄まじさで総一を睨み付け、しかも、その殺気は彼の体から溢れ出し、隣の実夏を脅えさせ、アレクに至っては、あまりの恐怖に脅える事も動く事も出来ず、只々、限界までその目を見開き、雄人を見ているだけだ。そんな雄人の姿を前に、総一は落ち着き払って、言った。
「まわりを見てごらん。今の君がしている事を」
目だけを動かし、見る。その光景に、彼は、愕然とした。
「分かったかい。それが今の君の本質だ。どんなに普通に振舞おうとも、どれほど平静を装うとしても、その心の奥底は憎しみで満たされている。それが無くならない限り、いつかは親しい人を傷付けてしまうだろうね」
口を開こうとしたが、何も言葉が出ずに唇を噛み締めると、そのまま椅子に深く凭れ、俯いてしまった。それと同時に、彼から湧き出した殺気が薄れ、実夏は安堵の溜息を漏らし、アレクは緊張が解け、その場に蹲った。
真沙子は雄人を一瞥した後、真剣な表情を総一に向け、耳元で何かを囁く。総一はそれを頷きながら聞いていた。彼女の話が終わると二人は雄人に向き直り、総一が静かに、言った。
「君に話そう。武人から、そして、お爺さんから、その二人の伝言を」
ハッとして彼が顔を上げ、総一の顔を見詰める。
「王者とは常に孤高。心闇に染める者に王者の資格無し。故に闇を創るべからず。常に心穏やかにせよ。さすれば所持万端把握する力、得られん。これ、風巻家家訓なり」
「それは……」
総一が頷く。
「君の家に代々口伝で伝わって来たものだよ。本来なら、雄人君が十五に成った時に伝えられるはずだったんだけど、武人もお爺さんも、その前に亡くなってしまったからね。これを僕は、武人とお爺さんの二人に託されたんだ。お爺さんからは、伝えるのに相応しい時期が来たらよろしくたのむ、と。そして、武人からは、俺達にもしもの事があった時には、と言われてね。本当なら、君自身が心の闇に気付いて、それを振り払ってから、と思っていたんだけど、まあ、結果的には気付いた訳だし、この口伝の意味が理解出来るなら振り払えると信じて、僕達は伝える事にしたんだ」
総一と真沙子、そして、実夏とアレク。四人の視線が雄人に向けられている。二人が信頼の瞳を、後の二人は不安を浮かべた瞳で、それぞれが見詰めていた。
雄人は総一から伝えられた言葉を反芻する。〝王者は常に孤高〟何故、孤高なのか。〝心闇に染める者に王者の資格無し。故に闇を創るべからず〟何故、心に闇を作る者は資格が無いのか。〝常に心穏やかにせよ〟どうすれば穏やかな心で居られるのか。〝所持万端把握する力、得られん〟それはどんな力なのか。直ぐに答えは出そうになかった。只一つだけ、疑問が浮かんだ。総一に顔を向けと、その表情はまるで、初夏の草原の様に爽やかな笑顔だった。
「一つ、聞いていいですか?」
「いいよ」
「小父さんは風巻の家の事……」
「知っている。口伝を託された時、全てお爺さんから聞いた」
「そうですか――。それじゃ、母さんの事も……」
頷く総一を見て、短く息を吐く。
「俺が口伝を理解出来た時には、全てを話してもらえますか?」
「勿論、それが僕の役目だからね。それと、口伝を伝えた今、風巻家の正式な当主は君だ。あの刀を僕に預けるかどうか、今夜一晩、もう一度良く考えてみなさい。話の続きをするかはどうかは、君の答えを聞いてからだ」
総一は席を立ち、自分の書斎へと向かった。
「雄人くん、今日はもう遅いし、泊まっていきなさい。お布団は何時もの部屋でいいわね?」
頷く彼を見て、真沙子も席を立つと、部屋を出て行った。残された三人は、何も話さず、只、黙って座り続けた。
カップに注がれたコーヒーが、人肌より少し温くなった頃、実夏が口を開いた。
「雄人――、あの、あたし……」
「ごめん、今は誰とも話したくないんだ。悪いけど、一人にさせてもらうよ」
雄人は彼女の言葉を遮り席を立つと、刀を手に、部屋を出て行ってしまった。
二人は、出て行く彼の背に心配そうな視線を送っていたが、見えなくなると、実夏は誰に聞かせるでもなく、呟いていた。
「あたしは――、どうすればいいの……? どうやったら力になれるの……?」
アレクも彼女と同じ心境だったのだろうか。その瞳に宿った感情の光は、彼女と同じだった。




