メリー・メアーの呼び声 9
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〈助けて……ああ……助けて……〉
睡蓮の下から声がする。
呼び声に引っ張られるように、黒馬が水へ飛びこんだ。黒い毛並みと、装飾具は、どこまでも沈んでいって、やがて見えなくなった。もうあぶくも上がらない。睡蓮が満足げに揺れている。もしもあの馬に乗っていたら私も引きずりこまれていたことだろう。
『あの人』の悪夢の、それが終着点というわけだ。
申し訳ありませんが、馬の絵を巡ってあなたの過去を視てしまいました。そう私が報告すると、睡蓮からの呼び声はぴたりとやんだ。
睡蓮の影になって見えないが、水の下に『あの人』がいる。悪夢の一部ではなく、客人として〈扉〉をくぐってやって来た本物の『あの人』だ。
その証拠に、黒馬はカトウが〈扉〉の向こうへ去っても〈ホール〉に留まっていた。本来なら、カトウと一緒に帰っていくはずなのだ。ならば、もうひとり悪夢の持ち主がいると考えて間違いない。
たぶん『あの人』はカトウと同時刻か、もう少し前から、すでに〈ホール〉に来ていたのだろう。そして睡蓮のしたに潜んでいたのだ。ここが夢の中なのかもわからず朦朧とした意識のままで。
最初に、カトウが来て音楽を止めたとき、私は幽かに『あの人』の声を聞いていた。
そのときは、もう一人客人がいるのかと思った程度だった。さっさとカトウを追い出したかったので、彼の方を優先したのだが、馬の絵をまわるうち、睡蓮の声の主は『あの人』なのではと思い始めた。そして先へ進んで、ある確信が生まれた。
馬の絵は、それを見た客人を誘いこむための餌なのだ、と。
絵を巡れば、客人たちは『あの人』に心奪われずにはいられない。
カトウほどではないが、私も彼女の過去には心動かされたし、実際彼女のことを好きになっている。そうなるようにできているのだ。それが、この悪夢の構造だ。
そして最終的に客人が行き着くのが、この睡蓮の池だ。
魅入られた客人たちは、『あの人』のか細い呼び声に逆らえない。いわれるがまま水へ入ってもう這い上がってくることはないだろう。
カトウが助かったのは、終着点に着く前に私が帰還させたからにすぎない。
本来なら、あの馬とともに水底へ沈むはずだったのだ。馬は罠の一部であり、道連れにされる者の象徴である。
『あの人』は深層心理で道連れを望んでいたのだ。
カトウを連れていけるはずだったでしょうに、邪魔したことはあやまります、と私はいった。それから軽く〈ホール〉についての説明を加えた。
恥じているのか、それとも怒っているのか、睡蓮からの声は返ってこなかった。ただ幽かに揺れている風情から『あの人』が聞いてくれているとわかる。
この罠は、もちろん『あの人』にとっても悪夢である。
例えば、本能的に殺人を望んでいても、それを実行しようと考える者は稀だろう。同じことだ。
『あの人』も本能では道連れを欲求しているかもしれないが、それを人格で許しているのではない。
『不幸話を餌に男を引っ張りこむ女』。私は素敵だと思うのだけれど、そんなもの『あの人』は望まないだろう。
呼び声をかけつづけていたのは、夢の中のように曖昧な意識のままだったからに過ぎない。その証拠に〈ホール〉について説明を受けた今では、呼び声は完全に止んでいる。
こうしたことを考慮して、私はカトウを帰す選択をしたのだった。
カトウがどうなろうと構わないが、彼を見殺しにしたと知ったら、『あの人』私を許してはくれないだろう。私も『あの人』が好きになっていたから、それは避けたかった。
私は本題に入ることにして『あの人』へこう持ちかけた。
私と友達になりませんか。
私は癒やされるためにここへ来ています。
〈ホール〉に現実を変える力はありませんが、ここにいる間は現実より自由に過ごせるでしょう。
誰もあなたを見ない。
誰もあなたに求めない。
誰もあなたを助けない。
それが〈ホール〉なのです。
見て下さい、私のグズグズの体を。故あってこうなりましたが、美術館を楽しむのに何の問題もない。あなたも慣れれば、動き回れるようになるでしょう。自由自在とまではいきませんが、姿だって変えられる。私がその技術を教えましょう。あなたならできるはず。
私の手を取ってさえくれれば。
ここはあなたのための世界になるでしょう。
もし、あなたが〈ホール〉のことを知った上で、あらためてカトウが欲しいと思ったのなら、私はそれを手伝うでしょう。
なぜか?
私は人間の願いが開放される瞬間がたまらなく好きなのです。
私は人の悪夢が好きだ。溜まりに溜まった怒りと欲望が好きだ。それが開放される瞬間に無上の喜びを感じる。あなたのような狂った人が大好きだ。
孤独と同じくらいにね。
さあ。不幸の話はもう沢山です。
プライドは現実生活のためにとっておいたらいい。
あなたの欲望の話をしましょうよ。
カトウを呼びますか?
あなたの家族や、あの可愛らしい梨子さんも引きずりこんでしまえばいい。あなたを知るあらゆる人間を沈めてしまってもいい。
いいじゃないですか痛い女でも。現実でそうしろといってるんじゃない、夢のなかの出来事だと思えばいい。
何も恥ずかしいことはない。生まれたときと一緒ですよ。裸で生まれて泣き喚いて、それを恥ずかしいと思う者はいない。
ここでなら、生まれ変わることができるのではないですか?
あなたを苦しめるプライドをグズグズに溶かして、そこから心を解放してやればいい。そこに開花する花が新しいあなたです。
さあ。あなたは夢に身を任せればいい。
返事もしなくていい。
ただ手を取ってくれれば。
二人で沈めましょう。過去のあなたも、あなたに纏わり付く人たちも。
さあ。初めは私がしてあげてもいい。
さあ。手を。
最後まで『あの人』が私の手を取ることはなかった。
私の言葉の力も『あの人』には太刀打ちできなかったのである。これが、私の敗北の話である。
〈ホール〉を使えばゆるやかな自殺も可能だったが『あの人』はそれをしなかった。毎回水の底にある〈扉〉を使って現実へ帰っていたようである。
カトウや夫のために帰ったのか、私の前で自殺するのをプライドが許さなかったのか、どちらだろう。五分五分といった所だろうか。
けっきょく『あの人』は〈ホール〉での私の誘いも、現実での男たちの優しさもすべて拒み続け、独りで死んでしまった。
「駄目だったよ」
梅雨が明けた頃、〈ホール〉へカトウがやって来て、そう報告した。目の下の隈が『あの人』との苦闘を物語っていた。
素敵な方でしたねと私もそういった。
カトウは黒馬の悪夢を視るようになったという。




