収束
総一は憔悴しきった顔で廊下を歩いていた。あの惨劇は彼が起こした物なのか、それとも、別の何かの力が働いたのか、どちらにしても、説明する事は難しかった。ただ、一つだけハッキリした事が有る。風巻家の事を彼に全て話さねば成らない、と言う事。たった一晩と半日で何があったのかは知らない。だが、彼が急速に当主としての自覚を持ち始めている事は確かだった。それは、あの場に現われた態度を見ても明らかだ。何事にも動じず冷静に対処する。あれはその昔、武人に見た姿と同じ物であり、そして、その雰囲気は、源一郎と同じ物を醸し出し始めていた。
「近いうちに話さなければならないが……」
呟き溜息を付いた。話すとなれば、自宅、それも家族全員が集まるはず。その時、自分の家族がどんな反応をするかは予想が付く。ただ、それが娘にとって、良い事になるのか、悪い事になるのか、まったく想像が付かなかった。
応接室の前まで来ると、何度か深呼吸をし、気持ちを落ち着けてから扉に手を掛け、開いた。そして、目に飛び込んで来た光景に驚く。人見知りするはずのマルスが、実夏をその背に乗せ、応接室を所狭しと走り回っていたからだ。それも、非常に楽しそうに。
畑田ともう一人はそれを苦笑しながら見ていたが、総一に気が付くと挨拶をした。
「所長、お疲れ様でした」
「ん? ああ、お疲れ様。ところで……」
マルスと実夏を眺める。二人とも気付いては居るのだろうが、挨拶一つ寄こさない。総一は溜息を付いて、部屋に入り、畑田に近付くと、耳打ちをした。
「あれは一体どういう事なんだい? マルスは簡単に人に懐く様な性格をしていないはずだが……」
畑田も苦笑している所を見ると、何か有った様だった。
「実はですね。余にも暇そうにしていたもので、そこのテレビで時代劇流しちゃったんですよ。そしたら――、お嬢さんとマルスが何故か意気投合しちゃいまして……」
なるほど、と総一は納得した。娘はああ見えても時代劇が大好きなのだ。見た目はどう見ても今風のドラマ等が好きそうに見えるのだが、中身はまったく違う。今風のドラマはぼろくその評価しかしないのだ。彼女に言わせれば、あんな事、現実に起こる訳が無い、そう切って捨てる。だったら時代劇も、と言いたい所なのだが、そこは過去の人物を元に創った架空のお話だからいいの、と来る。まったくもって若者向けドラマの製作者には、優しくない娘だった。
そうこうする内にマルスが立ち上がり、隣で実夏はジャケットの内側から何かを取り出す仕草をした。総一がもしや、と思っていると、案の定、あの、お決まりの台詞を言った。
「もしかして……」
「はい、ご想像の通りです」
畑田は苦笑しっぱなしだったが、総一は先ほどの事を思い出していた。
目の前の微笑ましい光景を見ていると、あの惨劇など、夢だったのではないか、と思え、思わず笑いが込み上げてくる。だが、総一の脳裏には、あの光景がハッキリと刻み込まれていた。そして、それを引き起こしたのが、彼だ、と言う事も。もっとも、あの時の言動から察すれば、先ほどの惨劇は想像もしていなかった様だったが、だからと言って、その事を否定する事はしないだろう、と総一は思った。何故なら、飼い犬の不始末は飼い主の責任。雄人ならばそう考えるはずだからだ。
「お疲れ様、とうさん」
笑顔で声を掛けられると、思考の海から意識を引き上げた。
「ん? ああ――、実夏もお疲れ様」
総一も笑顔で返す。だが、また直ぐに思考の海に漕ぎ出していった。
とりあえず、今日の事件は終わった事として頭の隅に追いやり、研究所の此れからを考えて行かなければ成らない。所員の半数は新しく募集しなければならないし、現在進めている各種研究も止める訳には行かないのだが、現状を鑑みると、一時的な研究所の閉鎖や、研究の破棄も考えなければならなかった。幸い、と言えるかどうか分からないが、今日まで積み重ねたデータは残る。それを基にして最初からやり直すしかないだろうと、そんな事を考えていた。
「……とうさん! とうさんってば!」
実夏の声で意識を引き戻されると、娘に顔を向ける。
「ああ、何かな?」
「何かな、じゃ無いわよ。さっきから話し掛けてるのに、何考え事してんのよ?」
剥れる娘を見て、総一はつい、笑ってしまった。
「今度は何が可笑しいのよ?」
可笑しい訳ではない。ただ、嬉しかっただけだ。こんな時でも、娘は何時もと変らずに居てくれる。それは総一にとって、とても有り難い事。ともすれば、深刻に成り過ぎる自分にとっては、それが一滴の清涼剤となるからだ。それだけに、娘を連れて来てくれた雄人には、感謝しなければ、と思った。
「ごめんごめん。で、何だい?」
実夏は溜息を付くと、聞いてなかったのね、と呟くが、気を取り直して言った。
