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資格のない私と、声で咲く花火

作者: 音無 千秋
掲載日:2026/10/22

律さんの足音は、すぐにわかる。

廊下の床で、スニーカーが、きゅ、と鳴る。それから、石けんみたいな柔軟剤の匂い。

「こんにちは、水瀬さん。お待たせ」

「こんにちは。待ってないです。今来たとこです」

嘘だ。本当は、組んだ足がしびれるくらい前から座っていた。

毎週土曜日の午後二時から四時まで。大学三年の篠原律さんは、ここで私に本を読んでくれる。

去年の秋、司書の三浦さんが紹介してくれた。それから、もう半年以上になる。

「じゃあ、今日は第十四章からだね」

ページをめくる音。それから、小さな咳払い。

読みはじめる前に咳払いをするのは、律さんの癖だ。私はその音を聞くと、背筋が少し伸びる。

「『少年は、その朝、初めて海の匂いを知った』」

律さんの声は低くて、文の終わりで、ほんの少しだけかすれる。

読んでいるのは、海を渡る少年の長い冒険小説だ。上下巻で、もう四か月目になる。

少年の台詞は、普通に読む。船長の台詞は、ちょっとだけ声を太くする。そして、少年が港町で出会う女の子の台詞のときだけ、律さんは少し声を高くして、そのあと決まって、恥ずかしそうに咳払いをする。

私は、その咳払いが、たまらなく好きだった。

「『――君に、会えてよかった』」

第十四章の終わり。港を離れる船の上で、少年が女の子に言う台詞。

律さんの声で聞くと、胸の真ん中が、ぎゅっとなった。

「……あの、律さん」

「うん?」

「今の、ちょっと聞き逃しちゃって。最後の台詞だけ、もう一回いいですか」

本当は、一字一句、息継ぎの位置まで、ちゃんと耳に残っている。

「いいよ。『――君に、会えてよかった』」

二回目のほうが、少しだけ、ゆっくりだった。少しだけ、優しかった。

私は膝の上で、スカートの布をぎゅっと握った。頬が熱い。耳たぶまで熱い。律さんに気づかれていませんように、と思いながら、同時に、ほんの少しだけ、気づいてほしかった。

