信頼
真沙子は放心状態で、ソファーに蹲り、その手には携帯を握り締め、そして、アレクの事を思い出すと、また、涙を流していた。
「守ってあげられなかった――。あたしの事、お母さんって言ってくれたのに……」
先ほどから、謝り、悔いる、ずっと同じ事の繰り返しだ。仕方の無い事、と、頭では分かっていても、感情では納得出来ない。誰かに責任を押し付けられるのなら、まだ良い。しかし、この場合はその責任を押し付ける相手が居ない。それ故に、自責の念に駆られる事に成る。もっと何か出来たのではないか、もっと強く引き止めれば良かったのではないか、そして、また、謝り悔いる。その繰り返しから抜け出せなくなっていた。自宅前に止まったバイクのけたたましい排気音が中に流れ込んで来ても、彼女の耳には入って行かなかった。
「小母さん! 実夏のメットとバイク用の上着、それとズボンと私服持ってきて!」
玄関の扉が荒々しく開かれ、雄人の叫び声が聞こえると、真沙子はハッとして顔を上げ、弾かれるように居間から飛び出し、玄関でブーツを脱ごうと座り込んでいる彼の背に縋り付き、謝りながら自分の所為だと、泣き叫んだ。
雄人はブーツを脱ぐのを止め、泣き叫ぶ真沙子に向かって静かに口を開いた。
「小母さん、アレクは俺と実夏が必ず連れ戻します。だから、さっき言った物、持って来てもらえますか? あいつの部屋に俺が入ると怒られますから――」
顔を向けることはしない。それは、彼も悲しかったから。悔しかったから。そして、怒っていたからだ。そんな複雑な表情を向ければ、真沙子は更に自責の念に囚われてしまう。自分を支えて来てくれた人に、そんな想いをさせたくなかった。
しばらくそのままの姿勢で居ると、不意に背中から真沙子が離れ、立ち上がる気配がした。雄人は軽く息を吐くと、振り向き、笑顔を見せた。
「ごめんなさい。取り乱しちゃって……」
「泣いてる小母さんも可愛いですよ。思わず襲っちゃおうかと思いました」
おどけた調子で言うと、頭を軽く小突かれる。
「もう、冗談でもそういう事は言っちゃだめでしょ?」
その瞳には少し涙が残っていたものの、笑顔が戻ってくる。これで大丈夫、と雄人は思い、また同じ事を言う。
「さっきも言いましたけど、実夏の……」
真沙子が雄人の言葉を遮り、自分の口から言った。
「メットと上着とズボンと私服ね」
頷く雄人に真沙子は笑顔を向ける。その目からはまだ、涙が僅かに流れているが、自責の念からは開放されたようだった。
「あ、あと、寒いから中に着られる薄手のダウンもお願いします」
「わかったわ、ちょっと待っててね」
背を向けると、小走りに二階へ向かっていった。
「お見事」
「何がだよ」
突如流れる声は刻結のものだ。
「主より年上の女子を軽くあしらった事よ。現代の言葉で何と言ったか――、確か……、おばきらー? と言ったか?」
「おい……、俺は殺虫剤か何かかよ……」
熟女キラーと言いたかったのだろうと、雄人は思うが、そもそも、そんな積もりは毛頭無い。
それにしても、刻結は何時の生まれなのかと、今更ながら気になった。
「お前、何時の生まれだ?」
「我か? 我は気が付いたら彷徨うておったぞ。確か、天照、とか言う行け好かぬ女子をからかって遊んでおったのを覚えておる」
こいつ、ただの幽霊なのでは、と、雄人は思い始めていた。
「失敬な。我は神ぞ。主は神罰が欲しいと見える」
雄人の頭上に、突如、金盥が出現し、頭目掛けて落下し始めた。そんな事が起こっている事等露知らず、二階から荷物を持って降りて来る真沙子に、彼が声を掛けようと立ち上がったその瞬間。
頭に激突した。
雄人は一瞬目眩を起こし、よろけて倒れそうになるが、何とか堪えると、床に落ちてまだ音を立てている金盥を見て、誰の仕業か見当が付いた。だが、ここで怒る訳にもいかず、悔しさを飲み込み、無理やり苦笑いを見せた。
その瞬間を真沙子は見た。階段を降り切った所でふと、前を見ると、雄人の頭に金盥がぶつかり、彼がよろけて倒れそうになっていた。彼女の脳内では昔観たお笑い番組と今の雄人が重なり、思わず吹き出してしまった。
「その盥、どうしたの?」
若干笑いを堪えた感じではあったが、一応、心配はしているようだ。
「さあ? いきなり落ちて来たんですよ」
本当は分かっているのだが、その事を言う訳にもいかず惚けておく。
「オバケでも居るのかしら?」
首を傾げ、不思議がる真沙子に雄人は同意してみせた。
「たぶん、そうですよ。自分が神様か何かと思ってる馬鹿なオバケが」
暗に刻結の事を言っているのだが、真沙子は知らないので、怖いわね、と呟いていた。
「あ、それより、実夏に連絡はしました?」
盥の事は早々に切り上げ、話を元に戻す。
「まだよ。雄人くんがする?」
「いえ、小母さんがしてください。俺はそれを積んで、すぐに学校に向かいますから」
荷物を受け取ると、真沙子に背を向け、玄関を飛び出して行く。その背に向かって、真沙子の声が投げ掛けられた。
「雄人くん、お願いよ! きっと連れて戻って来てね!」
軽く左手を挙げ、口元を緩める。そして、扉を閉めると、急いでバイクに取り付けて有るサイドバックに荷物を詰め、ヘルメットをシートに括りつけた。
真沙子は祈るような気持ちで彼を見送った後、娘にメールを送り、携帯を胸に抱え、呟いていた。
「二人とも、無茶だけはしないでね……」