風がふくたび
一 白いチョークの粉
六月の終わり、教室の窓は半分しか開かなかった。
古いアルミサッシが途中でつかえて、いくら力を入れても、それ以上は動かない。湿った風が細い隙間から入り、黒板の下にたまった白いチョークの粉を、ほんの少しだけ揺らしていた。
二年三組の教室には、汗と制汗剤と、雨に濡れた制服の匂いが混じっていた。
水野湊は、自分の席の前に立ったまま、机の中をもう一度探った。
英語の教科書がない。
鞄の中にも、ロッカーにも、廊下側の棚にもなかった。さっきまでは確かに机の中に入っていた。四時間目が終わったとき、青い表紙を見た記憶がある。
「またなくしたの?」
後ろの席の大野が、笑いを噛み殺すような声で言った。
その隣にいた男子が窓際を見た。視線につられて目を向けると、教科書はカーテンレールの上に載っていた。青い角だけが少しはみ出している。
誰かが笑った。
大声ではなかった。教室のあちこちで、小さな泡が弾けるように笑いが起こった。
湊は椅子を運び、靴を脱いでその上に立った。教科書を取ると、表紙に灰色の埃がついていた。教師が来るまでの三分間、誰も手伝わなかったが、誰も露骨に邪魔もしなかった。
その程度のことだった。
殴られたわけでも、金を取られたわけでもない。毎日ではない。上履きが隣のクラスの靴箱に移されていたり、給食当番の白衣に「ミナトン」と油性ペンで書かれていたり、発表で声が裏返ったときに、その声を何日か真似されたりするだけだった。
先生に言えば、「ふざけただけだろう」「仲良くしたいんじゃないか」と言われそうなことばかりだった。
それでも、朝、校門が見えると胃の奥が固くなった。
誰も自分を待っていない教室へ入る瞬間が、湊は苦手だった。二人組を作れと言われること。班で机を寄せるとき、自分の机だけ一拍遅れて動くこと。休み時間、用もないのに図書室へ行くこと。そういう小さなことが一日じゅう靴の中の砂のように残った。
家では何も言わなかった。
父の洋介は、広告会社で働いていて帰りが遅かった。話し方が穏やかで、怒鳴ったところを湊はほとんど見たことがない。母の恵は、夕食のとき決まって「学校どうだった」と聞いた。
湊は「普通」と答えた。
嘘ではないと思った。学校で起きることは、たぶん普通の範囲なのだ。自分が弱いから、普通のことに耐えられないだけなのだと思っていた。
終業式の日、担任が夏休みの注意を長々と話した。川へ子どもだけで行かないこと。夜遅くまで出歩かないこと。知らない人の車に乗らないこと。
教室の空気は、もう半分、夏休みの外へ飛び出していた。
大野たちは海へ行く相談をしていた。別のグループは花火大会の話をしていた。湊は通知表を鞄に入れ、誰とも目を合わせずに帰った。
校門を出ると、真昼の光が道路を白く焼いていた。蝉の声が頭の上から降ってきた。
その晩、静岡に住む大伯母が亡くなったと父から聞かされた。
「急だけど、明後日から二泊で行くぞ。じいちゃんの家に泊まる」
父は冷蔵庫から麦茶を出しながら言った。
湊にとって静岡は、幼いころに一度行っただけの遠い場所だった。海が近く、庭に蜜柑の木があり、夜になると東京より暗かったことしか覚えていない。
「親戚、たくさん来る?」
「まあな」
父は少し間を置き、冷蔵庫の扉を閉めた。
「修司も来るかもしれない」
その名前を口にしたときだけ、父の声から温度が消えた。
修司は父の弟だった。
湊は写真でしか見たことがない。祖父の葬儀の集合写真で、端のほうに一人だけネクタイを緩めて立っている男。父より日に焼け、目つきが悪く、カメラではない場所を見ていた。
母から、酒と賭け事で何度か問題を起こした人だと聞いたことがあった。父が借金を肩代わりしたこともあるらしい。
「叔父さん?」
「近づかなくていい」
父は優しい声のまま言った。
その言い方が、怒鳴られるよりも強く聞こえた。
二 山の向こうの町
東京駅を出た新幹線は、街を平らな光の帯に変えながら西へ走った。
湊は窓側の席で、イヤホンを耳に入れたまま、音楽を流さずに外を見ていた。灰色の建物が減り、緑の田畑が増えた。遠くの山には雲の影が落ち、川面は一瞬だけ銀色に光って後ろへ消えた。
父は通路側で葬儀社からの電話に応じていた。母は黒い服を皺にしないよう膝の上で整え、親戚への連絡を確認していた。
家族三人で出かけているのに、旅行とはまるで違った。
静岡駅から在来線に乗り換え、さらに小さな駅で降りた。ホームに立った途端、熱気がシャツの内側へ入り込んだ。東京より空が広く、蝉の声が近かった。
祖母の家は、駅から車で二十分ほどの町にあった。低い山と茶畑に囲まれ、瓦屋根の家が川沿いに並んでいた。玄関を開けると、線香と畳と、古い箪笥の匂いがした。
座敷には黒い服を着た大人が何人もいた。湊は名前を聞いてもすぐ忘れた。誰かに「大きくなったね」と言われ、別の誰かに父とそっくりだと言われた。
庭では、乾いた土の上に青い蜜柑がいくつも落ちていた。
夕方、玄関のほうが急に静かになった。
修司が来た。
白いシャツの袖を肘までまくり、黒いズボンを履いていた。喪服の上着は肩にかけている。髪には白いものが混じっていたが、写真で見た目つきの悪さはそのままだった。
「遅い」
父が言った。
「電車が遅れた」
「駅前のパチンコ屋から歩いてきたんだろ」
修司は答えず、靴を脱いだ。靴下の踵に小さな穴が開いていた。
親戚たちは挨拶だけして、すぐに視線を外した。彼のまわりだけ、見えない薄い壁ができたようだった。
湊は廊下の端から見ていた。
修司は焼香を済ませると、台所でコップの水を飲んだ。ふいに湊を見つけた。
「洋介の倅か」
「……はい」
「でかくなったな」
ほかの親戚も同じことを言ったのに、修司に言われると質問のように聞こえた。
