残された者
玄関の扉を開け、上り框に買い物袋を置く。ただいま、の声を発する前に、娘の靴ともう一足、男物の靴が目に留まった。
聞きなれた足音が廊下を渡ってくる。そちら目をやると、アレクが出迎えに来るのが見えた。
「ただいま、アレク。誰か来てるの?」
アレクが頷き、ゆーと、と鳴くと、その首から下がるペンダントが揺れ、それが彼女の目に入った。
「それ、どうしたの?」
首を捻るアレクを見て、自分の胸元を指差し、
「そのペンダント」
僅かに首を下げる動作をした後、アレクは鳴く。やはりその鳴き声には、ゆーと、と聞こえる部分があった。
「雄人くんがくれたのね」
嬉しそうに大きく頷くアレクに、笑顔で返した。
「そう、よかったわね。大事にしないとね」
再びアレクは頷くと、買い物袋を咥え、廊下を戻って行く。
「何時もありがとね。私も直ぐ行くから」
彼女は靴を脱いで上り、後を着いて行く。
アレクは居間の手間の扉を器用に開け、中に入った。そこには業務用か、と見紛うばかりの巨大な冷蔵庫や食器棚、そして、電磁調理器は言うに及ばず、オーブンや家庭用洗浄器に至るまで、あれば便利この上ない物全てが揃った台所、システムキッチンと呼ばれるもの。そこに彼女も後から入り、アレクに声を掛けた。
「その辺に置いといていいわよ」
アレクは律儀にも冷蔵庫の側に荷物を降ろし、居間の方に向かって行く。それを目で追い掛けると、ソファーで寝ている雄人が見えた。
「暖房も点けずにあんな所で寝ちゃうなんて――、風邪引いちゃうじゃないの」
急いで毛布を取りに行き、彼に掛ける。その時、雄人の目から涙が零れ落ちた。
アレクが心配そうに此方に顔を向けるが、立てた人差し指を口に当て、静かにする様に、と合図を送る。その直後、階段を降りる足音が響き、居間に実夏が入って来た。
「あ、おかえりなさい、かあさん」
その元気な声に、母は顔を顰め、アレクは溜息を付いた。
「あたしの顔を見るなり、なんで溜息付くのよ?!」
慌てて人差し指を口に当てたが遅かった。雄人が身動ぎをして、目を覚ましてしまった。
「……寝ちゃった、のか。――あれ? この毛布……」
母とアレクは同時に盛大に溜息を付き、実夏に顔を向けると、その目はこう言っていた。
〝起きちゃったじゃないの〟と。
二人のその眼差しに圧倒され、彼女は立ち尽くしている。そんな三人の様子をぼんやりと認めると、雄人が言った。
「真沙子小母さん? と、実夏? もしかして実夏、怒られてる?」
寝起きでまだ状況が掴みきれていない彼だが、強ち、間違いでもない。
「ち、違うわよ!」
実夏が慌てて否定する。
「怒るのとはちょっと違うけど、似たような物かしら?」
それに同意、の意味で、アレクも首を縦に振っていた。
二人と一匹、いや、三人と言った方が良いのだろう、の遣り取りを見ていた雄人は、首を傾げて考え込んでいる。それを見た実夏は顔を赤くして喚いた。
「余計な事、考えなくていいから!」
肩で大きく息をしながら、雄人を睨み付ける。そんな目で睨み付けられ、藪を突付いて蛇を出すのは得策ではない、と思ったのか、彼は思考を中断し、真沙子に挨拶をした。
「お邪魔してます」
実夏はまだ睨んでいるが、雄人はその視線を意図的に無視をしていた。どうやら頭が冷えるまで放って置く事にしたらしい。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってね、と言っても、もう寛ぎ切ってるわね」
傍らに立ち、微笑みながら見下ろす真沙子に、彼は苦笑で返した。
「この毛布は小母さんが?」
「そうよ。暖房も無しでこんな所で寝ちゃだめよ。風邪引いちゃうでしょ?」
「アレクが側に居て、暖かかったものでつい……」
苦笑しっぱなしの雄人に向かって、アレクは文句でも言う様に長々と唸った。
