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悠久の時の彼方でⅠ  作者: 春岡犬吉
第五章
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祟り神

 林が総一に嘲笑(ちょうしょう)を浴びせ、他の者は、項垂れる彼を見て笑いを漏らしていた時、誰にも気付かれる事無く、突然、そこに現われた。アレクが寝かされた手術台の足元、誰の目も届かない位置に、微かな音を立てて転がる。それは、雄人が手にしていた刻結が宿る刀だ。

「これはまた、何とも醜悪(しゅうあく)な顔をした男よの」

 この呟きは誰にも聞こえない。聞こえているとすればアレクだけなのだが、そのアレクにも、今は届かなかった。

「それでは、始めるとしよう」

 アレクの喉に向け、林はゆっくりとメスを近付けて行く。そして、その刃が触れようとしたその瞬間、メスに軽く添えられた指より先の先端部分が、消えた。

 林の口元から笑いが消え、我目を疑う。先ほどまでは確かにあった刃が、触れる直前に消え失せた。あり得ない事だ。慌てて別のメスを手に取る。しかし、そのメスもやはり同じ様に、消えた。

「くそ! どうなってる!」

 林の側に居た者達も慌てた。林意外の者が手に取り、メスをマジマジと(なが)めてみたが消えはしない。だが、それを林に手渡し、アレクにメスを近付けると消える。ならば、という事で別の者が同じ事をしても消えてしまう。用意されたメスが全て使い物にならなくなり、急ぎ予備を取りに動いた者が今度は消え、目撃した者達は、呆然とした。

 出入り口の鋼鉄製の扉に、何か、柔らかく重い物が激突する様な、湿った音が響く。と、同時に手術室内に苦鳴が響き渡り、全員が振り向くと、先ほど消失した者が昏倒していた。

「なんだ?! 何が起こっている!?」

 総一は顔を上げ、慌てふためく者達をぼんやりと眺める。すると、見た事の有る物が目に飛び込んできた。それは高校時代と、昨夜の二回だけ目にした物。何故、こんな所に、と疑問を持ったが、ハッとして、彼の脳裏に、雄人の顔が浮かび、気付いた。彼がすでに来ている、という事に。あの刀が何よりの証拠。どうやって刀をこの部屋に忍び込ませたのかは、解らない。だが、あの鞘の模様は忘れる事など出来るわけが無い。それは、ゼブラ模様とも虎縞とも付かない、一種独特の模様。そんな物がそう何本も有るわけは無い。総一の口から笑いが漏れる。それは次第に大きくなり、そこに居る全員の視線を集めた。

「何が可笑しいんです?」

 苛立ちに顔を(しか)めている所に、さらに、総一の笑い声が重なり、林はこれ以上ないほど不愉快な気分にさせられた。

「いや、失敬。何、君達はこれ以上アレクに触れる事が出来ない、と思うと、可笑しくてね」

 君達は? 私達は、の間違いではないか、とある職員は思った。

 別の職員は、触れる事が出来ない、ではなく、手が出ない、では無いかと思った。

「すでに風巻がここに来ている」

 総一の確信に満ちた言葉とその表情に、林を除く全員がざわめき出した。

「何故ここで、風巻が出て来るんです。すでに研究所とは関係ない人物じゃないですか」

 この男は何、馬鹿な事を言っているんだ、林はそう思い、総一をねめつけていた。だが、彼は軽く笑いを漏らすと、林を真っ直ぐに見て言い放った。

「関係なくは無い。何故なら、ここを共同出資して運営するすべての会社の株の半分、もしくは三分の一は風巻が保有しているのだからね。それに、そこを見たまえ」

 総一の指が手術台の足元を指す。そこには一振りの刀が横たわっていた。

「誰だ! こんな物持ち込んだのは!」

 先ほどまで総一に見せていた勝ち誇った余裕など、何所にも無く、己の(いきどお)りを周りの者にぶつける。しかし、刀など誰一人として持ち込んではおらず、林に答えられる者など居ない。そこには彼の粗い息遣い以外、聞こえるものも無かった。

 全員が静まり返り、一瞬とも永遠とも感じられる重苦しい空気が流れる中、突然、林が笑い始めた。

「そうだ――、そうだよ! メスが駄目なら……、こいつを使えば良いじゃないか!」

 床に転がる刀を手に取り、アレクに向かう。その時、総一の耳には何かが聞こえた様な気がした。一瞬、何だ? と辺りを見回していると、林が柄に手を掛け、刀を抜き始めたのが目に留まり、慌てて声を張り上げた。

「それを抜いては駄目だ!」

 総一の制止も虚しく、林は勢い良く抜き放つ。しかし、その勢いは彼の意に反して更に加速し、まるで意思でも有るかの様に、勝手に物を切り裂き始めた。その切れ味は凄まじく、鉄製のワゴンなど、何も無いかの様に刃が通過していく。そして、後からゆっくりと崩れ落ちて行くのだ。他の機材なども同様だ。とても刃が向こう側へ抜ける事が叶わないほどの、大きな物ですら、まるで、只の紙切れと同じ様に切り裂いてしまう。

「な、何だ! 手が! 手が離れない!」

 林は焦った。柄を握った右手が離れないのだ。いや、自分の意思で放す事が出来ないばかりか、右肘から先の感覚がまったく感じられなくなっていた。左手の鞘を放り出し、右手を必死で引き剥がそうとするが、何時しかその左手も柄に囚われ、離れなくなった。

「ひいい……! だ、誰か、誰か! 何とかしてくれえ!」

 恐怖に顔を歪め、助けを求めるが、刀を振り回す彼に近付ける者など居るはずも無く、只、逃げ惑うばかりであった。

「風巻が庇護(ひご)する者に仇為(あだな)姦人(かんじん)共。(おの)が罪の重さ、思い知るが良い」

 手術室に幽鬼の如き声が木霊する。その声を聞き、逃げ惑う者達の動きが止まり、辺りを見回した次の瞬間、苦鳴が響き渡った。総一は慌てて声のする方へと視線を送る。そこには林の持つ刀で肘から先が切り飛ばされ、吹き出す血を必死で止めようと傷口を押さえ転げまわっている者が居た。また別の方向で苦鳴が上る。急いでそちらに顔を向けると、今度は大腿が切られ、噴水のように血が噴出し、天井を血に染めていた。そして、一つ、また一つと、苦鳴が響き渡った。

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