表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠久の時の彼方でⅠ  作者: 春岡犬吉
第七章
33/52

家族

 街の目抜き通りでは、パニックが起こっていた。悲鳴を上げ、逃げ惑う者、腰を抜かして動けなくる者、泣き叫び助けを求める者、中には建物に逃げ込み写メを撮る者も居るが、それはごく一部に過ぎない。殆んどの人々は冷静さを失い、逃げ惑うばかりであった。その原因は熊だ。それも大きな羆。それが歩道を走り、時折車道に飛び出しては、辺りを見回す、といった行動を取っていた。人を傷付ける様な事はしていないし、その素振りも見せないが、ニュースなどで報道されている事がすべて、と思い込んでいる人々にとっては、その場に〝居る〟という、ただそれだけで、恐怖と戦慄の対称になる。時としてそれは、容易く人の理性や倫理観といった物を壊し、自分達には害が無いと分かって居ても、その元となる対象を徹底的に排除する方向へと、突き動かしてしまう。その証拠に、熊が襲って来ないと分かると、物を投げ付ける者が出始めた。最初は手持ちの本や、ペンなど、軽い物だったが、次第に空き缶や、店の店頭に並ぶ陶器などに変わった。中には、周囲の人の事も考えずに、どこからか包丁を持ち出して投げ始める者までいた。

 自分を見て逃げる人々を見たマルスは、少し悲しかったが、その事は仕方の無い事だと、理解していた。自分の仲間が人間を襲い、殺してしまうニュースを見た事も有ったからだ。だから、人々を避けて走った。自分は何もしない、と態度で示した積もりだった。それなのに、物を投げ付けられた。一つ二つならば、或いは軽い物ならば自分を追い払おうとしているのだ、と分かる。だが、今の様に囲まれ、逃げ場の無い自分に容赦なく物を投げ付けるのはどうしてか。マルスには分からなかった。そして、心の中で、雄人に言った言葉を繰り返した。

――拙者、何か悪い事したのでござるか! お願いでござる! 誰でも良いので教えてくだされ!

 心の中で言葉を叫び続け、その瞳からは涙を流していた。悲しくて、切なくて、辛くて、そして、誤りたくて、止め処なく流した。

 幸い、投げ付けられた包丁がマルスに当たる事はなかったが、地面に当たって折れた刃の部分が、悪い事に、マルスを囲む人垣の一部に飛び込み、関係ない人を傷付けた。しかし、その事実は無視され、すべてマルスの所為にされた。

 誰かが言った。こんな所に熊が出なければ怪我なんかしなかった、と。別の者がそれに応じた。そうだ、あいつが悪いんだ、と。

 それを聞いてマルスは、やはり、と思った。

――拙者がこの世に生まれ出でたのは間違いでござったか……。

 その場に蹲り、涙を流し、楽しかった日々を思い出していた。

 マルスは誰も恨む事をしない。自分が元気になれたのも人間のお陰であり、楽しく過ごせたのも同じ。感謝しこそすれ、恨むなどという感情は湧き上がってこなかった。そして、こうして最後に自由に走り回る事が出来た。これで満足だった。

 それでも、雄人や実夏、アレクと別れるのは身を切られる思いだった。

――もっと、もっと、色々な事を教えて欲しかったでござるよ……。

 先ほどよりも更に激しく物を投げ付けられる。それを甘んじて受け入れ、微動だにせず、ジッと耐え忍んでいた。

 制服姿の少女が群集を掻き分け、先頭に出る。彼女はその光景を見て、絶句した。熊は明らかに反撃する素振りを見せていない。なのに、人々は物を投げ付ける事を止めようとしないばかりか、更に激しくなる一方だった。それを見た彼女は、人々に対して激しい怒りを感じ、後先考えずに飛び出していた。

 群集は見た。黒髪を(なび)かせ、その漆黒の瞳を怒りの色に染めて涙を浮かべた少女が、自分たちを睨み付け、熊を守る様に立ちはだかるのを。

 ほんの僅かの間、動きが止まる。だがそれも、誰かが叫んだ一言で、また動き出した。

「飼い犬の責任は飼い主にも有るんだ! 一緒にやっちまえ!」

 群集心理とは恐ろしい物。そのたった一言で同調する者が直ぐに現れ、それは波紋の様に広がり、人々を意思を持つ操り人形と変えてしまった。そして、あたかもそうする事が当然、といった様に、彼女にも物が投げ付けられた。

 自分に当たる物が減ったのを実感したマルスは、顔を上げる。そこには、投擲物からマルスを守るように、仁王立ちで立ち塞がる実夏の姿があった。

『み、実夏殿!? 何故……!』

 驚き、彼女だけに聞こえる様に小声で話すと、実夏が振り向いた。その額からは血を流し、体は物が当たる度に揺れ、痛みに耐えるその顔は、僅か顰められてはいたが、笑顔で言った。