「悪い悪い、毛布代わりって訳じゃないよ。頼むからそんな事言わないでくれよ」
驚きの余、実夏と真沙子が目を丸くした。雄人がアレクと話す時、人と同じ様に普通に会話をするのは何時もの事なのだが、ここまで長い唸り声で会話が成立しているのを見たのは、初めてだったからだ。
「ね、ねえ、雄人くん。アレクは何て言ってたの?」
真沙子は思わず雄人に聞いていた。実夏も口を開き掛けていたが、同じ事を聞く積もりだったようで、彼を注視している。何故、そんな事を聞くのか不思議でたまらない、といった表情で、雄人は答えた。
「自分は俺専用の暖房器具でも毛布もで無いって。それと……」
そこで言葉を濁すが、その先を促すように、二人は頷き、彼から目を離そうとしないので、雄人は溜息を付きながら、口を開いた。
「今度からは寝そうになったら――、俺の大事な部分に噛み付くって……」
二人がアレクに視線を移すと、その通りだ、とでも言うように、アレクは大きく頷いていた。
二人は顔を見合わせ、驚きの表情を、雄人とアレクに向けた。
「あんた達、もしかして、異種族間恋愛でもしてるの?」
これに真沙子も頷く。しかし、余にも突拍子も無い実夏のこの発言に、一瞬、雄人とアレクは呆けてしまった。ハッとして、我に返ると、
「何、おかしな事言ってんだよ。そりゃ、アレクの事は好きだけど、恋愛の対象に成る訳ないだろう? もう少し考えてから言ってくれよ――」
アレクも彼と同時に、唸るやら、鳴くやら、素振りなどで抗議をする。そして、お互いの顔を見合わせ頷くと、パソコンの前に移動をするアレクを、母と娘はジッと見ていた。
(実夏、おつむ大丈夫?)
短い文字が画面に躍った。
母が一瞬、実夏の顔を見た後、顔を背け、小さく噴出す。雄人も顔を背け、何かを堪えている。そして、名指しされた本人は、というと、愕然とした表情をした後、顔を俯かせ、全身を震わせて、なにやらブツブツと呟いている。そして、徐に顔を上げた。
「アーレークー。あたしの頭がどうしたってえ?」
片頬を引き攣らせながら、笑顔で言い放つ彼女に対し、更に画面に文字が躍る。
(だから、おつむが壊れてんじゃないのかって言ってるのよ。もっとも、あんたの場合は今より壊れても、余変らないと思うけどね)
火に油を注ぐ様に、実夏の揮えも激しくなり、頬の引き攣り度合いも増した。
(あら? 怒ったの? でも、お馬鹿さんはホントの事じゃない。あたしの方があんたより勉強出来るんだし)
事実、勉強はアレクの方が出来る。が、これは流石に火薬を投げ入れる様な物だった。
「こ、こ、このバカ狐! よくも言いたい放題言ってくれたわね! 今日の夜からあんたなんか外に出してやる! ぜえっったい、家になんか入れてやらないんだから!」
言うが早いか、アレクに飛び掛る実夏ではあるが、人間が動物の動きに敵う訳が無い。ましてや、猫のようなイヌ科、と形容されるほど狐は俊敏なのだ。その動体視力と反射神経は、人とは比較に成らないほど鋭い。しかも、他の感覚でさえ、人は敵わないのだ。例え見えていなくとも動きを察知するなど容易い事だ。現に、後から飛び掛った実夏を確認せずに躱している。ただし、それで彼女が諦める訳ない。逃げた先に鋭い視線を飛ばし、追撃体勢に入っている。が、アレクは小馬鹿にでもする様に、首を傾げていた。
「嘗めてんじゃないわよ!」
威勢良く飛び掛る実夏だが、追いかけっこは終始、アレク優勢のままだった。そのアレクは、というと、彼女を寸前まで待って避け、小馬鹿にした様に首を傾げる。それを見て彼女は更に逆上し、追い回す。それを何度も繰り返していた。だが、そのうち実夏の体力が尽き、へたり込んで、肩で息をしている所にアレクが近寄ると、その顔を覗き込み、笑った。
「アレクの勝ちだな」
突然後から掛かった声に、アレクはバネで弾かれた様に大きく横に跳び退り、声がした位置に鋭い視線を投掛ける。そこには雄人が立って居た。