「何年だ」
「中二です」
「いちばん面倒くせえころだな」
修司はそれだけ言い、庭へ出て煙草を吸った。
父は縁側の障子を閉めた。
夜、湊は二階の客間に布団を敷いてもらった。窓を開けると、網戸の向こうから川の音が聞こえた。遠くで犬が一度吠え、しばらくして別の犬が答えた。
一階から大人たちの声が上がってきた。
「また金借りたらしいよ」
「仕事も続かんし」
「洋介がどれだけ尻拭いしたか」
声を潜めているつもりでも、古い家はよく響いた。
父の声だけは聞こえなかった。
湊は暗い天井を見た。自分の教科書を隠す大野たちの顔を思い出した。もしクラス全員が自分の悪口を言っていたら、こんなふうに聞こえるのだろうかと思った。
翌日は通夜だった。
朝から家の中を人が行き来し、母は台所と座敷を何度も往復した。父はネクタイを締めたまま電話をかけ続けていた。祖母は何度も同じ引き出しを開け、数珠がないと言った。
湊にはすることがなかった。
手伝おうとすると、大人たちは「いいから休んでなさい」と言った。そのくせ座敷にいると邪魔そうにされた。
昼前、母に「少し歩いてきてもいい」と聞いた。
「遠くへ行かないでね。四時には戻ってきて」
父は電話中で、こちらを見なかった。
湊はスマートフォンと財布をポケットに入れ、焼けた石段を下りた。
外へ出ると、家の中に溜まっていた線香の煙が肺から抜けていく気がした。
三 釣り堀の午後
町を流れる川は浅く、丸い石のあいだを透明な水が走っていた。
川沿いの道には人影がなかった。ガードレールの向こうで草が胸の高さまで伸び、風が通るたび、葉の裏側の白さが波のように動いた。
湊は目的もなく歩いた。
古い酒屋、自動販売機が二台だけ置かれた駐車場、シャッターの下りた文房具店。民家の軒先には風鈴があり、短冊がかすかな風を待っていた。
三十分ほど歩くと、「山ノ池釣り堀 食堂あり」と手書きされた看板が見えた。矢印の先には細い坂道が伸びていた。
木陰がありそうだという理由だけで、湊は坂を上った。
杉林を抜けると、緑色の水をたたえた四角い池が現れた。水面には山の影が映り、ところどころで魚が跳ねた。波紋が丸く広がり、隣の波紋とぶつかって消えた。
屋根だけの簡素な釣り座に、五、六人の客がいた。老人と孫らしい二人連れ、麦わら帽子の夫婦、作業着の男。
そのいちばん奥に、修司がいた。
半袖の黒いシャツを着て、片膝を立てて座っている。脇には潰したビールの空き缶が二本あった。浮きを見ているというより、何もない空間を睨んでいるようだった。
湊は反射的に踵を返した。
「おい、洋介の倅」
背中に声が刺さった。
聞こえなかったふりをするには、周囲が静かすぎた。
湊は振り返った。
「何してんだ、こんなとこで」
「散歩です」
「葬式の日にか」
「叔父さんも」
言ってから、まずかったと思った。
修司は眉を上げ、それから鼻で笑った。
「確かにな」
彼は隣の折り畳み椅子を顎で示した。
「座れ。今帰ると、逃げたみたいで格好悪いぞ」
湊は逃げようとしていたので、仕方なく座った。
池の上を蜻蛉が行き来していた。釣り糸は細すぎて、光の加減で見えたり消えたりした。
「釣れるんですか」
「釣れねえ」
「何を釣ってるんですか」
「時間」
修司は真顔で答えたあと、自分でおかしくなったのか少し笑った。
やがて浮きが沈んだ。修司は慌てず竿を上げた。銀色の魚が水滴を散らして宙に跳ねた。掌より少し大きな虹鱒だった。
魚は地面の上で激しく身をよじった。修司は濡れた手で魚をつかみ、針を外し、生簀へ放した。
「釣れたじゃないですか」
「釣れないと思ってると、たまに釣れる。人生と同じだ」
「全然ちがうでしょ」
「おい中坊のくせに生意気だな」
修司は言ったが、怒ってはいなかった。
正午を過ぎると、屋根の下にも熱がこもった。池から上がる湿気が肌にまとわりついた。
修司は竿を置いた。
「飯食うぞ」
「お金、あまり持ってないです」
「中坊に払わせるほど落ちちゃいねえよ」
「借金あるって聞きました」
修司は一度、湊を見た。
「洋介、何でも喋りやがるな」
「父さんは言ってません。親戚の人が」
「あいつらは俺の新聞より俺に詳しい」
釣り堀の脇にある食堂は、引き戸を開けると冷房の匂いがした。壁には色褪せた魚拓と、何年も前の野球選手のカレンダーが貼られていた。
窓際の扇風機が首を振るたび、テーブルの端に置かれた競馬新聞がぱたぱたと鳴った。
修司は冷やし中華を二つと瓶ビールを頼んだ。
「また飲むんですか」
「お前、俺の母ちゃんか」
「これから通夜ですよ」
「だから一本にしとく」
瓶の栓が抜かれ、泡が細く上がった。修司はコップへ注ぐ前に新聞を開き、赤いペンで馬の名前に丸をつけた。
湊は、父の言った「近づかなくていい」を思い出した。
目の前の男は、たしかに尊敬されるような大人には見えなかった。
けれど教室にいる誰よりも、湊が黙っていることを気にしていないように見えた。
四 ろくでもない答え
冷やし中華の皿には、胡瓜と錦糸卵とハムが、妙に几帳面に分けて載っていた。
修司はまず麺を半分ほど食べ、それからビールを飲んだ。喉が二度動いた。
「学校、面白いか」
唐突に聞かれ、湊は箸を止めた。
「普通です」
「普通って答えるやつは、大抵つまんねえと思ってる」
「叔父さんは学校、面白かったんですか」
「つまらなかった。勉強できねえ、喧嘩する、先生に嫌われる。おまけに兄貴は何でもできた」
修司は競馬新聞を畳み、コップの下に敷いた。
「お前、友達いねえのか」
湊の胸の中で、何かが小さく跳ねた。
「います」
「名前は」
「……何で言わなきゃいけないんですか」
「言えねえなら、いねえんだろ」
修司の言い方には遠慮がなかった。湊は腹が立った。