「マルスなんだけど、家に置けないかな?」
マルスは実夏の隣で、大きく頷いている。差し詰め、行ってみたい、という所なのだろう。
「さすがに、それはちょっと――、無理かな……」
これにはマルスが項垂れてしまった。そこに、タイミング良く、背中で扉を開けて入って来た雄人が口を挟んだ。
「実夏さ、マルスの食費とか考えて無いだろ」
戻って来るなりそんな事を言う雄人だが、言いたい事はそれだけではなさそうだった。
「何よ! 行き成り入って来て! ノック位しなさいよ!」
雄人は肩を竦め、軽く笑って見せる。
「とりあえず中に入るからな。話も有るし」
振り向いたその腕には、アレクが抱えられていた。そして、その後からは大垣と、その他に数人の所員が入って来た。
「雄人……、アレクは……」
不安そうな表情を雄人に向け聞くと、その笑顔を見て、胸を撫で下ろした。
「麻酔で眠ってるだけさ。命に別状はないよ」
雄人が実夏の膝の上にアレクを降ろすと、彼女はその暖かさを感じて目に涙を浮かべた。
「良かった……」
静かに眠るアレクの背を優しく撫でながら、その笑顔に涙を浮かべる彼女を見た大垣達は、自分達のしようとしていた事が、いかに愚かしい事だったかを、理解した。
「お嬢さん、澄まなかった。ゼロワン……、いや、アレクか――、その狐の命を粗末にしようとした事、今更許してくれとは言わない。だけど、これだけは覚えていて欲しい。その狐は希望なんだよ。怪我や事故、病気で脳に障害を持ってしまった人達の。だから、俺達はどうしても、話せる様になった原因を調べなきゃならなかったんだ……」
実夏はゆっくりと顔を上げ、大垣の方を向く。
「分かっています。これでも取手総一の娘ですから。でも――、一つだけ約束してください」
「約束?」
ゆっくりと実夏は頷いた。
「命を粗末にしない事。もし、止む得ずその命を奪わなければ成らない時は、犠牲になった子に感謝してください。その命を絶対に無駄にしない、と……」
静かに訴えかける彼女に、その部屋に居る者達は数瞬の間、何も言えなかった。
「わかった。約束しよう。俺達の命と誇りに掛けて」
大垣は力強く頷くと、言い切った。
「ありがとうございます」
目を伏せ、礼を言うと、また、アレクに視線を戻し、優しくその背を撫で始めた。
雄人はそんな彼女を静かに見詰めていたが、大垣に向き直ると頷き合い、全員に向かって話し出した。
「本日をもって、所長の取手総一を副所長に降格、副所長の大垣大輔を所長に昇格とします。そして、今まで部長の座に就いていた者は規定違反を犯したため懲戒解雇とし、主任研究員である畑田聡を新たに部長といたします。この事はすでに研究所の理事達も了承済みであり、一切の異議は認めません」
一方的な宣言であったにも拘らず、大垣以下、雄人と共に手術室から戻った者達は何も言わなかった。だが、突然、部長に任命された畑田が、慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってください。室長を飛び越して自分が行き成り部長だなんて……」
「風巻君が言っただろう? 異議は認めないと。でもな、俺がお前の事を推薦したんだ」
間髪居れず大垣が言った。それでも畑田が異議を唱えようとして居た所に、総一が口を挟む。
「畑田君、彼等には何か考えが有る様だ。辞退するか受けるかは、それを聞いてからでいいんじゃないかな?」
ニヤリ、と雄人が笑った。
「さすがは小父さん。こちらの事情はお見通しって事ですね」
小父さん、雄人のこの言葉に、所員全員が響めいた。それもそうだろう、総一も彼との関係は一切口にしていなかったのだから。
「……、まさか、取手先生は風巻君と知り合いだったのですか?!」
所員の一人が口走ると、総一は溜息を付いた。
「僕との関係を雄人君、君がばらしてどうするんだい……」
雄人は肩を竦めると、笑った。
「いいじゃないですか、別に。実際の所、ここでの立場は俺の方が上なんですから、それに、もう風巻の名で臆する者なんかここには居ませんよ。畏まったらぶっとばす、って言いましたからね」
それを聞いて総一は目を丸くした後、大笑いした。それを見た他の所員も、釣られて笑った。
「そ、そうか、ぶっとばすか! まったく君らしいな。そういう所は武人にそっくりだ」
実夏が雄人を見上げる。すると、彼は親指を立てて見せ、その仕草に彼女は噴出した。
全員の笑いが収まった時、雄人が顔付きが真剣なものに変わる。総一はそれを見て、態度を改めた。
「実は、ここに居た方以外の皆さんと先ほど話た事を伝えなければなりません。たぶん、取手先生には了承しかねる話になると思います。ですが、これ以外、この研究所を存続させる方法が無いんです」