雄人はそんなアレクを不思議そうに見た後、しゃがみ込むと、実夏に手を差し伸べた。実夏がその手を掴むと、立ち上がると同時に引張り上げ、ソファーに座らせた。
「アレクと追いかけっこしても勝ち目が無いのに良くやるよ」
疲労困憊といった姿の実夏に声を掛けると、自らも彼女の隣に腰を下ろす。そんな雄人をアレクまだ、は鋭い目付きで見ていた。
「お、大きな――、お世話――よ」
上半身を前に倒し、ゆっくりと息を整えながら、顔を向けて言った後、上体を起こして深呼吸をした。
真沙子は、娘とアレクの追いかけっこを微笑ましく見ていたが、彼女がへたり込んだ後の雄人の動きに驚嘆した。彼は音もなくゆっくりとソファーから腰を上げると、ほとんど膝も曲げずに僅かに腰を落としただけで飛び上がり、置かれたテーブルを越え、アレクの後に立った。ただ、それだけの事。何も、テーブルを飛び越えなくとも、と思いもしたが、飛び越えずに回り込むには、自分を退かすか、アレク専用のキーボード退かさないといけない。それを面倒と思うかどうか、なのだが、一番早い方法が飛び越える事なのも事実だ。言葉で言ってしまえば簡単な事なのだが、テーブルとソファーの隙間はそれほど広くは無く、助走する事も、膝を深く曲げて飛び上がることも出来ない。だから、彼の飛び方は正しいのだが、普通、あんな飛び方はしない。と、いうより、人間には出来ない。もし出来たとしても、軽く垂直に飛び上がるのが関の山だ。其れだけではない、着地の際にまったく音を立て無かった。そして、アレクにさえ悟られなかったのだ。その証拠に、彼が声を掛けたとたん、弾かれる様に大きく横に跳び退り、今も彼を鋭い視線で見ている。彼自身は、この事には気付いていない様だが、これは、アレクが彼に対して本能的な危険を感じた、という事でも有る。
「あんた、足音くらい立てなさいよね。アレクなんか警戒してるじゃない」
実夏の一言で、真沙子は思考を中断した。
「ワザとじゃないんだけどな……」
彼自身が無自覚で行った事なのは、今の言葉から窺い知れた。
「雄人くんって、すごいのね。おばさん、びっくりしちゃったわよ」
「それほどじゃないですよ」
頭を掻きながら謙遜して照れる。この辺は歳相応だ。
アレクも警戒を解き、此方に歩み寄って来ていた。ただし、その表情は雄人に何か聞きたそうではあった。
「あ! こんなにのんびりしてる場合じゃなかったわ! お夕飯作らなくちゃ! 雄人くんも
食べて行ってね」
小走りにキッチンへ向かって行く。そんな真沙子の後姿を、雄人はまぶしそうに見ていた。
「なに人の母親の後姿に熱い視線送ってんのよ」
振り返り、実夏の顔を見た後、俯き加減で寂しそうに呟いた。
「俺の母さんも生きていれば、家に友達を連れて来たら、あんな風なのかなあ、って思って……」
実夏はハッとして口元を押さえ、慌てて言った。
「そ、そんな事ないわよ!」
雄人が顔を上げ首を傾げると、更に慌て、
「あ、いや、そうじゃなくて、えっと――、そう! あれよ! あれ!」
何があれ、なのか分からないが、慌てる彼女を見ていると、おかしくて、雄人は笑いだした。
突然笑われた実夏は剥れ、文句を垂れる。
「何笑ってんのよ!」
雄人は笑いを止め、一つ息を吸い込むと、彼女に笑顔を向けた。
「ありがとう」
その笑顔と、ありがとうの一言で機嫌を直し、僅かに頬を染め、口元が緩み掛けた彼女だが、それを誤魔化す様に、顔を背けた。
「な、何の事よ。別にお礼言われるような事してないし」
しかし、その表情は嬉しそうだった。
二人の遣り取りを不思議そうにアレクは眺めている。それに気が付いた実夏が、アレクに向かって口を開いた。
「もしかして、雄人のお母さんの事に興味でもあるの?」