「叔父さんだって、みんなに嫌われてるじゃないですか」
食堂の奥で、冷蔵庫のモーターが低く唸った。
修司は怒るかと思った。だが、彼はコップの泡を眺めていた。
「そうだな」
それだけ言って、残りのビールを飲んだ。
認められてしまうと、湊の怒りは行き場をなくした。
「俺は嫌われるようなことをした。金も借りた。仕事も投げた。酒で喧嘩もした。兄貴に迷惑をかけた。だから嫌われてる。お前は?」
「僕は……」
麺の上の氷が溶け、皿の底でからんと音を立てた。
「たまに、物を隠されます」
修司は黙って聞いた。
「変なあだ名で呼ばれたり。発表すると笑われたり。別に、殴られたりはしません。だから、いじめってほどじゃないです」
「誰が決めた」
「何を」
「いじめってほどじゃないって、誰が決めた」
「だって、もっとひどい人もいるし」
「腹減ってるときに、アフリカにはもっと腹減ってるやつがいるって言われたら、腹いっぱいになるのか」
湊は答えられなかった。
修司は瓶を傾けた。もう一滴も出なかった。
「嫌なもんは嫌でいい。痛えもんは痛え。ほかの誰かと比べて許可をもらう必要はねえよ」
窓の外で蝉が鳴いていた。一匹が鳴き止むと、別の一匹の声が急に大きくなった。
「でも、先生に言うほどじゃないし。言ったらもっと面倒になるかもしれない」
「じゃあ言わなくていい」
「立ち向かわなくていいんですか」
「立ち向かうってのは、相手を殴ったり、教室の真ん中で名演説したりすることだけじゃねえ」
修司は割り箸を一本、テーブルの上に置いた。
「明日も学校へ行く。それも立ち向かうことだ。休む。それも立ち向かうことだ。先生に言う。親に言う。黙って証拠を集める。笑われても好きな本を読む。そいつらのために、自分の好きなものまで捨てねえ。どれも戦いだ」
「逃げるのも?」
「もちろんだ。逃げ道を選べるやつは強い。逃げ道がないと思い込むと、人間は変なところへ突っ込む」
修司は自分のことを言っているようだった。
湊は冷やし中華を一口食べた。酢の味が強く、鼻の奥がつんとした。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らん」
「知らないんですか」
「お前の人生だぞ。会って一時間のろくでなしに決めさせんな」
修司は新聞を開き直した。
「大人はな、答えを知ってる顔をするのが上手いだけだ。実際はほとんど分かってねえ。俺なんか特に分かってねえ」
「じゃあ何で偉そうに言うんですか」
「年上だからだ」
湊は少し笑った。
その日、初めて自然に出た笑いだった。
修司は赤いペンを持ったまま言った。
「ただ、一個だけ分かる。お前をからかうやつらは、お前の人生の責任を取らねえ。卒業したら、お前がどこで働こうが、誰を好きになろうが、病気になろうが、助けちゃくれねえ。そんなやつらに、自分の値段を決めさせるな」
湊は黙った。
言葉はすぐには胸に入らず、硬い種のようにそこへ落ちた。
「自分の値段って、どうやって決めるんですか」
「決めなくていい」
修司は言った。
「人間に値札なんかねえ。役に立つとか、友達が多いとか、稼ぐとか、そういうのは全部、店が勝手につける特売札みたいなもんだ。剥がれたら終わりだ」
「叔父さんは、何の役に立ってるんですか」
「痛いとこ突くな」
修司はしばらく考えた。
「この前、道に落ちてた亀を川へ戻した」
「それだけ?」
「あと、今日お前に冷やし中華を奢った」
「まだ払ってないですよ」
「細けえな」
また二人で笑った。
食堂のおばさんが、厨房の奥から不思議そうにこちらを見た。
五 幸せの話
食事を終えても、外の日差しは弱まらなかった。
二人は食堂の軒下にある長椅子へ移った。古い簾が熱い風に揺れていた。池の水面は午後の光を細かく砕き、目を細めるほど眩しかった。
修司は煙草を一本くわえたが、湊を見てから箱へ戻した。
「吸わないんですか」
「中学生の前だからな」
「ビールは飲んだのに」
「俺にも基準がある」
でたらめな基準だと湊は思った。
釣り堀の主人が生簀へ餌を投げた。魚が一斉に集まり、水面が沸騰したように泡立った。その騒ぎも数秒で静まり、あとには濁った波だけが残った。
「叔父さんは幸せですか」
湊は聞いた。
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。たぶん、目の前の男が、幸せではない人の見本に見えたからだ。
修司はすぐには答えなかった。
「今は、まあまあ」
「借金があって、みんなに嫌われてるのに?」
「容赦ねえな、お前」
「だって」
「幸せって、ずっと続く天気じゃねえんだよ」
修司は池の向こうの山を見た。
「俺は昔、幸せになったら、そこから先はずっと幸せなんだと思ってた。金ができたら。いい女と一緒になったら。でかい馬券が当たったら。嫌いな仕事を辞めたら。そういう門がどっかにあって、そこを通れば二度と惨めにならねえと思ってた」
「違ったんですか」
「全部、次の日が来た」
風が吹き、簾が乾いた音を立てた。
「当たった金はなくなる。好きだった女にも愛想を尽かされる。酒は醒める。晴れたって、また雨は降る」
修司は足元の小石を蹴った。石は二度跳ねて草むらへ消えた。
「でもな、逆もそうだ。ひどい日にも次の日が来る。ずっと雨ってこともねえ」
湊は学校のことを考えた。
夏休みが終われば、また同じ教室へ戻る。大野たちもいる。自分の席も、動かない窓も、白いチョークの粉も、きっとそのままだ。
「また物を隠されたら、どうします」
「俺なら相手の上履きを池に投げる」
「それ、駄目でしょ」
「だから俺の真似はするなって言ってんだ」