「あんたはね、あたしとアレクの弟みたいなものなのよ。そうでしょ? アレク」

 何時の間に着たのか、アレクは飛び上がり、その口と前足で器用に物を弾き飛ばしながら、言った。

『実夏の言う通りよ。あなたはあたし達の弟よ』

 二人の言葉は、マルスに心に深く突き刺さる。自分が弟、二人はそう言ってくれた。あまりの嬉しさにその顔を歪め、大粒の涙を流させた。

『せ、拙者、ここに居ても良いのでござるか? ここで生きてても良いのでござるか?』

「あたりまえでしょ!」

『当然よ』

 即答する二人のその表情は、笑っていた。

 雄人は走っていた。その目に映ったのは、何かを囲む様に集まる人々の群れだ。彼等は口々に何かを喚いているが、その言葉を聞き取る事は出来ない。だが、その中心にマルスが居る事だけは分かる。雄人は通常の人と同じ走りから、彼、本来の全力疾走に移った。

 手に物を持ち、群集に走り寄ろうとしていた者は、突然吹き過ぎる突風に顔をしかめ、人とは思えない速さで遠ざかる影を目にして、手に持ったものを取り落とし、別の者は振りいた所に、一瞬にして眼前に迫る銀髪碧眼の若者に腰を抜かした。そして、遠くから事態を見守って居た者は、我が目を疑った。

 彼の走りはすぐに人間の域を超える。百メートル走ならば五秒を確実に切り、時速に直せば、約八十キロにも達する。そんな速さで人を縫って走るなど、自殺行為に等しい。がだ、雄人は平然とそれを行う。そして、左腕を横に伸ばすと、小さく叫んだ。

「来い! 刻結!」

 その手の中に、突如として日本刀が現れる、と同時に、群集に最後列が近付く。雄人は地面を強く蹴り飛ばし、一気に飛び上がった。前代未聞の走り幅跳び。その高さは、人々の遥か上、五メートル程。その到達距離は、十二メートルを超え、十五メートルにも達しようとしていた。彼は実夏達をその視界に収めると、彼女に向かって迫る包丁を目にし、縮めていた手足を広げ、勢いを殺す。綺麗な放物線を描いていた彼の体には、ブレーキが掛かり、急激に落下を始めた。その落下中に刀を抜くと、身を捻り、渾身の力を込め、刀を振り抜く。包丁は間一髪の所で弾き飛ばされ、投げ付けた群集の足元の地面に突き刺さった。だが、それで終わりではない。刀を振った勢いを殺さずに、さらに体に捻りを加えると、あろう事か、空中で複雑に横移動を繰り返し、迫り来るすべての投擲物を弾き飛ばした。

 実夏は眼前に迫る包丁を見た。それを避ければ、マルスに当たる。弟を守るのは姉である自分の役目。そう決めてここに居る。だから、何が有ろうと避ける事はしない。刃が彼女の方に向き、刺さる。そう思い。目をきつく閉じた瞬間、金属同士がぶつかり、はじけ飛ぶ音と共に、他にも複数の音が響き渡った。今まで騒いでいた群衆も静まり返り、自分に何も当たらなくなった事を不思議に思い、ゆっくりと瞼を開く。その瞳には、驚愕した表情で動かなくなった人々が映った。

『何しに来たのよ。馬鹿雄人』

 アレクの言葉に振り向くと、そこには、片膝を付いて刀を携えた、雄人が、居た。

「マルスに謝ろうと思ってね」

 不適な笑みを浮かべて言う台詞ではないが、この場ではむしろ、相応しいのかもしれない。

『ゆ、雄人――殿。な、何故、斯様(かよう)な場所に……』

 顔を彼に向けたマルスは、驚きと、そして、嬉しさを、その表情に浮かべていた。

 雄人は苦笑する。

「さっきは悪かったな、行き成り殴って。だけど、テレビで見た事をやっちゃ駄目だぞ。テレビはテレビ、現実は現実って、区別しろよ?」

 自分が先ほどやろうとした事は悪い事で、その理由も今、ちゃんと説明してくれた。そんな雄人に、マルスは感謝の気持ちでいっぱいになった。

『分かり申した。拙者、もっと人の世の事を勉強しとうござる。雄人殿、教えて頂けぬでござろうか?』

 その答えに満足して、雄人は頷いた。

「よし、帰ったら勉強するか。それとな、もう、勝手に出歩くなよ? 外に行きたい時は俺に言え。一緒に行ってやるからさ」

 あの家にまた行ける。マルスは感激した。

『せ、拙者、また雄人殿の家に行って良いのでござるか!』

「馬鹿やろう、あそこはもうお前の家だ。行く、じゃなくて帰る、だろ?」

 マルスに笑顔を向ける。マルスも涙に濡れた笑顔を向け、頷いた。

「あたしの前に姿を見せるなって言ったの、もう忘れたの?」

 悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ、雄人に向かって言う彼女に、彼はそ知らぬ顔をして、返した。

