乙女とハンカチ
キャラが少しずつ動き始めたかなと思います。
王都アルテラントの片隅にある修史院は、言ってしまえば窓際部署だ。政治闘争や派閥抗争に破れ、辛くも命をつないだ者たちがひっそりと息を殺して生きる場所。わけても博物誌 編纂局は極めつけで、現国王に疎んじられた大賢者ユエールにとりあえずの職を与えるだけの部署だった。窓際もこれ極まれリといったところだが、そんな編纂局にも時折顔を見せるような物好きというのは存在するようだった。
午後の執務も一段落した昼下がり、普段であれば師弟二人だけでお茶を飲みながら休憩している時間だ。しかしこの日の応接スペースにはもうひとり、身なりの良い商人風の男性の姿があった。
「ユエール様、ご無沙汰しております。大恩ある大賢者様のお変わり無いご様子を伺えて、このグエン恐悦至極にございます」
パトリシアは自席から読みかけの資料を盾にしながら、そっと応接スペースの様子を窺った。挨拶の口上を述べてユエールの対面で座った客人は、早々にテーブルの上のお茶に手を付け一口含んで目を細める。その様子にパトリシアはそっと胸をなでおろした。
(龍人族の方々は私達とすこし味覚が違うので、お持て成しをするのに気を遣うのですよね)
客人は龍人族という種族だった。独特の文様の飾り布を長衣の上から纏い、むき出しの腕や首筋にはびっしりと鱗が覆っているのが見える。少し目の間が広めで細く長い舌を持ち、どこか蜥蜴じみた面立ち。あからさまに人族とは異なる風貌の種族であるものの、土木や鍛冶の技に優れたこの種族は共存する隣人として受け入れられている。
「アガタの里でのことならば、もう随分と前のことです。末代までも語り継ぐような真似は本当に勘弁してください。相変わらずの窓際生活の僕に、義理立てしても良い商いはできませんよ?」
「なんのかんのとユエール様とはいい商いを続けさせていただいておりますからな。里の恩義を抜きにしても義理立て致すのに、鱗に賭けて後悔などを覚えたことなどございません」
グエンはぐっと背筋を伸ばし顎を上げて喉元を晒すと、顎下に隠された真紅の鱗に指を当てた。龍人族の最上級の敬意を表す仕草を前に、ユエールは少し困った表情を浮かべる。龍人族というのはとにかく頑固者が多く、このグエンも例外ではない。これ以上続けても益のない事を悟り、ユエールは話題を変え今日の来訪の意図を尋ねる。
「私共にご依頼いただいていた蒐集物について、いくつか進展がありましたので資料にまとめてお持ちした次第です。それと、そろそろ来季の蒐集のご依頼について、ご相談いただける時期かと思いまして赴いた次第です」
「なるほど、そういえばそういう時期ですね。来季の蒐集のことですか……」
ユエールの目がつと斜めに泳ぐ。先程もパトリシアに指摘を受けたとおり、今季の拾遺録の取りまとめもろくに済んでいないのだ。来季の話など出来るはずもない。ユエールの視線を追ったグエンは机の上に積み上がった原稿の山を見つけて、細長い舌を一周させて唇を湿らせた。普段は瞬きなどしない金色の瞳をパチパチと数度瞬かせて、喉の奥からカラカラと笑い声を発した。
「相変わらずお仕事に身が入っておられないご様子ですな。まあ毎年のことですので、手前も十分わかっておりますよ。しばらくは王都に腰を落ち着ける予定ですので、その間はこちらに何度かお邪魔させていただこうかと存じます」
「やあ、そう言っていただけると助かります。なにせ新しく取った弟子が実に優秀でしてね。うっかり油断していたら、原稿が山になってしまったのですよ」
「パトリシア嬢は優秀ですからな。そういうこともあるでしょう」
「優秀すぎるものも困りものです」
世間話を続ける傍ら、ユエールはグエンの携えてきた書類に目を通し始める。こうなると暫くは二人で喧々諤々と話し込むのが常だった。グエンのためのお茶をポットで用意すると、パトリシアはそれをそっとテーブルに届ける。一瞬グエンと目が合ったので、小さく黙礼を返すとパトリシアは自席に戻って深く腰を掛けた。
(暫くは私の出番はなさそうですね。手を付けられる原稿も今はありませんし、ゆっくりさせていただきましょう)
広げていた資料を手早く片付けると、パトリシアは応接スペースで話し込む二人の男たちの存在を脳裏から追い出した。自分のためのお茶とお茶菓子を用意すると、いそいそと袖机の引き出しを開いて一冊の本を取り出す。
(やっと、このときがやってきましたわ!)
