1st Game「始まりの終わり」
間もなく時が満ちようとしていた。
幽玄の月を見上げながら、鎌足亜紗は一人静かに猪口を傾けていた。
血戦の時は近い。かつて交わした約束の時が近付いていた。それほど遠くない日に風間静夜は動き出すだろう。あの男の存在は必ず世界に破滅と絶望をもたらす。
風間静夜が破滅をもたらすことに理由などない。
敢えて理由を挙げるなら、彼が生まれながらの『悪』であるからだ。風間静夜は無条件で破滅をもたらす魔王として生まれた。
純然たる悪に生まれることに理由など必要だろうか。
自らにとって都合のいい正義が生まれた時には理由など求めないというのに、自らにとって不都合な悪が生まれた時だけにその理不尽さを問うなど、どれだけ傲慢なことか理解すべきだ。
何故生まれたのか、生まれてしまったのか。そんな疑問に時間を費やすことなど愚かなことだ。生まれたことに意味などない。生きていることにも意味はない。命に意味を持たせるのは、生きる者がどのように命を使うかによって変わる。
『俺が世界を殺すために生まれた魔王ならば、世界を守るために戦う貴様は勇者といったところか? なぁ、鎌足亜紗?』
かつて風間静夜と交わした言葉を思い出した。
あれは一年前、二人きりで話した最後の夜のことだった。
亜紗は猪口の水面に月を映しながら、あの日のことを思い出していた。
『冗談じゃない。勇者なんて柄じゃないし、そもそも勇者や魔王なんてカテゴリに囚われるなんて御免ね。私はどこまでいっても私でしかないし、貴方だって貴方でしかない』
生まれながらに背負った運命に意味などない。
運命は今を生きる自分自身の意志と行動で変えられる。
たとえ、風間静夜が悪として生まれても、彼が悪であることを否定して生きることは可能なはずだ。それが意志であり、運命を変えるための力だ。少なくても、亜紗はそう信じていた。信じていたかった。
だが、亜紗の言葉を静夜は冷たく否定した。
『それは違う。違うんだよ、鎌足亜紗。多くの悪魔と魔術師が悠久の時を隔てて人の悪意を具現化した存在、それが俺だ。そこに個人の意志である俺は存在しない。俺は神が創り出した最悪の失敗作である人間共を支配し、この腐敗したゴミのような世界を破壊するために生まれた。それこそが俺が俺である意志だ。
わかるか、鎌足亜紗? 俺の存在そのものが運命なんだよ? 悪として存在することが宿命付けられた支配者。チェスのキングが決してその役割を変えられないように、俺は俺の意志を止めることはできない』
『……くだらないわね。自分の存在意義なんて、本当はどうでもいいことなのよ? 人は運命になんか縛られていない。もし、それでも自分が縛られていると感じるのなら、それは自分自身の弱さに囚われているだけ。存在意義なんて傲慢な考えだって、わからない?
生きていることの意味なんて考えなくていい。生きていること、それ自体が何よりも価値あることなのよ。何故、それに気が付かないの? 自らの意志が運命を打ち砕き、未来を拓く力となるのよ』
想いはいつだって平行線だった。
風間静夜と鎌足亜紗の心が交わることなど決してない。
純然たる悪として生まれた男にとって、全ての存在と重なり合うことはない。特に、風間静夜の対と成るべくして生まれた鎌足亜紗とは決して重ならない。
『俺と貴様の意見は常に平行線だな。だが、それでこそ俺と対を成す片翼だ。俺達は決して交わらない黒と白だ。鎌足亜紗、貴様は常に俺の対岸に立っていろ。俺が、俺という個が最期に殺すべき存在でいろ。
貴様は俺の唯一の執着。世界を殺すために生まれた悪の結晶である俺ではなく、ただ風間静夜という個人の俺の唯一の執着、それが貴様だよ、鎌足亜紗。貴様という執着を自らの手で殺した瞬間、個としての俺は消え、全としての俺が動き出す』
『相も変わらず回りくどい男ね。要するに私を殺したいんでしょう? だったら、今すぐやればいい。貴方にはそれだけの力があるはずよ』
亜紗には静夜を拒めるだけの力はない。
一対一で戦ったのなら、どう足掻いても亜紗が静夜に勝てる見込みなどなかった。二人にはそれだけの力差があり、静夜は人を傷付けることを躊躇うような良心など生まれつき持ち合わせてなかった。
しかし、一年前までの亜紗は二人きりで静夜と話すことが度々あった。静夜が会いに来ることもあれば、亜紗から出向くこともあった。そうして噛み合わない議論を繰り返していた。
二人で会うことに理由などなかった。相反するN極とS極が惹かれあうように、ただ理由なく逢瀬を重ねていた。
『ふっ……。確かに力はある。今すぐにでも非力な貴様を押し倒し、女としての尊厳を徹底的に辱めてから、細切れの肉片にすることなど実に容易いことだ。
だが、個として俺の執着が邪魔をする。那由他の時空から積み重ねてきた悪意が、ただ一つの個によって阻まれているのだ。理解できん現象だ。昔から貴様に触れようとすると、まるで初心な坊やのように躊躇いが生じる。どんな女であろうと躊躇わず凌辱し屈服させてきたこの俺が、何故こんな貧相極まりない小娘に触れられないというのだ?
