桜病
太陽が眠りにつき、浮かび上がる満月と、蛍光灯に照らされた桜が風に吹かれてゆるりと華やかに散る屋外のステージ。目の前から発せられる、目の前の全てをと耳の奥の鼓膜までもが鮮明に記憶してしまうような音に、意識を奪われる。
「わぁ……やっぱりgodsはどのライブも凄いね青龍!」
「あぁ、そうだな」
「ねえ。……届いてるといいね、瑠奈ちゃんにも」
「絶対届いてるさ。あの瑠奈姉だぞ?」
「…………」
「おい、大丈夫か? 」
「…………」
「巴……巴! 」
「わっ!?」
「大丈夫か?ぼーっとしていたみたいだが」
「あっはは……ごめんね。ちょっと疲れてるみたい」
「あまり、無理するなよ」
「うん、大丈夫だよ。また、辛くなったら係員さんに言うから」
急に巴が黙り込んで、そして虚無をずっと見つめていた。少し、苦しそうな顔をしながら。
けど、少ししたら元に戻って。それからはまた何も無かったかのように、ライブを楽しんでいた。
そして……ライブも終盤に入ってきた辺り。
「桜が……黒い桜が、私を呼んでる」
「巴!? 大丈夫か、巴! 」
巴が、倒れた。桜が呼んでる、とだけ残して。あまりにも急な事で、頭が真っ白になる。
──────────────────────
ライブは終わりかけなこともあり休憩を少し挟んだ後再開された。その休憩の間に巴は救急搬送され、俺も会場を後にして急いで病院へと走っていった。
「巴っ!!」
「えっ、と……あなたは誰ですか?なぜ、私の名前を知っているのでしょう……私に何かご用でも?」
「……は?」
巴の病室のドアを思い切り開けると、巴がキョトンとした顔でこっちを見てそう言った。人を間違えたか?いや、ないない。桃色のショートヘアーに空色の瞳に泣きぼくろ。その全てが俺の知っている寿巴そのものだ。まず何より幼なじみを、恋人を間違えるなんて有り得る訳が無い。
「何、言ってるんだ……俺だ、青龍だ」
「青龍さん、というのですね。あまり聞かないけれど……とてもかっこよくて、素敵なお名前ですね」
「……本当に、分からないんだな。俺の事が」
「はい。申し訳ないですが何も、分かりません。気づいた時にはここにいて。あなたのことは何も思い出せなくなっていました。だから……私に、教えてくれませんか? あなたと私は、どのような関係なのでしょう」
「恋人、だよ。俺は君の、彼氏だ」
「恋人、ですか。ありがとうございます。続きが気になりますけど。今日ももう遅いですから。また明日、来ていただけませんか? 明日また、あなたのことを聞かせてください。楽しみに、待っていますね」
「……わかった。また明日、来るよ」
巴にそう言われて、俺は病室を出ていく。……巴と話して確信した。巴は、かかってしまったんだ。桜病に。
桜病。それは、原因も原理も治療法も、全てが謎に包まれた奇怪で奇妙な、一般的に『奇病』に分類される病。
症状の進行速度には個人差があるみたいだが、その速度に関係なく共通して、一年をかけてゆっくりと全ての記憶を失っていく。この失った記憶は消して取り戻せることはなく、例えいくつもの新しい記憶を作ったとしても必ず一年経てば全てが消える。そして二年で感情を失う。明確に言うなら、喜怒哀楽の哀以外が全て消える。最後に、三年目。失った記憶を取り戻す。失った記憶を取り戻して……桜の木の下で風に吹かれて塵と消える。
「……だいぶ進行が早いな」
瑠奈姉は一週間ほど経ってやっと、だったのに。巴に関してはもう俺のことを忘れてしまっている。この速度で行けば、もしかしたら普通より早くその終わりが来てしまうかもしれない。……とはいえ、だ。今は考えたってどうすることも出来ない。そんな可能性の事を考えてもどうにもならない。
「寝るか」
ひとまずもう、今日は寝よう。そうしよう。
……それからしばらくして、眩しい月の光に照らされ俺は目を覚ます。目の前には、大きな木が生えていた。そしてその木の上には、白いワンピースを着た女の人が立っていた。
「来たんですね」
──また、あの夢か。