朗読が終わると、律さんはいつも、バス停まで一緒に歩いてくれる。

私の傘は、晴れの日でも、私と一緒に出かける。白くて、細くて、軽い傘。

「水瀬さん、その傘、いつも持ってるよね」

「お守りなんです」

歩くたびに、傘の先がアスファルトに当たって、こつ、こつ、と小さく鳴る。その音を聞きながら歩くのが、私は好きだ。

私は、律さんの左の肘に、そっと手を添えて歩く。

最初は、たまたまだった。人の多い交差点で、はぐれそうになったとき。それから、いつの間にか、肘をつかむのが当たり前になっていた。

律さんの肘は、骨ばっていて、少しだけ温かい。

この温度を、覚えていたいと思う。

でも、覚えれば覚えるほど、苦しくなる。

――この恋を始める資格は、私にはない。

ぷしゅう、という圧縮空気の音を聞きながら、私は、いつもと同じことを考えていた。

◇

「で、その朗読の人、どんな人なの?」

大学の学食で、友達の美咲が身を乗り出してきた。

「……声がいい」

「それから?」

「手が大きい。あと、いい匂いがする」

「……それ、もうベタ惚れじゃん」

美咲は笑った。私は、手元のストローの袋を、指先でくしゃくしゃに丸めた。

「好きなんでしょ」

「……」

「琴葉さあ、バレバレだから。土曜の話になると声がワントーン上がるの、自分で気づいてないでしょ」

言われて、思わず両手で頬を押さえた。

ポケットの中で、スマホが短く震えた。

美咲からのボイスメッセージだった。片耳のイヤホンで再生すると、目の前にいる美咲の声が、耳元で言った。

『ほら、図星』

「ちょっと、美咲」

「だって、口で言ったら、琴葉すぐ照れて逃げるじゃん」

テーブルの向こうで、美咲がくすくす笑う気配がした。

◇

次の土曜日。朗読のあと、外はひどい雨だった。

図書館の玄関を出たとたん、雨粒が庇を叩く音が、耳いっぱいに広がった。

「バス、来るまでまだ時間あるよね。そこの喫茶店、入らない?」

律さんに誘われて、私は傘の先をこつんと鳴らした。心臓も、同じくらい大きく鳴った。

喫茶店に入ると、焦がしたバターとコーヒーの匂いがした。

「ここ、ロイヤルミルクティーがおいしいんだ。生姜がちょっとだけ入ってて」

「じゃあ、それにします」

「即決だね」

「律さんがおいしいって言うものは、だいたいおいしいので」

「なにそれ」

律さんが笑った。笑うとき、律さんは息を短く二回吐く。

運ばれてきたカップを両手で包むと、指先がじんとするくらい温かかった。甘くて、律さんの言ったとおり、少しだけ生姜の匂いがした。

店を出ると、雨は上がっていた。濡れた空気が、頬に冷たい。

「あ、晴れてきた」

律さんが言った。

「西のほうだけ、ちょっと明るい。……卵の黄身を、水で薄めたみたいな色」

律さんは、ときどきこうやって、空の話をしてくれる。

「……律さんの言う色、好きです」

「そう?」

「はい。すごく、好きです」

言ってから、しまったと思った。

色の話なのに。色の話のはずなのに、声が、ちょっと震えた。

律さんは何も言わなかった。ただ、肘をつかむ私の指の上から、律さんの手が、一瞬だけ重なった。大きくて、乾いていて、私の指よりずっと温かい手。

それから、何事もなかったみたいに、離れた。

私の指先だけが、いつまでも、その温度を覚えていた。

律さんの鞄からは、ときどき不思議な音がする。

プチ、プチ、プチ。

小さな針で、紙を一定のリズムで突くような音。バスを待つあいだ、ベンチの隣で、律さんがこっそり何かをしているときに聞こえる。

「律さん、何してるんですか?」

「え? あー……内職」

「内職?」

「秘密の内職。そのうち教える」

律さんは、ごまかすみたいに笑った。

◇

七月。

朗読のあと、カウンターの前で、司書の三浦さんに呼び止められた。

「水瀬さん、篠原くんから聞いた? 九月から一年、ロンドンに留学するんですって。朗読のボランティアも、七月いっぱいでお休みになるの」

「……あ、そう、なんですね。すごい。ロンドン。すごいですね」

同じ言葉ばかりが、口から出てきた。

カウンターの木の縁を、指先でなぞる。ささくれが、ちくりと刺さった。

◇

「告白しなよ」

電話の向こうで、美咲が言った。

「いなくなる前に。一年って長いよ。向こうで、誰かいい人できちゃうかもよ」

「……私には、むりだよ」

「なんで」

「私と一緒にいたら、律さんはずっと、私の代わりをしなきゃいけなくなる」

美咲は、しばらく黙っていた。

「……琴葉。それ、律さんがそう言ってたの?」

「言うわけないじゃん。律さんは、そんな人じゃ……」

「なんだ。よくわかってるじゃん」

電話を切って、ベッドに顔をうずめた。

私の部屋の本棚には、分厚くて、重い本ばかりが並んでいる。上下巻どころか、ひとつの物語が五冊にも六冊にもなっている。指先で背をなぞると、いつもの、ざらりとした手触りがした。

律さんに出会ったのは、去年の秋の駅だった。

ホームの案内放送が急に変わって、人の流れがいつもと違う方向に動き出した。靴音と、キャリーケースの車輪の音と、誰かの舌打ちが、四方から押し寄せてきた。私は、ホームの真ん中で、一歩も動けなくなっていた。

