義母
総一は自宅の側に車を止めると、急いで家に駆け込む。玄関の扉を開け、靴を脱ぐのも煩わしげにその場に放り出し、短い廊下を走って居間に入って行った。
「真沙子! アレクは……」
どこだ、と言おうとしてソファーで眠るアレクが目に入った。その側では、真沙子が優しくその背を撫で、けたたましく入って来た総一に顔を向けると、指を口に当てて静かに、と合図を送った。
「アレクが話したって、本当なのかい?」
幾分、声のトーンを落とし、聞く。彼女は我子に向ける様な眼差しをアレクに注ぎながら、ゆっくりと頷いた。
「なら、すぐに起こして研究所に……」
真沙子は首を振り、拒絶の姿勢を見せた。
「だけど!」
再び声を荒げる総一に、咎める様に視線を送ると、静かに口を開く。
「今は駄目。この子、泣き疲れて眠ってるから……」
また、視線を眠るアレクに戻す。
「なら、何故、僕に電話してきたんだい?」
真沙子が一瞬、寂しげな表情を見せた。
「それは……、この子に言われたから。でも、わたしはしたくなかったのよ。こうなる事が分かってたから……」
顔を上げ、総一の目を見る。彼女のその瞳には、やりきれなさが漂っていた。
「あなたの仕事は分かっているわ。だけど、この子はわたし達の家族なのよ。姿形は違ってもわたし達の子供よ。その子と二度と会えなく成るかも知れないなんて、母親としてそんなの、許せる訳がないでしょう?」
まさか彼女がこの様な事を言うとは、総一も予想だにしていなかった。真沙子の言う事は分からないでもない。自分とて辛いのだ。出来ればこのままずっと、とも思ってはいる。だが、彼にはアレクを研究所に連れて帰り、詳細を詳しく分析して報告する義務が有る。それを怠ればどうなるかは、火を見るより明らかだった。
「だけど――、それでも僕は……」
「分かっています。あなたも辛い事くらい……。でも、実夏や雄人くんが知ったらどうすると思います? たぶん、雄人くんなら研究所まで行きますよ? 風巻の名前を出されたら、職員の人達も困るんじゃないですか?」
風巻、この名前は総一が勤める研究所にとって、非常に重要な名前だ。何故なら、この研究所の創始者は、雄人の曽祖父だからなのだ。もし、彼が来てその名を出せば、施設に入る事を断る、という事が出来ない。実際、彼の祖父が存命中は、研究所のトップにその名を連ねていた。当時は、年に数回程度の訪問しかしていない様だったが、それでもその発言は絶大で、少しでも倫理に悖る、と判断された場合には研究を許可された事がなかった。現在、風巻の名前は残っていないが、それでもその威光は未だに消えていないのが実情だった。
苦りきった表情を見せる総一に、真沙子は少し、同情を覚えた。彼の言う事は正しい、その事は理解している。しかし、頭では理解出来ても、感情はそうもいかない。だからと言って、困らせるのは本意ではなかった。
「総一さん、約束してください。アレクは必ず返すと。それも、傷一つ無く、今と変らない姿で帰すって。それともうひとつ」
「もうひとつ? 約束は二つなのかい?」
頷く真沙子を見て、総一は何を聞いても怒るまい、と思った。
「アレクが雄人くんと会うまで待ってもらえませんか? でないと、この子が可哀想ですよ。挨拶も出来ずに居なくなるなんて……」
限りない優しさをその瞳に湛えて総一に訴えかける彼女は、まさしく、子を思う母親のそれだった。
「分かった。雄人君が来るまで待とう。そして、研究所では出来る限り手を尽くしてみる。だけど――、もしもの時は……、許してもらえるかな?」
それが総一の精一杯の答え。必ず、とは言えない事が、堪らなく辛かった。
二人はそれ以上話事も無く、沈黙を続けた。時間にして数分、その沈黙を破ったのはアレクだった。
『ありがとう。あたしの為にそこまで言ってくれて。だけど、行くなら今連れて行って。でないと別れるのが辛くなるから……』
その身を起こし、総一を見詰める。アレクは真沙子と総一の話を最初から全て聞いていたのだ。だから、二人に迷惑を掛けまいと、自ら総一に頼んだのだった。
「全部、聞いていたのね……」
ゆっくりと頷くアレクを見て、真沙子は目を伏せた。
「本当に話せる様になっていたのか……」
驚きを隠せぬ表情で、呟く様に言う総一の足元にアレクは動き、真沙子に顔を向けた。
『今日まで有り難う。さようなら、もう一人のあたしのお母さん。それと、実夏と……雄人、わたしの大好きな人にもちゃんと伝えてね。今までありがとうって』
目に涙を溜め、気丈にも笑顔を浮かべるアレクに、真沙子も笑顔を向ける。だが、その瞳からは涙が零れ落ちていた。
「さようなら、アレク。あなたの事、絶対忘れないわ」
『総一、もう行きましょう。これ以上ここに居ると、もっと、真沙子を悲しませてしまうから……』
アレクは背を向け、居間から出て行く。総一は、すまない、と一言残すと、笑顔で涙する妻に背を向け、伏目がちに居間から出て行った。玄関の扉が閉まる音が微かに響くと、真沙子はその場に泣き崩れた。