少年と狐
家の中に呼び鈴の音が鳴り響く。それを聞き付け、玄関まで移動する姿があった。それは人ではなく、狐だ。
狐は玄関に有るインターフォンを器用に口で外すと、一声鳴く。
【アレクか。小父さんか小母さんは居ないのかい?】
アレク、と呼ばれた狐は、インターフォンから流れる声に返事をする様な、変った鳴き声を出した。
【そうか、居ないのか……。困ったなあ……】
少し待て、と言わんばかりに鳴くと、玄関に下りて鍵を開け、起用に扉を開くと外に顔だけを出し、訪問者を確認して、また鳴いた。
「お前しか居ないのに入ってもいいのか?」
大きく頷くアレクを見た少年は「それじゃ、遠慮なく」と言うと、家の中に入って行った。
アレクに着いて玄関から廊下を抜け、居間に着くと、ソファーに座り、紫色の布で包んだ一メートル強ほども有る物をテーブルに乗せ、紙袋を自分の脇に置いた。アレクは軽く唸りながら、テーブルに置かれた物を前足で突付くと、少年の顔を見る。
「邪魔だから、ここに置くなって?」
頷くアレクを見て、苦笑しながら包みをテーブルの下に置き直すと、更に少年に向かって指示が飛んだ。
テーブルの上に置いてあるノートパソコンを前足で指し示し、何度か顎を上げた。今度はパソコンを立ち上げろ、と言うことらしい。
「なんだよ。今度はパソコンか? 別に点けなくても問題ないだろ?」
だが、アレクはすでに、通常の五倍ほども有る、特注品のキーボードをテーブルの下から引っ張り出していた。
少年は溜息を付き、ブツブツと文句を言いながら、キーボードを繋ぎ、ノートパソコンを開いて電源を入れた。
ファンの音が微かに鳴り響き、パソコンが立ち上がり始める。完全に立ち上がるのを待って、アレクは器用に前足を使いキーボードを叩くと、メモ帳を立ち上げる。
(一々うるさいわね、馬鹿雄人。それより、何しに来たのよ?)
雄人、と呼ばれた少年は苦笑しながら言った。
「それを預かって貰おうと思ってね」
テーブルの下に置いた物を指差した。
(何よこれ? なんで預けるの?)
雄人に顔を向け、首を傾げる。
彼が話して良いものかどうか迷っていると、画面にまた文字が躍った。
(早く話しなさいよ。このボケ!)
「お前ねえ……。仮にも女なんだから、もう少し何とかなら無いのか? その言葉遣い」
呆れた顔をアレクに向けるが、当の本人は此方に振り向きもしない。
(一々細かい事を気にする男ね。そんなんじゃモテないわよ? それとも何? 人間のクセに同族の女には興味無いの?)
「俺だって健全な男だぞ――」
溜息と共に言葉を吐き出すと、それを笑い飛ばす様にアレクが鳴いた。
「何笑ってんだよ」
画面にまた文字が躍る。
(あんたに特定の女の匂いが着いてるの、嗅いだ事ないんだけど?)
これには彼も参った。確かに恋人、と呼べる人は居ないし、二人きりで出歩く人も居ない。しかし、これでも女友達は多い方なのだ。ただ、恋愛に発展する様な事が無いだけなのである。
もっとも、告白したりされたり、といった事も無いのだが。
「あのなあ――、そうそう他人の匂いを着けたまま、此処に来る訳ないだろう?」
雄人の言葉を、アレクは鼻で笑い、馬鹿にしたような目で彼を見る。
「なんだよその目は。――俺が馬鹿だって言いたそうじゃないか」
その通りだ、と言うように、アレクは大きく頷いて見せた。
「その根拠はなんだよ? 説明してみろよ」
少々、腹を立てている様だが、その事は気にも留めず、アレクは軽快にキーを叩き始めた。
(あのね、人間が感じない匂いでも、あたし達には分かるのよ。例えば、あんたが何かの食べ物を手で触るでしょ? そうすると、その匂いが手に着くのよ。あんた達人間には分からなくても、あたし達には嗅ぎ取れるの。あんたが幾ら体を綺麗に洗っても、匂いまでは簡単に洗い流せないわよ。ま、他の匂いで誤魔化すとかされたら、分かり難いけどね)
覚えて居る筈なのに、つい忘れてしまう事。それは、アレクは人間では無いという事。そんな事、姿を見れば人では無い事くらい分かる、と言われるだろうが、雄人にとって、その事は余、重要ではない。コミュニケーションが普通に取れるかどうか、だけなのだ。その点だけを見ると、彼にとってアレクは、何ら普通の人間と変らない相手なのだ。もっとも、他人からすれば、人の言葉を話せない者と意思疎通が出来てしまう、と言うのは珍しいを通り越して、驚嘆に値する事なのだが、雄人にその自覚はまったく無い。
その事実を思い出し、何か言おうとして何度か口を開くが、言葉が出ず、肩を落とした。
そんな雄人を見たアレクは溜息を付くと、彼の膝の上に前足を着き、顔をひと舐めして元の位置に戻った。彼はアレクを視線だけで追い、画面に文字が躍るのを見た。
(何落ち込んでるのよ。あたしが人間じゃない事を忘れてたから? それとも、その事で罪悪感でも感じた? でも、あたしはあんたのそうゆう所は好きよ。あたしを狐としてじゃなくて、人間と同じに扱ってくれる所が)
キーを打つ前足を止め、雄人に顔を向けた。彼もアレクに顔を向ける。
「だけど――」
何かを言い掛けた彼に向かい、アレクがゆっくりと首を左右に振り、またキーを叩き始めた。
(人は人、狐は狐。今はそれでいいわ。あたしも何とか話せるようにって頑張ってはいるのだれけど、上手くいかないないしね。でも、あたしの子供、もしかしたら、もっともっと先の代かもしれないけど、話せるようになったら、今のあたしと同じように接してくれる?)
アレクは顔を上げ、雄人を見詰める。
雄人はアレクの目を見て大きく頷くと、口を開いた。
「だけど、俺が生きている間には叶わないかもしれない。もしかしたら
その先――、俺の子か孫――、もっと先かもしれない。だから、この事はずっと伝えていくよ。人の言葉を話す狐が現れた時、それは、アレクの子孫だって……」
その言葉に満足したのか、アレクは雄人の膝の上に飛び乗ると、彼の顔を舐め回した。
「ちょ、ちょっと、止めろよ。顔中べとべとになっちゃうじゃないか」
そんな事を言いながらも、雄人は嬉しそうな顔をしていた。




