提案
林の精神は崩壊寸前まで追い詰められていた。自分の意思でやった訳ではない。が、その感触だけは確実に伝わってくる。それも刀に引き摺られ、切る時は必ず相手の正面から斬り付ける。その度に恐怖に歪んだ表情を見せられ、懇願を聞かされ、何とか止めようとするが、意思に反して体が動き、斬り付ける。そうして、苦鳴を浴び、吹き出る血潮を被った。血は見慣れている。だが、それは動物の血だ。ましてや、生きた人間など切った事も無く、血など浴びる趣味も無い。その上、どんなに抗おうとしても、今や、自分の意思とは関係なく体が勝手に動く。次第にその顔には、笑みが浮かび上った。だがそれは、正常な判断をする事すら出来なくなり、今にも崩壊してしまいそうな精神を狂気で保とうとする彼の心が浮かばせた、笑みだった。
その惨劇の場で腰を抜かしてへたり込む男が居た。その者は、何時自分の番が来るのかも分からず、精神は追い詰められ、その恐怖に顔を歪めて、動けなくなっていた。林が自分の方へと向く。彼の表情を見た瞬間、男は、恐怖から逃れる為、その精神を崩壊させた。そして、虚ろな瞳で林を見上げ、だらしなく緩んだその口からは涎を垂れ流し、振り下ろされる刀を静かに待っていた。
林は男の前に歩み寄ると刀をゆっくりと振りかぶり、頭頂部目掛けて振り下ろす。そのまま両断される、と思われたが、それは既の所で止まった。林はゆっくりと顔を横に向ける。そこには刀と頭の間に鞘を突き出した総一の姿があった。
「先生は何時もそうだ。僕のやる事を邪魔する。だけど、もう邪魔させません。今、これで切り殺してあげますから」
その血走った目を総一に向け、狂気に歪んだ笑みを見せた。すでに自分の意思で動き始めた林は、その切っ先を彼に定め、滅茶苦茶に振り回し始める。総一は間合いを取り、血が流れて足場が滑る場所を避けながら、少しづつ手術室内を移動して、林を刀が振り難い場所へと誘い込んでいく。だが、そこは自分も鞘を振る事が難しい場所でもある。だが、勝算はあった。滅茶苦茶に振り回している分、必ずどこかに刃が突き立つ、その時に林の胴を鞘で突けば、いける、そう思っていた。刀が手から離れなくとも、本人が意識を失ってしまえば、危険は無くなる。だが、失敗すれば自分の命が無い。そうなれば、妻や娘が悲しむ。絶対に失敗する事は出来なかった。あともう少し、そう思った時、手術室の扉が開く。そこには余にも惨たらしい惨劇を目にした大垣が、愕然とした表情で立ち尽くしていた。
「大垣くん! 来ては駄目だ! 早く逃げろ!」
総一の叫びも虚しく、何時の間に大垣の前に移動したのか、林は彼に向かって袈裟懸けに振り抜いていた。その刃は大垣の左足を大腿部から切り飛ばし、彼はバランスを崩して昏倒した。
何が起こったのか大垣には分からなかった。目の前に突然林が現われ、刀を振り下ろした。その直後に、バランスを崩し倒れた、という事実のみ。必死で身を起こすと、左足が消えている事に気が付く。え? と思った瞬間、痛みと出血に襲われ、悲鳴を上げながら失った足を押さえ、転げまわった。林はそれを見て満足したのか、再び総一に向き直る。すると、開け放たれた入り口から再び声が聞こえて来た。
「こ、これは……」
畑田が絶句して立ち尽くす。その声を聞き、林はまた襲い掛かった。今度は胴から真っ二つ、総一にはそう見え、目を逸らした。だが、そこに、聞きなれた声が飛び込んで来た。
「刻結! いい加減にしろ! ここまでやるなんて聞いてないぞ!」
そこには畑田を既の所で引き戻し、自分の後ろに庇う雄人が立っていた。
刻結? それは誰だ、総一が思った瞬間、彼に返答するように、惨劇が始る直前に聞こえた声が鳴り響いた。
「我は切っ掛けを与えたに過ぎぬ。これはその男の望みだ」
「望み?」
雄人が疑問に思うのも無理は無い。こんな事を望む人間など、普通は居ないからだ。だがそこに、総一の声が響き渡る。
「これが彼の望みだというのか!」
一瞬、間が開いた。そして、雄人は畑田に戻るように促す。総一は声の姿を捉えようと、辺りを見回していた。
「御主は――、武人殿の朋輩か」
何故、武人と自分が親友だと知っているのか。一瞬疑問に思ったが、雄人の言った名前と刀の事が彼の頭の中で結び付いた。
「まさか……、そんな事があるのか……」
「気付いたと見える。流石、武人殿の朋輩よ。如何にも、我はその刀に宿りし神、刻結なり」
呆然と立ち尽くす総一に向かって、林は詰め寄る。そして、刀を振り被り、その脳天目掛けて振り下ろそうとしたその瞬間、林はその場から消え、彼が立っていたはずの位置に雄人が立ち、腰を落として、掌を突き出して居た。
「小父さん、大丈夫ですか?」
呆然としたまま雄人を見る。彼の居た位置からここまで、三メートルはあるはず。総一自身、呆然とはしていたものの、林が眼前に迫り、刀を振り上げた所は見えていた、その時もまだ雄人は入り口に居た筈だっやのだ。
「君は……」
昔、茉莉花に言った事をまた、言ってしまいそうだったが、雄人が先に答える。