これは一体だ……? 俺の全てを阻む感情の正体は何だ……?』
『知らないわ。愛でいいしょう?』
『それはないな』
『全くね』
二人の関係を、愛などと安っぽい言葉で語れるはずがない。
ならば、この感情の正体に当てはまるべき言葉などない。
『だが、間もなく時が満ちる。
その時まで俺は貴様を殺さなければいけない』
『そうね、間もなく時が満ちるわね……』
『時が満ちれば、俺か貴様、いずれかが死ななければならない。だが、まともに俺と貴様が戦っても勝負は見えている。それでは面白くない。俺と貴様の決着に相応しい殺し合いにしようではないか、鎌足亜紗。
勝機を与えてやる。だから、貴様の全てを俺にぶつけて来い。貴様が揃えた手駒、貴様が巡らせた戦略戦術、その全てを俺が叩き潰してやろう。これはゲームだよ、鎌足亜紗。俺と貴様、世界の支配権を賭けた二人の王のゲーム。俺が勝てば腐敗した世界は終わりを告げ、貴様が勝てば世界は存続して腐敗は未来永劫まで続く。
さぁ、ゲームを受けるか、鎌足亜紗? 受けぬというのなら、黙って股を開け! 俺はどちらでも構わないぞ?』
『受けるに決まっているわ。貴方は私が殺す。他の誰にも渡さない。貴方を殺していいのは世界で私だけよ』
それは、一年前に交わした殺し合いの約束。
黒き悪魔の王、風間静夜。
白き天使の王、鎌足亜紗。
二人は決して共に生きることを許されない。どちらかが死に、どちらかの糧とならなければならない存在。命を生かすために、命を奪わなければいけないように、当たり前の摂理だった。
「静夜、もうすぐ始まるわね。私達のゲームが……」
亜紗は回想を終えて、水月が映る酒を一気に呷った。
鎌足神社の屋根の上、かつて二人の約束を交わした場所で亜紗は天を仰いだ。決して届かぬ月を一睨みし、くすねてきた御神酒を猪口に注いで再び呷った。
あの約束から間もなく一年の月日が経とうとしていた。
時が満ちる時、ゲームの決着を付けなければならない時。
間もなく風間静夜か鎌足亜紗のいずれかが死ななければならない。生き残りたければ殺さなければならない。それが二人の王の運命だった。チェスの駒が自らに割り振られた役割を変えられないように、二人の運命は決して変えられない。
「私の駒はあと一つ……」
盃を持つ手が震える。
この震えは武者震いと呼ぶべきものなのか、それとも恐怖による怯えなのか、亜紗自身にもわからなかった。
亜紗自身には自ら戦う力はない。仲間の力がなければ、黒き悪魔の王である風間静夜に抗うことさえ出来ない。白き天使の王である鎌足亜紗にとって、盤上でどれだけ強力な駒を得られるかが重要だった。
ゲーム宣誓以前から、亜紗は静夜を倒せる力を持つ駒を探していた。その結果、盤上において最強の駒を自陣に引き入れることが出来た。しかし、たった一つの駒だけでは勝つことが出来ない。チェスでもクイーン一つでは戦況を覆せないのと同じだ。
黒の王にチェックメイトを掛けるために必要な駒はクイーンではない。むしろポーンのように凡俗ながらも愚直に進める駒。亜紗は今、その駒を手に入れようとしていた。
「風間静夜、貴方がどれだけの策謀を巡らし、悪意に満ちた運命を紡ごうとも、私の意志で打ち砕いてみせる」
気高き誓いを胸に、亜紗は下弦の月を映した杯を飲み干した。
どんな運命は変えられる。たとえ、どれだけ残酷な運命が待ち受けていようとも、亜紗は天秤を覆すために戦い続ける。それは運命さえねじ伏せる彼女自身の意志だった。
