兆し
研究所、と言っても、一日中、実験をしている訳ではない。実は実験そのものより、事務仕事の方が多いのだ。昔は今のようにパソコンが有った訳ではなく、紙を大量に使って結果を纏めていたものだが、最近ではまずはパソコンを使い、それを報告する段階になって初めてプリンターでプリントアウトして紙を使う。最もこれにも個人差が有り、全てをパソコン上で片付けてしまう者と、紙を併用する者とが居る。しかも、所内での地位が上れば上るほど、実験に携わる時間は減ってゆく。総一はその立場上、各種実験結果の報告に目を通し、その結果を見て、再度、検証し直す様に指示を出したりと、現場に居るよりも、机に向かう方が多いくらいだった。そして、今日も午前中から書類に目を通していたのだが、昼食を挟んだ今も書類と格闘していた。その中にはアレクに施した物と同類の物もあった。実は一年前の報告で、アレクに施した施術の経過が余にも良好なので、更なるデータを欲した上層部から、追加の要請があったのだ。その被検体は、狐よりも大型の動物で、との指示で羆が使われていた。通常、実験動物に熊を使った例は無い、と言うより、近年は動物保護の観点から、大型の哺乳類を使う事をしなくなった。だが、幸か不幸か、総一にとっては複雑な心境だったのだが、あるスジから、事故で脳に障害が残ってしまった小熊をなんとか助けて欲しい、と連絡があったのだ。何所で聞きつけたのか、それとも漏れたのかは解らないが、タイミング的にも良かったのと、何より、その小熊はアレクと同じで母熊が事故死していたのだ。実の所、彼は家族には伝えず、アレクにだけ伝えた事実があった。それは、彼の車がアレクとその母狐を事故に合わせてしまった事。まだ研究段階の施術を施した事。そして、母狐は助からなかった事。アレクにその事を正直に話をしたが、責められる事はなかった。逆に、アレク自身から頼まれた事があったのだ。〝自分と同じ境遇の者が居たら、助けてあげて〟と。その言葉もあり、要求に答える事が出来た。ただ、アレクと違い、熊を自宅に連れて帰る訳にも行かず、完治した今もまだ、研究所で飼育しているのが現状だ。
その資料を見て、溜息を付く総一に声が掛かった。
「先生、3番に外線が入ってます。奥様からですよ」
「ん? ああ、わかった」
受話器を上げ、外線の三番のボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし。どうしたんだい? 珍しいじゃないか」
慌てる真沙子の声が受話器から流れる。始めは軽く聞き流していたが、その事を聞いた途端、椅子を蹴り飛ばして立ち上がっていた。
「なに!? それは本当なのか?!」
他の研究者達が、総一に驚きの表情を向けた。今までそんな彼を見たことが無かったからだ。
「わかった! すぐ戻る!」
受話器を下ろすと、慌しく帰り支度を始める。
「先生、慌ててどうしたんですか?」
「林君か。実はね今、妻からの電話で、アレクが人の言葉を話した、と言って来たんだよ。本当かどうかそれを確かめる為に、一度、自宅へ戻る。その事が本当ならば、すぐに連れて戻るから、後をよろしく頼む」
返事も聞かず、総一は飛び出して行った。林が口元をゆがめた笑みを浮かべている事も知らずに。