修司は笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「まず『返せ』って言え。でかい声じゃなくていい。目を見られなくてもいい。返せって言った事実を、自分の中に残せ。それで無理なら、大人を使え」
「大人を使う?」
「先生も親も、使えるもんは使え。頼るってのは負けじゃねえ。俺はそれが下手で、ずいぶん損した」
「父さんに頼ったじゃないですか。借金」
修司の顔から笑いが消えた。
「あれは頼ったんじゃねえ。押しつけたんだ。助けてくれって頭を下げる前に、どうにもならなくして、兄貴に片づけさせた」
低い声だった。
「同じじゃないんですか」
「違う。頼るってのは、相手に断る権利を残すことだ。迷惑かけることはある。でも、黙って穴に引きずり込むのとは違う」
父がなぜ修司を嫌うのか、湊には少しだけ分かった気がした。
同時に、修司が自分を嫌っているようにも見えた。
「父さんに謝らないんですか」
「謝った」
「許してくれなかった?」
「謝ったら許されると思うのが、そもそも図々しいんだよ」
修司はポケットから煙草を出し、今度は火をつけた。煙はまっすぐ上がり、途中で風に崩された。
「謝るのは、許してもらうためじゃねえ。自分がやったことを、自分の口で認めるためだ。許すかどうかは兄貴のもんだ」
湊は父の背中を思い出した。静かで、きちんとしていて、いつも正しい父。その背中にも、弟に向けて閉じた扉があるのだろう。
「幸せって、何ですか」
もう一度聞いた。
修司は煙を吐き、面倒そうに頭を掻いた。
「さっき冷やし中華がうまかっただろ」
「まあ」
「魚が釣れた。風が吹いた。お前がちょっと笑った。今日はそれで十分だ」
「そんな小さいのでいいんですか」
「でかい幸せだけ待ってると、小さいのを全部踏み潰すぞ」
山から風が降りてきた。
汗ばんだ首筋を撫で、池の上を渡り、木々の葉を裏返した。ほんの十秒ほどだった。けれど、その十秒だけ、真夏の暑さが遠のいた。
修司は目を細めた。
「ほら、今のだ」
「何が」
「幸せ」
湊は笑いそうになったが、笑わなかった。
ただ、風が行ってしまった方向を見た。
六 夏の終わり
釣り堀を出たとき、時計は三時を回っていた。
修司は会計で本当に二人分を払った。財布の中には千円札が二枚と、折れ曲がった馬券が何枚か入っていた。
「負けたんですか」
「まだ走ってねえ」
「当たるんですか」
「当たらんだろうな」
「じゃあ何で買うんですか」
「走る前は、当たるかもしれねえからだ」
修司は当然のように言った。
帰り道の途中で二人は別れた。修司は通夜までに着替えると言い、川の反対側へ歩いていった。
「叔父さん」
湊が呼ぶと、修司は振り返らずに手だけ上げた。
「ありがとうございました」
「冷やし中華の礼なら、今度当たった馬券で返せ」
意味の分からない返事だった。
その夜、修司は通夜に遅れなかった。酒の匂いもほとんどしなかった。親戚たちは相変わらず彼に多くを話しかけなかった。
父と修司は、焼香の順番をめぐって短い言葉を交わしただけだった。
湊は座敷の端から叔父を見た。
修司は正座が苦手らしく、何度も足を組み直していた。読経の途中で小さなくしゃみをし、隣の伯母に睨まれていた。
あの人が、自分の人生を変えるような立派な人だとは思わなかった。
翌日の葬儀が終わると、親戚たちは慌ただしく帰っていった。
修司の姿もいつの間にか消えていた。
東京へ戻る新幹線で、父が聞いた。
「昨日、どこへ行ってた」
「釣り堀」
「一人で?」
湊は一瞬迷った。
「修司叔父さんに会った」
父の表情が固くなった。
「何かされたか」
「冷やし中華を奢ってもらった」
父は拍子抜けしたように瞬きをした。
「変なことを吹き込まれなかったか」
「ちょっとだけ」
「あいつの言うことを真に受けるな」
父は窓の外を見た。
「あいつは、自分の人生さえまともにできない」
湊は反論しなかった。
まともにできない人の言葉だから、分かることもあるのかもしれない。けれど、それを父に言うのは違う気がした。
家へ帰った翌朝、湊は母に話した。
学校で物を隠されること。笑われること。教室へ入るのが嫌なこと。
母は途中で口を挟まずに聞いた。聞き終えると、湊の隣に座った。
「話してくれてありがとう」
母の声が震えていた。
湊はそれを見て、言わないほうがよかったかもしれないと思った。けれど母は泣かなかった。
「どうしたい?」と聞いた。
すぐには分からなかった。
担任に全部話すのは怖かった。大ごとにもしたくなかった。相談した結果、まず母から担任に「物がなくなることがある」とだけ伝えてもらうことにした。湊が言ったとは伏せてもらった。
そして、何かあった日は、日付と内容をノートに書くことにした。
大人を使え。
修司の乱暴な声が頭に残っていた。
夏休みの残り、湊は図書館へ通った。宿題をし、涼しい閲覧室で小説を読んだ。友達と花火をすることも、海へ行くこともなかった。
けれど、去年までの夏休みより惨めではなかった。
一人でいることと、誰にも必要とされないことは、同じではないのかもしれなかった。
八月の終わり、机を整理していると、静岡の釣り堀の半券が出てきた。裏に赤いペンで数字が書かれていた。
電話番号だった。
その下に、乱れた字で一言だけあった。
〈馬券の相談以外なら聞く〉
湊は笑った。
番号をスマートフォンに登録した。名前の欄には「修司叔父さん」と入れた。
けれど、その日、電話はしなかった。
七 九月の教室
始業式の朝、校門は夏休み前と同じ場所にあった。
当たり前のことなのに、湊には少し不思議だった。
蝉の声は弱くなり、桜の葉が何枚か黄色くなっていた。昇降口には日焼けした生徒たちの声が満ちていた。旅行の土産が配られ、部活の大会の話が飛び交った。
