エピローグ
二人が消えてから一月ほどたった頃には、街の生き残りの人々は風巻家を中心に東西南北の地区を造り、粗末ではあるが家を建て生活する様になった。そして、それぞれの地区からは数名の代表も選ばれていた。
この切っ掛けを作ったのはマルスだった。当初は食料や水を巡って争いが絶えなかったのだが、マルスはこれを仲裁して回り、問題解決に貢献したのだ。その事もあり、今では頼りにされる存在にまでなったが、自らが街の代表となる事だけは辞退していた。
風巻家の庭園は昔の面影は殆ど残っておらず、今や全部が畑と化していた。胡瓜にトマト、ナスにオクラ、ピーマンにカボチャなど、夏野菜の代表格達が元気に葉を茂らせている。そこには、マルスがせっせと水撒きや虫取り、草むしりをする姿があった。
「しかし、水が出るとは幸運でござったなあ……」
空を見上げて額に浮かぶ汗を拭いながら、その時の事を思い返していた。
ある日、各地区の代表と食料の事で話し合いをして帰宅した時、庭の片隅の土が、そこだけぬかるんでいるのを見付けて不思議に思い掘り返してみた。そのぬかるみに沿って一心不乱に掘り進め、七、八メートルほど掘った時点で水が湧き出し始めたので、これは、と思い、テレビで見た記憶を頼りに、せっせと石を積み上げて数日掛けて井戸を作った。最初は飲めるか心配だったのだが、井戸が完成した日に、たまたま遊びに来たサミュエルが、簡易水質検査キットを持っていたので頼んで確認してもらうと、飲み水として申し分ない事が分かった。飲めると分かった瞬間、余りの嬉しさで彼を宙に何度も放り投げた挙句に、地面に落としてしまい最後は怒られたが、それよりも喜びの方が大きく、急いで実夏に伝えた所、庭で畑をやる事を勧められ、庭石や庭木などを全て取り除き、借りて来た鍬で土を掘り返した。最初はどうやれば良いのか分からずに適当にやっていたのだが、ある時、ふと思い立って街の本屋跡を掘り返してみると、上手い事に家庭菜園の本が見付かり、それを片手になんとかここまで作り上げる事が出来たのだ。
「しかし、義兄上の教えは本当に役に立つでござるな」
まだマルスが熊の姿の時に言われた事があったのだ。
〝本は色々な知識が学べるから、お前も読めればいいんだけどな〟
「あの頃は本を捲る事が出来なかったでござるが、今は刻結様のお陰で本も捲る事が出来るでござる。本当に拙者は幸せ者でござるよ」
笑顔で呟きながら、せっせと水を撒いていく。そんな姿を実夏は縁側に座って眺めていた。
「まさかマルスと一緒に暮らす事になるなんて思いもしなかったなあ」
彼女は彼等が帰って来た時こそ笑顔を見せてはいたが、その後しばらくは笑顔一つ見せなくなっていた。それをマルスは心配して、何くれと無く世話をし、そんな彼を鬱陶しく思い、当り散らしもしたが、それでも世話を焼く事を止め様としなかった。そして、ある時母と雄人の事で喧嘩をして家を飛び出した時に野犬に囲まれて襲われる、という事態に遭遇し、間一髪マルスが間に合い、犬達相手に大立ち回りをして追い払う、といった事があった。その時のマルスは実夏の事を慮って言ったのだろうが、その言葉は彼女の胸に突き刺さった。
「拙者は実夏殿の身を守る事や軽い傷の治療なら出来るでござるが、心の傷だけは癒してあげられぬでござる。しかし、悲しいのは実夏殿一人ではないのでござるよ? 実夏殿は知らぬでござろうが、真沙子殿も義兄上と義姉上の写真を見詰め、度々一人で泣いていたでござるよ」
初めて聞いた事実だった。
あの母がまさか、と思いもしたが、考えてみれば、雄人が両親をなくしてからは、まるで自分の息子のように接していた事を思い出し、自分が子供の頃はその事に嫉妬して我侭を良く言っていたのも思い出した。そんな母だからこそ、自分をこれ以上悲しませない様にするために明るく振舞っていたのだと、今更ながらに知り、マルスに抱き付いて泣いた。それから数日の間、紆余曲折もあったが、無事にマルスと一緒になれた。もちろん、ご多分に漏れず父は反対したが、無理やり納得させたのが母だった。
そんな事を、ふっと思い出し含み笑いを漏らす。
「実夏、いくら夏でもそんな格好じゃ体に良くないわよ。もう、あなただけの体じゃないんだし」
真沙子が膝掛けを渡した。それを受け取ると、彼女は自分のお腹に手を当ててから、またマルスに視線を向ける。
「もうすぐお昼が出来るからマルスも呼んであげて」
実夏は頷くと、マルスに声を掛けた。
「もうすぐご飯よ。切のいいとこで戻ってらっしゃい」
彼女の声を聞いて腰を上げて振り向くと、マルスは満面の笑顔を向ける。
「今行くでござるよ」
笑顔の実夏に向かってマルスは歩き出すと、ふと立ち止まり、空を見上げた。
「義兄上、義姉上、拙者はここに居るでござる……。実夏殿と――、これから生まれ来る命と共にずっと待っているでござるよ」
彼の胸に下がるペンダントが陽光を跳ね返し、誇らしげに輝くのだった。
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