「期待はずれだったな。悪魔や魔術師を屠ることに特化したクルキアレ殲滅部隊の実力がこの程度だったとは。俺の元に辿り着けたのは貴様一人か」
血の臭いが充満する謁見の間で、黒き悪魔の王は退屈そうに呟いた。
魔王は本革のソファに悠然と腰掛け、膝の上に金髪の少女を抱いていた。金髪の少女は今にも息絶えそうなほどの重傷を負い、床を真っ赤に染めるほどの出血をしていた。辛うじて意識があるようだったが、声を上げることすらできないほど衰弱していた。放置していれば、あと数分で少女の命は終わってしまうだろう。
黒の王、風間静夜の周囲には仮面で素顔を覆い隠した従者が三人控えていた。王の背後を守護するのは、憤怒の仮面を被った大柄な男。右翼を守護するのは、愉悦の仮面を被った細身の少年。左翼を守護するのは、悲涙の仮面を被った長身の女性。いずれも全身を血塗れにしているが、それは彼等自身の血ではなく、王に歯向かった愚かな逆賊の血だった。
そして、唯一王に対して底知れぬ殺意と憎悪を向けるのは、王の膝上で息絶えそうになる少女と瓜二つの姿をした少女。
彼女だけが王に対して敵意を向け、平伏すことを拒んでいた。しかし、王に抗う少女もまた満身創痍であり、それ以上の抵抗はできそうになかった。やはり、王を倒すことができる者はいないということだろうか。
「……殺す。お前は、ボクが殺す……」
「ほう、面白い。やれるものならやってみろ、リーズ・ベルナール」
「なっ、ボクの名前を!? どうして、どうやって……」
王に対峙する少女、リーズ・ベルナールは王より答えを賜る前に、その答えを見出してしまった。同じ部隊でリーズ・ベルナールの本名を知る者は一人しかいなかった。
リゼット・ベルナール。共にこの世に生を受けた唯一無二の肉親。己が背負う残酷な運命に屈しそうになった時、いつも支えてくれた掛け替えのないたった一人の家族。その誰よりも大切な人の命が今、目の前にいる悪魔の手の中にあった。
「……人間というものはどれだけ修練を重ねようとも完璧になり得ない。必ず、弱みはある。この女、リゼット・ベルナールの場合は、貴様だよ。クルキアレ殲滅部隊の敗北を悟るや否や、この女は貴様の命を救うために仲間の情報を売った」
「リゼット……。どうしてボクなんかのために……。呪われたボクの命なんかを助けたって何の意味がないのに……」
「同感だな。貴様のような屑などに存在する価値などない。しかし、この女との契約がある。悪魔の系譜に連なる者にとって契約は絶対だ」
静夜は薄く笑みを浮かべ、半死半生のリゼットの髪を掴んで頭を持ち上げた。呼吸をしているだけでも苦しそうなリゼットは苦悶の呻きを漏らした。
「……リゼット!!」
双子の呻きを聞き、リーズは反射的に飛び出していた。
彼女が踏み込んだ先は紛れもなく死地。圧倒的な力の差を感じ取っていたからこそ慎重を期していたはずだった。無謀に突っ込んでも勝てないとわかっていたからこそ、瀕死のリゼットを前にしても必死に堪えていた。大切な肉親を傷付けた敵に底知れぬ憎悪と殺意を抱きながらも、可能性の少ない勝利を掴むために堪えていた。
しかし、目の前で苦しむリゼットの声を聞いた瞬間、リーズの思考は真っ白に弾け飛んだ。この状況を打破するために考えていた論理など、唯一の肉親が苦しむ声が聞こえた瞬間に吹き飛んでしまった。押し寄せる感情がリーズを突き動かしていた。
「……いい、手を出すな。契約を反故にする訳にはいかない」
リーズを迎撃するために動き出した従者を制し、静夜はリゼットの頭を鷲掴みにしたまま悠然と立ち上がった。