目の前には、脳裏に深く刻まれた思い出したくもない光景。俺は瞬時に理解した。これは、夢の中であると。そして……舞台のように、俺は昔の台詞をそのままなぞっていくことしかできない。。
「もちろんだよ。瑠奈姉は俺の大切な家族だ。記憶がなくたって、それは変わらない」
「家族……そう、ですか。来てくれなくてよかったんですけどね。あなたを悲しませてしまいますから」
とっくに感情など消えているはずなのに、彼女はどこか憂いを帯びた目をしていた。何度見ても、慣れないな。やけに冷えた風が、頬を撫でる。それはまるで、今の彼女の気持ちを表しているように感じられた。
「もう……私は疲れたんです、生きるのに。友達も、家族も、好きな物も、何もかも思い出せないのにこの胸が締め付けられるような感覚はいつまでたっても消えない。消えてくれない。……生き地獄、とはこのような事を指すのでしょうね。ですから……お願いです。私の事は忘れてください。放っておいてください。私を……この地獄から解放させてください」
月の光に照らされて、うっすらと彼女の頬から涙が伝っているのが見えた。俺は、言葉が出てこなくてただずっと彼女を見ていることしかできなかった。そして彼女は、終わりの言葉を告げる。
「青龍。愛しい私の弟……さようなら」
次の瞬間、彼女は木から飛び下りる。俺が反応する前に、もう既に彼女は地面に落ちていた。辺り一面に飛び散り、俺の手足にも付着する血。俺は目の前の状況が飲み込めなかった……というより、脳が飲み込むことを拒んだ。そして、言葉も出せずただ泣いている事しかできなかった。
「……やっと、目覚めたのか」
巴の事があったからなのだろうか。いつもの部屋が今日はやけに暗く見える。照らしている日差しさえも、今の俺には黒く染まって見えてしまう。カーテンなんてしていないのに。
いつからか、一週間に一回は必ずあの夢を見るようになった。……とはいえ、未だに慣れないな。あれを繰り返し夢に見るようになってから二年ほど。まだずっと、気分が悪い。
六年前の四月二十日、俺の姉である波針 瑠奈は死んだ。原因は、飛び降り自殺だ。そう、俺が見た夢にいた白いワンピースの女性。あの人が、瑠奈姉だ。繰り返すが、瑠奈姉の死因は自殺だった。瑠奈姉はまだ発症して二年だった。
……八年前、瑠奈姉は桜病を発症した。それから一週間後。瑠奈姉は俺の事を完全に忘れていた。友達や巴の事は覚えているのに、ただ俺だけを忘れていた。
ほんと、皮肉な話だよな。姉も、彼女も……最初に俺を忘れるなんて。
……いや、卑屈になっててもしょうがない。大丈夫だ。巴は俺が必ず救う。そしていつか、この夢も克服する。そうすればいいだけの話だ。
なんて事を考えていると、数回ノックされた後にドアが開けられ中性的な顔立ちの、俺よりもいくつか歳が上の女性が入ってきた。
「青龍、戸締りくらいしっかりしろ。寝てる間に泥棒が入ったらどうするんだ」
「すいません、暦さん」
「私で良かったな。それよりも……お前がそんなに泣き腫らしている、という事は巴に何かあったんだな」
彼女は九十九 暦。瑠奈姉が生前やっていたバンドのメンバーであり、巴が倒れた例のライブもそのバンドのものだった。そして彼女は巴の従姉妹だ。
昨日、巴が倒れた時直ぐに救急を手配してくれたのも暦さんだったから、巴の事について聞きに来たんだろう。
「ゆっくりでいい。落ち着いて、無理しない程度に巴の事について話してくれるか?」
「はい、わかりました。巴は……」
俺は暦さんに全てを話した。巴が桜病にかかったことや、もう既に俺を忘れている事を。暦さんは途中驚いた顔をしていたがすぐに険しい顔をして俺の話を聞いていた。
「そうか、わかった。……辛いよな、青龍。姉を失って、更に恋人にも忘れられて」
「……辛いのは、きっと暦さんも同じじゃないですか。瑠奈姉の事も、巴の事も」
「……瑠奈は、今の私たちになんて言葉をかけてくれるんだろうな」
それから少し暦さんが息を吸う。……少しずつ、息が荒くなってきて。畳にぽたぽたと、涙が落ちて行く。
……暦さんは、泣いているのか?