何かを言おうとして、アレクは口を開き掛けたが、テーブルの上のノートパソコンを二人に向けると、自らはキーボードの前に移動して、キーを叩き始めた。
(興味有るか無いかって聞かれれば、興味無くは無いわね)
その時アレクの耳が動く。と同時に、声が聞こえた。
「帰ったぞー」
居間の全員が声のする方に顔を向ける。廊下に軽く足音が響くと、声の主が姿を見せた。
「おかえりなさい。とうさん」
「おかえりなさい。お邪魔してます」
アレクは一声吠える。
キッチンからも声が掛かった。
「総一さん、おかえりなさい」
「ただいま、真沙子」
「もうすぐお夕飯出来ますから、着替えてきてくださいね」
わかった、と頷く総一に、画面の文字が目に入った。ただ、その文面だけではどの様な事柄なのかまでは分からない。
「アレクは何に興味を持ったのかな?」
笑顔で聞く総一に、実夏が答えた。
「雄人のお母さんに、少し、興味が有るみたいよ?」
雄人の顔を見る。彼も総一に顔を向けると頷いた。それを受けて、総一も頷く。
「なるほど。それじゃ、着替えて来るまで待っててもらえるかな?」
総一と雄人、二人の間に交わされた視線に首を傾げながら、アレクは頷く。それじゃ、また後で、と言葉を残し、着替えの為、居間を出て行った。三人がその後姿を見送ると、実夏が雄人に向かって口を開いた。
「ホントにいいの? 無理しなくてもいいんだからね」
実夏に顔を向けた後、アレクを見ながら自分のポケットから鍵を取り出し、そこに付けている物に目を落とした。
「なんとなく――、なんだけど、アレクは知らなくちゃいけない様な気がするんだ。俺の母さんの事……。それが何故だかは、俺にも分からないんだけどね。俺自身、母さんの事を全部知ってる訳じゃないし、それに――、俺の口からは話せない事もあるから、ね……。あれから十年――。今でもあの時の事を思い出すと……」
言葉を濁すと雄人は唇を噛み締め、何かを必死で堪えている。そんな彼の姿を見た実夏は、何も言葉を掛けてやる事の出来ない自分が歯痒かった。
キーを叩く音がする。それが耳に入り、彼は顔を上げ、画面目を向けた。
(雄人の過去に何があったのか、あたしは知らない。だけど、そのペンダントに彫ってある
のって、今のあんたには、とても大事な事なんでしょう?)
ペンダントの裏、そこに彫ってある文字。それは、彼の両親からの最期のメッセージ。自らの声で届けられなかったものであり、それが届くと信じて託された物。雄人にも分かっている。だが、頭では分かっていても、感情では受け入れ難い事があるのだ。
〝いつか誰にでも死は訪れる〟
生き物全般、即ち、人間も例外無く直面する事。それは〝死〟というもの。寿命ならば受け入れる事も出来ようが、それが突然襲って来た時はどうか。残された者にとって、近ければ近い程、親しければ親しい程、愛しければ愛しい程、その事実は受け入れ難くなってゆく。そして、それに直面した時、或る者は心を壊し、また或る者は自暴自棄となり、最悪、後を追う事さえある。
彼もまた、その一人だった。ただ、幸いな事に、彼の事を気に掛けてくれる人達が身近に居たお陰で、今はこうしていられる。
雄人は手にしたペンダントから顔を上げた。その彼を心配そうに見る二人が居る。それぞれの顔を見た後、目を瞑り、一度、大きく深呼吸すると目を開けた。
「そうだな。俺はあの時誓ったんだよな。もう、喧嘩はしないって。胸を張って生きてきたっ
て言える様になるって……」
その表情は、何時もの彼に戻っていた。
二人が安堵の溜息を付く。と同時に総一が居間に戻ってきた。
「待たせてすまないね。それじゃ……」
話をしようか、と言い掛けた所に、真沙子の明るく柔らかい声が飛び込んで来た。
「ご飯できましたよー」
全員がそちらに顔を向ける。
「食べてからにしようか」
皆が頷き、ダイニングに移動していった。