「風間静夜ァァァァァァッ!!」
「分際を弁えろ、屑がッ!!」
対峙する二人の間で衝突する強大な魔力の奔流。空間を捻じ曲げるような熾烈な衝突は、王の間全体を激しく揺るがした。全てを吹き飛ばすような暴虐な奔流に煽られ、強大な力を持つ従者達も辛うじて場に踏み止まることしかできなかった。
衝突する二つの奔流が放つ魔術属性は偶然にも同一だった。死と不吉を撒き散らす呪われた災禍の風。あらゆる邪気を孕ませた地獄の風だった。魔力によって生み出された災禍の風は激しく衝突をしたまま周囲の大気を巻き込み、更に暴虐な力と化していった。
永遠とも思えるような一瞬の激突。勝負はその一瞬が終わる寸前に決した。
風はあまりにも残酷で無慈悲。力なき者には決して従わず、その流れを支配することができるのは真の強者のみ。王の間全体を包み込むほどに膨張した災禍の風が行き着く先は、弱者の元しかなかった。この場合は、リーズ・ベルナールの元へ。
行き場を失った大気の奔流はリーズ・ベルナールを呑み込み、彼女を完膚なきまでに蹂躙した。災禍の風が過ぎ去った後には、音すらも消え去ったような不気味な静寂。
リーズ・ベルナールが薄れる意識の中で最後に見たものは、守れなかった大切な家族の姿。血塗れのまま動かない双子の片割れに手を伸ばし、届かぬままリーズの意識は闇に落ちていった。
風城市中央区の一等地に建てられた白亜の西洋風建造物は、市内随一の進学校である静林学園高校の校舎だった。バロック建築の流れを汲んでいるような装飾華美な校舎は、一見すると青少年達の学び舎とは思えなかった。
静林学園は風城市都市化計画の初期に設立された高校だった。創設より十数年程度と歴史は浅いが、一流の教師陣と独自のカリキュラムで有名大学への高い進学率を誇っていた。近年ではスポーツ方面にも力を入れており、将来有望な学生をスカウトしていた。また、付属中学も併設されており、次世代を担う人材の育成にも力を注いでいた。
同学園の一年E組には運命のゲームの黒き王である風間静夜と、白き王である鎌足亜紗が在籍していた。
だが、これから始まる喜劇の舞台となる場所は一年E組の教室ではなかった。放課後の学園校舎の屋上だった。
バロックの流れを汲んだ校舎は屋上までも華美な造りになっていた。白亜の塀が高くそびえているため外の風景は見えないが、塀には絵画を思わせるような美しいレリーフが彫られ、緻密な彫刻が彫られた捻り柱が八本建てられていた。更に、季節に合わせた彩り豊かな花が植えられた花壇と、それを囲むように白銀のベンチが並んでいた。入口の外観は小さな鐘楼をイメージした造りになっていた。
「……こんなところに呼び出しやがって、何の用だ?」
スポーツマンタイプの屈強な男子生徒は、少し苛立った様子で屋上に姿を現した。
この男子生徒の名は、凪修二。静林学園のスポーツ特待生でバスケ部に所属していた。一年生ながら不動のエースとして君臨するほどの実力者だった。体格も運動能力もすでに高校生という枠を超えている。
身体が大柄なためか顔立ちも大人びて精悍。茶髪のスポーツ刈り、意志の強そうな真っ直ぐな瞳。性格も純粋で真っ直ぐな正義漢だった。
「『父親の死んだ理由を知りたいなら屋上に来い……』ってどういう意味だよ? 親父は事故で死んだんだぞ。これじゃあ、まるで……」
「まるで、何?」
修二の対面に立つのは、小柄ながらも鋭い眼光をした女子生徒だった。