取り出した革装本の表紙には、綺羅びやかな箔押しの飾り文字が踊っていた。惚れ惚れと眺めたそれを机の上にそっと置くと、パトリシアは題名を一文字一文字なぞるように指を滑らせる。愛おしそうに表紙を見つめる彼女の頬には、薄っすらと紅が差していた。
(『ヴェルン卿 の冒険』! ブライトマン子爵の最新作! やっと、やっと手に入れましたわ! 噂では原点回帰の冒険活劇で、このあとも続刊が出て新たなシリーズとなるのは必至とか! ここ暫くは恋愛ものを精力的に執筆されておられた子爵の、溜まりに溜まった冒険心がこれでもかと注ぎ込まれた熱い一冊。これを読まずして古参ファンを名乗れませんわ! ネタバレ回避のためにファンとの交流すら避け、子爵成分を切らして辛い夜を重ねた日々もこれで終わる!)
ブライトマン子爵はクタール王国に限らず、近隣諸国にまたがって多くのファンを持つ人気作家だった。幼少期から本を読む習慣のあったパトリシアは当然のようにこの作家に出会い、そしてものの見事に熱烈なファンとなっていたのだった。
子爵は近年は恋愛を取り扱った作品を手掛けて多くの女性ファンを増やしている。流離いの剣聖と旅先で出会う女性の淡い恋を描いた一連の作品が有名で、若い男女の間でその恋愛をなぞって真似る事が密かに流行となったほどである。
(甘々ロマンスも大好きですけれど、子爵の描く漢の友情の前では霞んでしまいますのよね)
胸の内の興奮を抑えるために、淹れたてのお茶を一口含む。茶葉から丁寧に出したそれは、少し円味のある口当たりで味はほんのりと甘め。口の中に広がる香りを楽し見ながら、ゆっくりと心を落ち着けていく。
深呼吸を一つして、さあいよいよと表紙に指をかけて本を開こうとした時、パトリシアは自分の名前を呼ぶ声に気がついた。これから本の世界に没頭しようとしていた矢先に出鼻を挫かれ、声のした方に決然と顔を上げ、淑女にあるまじき剣呑な視線を向ける。
「グエン様、お呼びでしょうか?」
常日頃の礼節に重んじる彼女からは想像できない不躾な態度だったが、グエンはその視線を受けてむしろ面白そうに笑みを深めている。その対面に座るユエールもまた、普段は見えなかった弟子の一面に意地の悪い笑みを浮かべている。
「パトリシア嬢は剣聖 スワロフという人物はご存知でしょうか? かつて各地をさすらって名を残した方でして。私くらいの歳のものには憧れの人だったりするのですが、もう随分と名前を聞かなくなったので最近の若い方はご存知無いかもしれませんが……」
剣聖 スワロフ はプライトマン子爵の剣聖シリーズのモデルとなった人物だった。子爵の熱烈なファンであるパトリシアが知らないはずもなかった。
「剣聖 スワロフ様! 私の愛読している作家様が、彼の方をモデルとした一連の作品を出しておられますの! 恥ずかしながら私も一時期熱中してしまって、モデルとなった剣聖様の事を随分と調べたものですわ。戦場に立てば一騎当千、数多の決闘を経て負けを知らず、挙げ句には落ちる星を切り捨てて民を救う。まさに物語の英雄のような方が実在の方だと、私いまでも信じることができておりませんわ」
「いやはやよくご存知ですね。なんでも若い女性の間で近頃人気が出てると聞いておりましたが、そうですか、小説のモデルになっておられましたか」
「『シアン夫人と誓いのハンカチ』というエピソードを真似る事が、王都でも少し前に流行ったようですわ。私も相手がいればと、思わなくもなかったのですが……」
つい興奮して余計なことまで口走りそうになったことに気がついて、パトリシアは急に口を噤んだ。慌てて伏せた顔は恥ずかしさで林檎のように赤く染まっている。熱を持った頬を冷ますように両手で顔を覆うと、消え入りそうな声で我を忘れてしまった事を謝罪した。
「いやいや、我が弟子のこんな乙女らしい様子が見られるなんて、僕は嬉しいよ」
「パトリシア嬢はもう少し肩の力を抜いて過ごされても良いと思いますぞ」
「それはいいね。いつもこんな風に可愛らしい様子を見せてくれたら、きっと僕の仕事も捗ること請け合いだ」
「そうなれば手前どもも商いの種が増えて良いことづくめですな」
調子に乗った男ふたりにいいようにからかわれては、パトリシアは恥ずかしさに身悶えしてしまう。そしてついには立っていることもできず、その場にしゃがみこんでしまった。流石に度が過ぎたことに気がついたのか、ユエールはパトリシアの前に膝をついた。そして、そっと手をとって助け起こしながら囁いた。
「お詫びといってはなんですが、貴方にハンカチをプレゼントしましょう」
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