――大丈夫ですか。

低くて、文の終わりで少しかすれる声。

「図書館に行きたいんです。本を読んでくれる人を、探してもらいに」

そう言うと、その人は、黙って肘を貸してくれた。お礼を言う前に、その足音は、人混みの中に溶けてしまった。

二週間後。三浦さんに紹介された朗読ボランティアの人が、最初の咳払いをして、一行目を読んだ瞬間。

私は、あの駅の声だと、すぐにわかった。

律さんは、たぶん気づいていない。私も、言っていない。

あの日から、私の土曜日は、律さんの声でできている。

でも。

私は、律さんに、何をあげられるんだろう。

本を読んでもらって。空の色を教えてもらって。肘を貸してもらって。おいしいものを教えてもらって。

もらってばかりの私が、好きだなんて言ったら。

律さんは優しいから、きっと断れない。そして、ずっと、私のために、いろんなものを読み続けることになる。

それが、怖かった。

恋を始めるには、資格がいる。

相手と同じものを受け取って、同じものを返せる人だけが持っている、資格。

私には、それが、ない。

◇

七月の、最後の土曜日。

窓の外で、蝉が鳴いていた。

「今日で、最終章だね」

律さんの咳払い。ページをめくる、乾いた音。

海を渡った少年は、長い旅の終わりに、あの港町へ帰ってくる。夜の港は、人でごった返している。少年が女の子の名前を呼ぶと、女の子は、人混みの向こうから言う。

「『――どこにいても、あなたの声なら、見つけられる』」

律さんの声が、ほんの少しだけ、震えた。

いつもみたいな、恥ずかしそうな咳払いは、なかった。

心臓が、どくん、と大きく鳴った。

それは、私が言いたかった台詞だった。

あの日、駅のホームで聞いた、低くて、文の終わりで少しかすれる声。半年以上、毎週土曜日に、ドアの向こうから聞こえてくるのを待っていた声。

「……おしまい」

ぱたん、と律さんが本を閉じた。

四か月分の物語が、終わった。

私は、何も言えなかった。膝の上で組んだ指が、冷房のせいだけじゃなく、冷たくなっていた。

「水瀬さん」

「……はい」

「ロンドンのこと、三浦さんから聞いたよね。自分で言うべきだったのに、ごめん。言い出せなくて」

「がんばってください。……楽しんできてくださいね」

声は、ちゃんと明るく出た。出せた、と思う。

でも、傘の柄を握る手のひらに、勝手に汗がにじんでいた。

律さんは、少し黙ってから言った。

「最後の一文、もう一回読もうか?」

「……え?」

「水瀬さん、大事な台詞のとき、いつも『聞き逃した』って言うでしょ」

頬から耳まで、一気に熱くなった。

「き、気づいて……」

「最初の月から」

律さんが、息を短く二回吐いた。笑っている。

「だから今日は、聞かれる前に読む。『――どこにいても、あなたの声なら、見つけられる』」

二回目は、さっきよりゆっくりだった。一音ずつ、私の耳に、置いていくみたいな声だった。

私は、両手で頬を覆った。泣きそうなのか、笑いそうなのか、自分でもわからなかった。

「水瀬さん。来週の土曜、川沿いで花火大会があるんだ。……一緒に行かない?」

「……人、多いですよね」

「多い。でも、ずっと隣にいる。絶対に離れない」

迷ったのは、ほんの一瞬だった。

「行きます」

「よかった」

律さんの声が、ふっと緩んだ。

バス停までの道を、私は心の中で数えながら歩いた。

図書館の正面玄関から、バス停のベンチまで。二百十四歩。

半年以上、毎週歩いた道。律さんの肘の温度と一緒に、何度も数えた数字。

来週が終わったら、この二百十四歩を、一人で歩くことになる。

バスが近づいてくる、低いエンジンの音がした。ぷしゅう、と圧縮空気の音がする。

「律さん」

「うん?」

好きです、と言いかけた。

言いかけて、飲みこんだ。

「……来週、楽しみにしてます」

扉が閉まる音が、いつもより、ずっと大きく聞こえた。

◇

川沿いの土手は、人の声と、下駄の音と、屋台の匂いでいっぱいだった。

焦げたソース。甘い綿あめ。とうもろこしの焼ける匂い。遠くで、子どもが泣いている。すぐ近くで、誰かが笑っている。浴衣の袖が、私の腕をかすめていく。

人の波が、四方から押し寄せてくる。

私は、傘の柄を握りしめた。こんなに人の多い場所に来るのは、何年ぶりだろう。

「水瀬さん」

律さんの声が、すぐ隣でした。

「今日は、肘じゃなくて、こっち」

大きな手が、私の手を包んだ。

肘じゃない。手のひら。指と指のあいだに、律さんの指が、ゆっくり入ってくる。少しだけ硬い指先。指の腹に、小さな、ざらりとしたたこがあった。

心臓が、跳ねた。傘を落としそうになった。

「……り、律さん」

「はぐれたら困るから」

言い訳みたいな声だった。律さんの手のひらも、少しだけ汗ばんでいた。

私たちは、土手の草の上に並んで座った。夜の草は、少しだけ湿っていて、ひんやりしていた。

最初の一発は、胸の真ん中で鳴った。

どん、と、体の内側から叩かれるような音。肋骨の奥が、震える。少し遅れて、ぱらぱらと、細かいものがはじける音が降ってくる。それから、周りの人たちの「わあ」という声。火薬の焦げた匂いが、風に乗って流れてきた。