一般成人の平均を超える修二と比べると、女子生徒の小ささは更に際立っていた。小柄というよりも発育不良。全体的に細く、栄養が足りていないような痩躯。だが、眼光だけは爛々と輝き、大型の肉食獣を前にしているようなプレッシャーを受ける。
堅苦しい軍服のような静林学園高校の制服を襟まで締め、式典以外はあまり使われることなない制帽までキッチリと着こなしている。そんな姿は、彼女の生真面目さを現している。
彼女は鎌足亜紗。世界に破滅をもたらす風間静夜と対を成す白き天使の王。
「…………まるで、殺されたみたいじゃないか……」
「まるでじゃなくて、事実殺されたのよ」
「冗談はよせ、鎌足!」
修二の怒声にも全く怯まず、不敵に微笑む亜紗。
「冗談じゃないし、このままだと姉も同じように死ぬわよ。まぁ、何も知らないままだと父親と同じように事故死って扱いなるだろうけど。いや、もしかしたらそれどころじゃなくなっているかもしれないわね」
「いきなり、そんなことを言われてハイそうですかって信じられると思ってるのかよ!?」
「別に信じてもらうつもりで呼んだ訳じゃないわ」
「じゃあ、やっぱり出鱈目かよ!」
「嘘じゃないわ。気になったら凪先生に鎌を掛けたら? あの人、基本的に嘘とか誤魔化しが苦手だからね。口は割らないだろうけど、反応を見れば一発よ」
「……くだらねぇ」
修二は怪訝そうに眉をひそめ、それ以上は何も言わなかった。
これ以上、この話をしても平行線になるのは見えていた。こんな荒唐無稽の話を信じられるはずがない。だが、胸に湧いた一抹の不信感は拭いきれなかった。
姉に確認すれば、今の修二の不安は拭い去られるはずだ。おそらく姉は何の冗談かと笑い飛ばすか、不謹慎な話だと怒るだけだろう。だから、早く姉に会いたかった。
「……それで、こんな話をするために俺を呼んだのか、鎌足?」
「今はあまり関係ない話よ。本題は別にあるわ」
不機嫌そうにボリボリと短髪の頭を掻きむしりながら、修二は真っ直ぐ亜紗を睨みつけた。
鎌足亜紗は一体何を考えているのだろう。修二はあまり優秀とは言えない頭脳を珍しく稼働させて考えた。しかし、普段勉学に勤しまないせいか、すっかり錆ついた思考回路では亜紗の考えを予測することは出来なかった。
ただ、悪い予感だけはした。
それも今までにないくらいビンビンと感じる。
絶対に良くないことが起こる、そんな気がした。
修二はあまり頭のいい方ではないが、勘だけは人一倍良かった。その勘の良さのおかげで選択問題の的中率が高く、これまでその勘だけで奇跡的に赤点を避けてきた。逆説的に、それ以外の問題はほぼ全滅という事実があるのだが。
「凪修二……」
「何だよ」
一陣の風が吹き、亜紗の制帽を吹き飛ばそうとした。亜紗は咄嗟に帽子を掴み、ぐっと深く帽子をかぶり直した。
亜紗に睨まれているプレッシャーが一瞬でもなくなると、やはり彼女の小柄さが際立った。まるで病弱な子供のような細い体躯だ。修二は子供のように帽子をかぶり直す亜紗を見て、少しだけ気分が和んだ。
しかし、そんな和んだ気分はすぐに吹き飛んだ。曇りなき導きの瞳が真っ直ぐに修二を射抜いたからだ。
「貴方を私の下僕にするわ……」
「………………はァ?」
白き天使の王が求める最後の駒は、とても愉快なアホ面のまま一分近く硬直した。
魔術師の拷問は熾烈を極めた。
無限に続く苦痛の連鎖。五体は無残に引き裂かれても、数刻後には魔術によって元の状態に戻され、再び野獣に食い散らかされるように八つ裂きにされる。何度も繰り返される苦痛や、普通の拷問以上に凄惨な責めに耐えられる人間は皆無と言っていいだろう。