湊を待っている人はいなかった。
教室へ入ると、大野が友達とスマートフォンの画面を見て笑っていた。湊を見ても、何も言わなかった。
自分の席は窓際から二列目。机の傷も、椅子の脚のがたつきも、そのままだった。
湊は鞄を置き、窓を開けようとした。やはり途中でつかえた。
細い隙間から風が入った。
午前中は何も起きなかった。
昼休み、図書室から戻ると、筆箱がなくなっていた。
胸の奥が冷たくなった。
大野たちは教室の後ろで話していた。一人がちらりと湊を見た。
以前なら、黙って探しただろう。笑われないように平気な顔をし、見つからなければ自分がなくしたことにしただろう。
湊は机の横に立った。
喉が乾いていた。
「返して」
声は思ったより小さかった。教室全体には届かなかった。
大野が振り向いた。
「何を?」
湊は大野の目を見られなかった。制服の胸の校章を見た。
「筆箱。返して」
数秒、何も起きなかった。
やがて、大野の隣の男子が笑いながら掃除用具入れを指した。
「そこに落ちてたけど」
筆箱は箒の上に載っていた。
湊は取り出した。埃がついていた。
「もうやめて」
今度は少しだけ大きく言った。
大野は「俺じゃねえし」と答えた。
誰も謝らなかった。劇的なことは何も起きなかった。クラスのみんなが味方になることも、先生が飛び込んでくることもなかった。
ただ、その日の放課後、湊はノートに書いた。
九月二日。昼休み。筆箱が掃除用具入れにあった。返して、もうやめてと言った。
最後の一文を、二本の線で囲んだ。
翌週、担任が席替えをした。誰が伝えたのかは分からないが、「人の物を勝手に触るのは冗談では済まない」とクラス全体に話した。
大野たちのからかいは、すぐにはなくならなかった。
けれど回数は減った。
湊に友達ができたわけでもなかった。休み時間には図書室へ行き、体育で二人組を作るときには最後まで残った。
それでも、以前ほど自分を恥ずかしいと思わなくなった。
一人で弁当を食べる日は、窓の外を見た。雲が流れ、校庭の木が揺れた。教室の中の出来事が、世界の全部ではないことを知った。
十月のある夕方、修司へ初めて電話をかけた。
七回鳴って、低い声が出た。
「誰だ」
「湊です」
「どこの湊だ」
「洋介の倅」
「ああ。どうした、馬券か」
「違います」
湊は筆箱のことを話した。
修司は「そうか」と言った。
褒めもしなかった。
「それだけ?」と湊が聞くと、電話の向こうで缶を開ける音がした。
「ほかに何を言えってんだ」
「頑張ったな、とか」
「自分で分かってるなら、俺が言う必要ねえだろ」
「やっぱり、叔父さんに電話しなければよかった」
「そうか。じゃあ切るぞ」
「待って」
湊は笑った。
電話の向こうで修司も、少しだけ笑ったようだった。
その後、二人は年に一、二度だけ話した。
修司は誕生日を覚えていなかった。高校合格を伝えると「そうか」と言い、大学に受かったときは「学費を競馬で増やすなよ」と言った。就職したと報告すると、「嫌なら辞めろ。辞める前に次を探せ」と、少しだけ現実的な助言をした。
会うことはなかった。
電話をかけるのは、いつも湊からだった。
それでも番号が使われていることを確かめるだけで、心のどこかに窓が一つ開くような気がした。
八 電話の向こう
高校へ進んでからも、湊は急に社交的にはならなかった。
入学式の日、体育館の床には真新しい上履きのゴムの匂いが漂っていた。周囲では同じ中学から来た生徒たちが固まり、もう互いをあだ名で呼んでいた。
湊は窓際の席に座り、校庭の隅に咲いた桜を見た。
中学の教室とは違う。大野たちはいない。誰も湊のことを知らない。
それは自由であると同時に、自分を一から説明しなければならないということでもあった。
最初の自己紹介で、湊は声を詰まらせた。
「趣味は、読書です」
後ろのほうで誰かが「真面目」と囁いた。笑いは起きなかった。それでも湊の首筋には汗が流れた。
昼休み、一人でパンを食べた。
けれど中学のときとは違い、一人でいる自分を外から眺めて責めるもう一人の自分は、少し静かになっていた。
窓の外から風が入り、購買で買ったパンの袋が鳴った。
湊は、今のだ、と心の中で言った。
夏になるころ、図書委員の仕事で一緒になった小島という男子と、ときどき話すようになった。小島も口数が少なく、昼休みには天文雑誌を読んでいた。
友達になったのかどうか、湊には分からなかった。
二人で帰ったことは数回しかなく、休日に遊ぶこともなかった。ただ、廊下ですれ違えば互いに手を上げ、図書室で隣に座っても沈黙が苦にならなかった。
ある日、小島が「友達って、何回遊んだら友達なんだろうな」と言った。
湊は答えられず、二人で笑った。
その話を修司に電話ですると、叔父は言った。
「友達かどうか、本人に聞けばいいだろ」
「そんなの聞けないよ」
「じゃあ決めなくていい。名前のついてねえ関係もある」
修司の声の後ろで、パチンコ台の電子音が鳴っていた。
「今、どこにいるの」
「図書館」
「嘘つけ」
「大人には大人の図書館がある」
通話はすぐ切れた。
湊は呆れたが、名前のついていない関係、という言葉は気に入った。
高校二年の冬、小島は父親の転勤で引っ越した。最後の日、二人は駅前の喫茶店で一時間ほど話した。
別れ際、小島は「お前とは、友達だったと思う」と言った。
湊も「僕も」と答えた。
たったそれだけの確認に、二年かかった。
大学は東京の私立へ進んだ。文学部を選ぶと、父は「就職は大丈夫なのか」と心配した。
修司は電話で「好きなら行け」と言った。
「学費を払うの、叔父さんじゃないけど」
「だから無責任に言える」
湊は笑った。
