人間の定義
突然だが、僕は人間ではない。
僕には常々思っていることがある。それは人間というものが、どこまでも馬鹿で愚かで卑しい生き物だということだ。
そう、常々。もちろん今も。
僕は現在、数人の男達に囲まれている。「金を出せ」と風体の悪い連中が、僕の襟首を掴んで脅しているのだ。こういうところが馬鹿で愚かで卑しいというんだ。この僕がどういう存在なのかも知らずにいるのだから。
そんなことを思いながら、僕はただじっと目の前の『人間』という生物を眺めていた。
すると急に頬に衝撃が走り、気付けば地面に投げ出されていた。砂が口に入り込み、ジャリっと不快な音と共に鉄の味がした。そこでようやく理解する。どうやら殴られたらしいのだと。
一体、何が気に入らなかったというのだろうか。いや、すでに囲まれた時点で気に入られていないのか。……別にそんなことどうでもいいが。
にやりと汚らしい笑みを浮かべた彼らは、金を無理矢理探し出そうと手を伸ばしてくる。
やめろ触るな汚らしい人間がっ。
僕が抵抗を見せようとした、その時。
「止めなさい! 人を呼ぶわよ!」
甲高い女の声が、急にどこからか響き渡る。
男達はその声に驚き、チッと舌打ちをしたかと思うと、あっという間にどこかへ去って行ってしまった。
本当に人間というのは愚かである。何も言葉が出ない。
馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ…………
「大丈夫?」
声を掛けられ、はっと我に返る。すっかり彼女の存在を忘れていた。いつの間にかこちらに近付き、手を差し伸べてくる。
偽善者。僕は思った。
その手を無視して立ち上がると、彼女は苦笑して差し出してきた手を下げた。そのまま僕が立ち去ろうとすると、
「ねえ、君。もう少し積極的に人と付き合うようにしたほうがいいと思うわよ」
偽善者。おせっかい。
――お前に何がわかる。大体僕は人間ではないんだ。なぜ人間と付き合っていかなきゃならない。
つい、カッとなって彼女に言ってしまった。
彼女は驚いたような目を僕に向ける。
見るな見るな見るな見るな見るな…………
思ったとおり、彼女は笑い出す。いや、意外だった。彼女の笑いは、それはもう爽快だった。
「じゃあ、君は何なの?」
まあ、当たり前といえば当たり前の質問。無知な人間には仕方がない。
だが僕はあえてその質問をはぐらかすことにする。
――お前には関係ない、と。
すると彼女は「ふうん」と言って、僕をマジマジと見つめる。
僕は何だか、その視線に耐えられなくなり、彼女から思い切り顔を逸らしてしまった。
「でも、君は人間だと思うけどなー」
――見た目で判断できるものではない。
そう言った。
「……うーん。でも君、さっきの男たちのこと、ムカつくでしょ? そんな顔してたもの」
――だったら何なんだ。
少し強く言い返した。
「それって人間っていう証拠だと思うよ? 感情があるってことだもの。感情があるなら人間よ」
――犬や猫にも感情はある。だが、人間ではない。
クスクスッと彼女は笑い出す。
やはり、話すのではなかった。
「そういうこと考えるあたりが、人間である証拠だと思うなー、あたしは」
その言葉に、なぜだか分からないが無性にカッとなって、顔が真っ赤なのではないかと思うほど熱くなる。
気付いたら僕は、その場を全力で走り去っていた。
それから暫く、息を切らしながらも走り続けた。こんなに全力疾走したのはいつ以来だろうか。
しかし、さすがに体力の限界がくる。
一息つこうと、その足でとある店に寄った。僕がよく通っている店だ。
そしてこの店には、いつもとある女が来ていた。
僕と同類の女が。
「あら、今日も来たのね」
店の隅っこの席に座っている女が、僕の姿を見つけて言った。
あなたこそ――と僕は女に返した。
そうすると女は真っ赤な口紅で彩られた唇を、笑みへと変形させた。そうね、とぼそっとだけ呟いて、テーブルに置いてあった紅茶を飲んだ。その一つ一つの動作に見惚れてしまうほど、この女は美しかった。
妖艶な美しさだが。
僕は当たり前のように女の向かいの席に座り、女も当たり前のように僕を迎えた。
「何か……あったのかしら?」
女は僕を探るような瞳で見つめてくる。
どうやら僕の様子が、いつもと違うと思ったらしい。
――僕は本当に人間ではない存在なのだろうか。
気がつくと女にそんな疑問をぶつけていた。
「もちろんそうよ」
なんだそんなことかというように、女は即答した。
もちろん、僕も人間ではないと思っている。いるのだが。
「何があったのか、話してくれない?」
女は、その透き通るような白い手を僕の手にそっと重ね、妖艶だけれども優しく微笑みかける。
僕は先程の出来事を、ゆっくりと全て包み隠さずに話した。
女は僕の話に暫く耳を傾けていたが、徐々に唇が歪んでいった。話し終える頃には、女の顔は妖艶な笑みへしっかりと固定されていた。
「……それは、あなたの《存在》を否定されたということね?」
そうだろうか。いや、そういうことだ。人間ではない僕を否定したのだ。
そう思うと、あの偽善者でおせっかいな彼女が無性に腹立たしく感じてくる。彼女さえいなければ、こんなにも悩むことはなかったというのに。
「でも……確かに今のあなたは、人間になりかけているのかもしれないわ」
少し目を伏せて、女は言った。
その言葉に、僕は無性に置いてけぼりを食らった気がした。
一人は嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…………
女はまた白い手を、僕の手に重ねた。
「大丈夫、安心して。いい方法があるわ。あなたがこちらに戻れる、いい方法が……ね」
その後のことは、正直あまり覚えていない。女が僕に何を言ったのか。僕はどうしてここにいるのか。
この目の前の惨状は何なのか。
人気のない河原。夜空にはたくさんの星が美しく瞬いている。
そして、目の前には一人の女。
そこに僕という男がいれば、普通はロマンチックな雰囲気を想像するのではないだろうか。
だが、目の前の女……いや、彼女は、赤い、紅い血溜まりの中に倒れ伏していた。
僕は生まれて初めて、星がどんなに明るい物なのかを思い知らされた。
はっきりと、くっきりと、彼女の体から流れ出る血が。
血が、
血が、
血が……!
「残念ね……。やっぱりあなたは、人間だったみたい」
後ろから急に声が聞こえ、僕は驚き振り返る。
あの妖艶な女だ。夜に会うのは初めてだが、いつもより美しさが際立って見える。
いや、そんなことはどうでもいい。それよりもなんだって。
僕が人間? この女は確かにそう言った。
なぜ……?
なぜ、
なぜ、
なぜ!?
――僕はお前の言うとおりにしたんだ! お前がこの偽善者でおせっかいな彼女を殺せと言ったんだ! そうすれば、人間にならなくて済むと! そう言ったのは、お前だろう!?
そう、そうだ。だから僕は殺したんだ。
彼女を。
僕に笑顔を向けた彼女を。
僕の誘いに軽く応じてくれた彼女をっ!!
そんな僕を見て、女は紅い唇を今まで見たこともないほどに歪まし、とてもおもしろそうに、言った。
「だってあなた、泣いているんだもの」
アハハハハ――と女は高らかに笑い出す。
ああ、そうか。本当だ。僕は涙を流している。感情があるのが人間だと、彼女は言っていた。
僕は、人間だったのだ。
そして、今。
僕の目の前で下品に笑っているこの女こそが。
悪魔だったのだ――