目を抉られ、耳を割かれ、鼻を削がれ、舌を千切られ、皮膚を焼かれた。あらゆる五感を奪われ、取り戻され、奪われ、取り戻された。永遠に終わらない地獄の拷問だった。
普通の人間ならば半日も経たずに発狂してしまうような拷問をリーズ・ベルナールは一週間以上耐え続けていた。その精神力は感嘆すべきものだったが、それもいつまで保つかわからなかった。
再び目を覚まし、リーズは状況を再確認した。悪魔に蹂躙された体はすでに完治しており、元通りの状態だった。場所も変わらず、風間邸の地下牢獄の一室。物言わぬ屍が幾つか転がっていたが、その中に最愛の肉親であるリゼットの姿はなかった。それだけが唯一の救いだったが、今も双子の妹が生きている保証はどこにもなかった。
そして、リーズは正面に居座る風間静夜を睨み付けた。まだリーズの心は折れていない。
「ようやく目を覚ましたようだな、リーズ・ベルナール」
「あんたも大概暇だね。一日中ボクの相手をしているなんて」
「光栄だろう? わざわざ俺自らの手で蹂躙してもらえて」
静夜は屈み込んでリーズの美しい金髪を一房掴み、指に絡めさせた。
悪魔の拷問はすぐに始まらない。まずは降伏勧告から。恥辱を忍び、悪魔に屈すれば拷問は終わる。しかし、どれだけ蹂躙されようともリーズは悪魔に屈しようとはしなかった。
リーズは射殺すような視線で静夜を睨み続けるが、鎖に繋がれた彼女にはそれ以上何もできなかった。勝機の見出せない抵抗は体力の無駄遣いでしかない。
「それに、一日中貴様の相手をしていた訳ではない。日の半分は貴様の妹で楽しませてもらっている」
「い、妹……? まさか、リゼットが生きているの!?」
静夜の口からリゼットの話を聞くのは初めてだった。今までは何度聞いても答えてくれなかった。
「あれほどの女を簡単に殺すと思うか? 知っているんだぞ、貴様等のことは全て、な」
「ふん、口から出任せを……。全てを知っているなんて言い回しは、実は何も知らない、ってことの裏返しだ。お前は何も知らない。だから、ボクから情報を引き摺りだしたいんだろう?」
「本当にそう思うか?」
悪魔は愉快そうに嗤う。
相手がこの男でさえなければ、リーズもはっきりと何も知られていないと断じられただろう。その不安は風間静夜の不気味な圧力に怯えているのかもしれない。しかし、言いようの知れない疑念が脳裏から離れなかった。
全てを知っている、という言葉は基本的に脅し文句でしかない。本当に全てを知っているのなら、その情報を全て提示すればいい。それを駆け引きの合間に出すということはその言葉を用いて相手を動揺させ、情報を引き摺りだそうとするため。そして、それはつまり何も知らないからこそのBluff。威嚇、ハッタリ、虚仮威しに過ぎない。
「……リーズ・ベルナール。その特別な血が原因で洗礼は受けられず、洗礼名はない。現在十六歳。フランス、ボルドーから離れた小さな港町で生まれ、幼少期はその港町で両親と双子の妹であるリゼットと共に過ごしていた。町を離れたのは、貴様が七歳の頃だったな? そう、貴様が両親を惨殺した年だ。忘れてはいまい?」
「なっ!?」
「そして、両親を惨殺した貴様はリゼットと共にイタリアの枢機卿、ヴァーレリオ・A・ベニーニに拾われ、以降はイタリアで暮らすようになった。クルキアレ殲滅部隊のパトロンであり、元魔術師であるベニーニより対魔術戦闘を叩き込まれ、クルキアレ殲滅部隊に入隊する。現在の階級は、軍曹だったな?