「人間なのか? そう言いたいんじゃないですか? 自分でも、本当に人間なのか? って時々、疑問に思ってましたよ。だけど、そんなのは別にいいんです。俺はここに居て、そして、人として生きてる。だったら、俺も人間だ、今はそう思う事にしましたから……」
驚く総一の前で笑う彼の瞳は、昔に見た茉莉花と同じ寂しそうな色をしていた。そして、何よりもその答えは、総一が茉莉花から聞いた言葉そのものだった。
「ここは任せて小父さんは応接室へ、そこで実夏とマルスが待ってます」
急に険しい顔付きになり、総一に退室を促した後、彼が出て行くのを確認してから、虚空に向かって、また叫んだ。
「怪我した者達を何とかしろ! お前になら出来るはずだろ!」
空間その物が含み笑いを漏らす様に感じられた直後、またあの声が流れた。
「何時から気付いて居った」
「ここに着て暫らくしてからだ。お前の言葉を思い出したんだよ。無限の時を旅する者、って自分で言ってただろ? だからお前は、空間を操るだけじゃなくて、時間その物をも司ってるんじゃないのか、ってな」
「良くぞ見抜いた。その通り、我は刻と空を司りし者、故に、日の本の神では異端の存在、謂わば祟り神の類よ。しかし、祭られれば神として存在しもするし、祭らねばその一族を、そして、関わる者すべてを祟り続ける。有体に言うなれば、主の一族は我に憑かれた、という事だな」
話をしているうちにも、負傷した者が見る間に回復していく。それは刻結が肉体の時間を損傷前まで巻き戻しているからだった。だが、肉体は治っても精神まで治る訳ではない。その証拠に意識が戻っても、虚ろな瞳で空間を眺めている者が大半だった。
刻結にも聞きたい事が山ほどあったが、今は眼前の事の方が深刻な問題だった。
「どうしたものかな……」
呟き、腕を組んで考え込む。壁際に吹っ飛ばした林は、目覚めたらまた寝てもらうとして、精神に異常を来たした者は病院に搬送するしか無い。が、外部に今日の事が漏れるのも不味い。かと言って、それを風巻の力で抑え込もうとすれば、必ず雄人の周りを嗅ぎ回る輩が出てくる。ならば、逆に虚偽の話をでっち上げ、その事で起こった事故として発表してしまえば良い。そして、証拠も揃え、総責任者を林にしてしまえば、他の者が責任を取らずに澄むはず。そんな事を考えていると、大垣が雄人に食って掛った。
「お、お前、こ、こんな事をして只で済むと思うなよ! 警察に行ってすべて話してやる! そうすれば風巻もお終いだ!」
手術室に嘲笑が木霊する。それを雄人は溜息を付きながら聞いていたが、やれやれ、と首を左右に振ると、大垣に向かって言った。
「この事を警察に話しても無駄ですよ。俺は貴方達と一緒に居ましたし、あの部屋を出てから、僅か数分でこんな事は出来ませんから、疑われる事はありません。それよりも、そんな事を話せば大垣さんの頭が疑われますよ?」
日本の警察では怪奇現象に因って引き起こされた事など、事故として扱われる事は有っても事件にはならない。この場合は寧ろ事件の当事者達からの事情聴取で、林が犯人、と断定されるだけだ。
雄人の指摘に大垣の笑いが止まる。それを待っていたかの如く、雄人が切り出した。
「大垣さん。貴方を見込んで、一つ、提案が有るのですが?」
突然の事に、訝しげな表情を見せる大垣だが、彼の表情を見ると、今回の事で責を負わせようとしている訳では無いのが見て取れた。
「て、提案だと?」
雄人は頷くと笑顔で口を開いた。
「俺の提案を呑んでいただければ、風巻の影響をこの先ずっと廃除出来るかも知れませんよ?」
大垣は唾を飲み込んだ。風巻の影響を廃除出来る。即ち、余計な干渉が無くなり、より自由な環境で研究に没頭出来る、と言う事でもあるが、まだ戸惑いはあった。
「そんな事を言っても、ある日突然、また干渉して来る気なんじゃないのか?」
そう、最大の懸念はこれだった。
大垣の最もな言い分に、雄人は、わかりました、と言うと、顎に手を当て少し考え込む。考えが纏まったのか、顔を上げると言った。
「そうですね――。まずは、貴方の今後の給料は現状の倍でどうです? お金の事からで申し訳ないですけど、生活を考えると、これが最初の方がいいですよね。次は提案を聞いていただけたらお話します。そして、最後は実行していただけたら、と言うことで、この三つを確約します。もちろん、給料は今月分から引き上げさせていただきますし、聞いていただければ、その保障もいたします。ですが、話を聞いていただけなくとも、給料は倍に引き上げます。ただし、この場合は風巻の干渉はこの先も続くと思ってください」
大垣にとっては非常に美味しい話だ。提案を聞かなくても給料は上る。だが、提案を聞き、尚且つそれを実行すれば、より一層の安定が得られる可能性がある。そして、影響を廃除した者として、この先研究所に名前が残り続ける。これほど美味しい話は無い。彼は二つ返事で受け入れた。
「わかった。そこまで言うなら聞こうじゃないか」
大垣の答えに満足して、雄人は話し出した。
「それでは……」