大学には、これまで会ったことのない種類の人たちがいた。髪を青く染めた人。講義中に詩を書く人。一人で外国へ行く人。五十歳を過ぎてから学び直している人。
高校までの教室では、目立たないための正解が一つだけあるように思えた。大学では、正解そのものがいくつもあった。
湊は文芸サークルに入った。
歓迎会ではほとんど喋れなかったが、提出した短い小説を先輩が褒めてくれた。「風景が見える」と言われた。
自分の中にあるものが、誰かに届くことがある。
それを知った夜、湊は修司へ電話をした。
「小説を書いた」
「金になるのか」
「ならない」
「じゃあ趣味だな」
「読んでみる?」
「長いのは嫌だ」
原稿を郵送すると、二週間後、折り目だらけになって返ってきた。感想は便箋ではなく、競馬新聞の余白に赤いペンで書かれていた。
〈よく分からん。最後の風はよかった〉
褒めているのかどうか分からなかった。
それでも湊は、その競馬新聞を捨てなかった。
就職活動では何社も落ちた。
面接で言葉が詰まり、用意した答えを忘れた。隣の学生が明るく自分を売り込むのを聞くたび、自分は社会に必要とされないのではないかと思った。
二十社目の不採用通知が届いた夜、湊は修司へ電話をした。
「全部駄目かもしれない」
「全部って、何社だ」
「二十社」
「会社は日本に二十しかねえのか」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話だ」
湊は黙った。
修司も急かさなかった。電話の向こうから、雨の音が聞こえた。
「落とした会社は、お前の人生の責任を取らねえぞ」
「またそれ?」
「俺は持ちネタが少ねえんだ」
「でも、採用されないと働けない」
「そりゃ困るな。じゃあ明日、二十一社目を探せ。今日は寝ろ」
単純すぎる答えだった。
だが夜中に人生全体を考えるより、明日一社を探すほうができそうだった。
その後、湊は小さな出版社に採用された。
初任給で修司に何か贈ろうと電話すると、「現金がいい」と言われた。
「絶対あげない」
「じゃあ静岡の酒」
「酒も駄目」
結局、釣り用の帽子を送った。数日後、修司から写真が届いた。鏡の前で帽子をかぶり、ひどく不機嫌そうな顔をしていた。
本文には一言、〈派手だ〉とあった。
選んだのは濃紺の帽子だった。
社会人になって三年目、湊は沙耶と出会った。
沙耶は営業部にいて、人と話すのが得意だった。会議で黙っている湊に、「意見がないのと、言うのに時間がかかるのは違うから、待ちます」と言った。
その言葉で好きになった、と後に話すと、沙耶は「ずいぶん簡単ね」と笑った。
交際して一年が過ぎたころ、湊は中学時代のことを話した。物を隠されたこと。一人でいるのが恥ずかしかったこと。静岡の釣り堀で、ろくでもない叔父と冷やし中華を食べたこと。
沙耶は「その叔父さんに会ってみたい」と言った。
「おすすめはしない」
「どうして?」
「昼から酒を飲むし、失礼なことを言うし、たぶん結婚するって言ったらやめとけって言う」
「じゃあ会って、言い返したい」
二人で笑った。
けれど結局、会う機会は作れなかった。
結婚式にも修司は呼ばなかった。
父の顔を見れば、その選択がいちばん波風を立てないと分かった。湊自身も、親戚の前で何が起きるか怖かった。
式の一週間前、修司に電話で結婚を報告した。
「そうか」
「それだけ?」
「相手は、お前でいいって言ってるのか」
「失礼だな」
「よく確認しとけ」
少し間があり、修司は言った。
「幸せになれ、とは言わねえぞ」
「何で」
「幸せじゃねえ日が来たとき、失敗したと思うからだ」
電話の向こうで煙草を吐く気配がした。
「二人で暮らせ。それだけでいい」
結婚式当日、式場に祝電が届いた。
差出人は修司だった。
〈困ったら二人で決めろ。俺には聞くな。〉
会場で読み上げられることはなかった。湊は控室で何度もその短い文章を読み、胸ポケットに入れた。
父には見せなかった。
その夜、父は珍しく酒を飲み、湊に言った。
「家族を大事にしろ」
「うん」
「困ったことがあったら、早めに言え。一人で何とかしようとするな」
父の言葉にも、修司と同じ後悔が混じっているように聞こえた。
兄弟は正反対だと、親戚たちは言っていた。
けれど長い時間をかけて眺めると、二人とも不器用で、言えなかった言葉を別の誰かへ渡しているのかもしれなかった。
湊は父に「分かった」と答えた。
窓の外では、春の風が式場の旗を揺らしていた。
九 二度目の夏
湊は二十八歳になった。
都内の小さな出版社で、学習参考書の編集をしていた。人前で話すことは今でも得意ではなかったが、文章の誤りを見つけることや、複雑な説明を順番に並べ直すことは好きだった。
沙耶と結婚し、郊外の2DKに暮らしていた。
十二月には子どもが生まれる。
腹の大きくなった沙耶は、夜になると湊の手を取って、自分の腹に当てた。内側から小さな踵が押し返すことがあった。
「今、蹴った」
「分かった」
「この子、けっこう気が強いかもね」
「それなら安心だ」
そう言いながら、湊は少し怖かった。
子どもが自分に似て、友達を作れなかったらどうしよう。教室で一人になったら。物を隠されたら。そのとき、自分は父親として正しい言葉を言えるのだろうか。
修司の言葉を、そっくり渡すことはできないと思った。
八月の終わり、仕事から帰る途中で父から電話があった。
「修司が倒れた」
駅のホームに電車が入り、風が湊のシャツを背中へ貼りつけた。
「どこで?」
「アパートだ。大家が見つけた。脳出血らしい」
「意識は?」
父は答える前に息を吸った。
「ない」
修司とは半年ほど話していなかった。
最後の電話で、修司は仕事を辞めたと言っていた。工場の夜勤で腰を痛めたらしい。「金はあるの」と聞くと、「馬に預けてある」と笑っていた。