「俺、お前の後ろに居るんだけどな」

 軽く笑いを漏らすと、実夏は目元を緩めて、言った。

「まったく――、その減らず口だけは直らないのね」

 四人は静かに笑った。その時、また誰かが叫んだ。

「あ、あいつ! 刀持ってんぞ! 俺たちを殺す気だ!」

 その声は、最初に叫んだ者と同じ声。その事をアレクが雄人に囁くと、彼は声を張り上げた。

「今怒鳴った奴、出て来い! さっきも煽ったらしいじゃないか! そんなにこいつ等を殺したいなら、真正面から一人で来いよ! それに、この熊が誰かを怪我でもさせたか!? 誰も襲ってないだろうが!」

 静まり返る群集の中から、声が聞こえた。

「そいつがここに来たお陰で、包丁で怪我したのも居るんだぞ!」

 あまりにも身勝手な理由に実夏は切れ、その美しい顔を般若のように歪め、反論した。

「そんなの自業自得でしょ! 誰かが投げた包丁が外れてそれで怪我しただけじゃない! この子のせいにしてんじゃないわよ!」

 二人のお陰で人々は徐々に冷静さを取り戻していく。そんな中、アレクの顔と耳が、すばやく実夏の前方に向いた。

『雄人! あれ!』

 アレクの視線の先に雄人は目を凝らす。そこには、人ごみに紛れた暗闇から、銃口が覗いていた。彼が、まずい! そう思った刹那、あたりに銃声が鳴り響いた。

 人々は驚き、実夏も何が起こったのか分からず辺りを見回す。すると、何時の間に前に来たのか、雄人が右肩を抑えて、蹲っていた。

 実はそれを確認した瞬間、雄人は実夏と銃の射線上に神速の動きを持って身を滑り込ませ、刀で弾くのは無理、と判断するや、自分の身を盾にして、彼女を守ったのだ。

「ゆ……!」

 声を掛けようとして、彼の足元に滴る血を見て絶句し、先ほどの銃声が自分に向けられた物だと、理解した。

「実夏、下がってろ――。マルス、悪いが実夏の盾になってくれ」

『承知』

 短く返答するや、マルスは即座に起き上がり、その巨体を実夏と雄人の間に割り込ませ、銃声のした方を睨み付けて、唸り声を上げる。雄人はゆっくりと立ち上がると、息を吐き、氷の様な視線で前方を睨み付けた。

 人々は銃声に驚き、その場に固まっている。そこに、雄人の怒鳴り声が響き渡り、我に返った。

「そこの卑怯者! 姿を見せろ!」

 前方を睨み付ける彼の視線上に居る者達は、恐怖を覚え、波が引くように、割れた。そこには、あの小男が拳銃を握り締め、薄笑いを浮かべ立っている。もちろん、銃口は、雄人にその狙いを定めていた。

「へっ、一発じゃ仕留めそこなったか。けど、これなら絶対外さねえ!」

 両手で銃を握り締め、反動でぶれない様にすると、彼の腹に狙いを定め、引き金に力を込める。が、男は引き金を引く事も出来ず、何が起きたのか認識すら出来ないうちに、その体を天高く舞い上がらせ、地面に落ちた時には白目を剥いて、昏倒していた。

 その場を見ていた者達にも、何が起きたのか、分からなかった。ただ、一つだけ分かる事が有った。少年がいつの間にか、男の居た位置に立っている、という事だけ。それは実夏やアレク、マルスも同様だった。その彼は、氷の仮面の様に冷徹な表情で、目線を男に注ぎ、肩から血を流していた。だが、その姿は、見ている者達を、陶然とさせた。

 雄人が(おこな)った事。それは以前、刻結に挑んだ時にも見せた動きと同じ物。全身の筋肉を強靭なバネと化し、それを一気に開放、そして、一瞬にして間合いを詰め、渾身の力で攻撃を放つ。この時の彼は、間違いなく地上最速の生物だった。この事を、言葉で言ってしまえば単純だが、人間に真似の出来る芸当ではない。そして、彼は知らない事なのだが、同じ事が出来た者は、風巻家の歴史の中で、もう一人居た。それは、雄人の母である茉莉花、その人だった。この事実は、雄人が彼女の資質を受け継いでいる証でもあった。

 集まった人々が、呆然と雄人を見詰める中、やっと警官隊が到着し、群衆を解散させる。雄人の姿を見掛けた警官が慌てて駆け寄り、声を掛け様としたが、その後方に居るマルスを見て、一瞬たじろぐも、彼の足元で拳銃を握り、昏倒する男と、狐と熊の後で立つ少女を見て、瞬時に理解した。

「君! 大丈夫か?!」

 その言葉に雄人は黙って頷く。が、その手に刀はすでに無い。

「あの熊は……、もしかして、君の――か?」

 マルスに視線を移し、彼に尋ねる。雄人は後を振り向くと言った。

「俺の大切な家族ですよ」

 その表情は穏やかな笑顔を見せ、彼女達も、彼の言葉に笑顔を返すのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