【第二十話】永遠の友
世界の南端には、全てが凍てつく氷の大地があるらしい。
朝の訪れを予感させる、紫がかった藍の空。街から街へ向かう森林の道に、テイマーの人攫いを移送する馬車はあった。
ヴィンセントは枷で繋がれた両の手で、耳の縁を撫でる。ため息が白く大気に消えた。
傷口をつつくような不快な揺れはなくなった。それどころか、全身から痛覚を含む全ての感覚が、眠りに向かう意識のように離れてゆく。
つい数十秒前まで、彼の乗る馬車を先導していた騎手は、前方で無惨な凍死体を晒していた。
季節外れの、吹雪の突風に身震いしたかと思えば、馬車は急停止した。慣性の赴くままに、御者を務める勇者は投げ出され、刹那。氷の大地を模した景色の一つと成り果てた。
何かの襲撃を受けた。咄嗟に外へ飛び出そうとするも、足が動かない。下からじわじわと登ってくる冷気に、下半身を殺されていた。
壊れた扉の先に一瞬視認できたのは、白い髪と氷のように冷たく鋭い瞳だった。
右に視線を向ければ、自分を移送していた勇者の死体。反対側に座る勇者もすぐにそれを追うことになるだろう。
「俺もか……」と自嘲する。
「ヴィンセント」
声がした。細く、心を締めつける声。
「ねぇヴィンセント」
その声を必死に手繰り寄せると、光景が視界に広がる。
「ねぇヴィンセント。君は勇者に向いてないよ」
「なに?」
出した声が若い。ヴィンセントは厄介な記憶の想起かと了解する。こんなときにまで、責苦を与えるのか。
薄暗い森。勇者学校区を囲む、あの森。枝葉の隙間から差し込む木漏れ日が、クラスメイトのフライを照らしていた。
「だって、外面が悪いから」
「テメェ喧嘩売ってんのか」
そう言うものの、ヴィンセントの内心は特にムカついてはいなかった。フライの発言は事実だし、彼は他人のヴィンセントに対する悪口を許さなかったが、自分はよく軽口を叩いた。それにも慣れていた。
「でも能力は高い。そこで、いいこと思いついた。僕、この森でヒッポグリフを見つけたんだよ」
「は?」
「ちょうど、ここ。毎日この時間、ここに来るんだ」
話が見えて来ず困惑する他ないヴィンセントとは対照的に、フライは極淡々と言葉を続けた。
「僕、命を救ってもらったのに何の恩返しもできなくて、考えたんだ。君の一番の望みを叶えてあげたいって──だからさ、ヒッポグリフをテイムしてよ。そうすればみんな君を認めてくれる。勇者になれる」
「何言ってやがる。ヒッポグリフレベルの魔物をテイムするなら相応のモンが必要だ。それこそ人の命程度は……オイ」
嫌な発想が脳裏を掠める。
「僕を使ってよ。僕を食べさせればいい」
変な奴だとは思っていた。
「何言ってんだ、一度助けたぐらいで……それも結果的にそうなっただけだ」
ヴィンセントはフライに対し親切に接したつもりはない。それなのに、彼はヴィンセントを慕い、どこへ行こうとついてきた。
ヴィンセントにとって、明らかにおかしな人間。その人間は、マトモな思考回路では辿り着けない、辿り着いてはいけない結論を導き出していた。
「お前はどうすんだよ、なりたくねぇのか?勇者にッ」
眼前の狂れた提案に、無意識に苛立つ。
「僕はなれない。その能力がない。君には能力がある。君がなるべきなんだ。君を勇者にすることが僕の役割だ。僕の願いだ。そうすれば──」
「ふざけんな馬鹿かッ!?……いつも言ってんだろ俺は──」
「『勇者になんかなりたくない』でしょ?でも僕は知ってる。君は、本当は勇者になりたいんだ。自分を厄介払いした両親を見返したいんでしょ。なにより、君は愛情深いんだ」
フライが、ヴィンセントの乱れた髪を耳にかける。そのとき、彼の華奢な指先が、耳の縁に触れた。
彼が後退り、手の熱が離れていく。
「何度も僕にしてくれたように、みんなを救って。ヴィンセント」
その笑顔は一瞬にして踏み潰された。肉を砕く音。天から舞い降りた前半身が鷲、後半身が馬のヒッポグリフがフライを啄む。
「フライ……」
何度も夢に見させられたその光景が吹雪の中に吹き飛んでゆく。手放しかけた意識を既で取り戻す。
結局、フライが何故そこまでしてヴィンセントを勇者にしようとしたのか、十年以上経っても分からなかった。
「なあフライ……俺はただ勇者になりたかったんじゃない。俺はお前と勇者に──」
冷気にやられ、どす黒く変色した腕に力を込めた。
「ううああッッ!!」
隣に座る、死を待つだけの勇者。彼の首根っこを掴み、馬車から放り投げる。
天から大きな影。飛び出したそれは、彼を前脚に迎え入れる。刹那のうちに、どこかへと去っていった。
ヒッポグリフは三頭の巨犬の猛攻に耐え、逃れた傷だらけの体で、主人の最後の指示を実行した。
「はぁ……クソバカフライ。俺は勇者んなったぜ。お前の願いだけ叶っちまった。クソが……」
最悪な気持ちとは裏腹に、口の端が吊り上がる。
朝が来た。陽が差し込むのに、視界が黒く染まる。瞼は凍りつき、もう閉じることはない。ヴィンセントの体を、霜が覆っていった。
黒く長い爪が、彼の凍った涙の礫を摘み取り、頭部を砕く。
「震えるような、永い悔恨も、心まで凍らせることは叶いませんでしたか。それは私たちにとって、この上ない僥倖──」
極東の島国の『着物』を纏ったその女は呟いた。
「ですよね?魔王レイメルナングス様」
【第一章】 勇者学校入学編 完