その冗談に、湊は呆れて電話を切った。
それが最後の会話だった。
翌朝、湊は父の洋介と母の恵を乗せて車で静岡へ向かった。沙耶は体調を考え、家に残った。
高速道路の上に、夏の雲が大きく膨らんでいた。ラジオから渋滞情報が流れ、サービスエリアでは家族連れがソフトクリームを食べていた。
父は助手席でほとんど話さなかった。
母が後部座席から、何度か「休まなくて大丈夫」と聞いた。
「大丈夫」と湊は答えた。
父は窓の外を見たまま言った。
「あいつは昔から、人の言うことを聞かなかった」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「高校を辞めたときも、仕事を辞めたときも。母さんの金を持ち出したときも。俺が何を言っても聞かなかった」
「うん」
「借金だって、一度じゃない」
父の声は怒っているようで、疲れているようでもあった。
「最後に立て替えたとき、もう二度と連絡するなと言った。あいつも分かったと言った」
「でも、連絡は来た?」
「正月に、あけましておめでとうとだけ」
父は鼻で息を吐いた。
「毎年な」
湊はハンドルを握りながら、父がその短いメールを消さずにいたような気がした。
病院は、かつての祖母の家から車で四十分ほど離れた市街地にあった。
白い建物の向こうに低い山が見えた。駐車場のアスファルトから、陽炎が上がっていた。
十 兄と弟
医師の説明を待つあいだ、三人は病院の一階にある喫茶コーナーへ入った。
窓際の席から、救急車の出入りが見えた。自動扉が開くたび、外の熱気が薄く入り、冷房に消された。
父はアイスコーヒーを注文したが、ほとんど口をつけなかった。透明なグラスの表面を水滴が流れ、紙のコースターを濃い色に染めていた。
「修司叔父さんと、子どものころは仲良かったの」
湊が聞くと、父は眉を寄せた。
「どうして今、そんなことを聞く」
「今じゃないと、聞けない気がするから」
父はストローの袋を指で折った。
恵は何も言わず、二人のあいだに座っていた。
「小さいころは、後ろをついてきた」
父はようやく言った。
「川へ行くにも、祭りへ行くにも。足が遅いくせに、置いていくと泣く。近所の犬に追いかけられたときは、俺の背中に隠れて、俺だけ噛まれた」
父の左のふくらはぎには、古い傷痕がある。湊は幼いころ、風呂でそれを見たことがあった。
「あの傷?」
「そうだ」
父は少しだけ口元を緩めた。
「そのくせ母さんには、自分が犬を追い払ったと言った」
「叔父さんらしいね」
「昔から、どうしようもない」
父の笑みはすぐに消えた。
中学へ入るころ、兄弟のあいだに差ができた。父は勉強が得意で、教師や親戚に褒められた。修司は授業を抜け出し、河原で魚を釣っていた。
祖父は修司を叱るたび、父を引き合いに出した。
兄を見習え。
なぜ兄と同じにできない。
父は、それを止めなかった。
「止められなかった、じゃない」
父は低い声で言い直した。
「止めなかった。褒められるのが嬉しかったんだ。修司が怒られている横で、自分は正しい人間だと思っていた」
高校生のころ、修司は家を飛び出した。三日後、隣の市の駅で見つかった。父が迎えに行くと、修司はベンチに寝転んでいた。
「帰るぞと言ったら、あいつは、兄貴はいいよな、と言った」
「何が?」
「聞かなかった。腹が立って、駅から家まで一言も話さなかった」
氷が溶け、グラスの中で小さく崩れた。
「今でも、何がよかったのか分からん。聞けばよかったと思うことはある」
父は修司が高校を中退したこと、その後いくつもの仕事を転々としたことを話した。自動車工場、運送会社、居酒屋、建設現場。どこでも最初はよく働き、しばらくすると誰かと揉めて辞めた。
二十代の初め、修司は短い結婚をした。
「初めて家へ連れてきたとき、あいつは酒を飲まなかった」
父は言った。
「三時間、正座してた。足が痺れて立てなくなって、みんなで笑った」
だが子どもが生まれて間もなく離婚し、それ以来、母子とは会っていない。父は、それ以上のことを語らなかった。修司の賭け事と借金が原因で、出ていったらしい。
「そのころからだ。俺のところへ金の話が来るようになった」
最初は五万円。次は二十万円。その次は、父にもすぐ用意できない額だった。
父は怒りながらも払った。祖母を泣かせたくなかったから。親戚に知られたくなかったから。そして何より、弟がどこかで野垂れ死ぬのが怖かったから。
「助けたかったんだね」
湊が言うと、父は首を振った。
「分からん。自分が困りたくなかっただけかもしれない。あいつが問題を起こすたび、早く片づけて、見えないところへ押し込んだ」
「それでも、お金を払った」
「だから余計に腹が立つんだ。金を払った側は、自分が正しいと思える。払われた側は、頭が上がらなくなる。兄弟なのに、いつの間にか、俺はあいつの債権者みたいになった」
母が父の手元へ新しい紙ナプキンを置いた。父は使わなかった。
「湊」
「うん」
「お前は、修司と話してたのか」
湊は頷いた。
「年に一、二回。僕から電話してた」
父は驚いた顔をし、それから視線を落とした。
「そうか」
責められると思ったが、それ以上は言わなかった。
「父さんに言わなくて、ごめん」
「謝ることじゃない。お前とあいつの話だ」
父は初めてコーヒーを一口飲んだ。氷が溶けすぎて、薄くなっていた。
「あいつは、お前に金を借りなかったか」
「借りないよ」
「それならいい」
「冷やし中華を奢ってくれた」
「聞いた」
「ずっと前の一回だけだけど」[ED1.1]
父は窓の外を見た。
「あいつは昔から、金がないくせに人に奢る。次の日、自分が食うものがなくなる」
口調は呆れていたが、その横顔には、湊の知らない少年時代の弟が映っているようだった。