そして、今の貴様達の任務は一年前、突如教会を裏切り、秘宝を盗み出したヴァーレリオ・A・ベニーニ枢機卿の抹殺。つまり、大恩ある育ての父を殺す任務だ。……さて、何か間違いがあったか?」
彼の口から綴られるリーズのプロフィールに何一つ間違いはなかった。
しかも、リーズが生まれ故郷を去った理由まで言い当てていた。それはクルキアレ殲滅部隊の上層部でさえ知らない事実。
リーズが両親を殺した理由を知っているのは、この世に二人しかいない。肉親であるリゼットと、育て親であるヴァーレリオ・A・ベニーニ枢機卿のみだ。リーズがこの世界で唯一心を許した者達だけが知っている真実だった。
何故、彼がそれを知っているのか。考えられる選択肢は二つしかなかった。どちらも考えたくない可能性だった。
「…………ベニーニ枢機卿から聞いたの?」
リーズは可能性の高いと思う可能性から口にした。
そもそもリーズ達が風間邸に潜入した理由は、ベニーニ枢機卿を匿っているという情報があったからだ。もし、風間家とベニーニ枢機卿が協力関係ならば、ベルナール姉妹のことを教えていても不思議ではない。彼ならば、ベルナール姉妹の全てを知っていた。
それに、ベニーニ枢機卿の協力があれば、リゼットを落とすのも容易であっただろう。リゼットの裏切りを信じたくないリーズにとって、そう考えた方が楽だった。
「はっははははははッ!! 淡い希望に縋るな。忘れたのか、リーズ・ベルナール? 貴様の仲間は何故、死ぬことになった? 情報を売った裏切り者がもう一人いただろう?」
「有り得ない……。リゼットが、ボクのことを……」
一週間前の戦いでは先走った考えで無謀に突っ込んでしまったが、リゼットが自分の情報を売るはずない。リーズはたった一人の肉親を誰よりも信じていた。
「いや、饒舌に語ってくれたぞ。ベッドの上で可愛い喘ぎ声を鳴かせながら、だったがな?」
「貴様ァァァッ!! リゼットに何をした!! 殺してやる、絶対に殺してやる!!」
「はっはははははははははッ!! いいぞ、その憎悪と屈辱に塗れた表情は最高だ、リーズ・ベルナール!! もっと泣き喚け、怒りの声を聞かせてみせろ!! その可憐な顔を屈辱で歪ませろ!! 今の貴様はどんな辱めを受けた時よりもいい顔をしていたぞ!! リーズ、貴様はリゼットに会いたがっていたな!? ならば、会わせてやろう!! 俺に絶対の忠誠を誓い、雌犬のように腰を振る肉奴隷になったリゼット・ベルナールと!! はっはははははははははッ!!」
「風間静夜ァァァァァァァァァッ!!」
リーズは自分が鎖で繋がれていることも忘れ、怒り狂った雄叫びを上げながら静夜に食ってかかった。しかし、どれだけの怒りがあろうとも鎖は決して切れない。少女の怒りは憎き悪魔には届かなかった。
絶対的な力の前には、どれだけの想いも願いも全て潰されてしまう。神に祈ろうにも、生まれた時から呪われている。仲間に助けを乞おうとも、全て殺されてしまっている。愛する家族を信じようとも、その裏切りを見せつけられた。
奇跡でも起こらない限り、圧倒的な力を持つ静夜には敵わない。
しかし、奇跡に縋るということとは、広大な砂漠の真ん中で地図も持たずに一つしかないオアシスを見つけ出そうとすることに等しい。求める場所があるなら、地図とコンパスを持ち、それ相応の準備と訓練を積み、一歩一歩慎重に進まなければならない。偶然で行き着ける可能性など無きに等しい。
奇跡は起こらない。たとえ、この世に星の数ほど奇跡があろうとも、それは決してリーズの元には訪れなかった。
「リーズ、貴様が俺に屈さないのならそれでも構わない。手駒ならリゼットだけでも充分だ。貴様はせいぜいこの地下室で愛する妹がボロ雑巾のように使い捨てられるのを待ち侘びていろ。あの女はすでに俺の下僕だ。俺が命じれば、命をも投げ出すだろう」
「くっ……」
「いいのか、リーズ・ベルナール? 貴様はこれまで何のために生きてきた? 両親を惨殺してしまったあの日に、貴様を止めてくれたのは誰だ? 狂気に取り憑かれ、闇に堕ちた貴様の魂を救ったのは誰だ? 両親亡き後もずっと側に寄り添い、支え続けて来たのは誰だ? 今も貴様の命を救うために俺と契約を交わしたのは誰だ?