「今の、金色。大きな丸が開いて、しだれ柳みたいに、ゆっくり下に落ちてく」

律さんの声が、耳元で言った。

「次、赤。小さいのが、いっぱい。……あ、今のは真ん中だけ青い。外側が白くて、中が青いの。夏の朝の空みたいな青」

「……きれい」

思わず、声に出ていた。

本当に、きれいだった。

どん、と胸が鳴るたびに、律さんの声がその形を教えてくれる。金色。赤。青。しだれ柳。菊。牡丹。律さんの言葉で、夜空がひとつずつ、私の中に咲いていく。

握った手に、ぎゅっと力をこめた。

今しかない、と思った。

「律さん」

「うん」

「私、律さんの声が、好きです」

花火の音の合間。自分の声が、やけに大きく耳に返ってきた。

「……ううん。違う。声だけじゃなくて」

息を吸う。火薬の匂いが、喉の奥まで入ってくる。

「律さんが、好きです」

律さんの手が、止まった。

「でも」

言葉が、勝手にあふれてきた。

「私と一緒にいたら、律さんは、ずっと私の代わりをしなきゃいけなくなる。空の色も、花火の色も、何もかも。ずっと、私のために読み続けなきゃいけなくなる。……それが、怖いんです。律さんの人生を、私が全部、使っちゃう気がして」

律さんは、しばらく黙っていた。考えるときの、律さんの間。

どん、と、また胸が鳴った。

それから、律さんは、私の手のひらに、何かを置いた。

封筒だった。

「内職の成果」

「……え?」

「読んでみて。自分で」

封筒から、一枚の紙を取り出す。

普通の便箋より、少し厚い。少し硬い。

指先で、そっと表面をなぞった。

ぽつ、ぽつ、ぽつ。

小さな粒が、紙いっぱいに、規則正しく盛り上がっていた。

――点字だった。

プチ、プチ、プチ。

バス停のベンチで聞いた、あの音。小さな針で、紙を突くような音。

点字を打つ、点筆の音だった。

律さんの指先の、ざらりとしたたこ。あれは、半年分の、その音の跡だった。

私は、指先で、一文字ずつ、ゆっくり読んだ。


『みなせ ことはさんへ。

はじめて、てがみを、かきます。

きょねんの あき、えきの ほーむで、あなたに ひじを かしました。あなたは、おぼえて いないかも しれませんね。

あのとき あなたは、「としょかんに、ほんを よんでくれる ひとを さがしてもらいに いく」と いっていました。それが ぼくだったら いいのにと おもって、ろうどくの ぼらんてぃあに もうしこみました。

あなたに そらの いろを はなすように なってから、ぼくは、はじめて ちゃんと そらを みるように なりました。あなたの おかげで、ぼくの せかいは ひろがりました。

ろんどんから、まいしゅう、この じで てがみを かきます。こんどは、だれにも よんでもらわずに、あなたが じぶんで よめる てがみを。

すきです。

しのはら りつ』


最後の一文字を読み終えたとき、指先が、濡れていた。

涙が、点字の上に落ちていた。

「……覚えてました」

「え?」

「駅のこと。最初の咳払いで、すぐにわかりました」

律さんが、息をのむ音がした。

「……なんだ。じゃあ、黙ってたのは、お互いさまか」

律さんが、照れたように笑った。

「半年かかった。点字、思ったより難しくて。字、間違ってなかった?」

「……一個だけ、間違ってました」

「え、どこ」

「教えません」

私は、手紙を胸に抱いた。

生まれて初めてだった。誰にも読んでもらわずに、自分の指で読む、私宛ての恋文は。

「律さん」

「うん」

「私も、好きです。……さっきより、もっと」

律さんの手が、もう一度、私の手を強く握った。

どん、どん、どん、と、胸の中で、立て続けに音が鳴った。周りの歓声が、ひときわ大きくなる。

「今の、何色ですか」

「……全部。いろんな色が、いっぺんに。空じゅう、全部」

律さんの指が、そっと、私の頬にふれた。

火薬の匂いの中で、石けんみたいな律さんの匂いが、すぐ近くまで来た。

どん、と、また胸が鳴った。花火の音なのか、自分の心臓の音なのか、もうわからなかった。

唇に、やわらかくて、あたたかいものが触れた。

このまま時間が止まればいいのに、なんて、本の中だけの台詞だと思っていた。

◇

私は、生まれてから一度も、花火を見たことがない。

空の色も、律さんの顔も、知らない。

でも、今夜の花火が、今までの人生でいちばんきれいだったことだけは、はっきりわかる。

この恋を始めるのに、ずっと足りないと思っていたもの。

――「しかく」なんて、いらなかったんだ。

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