館内放送が流れた。誰かを呼び出す声が、天井から静かに降ってきた。
父は席を立った。
「行こう」
三人はエレベーターへ向かった。
扉が閉まる直前、外から入った風が、テーブルに残したストローの袋を床へ落とした。
十一 風の来る窓
集中治療室の前は、季節のない場所だった。
空調の風は冷たく、床は磨かれ、窓は閉じられていた。消毒液の匂いが喉の奥に残った。
医師は静かな声で説明した。
出血が広いこと。発見まで時間がかかったこと。手術はしたが、予断を許さないこと。意識が戻る可能性については、何とも言えないこと。
父は質問をしなかった。
「ご家族の方は、短時間でしたら面会できます」
看護師に案内され、三人は順番に手を消毒した。
ベッドの上の修司は、小さく見えた。
頭には白い包帯が巻かれ、口元には管があった。機械が一定の間隔で音を鳴らし、胸が規則正しく上下していた。
あの釣り堀で日に焼けていた腕は、薄くなっていた。指先には酸素濃度を測る器具が挟まれていた。
母が小さく名前を呼んだ。
反応はなかった。
父はベッドから少し離れた位置に立った。腕を組み、壁の時計を見ていた。
湊は修司の左側へ回った。
「叔父さん」
自分の声が、機械音の中で頼りなく消えた。
会うのは、これが二度目だった。
十五年間、電話では何度も話した。けれど同じ場所で顔を見たのは、あの夏以来だった。
「湊です。洋介の倅」
いつもの名乗り方をした。
修司の瞼は動かなかった。
「子どもが生まれます。十二月に。女の子です」
何を話せばいいか考えてきたはずなのに、言葉がまとまらなかった。
「僕、あのあとも、友達はあまりできませんでした」
母が息を呑む気配がした。
「高校でも、大学でも。今も、友達が多いわけじゃないです。でも、仕事をしています。結婚もしました。幸せかって聞かれたら……たぶん、幸せです」
機械が鳴った。
一定の、意味を持たない音だった。
「叔父さんのおかげです、って言ったら、たぶん怒りますよね。俺は冷やし中華を奢っただけだって」
湊は笑おうとしたが、声が震えた。
「でも、あの日、僕は自分が駄目だから一人なんだと思ってました。嫌なことを嫌だと思うのも、自分が弱いからだって。叔父さんが、それは違うって言ってくれた」
修司の手は、布団の上に置かれていた。
湊はその手に触れた。温かかった。
「ありがとう」
たった五文字を言うのに、十五年かかった。
「ありがとう、叔父さん」
父が突然、背中を向けた。
窓際へ歩き、ブラインドの隙間から外を見た。肩が上下していた。
湊は初め、父が怒っているのだと思った。
けれど違った。
父の背中が震えていた。
声を殺しているため、震えだけが大きく見えた。
母が父の背中へ手を伸ばした。父は首を振った。
「あいつは」
父が言った。
その先が続かなかった。
長い間、機械の音だけが部屋にあった。
やがて父は、修司の足元まで戻った。
「お前は、いつもそうだ」
低い声だった。
「人に迷惑をかけて、勝手なことばかりして。大事な話は何もしないで、最後だけ人に言わせる」
父は唇を噛んだ。
「借金を立て替えた金、まだ全部返してもらってないぞ」
母が泣きながら笑った。
父は笑わなかった。
「起きろ、修司。返せ」
声が掠れた。
「金じゃない。何でもいいから、返せ」
修司は動かなかった。
父はベッドの柵を握った。指の節が白くなった。
湊は、父が弟を嫌っていたのは本当だと思った。
憎んでもいたのだろう。許していないこともたくさんある。それでも、いなくなっていいわけではなかった。
人の心は、一つの言葉では片づかない。
嫌いと、会いたい。
許せないと、生きていてほしい。
その両方が、父の震える背中の中にあった。
面会時間が終わり、看護師が静かに声をかけた。
三人は部屋を出た。
廊下の長椅子に座ると、父は両手で顔を覆った。恵は何も言わず、その隣にいた。
湊は少し離れて座り、沙耶へメッセージを送った。
〈会えた。まだ頑張ってる〉
すぐに返信が来た。
〈赤ちゃんも今、蹴ったよ〉
湊は画面を見つめた。
生まれようとしている命と、消えかけている命が、細い糸で同じ時間につながっていた。
病院を出たのは夕方だった。
西の空には雲が重なり、山の端だけが金色に光っていた。昼間の熱がまだ駐車場に残っていた。
車へ向かう途中、風が吹いた。
病院の植え込みを揺らし、父の白髪を乱し、母の黒いスカートの裾を持ち上げた。湊の汗ばんだ首を冷やして、遠くの町へ抜けていった。
十五年前と同じような風だった。
幸せは、立派な門の向こうで待っているものではない。
悲しみをなくしてくれるものでも、正しい人にだけ与えられる褒美でもない。
生きているあいだ、ときどき吹く風のようなものだ。
暑さに息が詰まり、もう歩けないと思ったころ、不意に頬を撫でていく。
捕まえることはできない。
いつ吹くかも選べない。
けれど一度その涼しさを知った人は、風のない日にも、空を見上げることができる。
父が車の前で立ち止まり、空を見た。
「帰ろう」
湊は頷いた。
今度は父が運転席に乗り、湊は助手席に座った。
もうすぐ、自分は父親になる。
いつか娘が一人で立ち尽くす日が来たら、正しい答えを与えることはできないかもしれない。
それでも隣に座り、話を聞くことはできる。
嫌なものは嫌でいいと伝えることができる。
逃げてもいい。頼ってもいい。自分の値段を、誰かに決めさせなくていい。
そして、大きな幸せだけを待って、小さな風を踏み潰すなと教えたい。
山の向こうに夕日が沈んだ。
窓を少し開けると、夏の終わりの風が入ってきた。
湊はスマートフォンを開いて沙耶へメッセージを送った。
〈赤ちゃんの名前、決めたよ〉




