マルスの涙
マルスは男を引き摺りながら、台所でウロウロしていた。その男は、先ほど雄人がお茶に誘った泥棒だ。ただ、今の彼には、何かを盗る、という気持ちは無くなっていた。それもそうだ、こんな熊を放し飼いにする家から何かを盗れる、などと考える方が無理が有った。その彼の目下の悩みは、引き摺られるのを何とかしたい、ただこれだけだった。
「あ、あの、熊さん? もう悪い事はしないので、放して貰えませんか?」
丁寧に訴えると、熊の動きが止まる。すると、彼は開放され、暫らく顔を見詰められた。
『おお、これは済まぬ事をした。拙者、お菓子に目が眩んで気が付きもせなんだ。これ、この通りだ。許されよ』
頭を垂れて謝る熊を見るのも初めてだが、人語を話す熊など聞いた事も無い。男は口を大きく開けて、その場に固まった。そこに雄人がやって来ると、その男を不思議そうに眺めて言った。
「どうしたんだ? なんか、固まってるぞ?」
マルスは振り向き、雄人に顔を向けた。
『雄人殿か。拙者、この男を放すのを忘れ、引きずり回して居ってな、それを謝罪したらこうなったのだ』
雄人は怪訝そうな表情を見せる。マルスが謝罪、そして、男が固まる。そこでピンと来た。
「マルス! お前、しゃべったのか!」
『はて? いかんでござったか?』
「いかんも、いかんじゃないも、いかんだろうが!」
言っている意味がまったく分からず、マルスは首を傾げた。
「だーかーらー! 見ず知らずの人の前で話すなって、話せる様になった時、俺が言っただろうが!」
マルスは記憶を探る様に、首を左右に捻り始める。どうやらこれは、マルスのクセらしかった。
『おお! そういえば! 思い出し申した! 確かにその様な事を申されて居りましたな!』
雄人は開いた口が塞がらなくなり、顔に手を当てると、溜息を付いて俯いてしまった。
『雄人殿、どうなされた?』
『たぶん、あんたがあまりにもお馬鹿さんなんで、頭が痛いんじゃない?』
アレクが口を挟む。が、マルスにはその自覚はまったく無かった。
『拙者がお馬鹿とな?』
雄人とアレクが頷いた。
『なるほど! 拙者、お馬鹿だったのでござるか! いや、これは参り申した!』
声を上げて笑う。それを見た二人は、呆れ果てるしかなかった。
ノッポはその声で我に返ると、まるで、水面で喘ぐ金魚の様に、口を動かし、震える指でマルスを指した。
『お、雄人殿。客人が気が付かれましたぞ』
先ほど言われた事など、何所吹く風、と言わんばかりに、また話す。雄人は呆れ果てて溜息を付きながら首を左右に振ると、ノッポに近寄り声を掛けた。
「悪いんだけど、この事は黙っててくれないかなあ……」
苦笑を向ける雄人に、彼は顔を向け、何かを言おうとしている様だが、その口から出る言葉は、意味不明な音の羅列に過ぎなかった。
「とりあえず、深呼吸して落ち着きましょうか」
言われた通りに何度か深呼吸をすると、次第に気持ちが落ち着いていき、とりあえずは、会話が出来るまでにはなった。
「あ、あの! く、く、熊が! しゃ、しゃべったんですけど!」
雄人は大きな溜息を付くと、マルスを、じろり、と睨み付けてからノッポに向き直り、口を開こうとした、その瞬間、今度はアレクが話し出した。
『普通はそうよね。あたし達が話せば驚くわよね』
ノッポはまた、口を大きく開けて呆け、雄人も開いた口が塞がらなくなった。
『あら? なんで雄人まで呆けてるのよ? あんたには別に珍しくもなんとも無い筈でしょう?』
首を傾げて雄人を見る。が、雄人は我に返ると、喚いた。
「お、お、お前等! 人前で喋るな、って言ったそばから喋りやがって! どうやって俺に言い訳させる積もりなんだよ!」
『その様な事申されてもなあ……』
マルスはアレクを見た。
『もう聞いちゃったんだし、隠しても仕方ないじゃない』
マルスが大きく首を縦に振った。
確かにアレクの言う通りなのだが、マルスは兎も角、アレクまで言葉を話す必要は無かったはずだ。その証拠に、ノッポの指が、マルスとアレクを交互に指していた。
「こ、こ、この家は――、ど、ど、どうなってるんですか?! な、なんで……、二匹とも……、喋れるんです?!」
雄人は今ここで説明するのが面倒に成り始め、肩を落とし、諦めながら言う。
「マルス、あそこの部屋に行っててくれ。お茶とお菓子持っていくから」
『承知した!』
嬉々としてノッポの襟首を咥えて走り出すと、マルスは閉じた障子を勢い良く突き破り、部屋に突っ込んで行き、アレクはゆっくりとその後を追い、吹き飛ばされた障子を抜けて、部屋の中に消えた。
「またかよ……、あいつ、この家をぶっ壊す積もりじゃないだろうな……」
溜息を付きながら台所に入ると、お茶の準備をして、部屋に向かった。
部屋の中では、相変わらず、ノッポが狼狽えていた。
「な、な、なんで、き、き、君たちは、しゃ、しゃべ、喋れるのですか?」
彼の質問に、マルスとアレクは顔を見合わせ、ノッポに顔を向け直すと、アレクが言った。
『神様のお陰かしらね』