そうだ、リゼット・ベルナールだ!! 貴様にとって唯一の肉親!! 同じ血肉を分けた双子の片割れ!! あの日、貴様は誓ったのだろう!? たとえ、自分がどれほどの罪を背負おうともリゼットだけは守り通す、と!!
いいのか、貴様はこのままで!? 鎖に繋がれたまま誓いを果たせると思うのか!? あの時の誓いは嘘だったのか!? 見捨てるのか、リーズ!? どんな時も貴様を支え続けた愛しい家族を!! 見捨てるのだな、リーズ!! そう、見捨てるんだよな、たった一人の家族を!?
貴様はそういう人間なんだろう!? 思い出せ、両親を殺した時のことを!? 泣き喚きながら助けを乞うその顔に凶刃を叩き込んだ時のことを!? あれほどの歓喜、味わったことはなかっただろう!? 貴様は俺と同族だ! あまねく命を侵し、魂の尊厳を奪うために生まれた悪魔!! あの天使のような女がボロ雑巾のように死のうとも、良心など痛むはずがないよな!? そうだろ、リーズ・ベルナール!?
あの女の一生を思うと、愉快過ぎて笑えてくるな!? 両親を殺した化け物を家族と信じ、散々尽くしてきたのにも関わらず見捨てられ、最期は恥辱と蹂躙を受けた相手のために生贄となる!! あれほど哀れな女もそうはいない!!
はーっはははははははははははははははッ!! 嗤えよ、リーズ・ベルナール!! 貴様の妹の愉快過ぎる死に様を思って、な!?」
「………………やめて……」
「聞こえないな。何を言っている?」
「…………わかったから……」
「ふっ、それで俺が納得すると思っているのか? いいのか、リーズ・ベルナール? 今、リゼットが何をさせられているのか知らないんだろう? 貴様のその決断の遅さがどういう結末を招くか……」
血も肉も全て貴様が喰らうとしても、この心だけは決して渡さない。
あの日、リーズはそう誓ったはずだった。悪魔にだけは決して屈しない覚悟を持っていた。しかし、そんな決意などよりも重い命があった。たとえ、どれだけ泥に塗れようとも守るべき人がいた。
たとえ、自分がどれだけ穢されようとも大切な人を守れるのならば、何もいらない。
「やめて!! わかったから!! …………貴方に屈する……。ボクのこの血も肉も全て捧げる……。だから、もうリゼットを傷付けないで……。何でもするから、リゼットだけは……。お願い……」
結局、リゼットの命と引き換えにリーズは魔王に屈服した。
無残に敗北し、どれだけ屈辱的な蹂躙を受けようとも心だけは決して折れなかった少女は、たった一人の妹のために自身のプライドを捨てた。血の滲むような蹂躙を耐え忍び、屈辱の忠誠を誓わされた。もとより自尊心など泥に塗れていたが、それでも悪魔に屈することはリーズにとって最大の恥辱だった。
「……くくく、はーっはははははははははははははははッ!! これでようやく全ての駒が揃った!! 盤上の配置はすでに整いつつある!! あとは時が経つのを待つのみだ!! 間もなく始まる!! 絶対たる運命が紡ぎ出す王のゲームが!!
時よ、満ちろ!! 世界を壊し、世界を創るための戦いが幕を開ける!! 旧き世界を殺し、俺は新たな世界の王となる!!
さぁ、間もなくゲームの始まりを知らす号砲が鳴り響くぞ、鎌足亜紗!! 運命を覆す貴様の意志を蹂躙し、必ず屈服させてやる!!」
悪魔は嗤う。運命は悪夢の策略によって滞りなく紡がれていく。
失意の底にいた今のリーズは知る由もなかったが、彼女の屈服はあらかじめ決められた予定調和の一つに過ぎなかった。彼女の知らないところで事態は進行し、敗北も蹂躪も屈服も全てが定められた運命に過ぎなかった。
誰もが運命に囚われ、操り人形のように踊らされる。悪魔によって紡がれた絶対たる運命から逃れられる者はいないのだろうか。
The game continues to the next Hell...