雄人が話した事は総一にとって衝撃的な事であった。要するに事実を隠し虚偽を事実と摩り替え発表する。そして、全責任を林に押し付けてしまう、という事だった。
「もしばれたら君が大変な目に合うぞ! それでも良いのか!」
雄人は、総一なら、そう言うだろうと予想していた。しかし、彼にとっては、それでもこの事はなさねば成らない事なのだ。
「そう言うと思ってましたよ。でも、これは俺の不注意から招いた事態なんです。だから、もし、事実がばれた時、その責任は俺の所に来るべきなんですよ。ここで働く人達にその責任が向いてはいけないんです」
総一には何らかの形で彼が責任を取るであろう事は分かっていたが、まさかここまで考えて居たとは思いも寄らなかった。だから、自分が責任を、と思っていた。しかし、彼は所員を守る為と言った。その為なら自分が犠牲になると言うのだ。そして、その所員とは、総一の事も含むのだ。
「だが、それでは……」
総一の言葉はそこで遮られた。それを遮ったのは実夏の一言だった。
「大丈夫。雄人の側にはあたしが居るから」
総一の目を真っ直ぐに見詰め、静かに言うその瞳には、気持ちの揺らぎなど欠片もなかった。
娘の言葉に驚き、何も言えないで居ると、更に実夏は続けた。
「もちろん、今すぐ彼の所には行けません。だけど、高校を卒業したら風巻の家に入ります」
風巻の家に入る。即ち、嫁に行く、という事。総一はその事を喜べなかった。以前の彼であれば、まだ、喜べたかもしれない。しかし、今の彼は確実に風巻の当主と成りつつある。風巻家の全てを聞かされた時、源一郎に言われた事があった。
「もし、君に娘が生まれても、風巻の当主と成った者の元へは、寄こすな」
そう厳命されていた。その理由も聞いて有る。それ知っているだけに、総一は喜ぶ事が出来なかったのだ。
「君は! 娘を、実夏を幸せに出来ると言えるのか!」
雄人はゆっくりと首を振った。しかし、そんな総一を真っ直ぐに見て言ったのだ。
「幸せか不幸せかは、彼女が決める事です。俺達が今ここで決められる事じゃない」
尚も彼の言葉は続く。
「俺は風巻家の全てを知っている訳じゃない。寧ろ、知らない事の方が多い。だから、全てを知っている小父さんは反対しているんでしょう? でも、その事を知っていた俺の父さんはどうして母さんと一緒に成ったんだと思いますか? 幸せに出来るから? それとも、自信が有ったから? 違うと思います。一人では支え切れない事だって、二人なら支えられる。一人では押し潰されそうな悲しみだって、二人なら耐えていける。そして、喜びは一人より二人の方が大きくなる。違いますか?」
淡々と話す今の雄人は、総一から見ても、昨日までと同じ人物とは思えなかった。しかも、それでは何が違うのか、と聞かれても答えようの無い変化なのだ。ただ、何かが変りつつある、それだけは確実に言えた。
「そうか、君がそう言うのなら、もう何も言うまい。だが、今後一切、家に来る事は遠慮してくれないか。これは娘を持つ父親としての最後の意地だ」
実夏が何かを言おうとするのを、雄人は制した。
「分かりました。それでは、明日、俺の自宅で、貴方の知っている事全て話していただけますね?」
何も答えず、総一は頷いただけだった。
雄人は一つ、大きく深呼吸をすると、言った。
「ここから先、個人の感情を一切挟む事は許しません。先ほど伝えた通りでいいですね。それと、アレクとマルスは風巻で引き取ります」
総一が何か言おうと身を乗り出し、口を開き掛けるが、雄人に凄まじい瞳で睨み返され、その場に縫い止められた。
「取手副所長、個人の感情は一切挟むな、と言ったはずです。それが守れないのであれば、直ちに辞表を書いて提出するか、黙って帰るか、どちらかにして下さい」
総一はまるで、源一郎を前にしている様に感じた。これがあの雄人か、と思ったくらいだ。逆らう者には容赦しない。そして、それこそ総一の知る、紛れも無い風巻の顔だった。
「大垣所長、マルスは今晩中に家に連れて来られますか?」
少しだけ考え大垣は答えた。
「可能ですね。畑田くんの車ならば」
畑田は、雄人に頷いてみせた。
「そうですか、では、アレクと一緒にお願いします。それでは、皆さん、くれぐれも計画通りにお願いします」
雄人が頭を下げると、総一を除く全員が一斉に返事を返した。
「実夏、悪いけど、今日はお父さんと一緒に帰ってくれ。それから、アレクに会いたければ家に遊びに来るといい」
これだけを告げると、踵を返し、雄人は部屋から出て行った。
実夏はその後姿を悲しそうな目で見送り、大垣達は計画通りに準備を始め、総一は複雑な表情で立ち尽くしていた。
雄人は一人、廊下を行く。だが、その表情からは、何も窺い知る事は出来なかった。