「なんで……なんで私達ばかりこんな目に合わないといけないんだろう。大切な人に忘れられて……何も出来ずにその人は死ぬ。そんな、そんな悲しい運命がどうして私たちだけに……嫌だ、私はもう、これ以上失いたくは」
「……大丈夫です、暦さん。巴は絶対に死なせません。俺が、必ず桜病を治す方法を見つけます」
正直驚いた。今まで、こんな暦さんは一度も見た事がなかったから。それと同時に、強く決意した。俺が、必ず桜病を治す。巴を、救う。
いや、確かにそうだ。ただ絶望したって何も良くはなりやしない。行動を起こさないと、事は良くも悪くもならない。だから、無鉄砲だけど……俺が巴を救って見せる。今それが、俺に出来るただ一つのあの時の贖罪だから。
「……お前らしいな」
それから少しして、暦さんは落ち着いて話し始めた。……普段強がってそう振舞っているだけで、暦さんも本当はただのか弱い女の子。瑠奈姉が前にそんな事を言っていたな。
「悪かったな、青龍。情けない所を見せてしまった」
「いえ、大丈夫です。正直なところ俺だって今にでも泣き出しそうな位にはまだ落ち着けてませんし」
「……まだ一日だからな。落ち着けないのも無理は無い。はぁ……まず私達がこのままじゃ何も変わらないだろう。青龍、ドライブに行こう。本題は気持ちを整理してからだ」
「はい、わかりました」
そう暦さんに言われて、俺は家を出て暦さんの車に向かう。……やっぱり外の空気は美味いな。だいぶ気分が落ち着いてスッキリする。
「あっ来た! もう、こよちゃんなんで起こしてくれなかったのさー! 」
「毎度毎度起こすのも疲れるんだ、麗亜」
車に乗ると、後ろから金髪のサングラスをかけて横になっている女性に暦さんが声をかけられる。彼女は星月麗亜さん。彼女もまた、以前に瑠奈姉が組んでいたバンドのメンバーで瑠奈姉とは小学校の頃からの仲。俺も、良く面倒を見てもらっていたし何度か泊めて貰ったこともあったっけな。
「こんにちは、せーりゅー!」
「麗亜さんもいらしてたんですね」
「あぁ。青龍の家に行くと行ったら私も連れてってと駄々をこね始めてな。連れてきたら連れてきたで爆睡かまして……」
「し、しょーがなくない? だってあんまり寝れなかったんだもん」
「……青龍。麗亜にも、話しておいていいか?」
「はい、俺は構いませんよ」
「ん?なになに?」
麗亜さんがこっちに気づいて明るく笑いかけて挨拶をする。やっぱりいつ会っても昔から何ひとつとして変わってないな、この人は。底抜けに明るくて、でも裏表もなくて。
……これを伝えたら、麗亜さんはどういう反応をするんだろうか。
「麗亜。ひとつ話しておきたいことがある。今から言うことは、嘘ではなく紛れもない事実だ。……信じてくれるか? 」
「何話されるかわかんないけど……うん。だって、こよちゃんは一度もあたしに嘘ついたことないからね! 」
「助かるよ。……なぁ麗亜、ライブ中に倒れた巴の事についてなんだがどうなったと思う? 」
「ともちの事?んー……何か重い病気だったとか?」
「まぁ正解と言ってもいいだろう。相変わらず……変に冴えてるな、お前は。それで、巴の事なんだが。単刀直入に言うと……桜病、だそうだ」
「……」
暦さんがそれを口にした瞬間。車の中の空気が、少し淀んだ物になる。しばらくの間沈黙が流れ、それを破ったのは麗亜さんだった。色々な気持ちを堪えながら、話し始める。
「そっ……かぁ。桜病だったかぁ。まだ……発症する人、居たんだね」
「私も驚きだよ。……身近な人間が二人も発症してしまうなんてな」
「せーりゅーは……大丈夫なの?」
「嘘でも大丈夫、とは言えませんね。今この瞬間でさえも夢であって欲しいと強く願ってるくらいですから。……それに。巴はもう、俺の事を忘れてしまっている」
