プロローグ
王宮のとある執務室の一番奥。
国の様々な重要書類や決裁書、報告書に埋もれるように私は虚ろな目で仕事をしていた。この部屋では私の他にも疲れきった文官たちが今もあくせく働いている。
ずっと机に座り机仕事をしていたたま凝り固まった肩を解すべく伸びをすればいい音が鳴った。寝不足な目を休めようと窓へと視線を向ければ、萎れた花のような様相の自分と目が合った。ここ数週間に渡る寝不足によるクマが酷く、疲労でのストレスで表情も禍々しいものとなっている。
つい数時間前のこと。私の部下が書類提出に来た時に
「リーリエ様、悪魔が宿っているようなオーラですよ」と言われてしまった。
例え事実だろうと、淑女に対して悪魔だなんてあまりの物言いに腹が立った私は、本当に悪魔のように彼の書類のミスを問いただし、提出のやり直しを言い渡してやった。
いつもなら天使のように優しく対応してあげるのだが、自分で自分の首を絞めた部下を見送ったのは記憶に新しい。
つい溜息が零れた。
私は一応身分的に誇り高き公爵令嬢で、次期王妃なのだけど、身分に釣り合うような煌びやかさは見る影もなかった。
艶やかな髪を後ろで適当に束ね、オシャレより機能性を重視した仕事スタイルの私を見て、即座に公爵令嬢と理解する人はそうそう居ないだろう。
最近は毎日長時間椅子に座っているせいで、まだ二十歳という若さなのに腰痛に悩まされていた。高貴なる私のために特別に支給してもらった高級でふかふかの椅子を使用していてもこれである。
どこかの天才技術者が、何時間座っていても疲れない椅子を作ってくれないかしら。私が言い値で報奨金を出すから、と切実に願う。
そんな現実逃避的なことを思い浮かべながらようやく書類の山の一角を片付けた。
文字通り一息分だけ目と脳を休めた時、廊下の外が騒がしいのに気がつく。大きな足音と静止を振り切る声に、私は全てを察する。
私が眉をひそめるのとほぼ同時、唐突にバタンと扉の開く大きな音がする。
「おい、リリィ!!」
予想通り、私の婚約者であるライオネル王太子殿下がズカズカと私の執務室へと訪れた。その身分にふさわしい煌びやかな服装は、この部屋ではかなり浮いてしまう。
そんなに大声でなくても聞こえるというのに、と耳を塞いでしまいたくなる。王族相手に不敬なのでそんなことは出来ないが。
あと部屋に入る前にノックや声をかけなさい、とかれこれ口を酸っぱく百億回は言った気がするが、改善される見込みは無いようだ。
こうしてライオネル様が時を問わず仕事の邪魔……否、婚約者である私に会いに来てくれるのは日常茶飯事である。
私の仕事量に免じて、誰でもいいから止めてくれないかと日々願っているが、今のところ叶えられたことは無い。やはり彼の身分が最強なのが良くないのか。
同じ部屋にいる文官たちは慣れたもので、簡易的な礼をとった後は、もはや気にも留めず仕事に夢中でペンを動かしている。彼が会いに来ている相手が私でなければ、私も同じ対応をしている事だろう。
これまた不敬で怒られそうな対応ではあるが、ライオネル様は基本的に文官達に興味が無いというか、私しか視界に入っていないので彼らが咎められる心配は特に無い。
私としても仕事を進めて貰った方が助かるので、完全に空気になってもらっている。これから私の仕事は止まってしまうので。
数十人が仕事を悠々と行えるこの部屋はそれなりに広く、ライオネル様の長い足でズカズカ大股で近づいたとしても、最奥にいる私の元にたどり着くまで十歩ぐらいは歩く。
その間も私は書類から目を離さずペンを高速で動かした。この後どうせ滞るのが確定しているから最後の悪あがきだ。
私の机に影がさし、「リリィ……」と先程とは違って蚊の鳴く声に、私はゆっくりと顔を上げる。
「あらライオネル様。私に会いに来てくれたのですか?」
そして今気づきましたと言わんばかりの満面の笑顔を浮かべる。最初から気づいていたし無視していたが、嘘っぱちでも言葉には出して居ないので嘘をついた事にはならないのだ。
私は分かりやすく嬉しい!と表現をするように目を細めて手を頬に当てる。
……おや、返事がない。いつもなら私の問いかけに瞬時に、
「そうだ!!! 俺が来てやった幸せを噛み締めて喜ぶがいい!!」
などと叫んでは、尊大な態度で仰け反っているというのに。不思議に思った私は彼の言葉を待ち、可愛らしく首を傾げておく。私のキャラでは無いが、単純な彼に対しては態とらしいぐらい可愛い態度をとるのが正解なのだ。彼は何だかモゴモゴとしている。御手洗にでも行きたいのだろうか。
普段はその横暴さや粗雑さが隠せない我儘君主の代表みたいな彼だが、今は庇護欲が刺激されるような泣きそうな顔で雨に濡れた子犬のようになっていた。
なんだか存在しない犬耳が垂れているのが見える。やっぱり目が疲れてるのかな。このあと王医に診てもらった方がいいかもしれないなと思い至る。
「仕事と俺どっちが大事なんだ……?」
今私はあなたの尻拭いのための仕事を手懸けているんですけどね!?