『うむ、そうで有るな』
お互いに頷き合う。
彼は、神様のお陰、と言う言葉に違和感を覚えた。今の世の中、かなりの部分まで科学が入り込んでいる。確かに未だに解明出来ない物もあるが、それすらも時代が進めば解明されると思っている。そして、神、という者がいると仮定したとしても、それすらも、解明されるはず、と確信していた。
「神様、ですか。そんなもの居たら、お目に掛かりたいですね」
肩を竦めて鼻で笑う。すると、彼の頭上にヤカンが突如として現れ、静かに落下して行った。
二人は突然現れたヤカンを目の当たりにし、目を見開いた。何も無い空間に、行き成り現れたのだ。驚かない方がおかしい。そして、それが、ノッポの頭目掛けて落ちて行くのも見ていた。
ノッポは彼等の目線が自分の上を見ている事に気が付き、不思議に思い、口を開こうとした瞬間、頭に強い衝撃を受け、その場に昏倒した。
「神を敬わぬ愚か者め。神罰を受け、反省するがいい」
刻結の声が流れると同時に、雄人が部屋に入って来る。そして、その惨状を目の当たりにして、唖然とした。ノッポは目を回して倒れ、床にはヤカンが転がり、その周囲には、水がぶちまけられていた。
「これって……、まさか……、刻結、の仕業……か?」
呟く様に聞く雄人に、マルスとアレクが頷くと、また、声が流れた。
「その者が我等を敬わぬからだ」
雄人は済まなそうなその表情をノッポに向けた。彼をお茶に誘ったのは、悪い事の様に思えて仕方がなかったのだが、ふと、マルスを見ると、両の手の平を合わせて目を伏せ、何かを呟いている。
『迷わず逝けるよう、拙者、祈っておるぞ』
雄人は呆れて物が言えなかった。
『まだ死んでないわよ、あれ』
アレクが顔を向け、マルスに言った。それを聞いたマルスは、顔を上げ、アレクにその驚きの表情を向ける。
『何と! あの御仁は成仏しておらぬのでござるか!』
勝手に成仏させるな、と雄人は思ったが、その後のマルスの行動には、色を失った。
『ならば、拙者が介錯仕ろうぞ』
もそり、と動き出し、ノッポに近寄るとその腕を振り上げ、片手は何の積もりか胸前で立てた。
『後の事は拙者達に任せ、静かに逝くがよい!』
一気に振り下ろした。だが、その腕は、彼に触れる寸前で止められていた。マルスは目を見開く。自分の振り下ろした腕を、雄人が片手で受け止め、その動きを止めていたからだ。
「お前、命を何だと思ってやがる」
雄人は静かな怒りをマルスに送り、その視線でマルスを縫い止めてしまう。
「答えろ――。早く――、答えろよ!」
逃げる事すら許されないその視線の中で、マルスは返答に窮していた。
マルスにはそもそも、命、という物が良く分からない。研究所では、何も教えてもらえなかったからだ。そして、人の言葉もテレビで学んだに過ぎなかった。そんなマルスが、命の意味など分かろうはずもない。
『せ、拙者はただ……、テレビで見た事を……』
雄人はマルスの腕を持ち上げると同時に立ち上がり、空いている手で、マルスを思いっ切り張り倒した。
マルスにとっては、叩かれる事も、怒られる事も、初めての経験だった。それも、自分の事を理解してくれている、と思っていた雄人から受けた。その事がとても辛く、悲しかった。
『せ、拙者、何か悪い事をしたでござるか?! それならば謝り申す! しかし……、しかし……、命とは何でござるか?! 何故、拙者は怒られねば成らぬのでござるか?! 雄人殿は何を怒っておられるのでござるか?! 教えてくだされ! 雄人殿!』
その瞳から涙を流し、雄人に懇願する姿を見たアレクは、咄嗟に、雄人とマルスの間に飛び込み、叫んだ。
『雄人! この子はまだ子供なの! 知らない事の方が多いのよ! だから……』
アレクの訴えを雄人は遮り、静かに言った。
「知らなければいいのか? 子供ならいいのか? 違うだろ? 無知は罪。この言葉の意味、アレクには分かるよな。知らない事自体は悪くは無い。でも、知らないからといって、その事を肯定して良い訳じゃない」
アレクには雄人の言いたい事は分かっている。それを今のマルスにそれを理解しろ、という方が無理があった。アレクはその事を雄人に言おうと口を開きかけたが、先にマルスが口を開いてしまった。
『拙者には、雄人殿の、言っておられる事が――、分かり、ませぬ……。されど、一つだけ、分かり申した……。拙者が、この世に生まれ出でたのは、何かの、間違い、だったのでござるな……。短い間成れど、お世話になり申した。拙者、幸せだったでござる』
恨み言一つ言わず、涙で濡れるその瞳を無理やり笑いの形に変え、頭を垂れると、部屋を飛び出して行った。
『雄人の馬鹿! なんでもっと優しく諭してあげられないのよ! あんたのそういうとこ、だいっ嫌いよ!』
彼を怒鳴り付けると、アレクも部屋を飛び出して行く。
「どう諭せばいいんだよ……。俺だって――、諭し方なんて、分からないんだよ……」
一人残された雄人は、下唇を噛み締め、無理やり言葉を吐き出すように呟いていた。