「なに?」
「え、もう?」
あぁ……そういえばまだ暦さんにも伝えてなかったな、この事は。
「はい。恐らくかなりの速度で進行していってるか、偶然発症と同時に俺の記憶が消えたかの二択ですね」
「……昨日、何か話したのか?巴と」
「いえ。時刻も遅かったのもあって、今日はもうお引き取りください、と」
「んー……じゃあさ、あたしとこよちゃんもともちに会いに行っていいかな。全部の記憶を失ってるのか、それともせーりゅーの記憶だけ失ってるのかはっきりすると思うし」
「麗亜。それは余計青龍を苦しめることになると思うが」
「でも少なからず前進は出来ると思うよ。それに、あたしはせーりゅーだから言ってるんだよ。せーりゅーが強いのを知ってるから」
「ありがとうございます、麗亜さん。来ていただけると、俺も凄い助かります」
「ほらね」
「はぁ……わかったよ、私も行こう」
瑠奈姉が言っていた。麗亜さんは、いつも明るくのほほんとした感じで度々空気を読まない……一見人の気持ちを考えてないような発言をする事がある。でも、それは全く違ってかなりその人の事を考えた上で案を出してる、と。そこが、麗亜さんのいい所なんだと。
それに実際言ってることは正しい。巴の現状を把握する為にも二人と一緒に行き、俺だけ忘れてるのか全て忘れてるのかを確定させた方がいい。俺も……覚悟は出来てる。俺が見ているのはただ巴を治すという結果だけだ。過程で味わう苦しみなんて眼中に無い。
「……電話? こよちゃん、誰から? 」
「水波からだ」
それから車に乗って移動していること数分、暦さんの携帯から少し大きく着信音が流れる。ハンドルを握っている暦さんの変わりに麗亜さんが出て、そっとスピーカーにした。
「もしもし水波、私だが」
『あっ暦ちゃん! 今どこ? 』
電話をかけてきたのは、依紗水波さん。かつて瑠奈姉がやっていたバンドの、最後の一人。基本マイペースな人だからオフのときまで暦さん達と一緒って事はなかったはずだが……
「あっもしもしなみちゃん? 今からいつものレストランでお昼済ませるところ!」
『れいちゃん! うん、わかった! じゃあ私も向かうね。合流してもいいかな』
「あぁ、私は構わないよ」
「うん! あたしも~! 」
『ありがと~! じゃあ待ってるね! 』
そして麗亜さんは通話を切り、ほんの少しだけスピードを上げてレストランに向かって走っていく。そういえば水波さんが自分から連絡することなんて滅多にないんだっけな。
「それにしても水波から電話をしてくるとはな」
「珍しいこともあるんだねぇ」
「あぁ、そうだな」
「相変わらず、ですね」
それから大体十分くらいして、『stars』という名前のレストランに着いた。割とこの時間は空いており、かなり駐車場の車が少ないのでサッと車を止める事が出来た。
「おーい、暦ちゃーん! 麗亜ちゃーん! 」
入り口の前に、邪魔にならないように立っている水色のロングヘアーをしたやけに大人びた見た目をしているお姉さんがこちらに向かって手を振っている。
「声が大きいぞ水波。もう少し声量を下げろ。っていうか手を振るだけで良かったじゃないか」
「だってその方がわかりやすいと思ったんだもん! 」
彼女が水波さん。……ライブの時のキリッとした雰囲気とは打って変わって、こういったオフの日はかなりほのぼのとしている。やっぱ慣れないな。あっちの方のイメージが強いのもあって。
「あっ、青龍君! こうして会うのは久しぶり。大きくなったね」
「久しぶりです、水波さん。昨日のライブ、凄かったですよ」
「うん! 頑張ったんだから当然すごいでしょ! 」
「さ、早く入るぞ。私はもう腹が減って仕方がないんだ」
「あたしもお腹ぺっこぺこ~」