その問いかけに、バキリと音を立てて手にしていたペンを折りそうになる。
周りに人がいるというのになんて質問を……と舌打ちしたくなるのを抑えて、私はキリのいいところでしぶしぶ手を止める。日々愛用して酷使しているペンを折りたくはない。
そういえば、最近忙しすぎてここ一週間は彼とゆっくり話すどころか顔すらも見れていなかったなと思う。だから寂しくて来たのかと納得した。
私は目を細めて彼を見つめる。椅子に久々の別れを告げ、私より背の高い彼に近づいてそっと抱きしめた。
待って急に立ち上がったから腰が痛いし足がプルプルする。
「……そんなこと聞かせてしまってごめんなさい。そんなこと、私達の仲なら聞かずとも明白でしょう?
私も殿下と会えず寂しゅうございました」
痛みに耐える間が、良い味を出したのではないだろうか。この苦痛もまた良い感じに表情に現れている事だろう。
もしかしたら私、名女優になれるかもしれない。今から全部の仕事と責任と立場を放り投げて女優になろうかしら。それもまたいい人生かもしれないわね。
「……そうか!! いや、俺は寂しかった訳では無いぞ!」
嘘つけ。明らかに私の数千倍は寂しかったであろう犬王子は、私にだけ見えるしっぽを嬉しそうにぶんぶんと振っている。
王族としては欠点でしかないが、まったく犬みたいに感情が分かりやすくてお可愛いこと。
「あら失礼しました。まだまだ感情制御が未熟な私と違い、ライオネル様はご立派ですね」
「うむ! だが恥ずべきことでは無いぞ、寂しくなったら何時でも俺に言うがいい!」
私のささやかなる嫌味もすり抜けて胸を張る能天気王子に、にこりと笑いかける。きっと彼はこの笑顔もありがとうの気持ちと受け取ることだろう。
万が一、寂しいなどという感情を抱いても素直に言うつもりは一切無いのだけど。
それにしても、どうして仕事場でイチャついているところを部下に見せつけなきゃいけないのか。この後半笑いで書類提出されるのは私なんだぞ。また悪魔になるしかなくなってしまう。
あぁ、それにこのやり取りの時間だけで私であれば三件は仕事を処理できたものを。今日も何時に寝れることやらと泣きたくなってくる。
「そうかそうか、お前は泣きそうになるほど寂しかったんだな!」
「ふふふ」
私の胸に伸びそうな手を、華麗で自然な動きで避ける。これももう慣れたものだ。
全くもう、ライオネル様が私の豊満な胸が好きなので困ったものだ。今は仕事着で一切の露出をしていないのだが、それでも視線を感じる。
彼に尽くすのも、世のため国のため。腐った王族に嫁いでしまったのが運の尽きか、自身の真面目さを恨むべきか。
王宮内でライオネル様は「愚かな王太子」と噂されている。未来の王に対して不敬な噂は、優秀な私が地道に叩き潰しているので次第に聞かなくなるだろう。
私が王妃になった時に邪魔な不穏分子を残しておく必要は無いもの。
近い将来、「愚王の妻」なんてヒソヒソ言われるなんて私の矜持が許さないのだ。
こんなライオネル様にとって聖母のように生きている私だが、それでも一度この王子を手のひらで転がすのを諦めて婚約破棄をして握りつぶしてやろうかと考えた時期がある。
彼との出会いを思い出せば、もう十年も前になる。
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