〔番外編1〕伊藤達夫の事情
お向かいのマリちゃんは、良い子である。
息子の隼人より1歳年上で、互いに一人っ子同士であったことも影響してか、小さい頃はよく息子と一緒に遊んでくれた。
自己主張が強くやんちゃな息子と違い、マリちゃんは口数も少なく大人しい。目立つようなタイプではないものの、会ったときには必ず「こんにちは」と頭を下げてくれる、真面目な子だ。
そんなマリちゃんに、息子が片思いをこじらせてから、はや20年以上。
本人は隠しているつもりらしいが、傍から見るとバレバレである。しかしそれを、マリちゃん本人に対して口や態度に出すことはできない、残念な奴であった。
私は時計を見た。ちょうど18時になる。まもなく、息子が3ヶ月の長期出張から帰ってくるだろう。
高校時代は髪を染めてヤンキーもどきをしていた息子も、専門学校を卒業後、何とか就職することもでき、最近は少しばかり落ち着いてきた。
――言えない。
先日、マリちゃんが、婚約者を連れて我が家に挨拶に来た。そのことを息子に伝えねばと思ってはいたが、いざ息子が帰ってくるとなると、うまい伝え方が思い浮かばない。
息子は、マリちゃんに親しい男性がいるなど、想像すらしていないはずである。
しかも、マリちゃんが連れてきた相手は、普通ではない。何というか、好意的に、かなり控えめに言ったとしても――突き抜けていた。
※※※※
良く晴れた先週日曜日の昼前頃、我が家のチャイムを鳴らしたマリちゃんの横に立っていた男は、金髪碧眼の外国人だった。
身長は180センチ以上あるだろう。見たこともないほど綺麗な顔をしており、暗い赤色のベストの上に羽織っていたのは、映画で見たドラキュラのような黒いヴァンパイアマント。
それだけでも十分異様であるが、極めつけは頭に被っていた帽子――赤と金の縞模様のニット帽である。その先端は二つに分かれ、双方にピンクのボンボン(糸玉)が付いていていた。
「――!?」
私は動揺した。
五十余年生きてきて、恥ずかしながら、このような場面に遭遇したことがなかった。
これは一体どういう状況であるのかと、脳内を高速回転させながら目の前の情報を処理しようとしている最中、マリちゃんの、普段と変わりない落ち着いた声が、玄関先に響いた。
「お忙しいところ、すみません。私、この度結婚することになりましたので、ご挨拶に伺いました。」
――結婚!? 誰と?
隼人か? しかし隼人からそのような話は聞いていない。というか隼人はまだ自分の気持ちを伝えることすらできていないはず。
とすると他の男性としか考えられない。しかしマリちゃんに親しくしている男性がいるなど聞いたこともない。とはいえ年ごろの娘さんだ、そのような相手がいて当然かもしれない。だとしても誰?
まさか、まさかとは思うが。結婚の挨拶に来たと言って、男を連れてきたこのシチュエーション。そうではないと考えたいが、この現実からはその可能性を排除することの方が難しい。
まさかこのピエロ帽の男が――。
「はじめまして。おとうさん。」
――誰がお義父さんじゃー!!
ちゃぶ台があったら、ひっくり返しているところだ。
色々と間違い過ぎている。娘のように思っているマリちゃんに呼ばれるのであればともかく、初対面の不審なピエロにお義父さん呼ばわりされる筋合いはない。
「違うでしょう。」
マリちゃんが窘めるように口を挟むと、私の方を見ながら言葉を続けた。
「すみません。私が伊藤さんのことを、うちの親が亡くなって以来、親代わりのように良くして頂いている人だと伝えましたので、彼は先走ってしまったようで。」
「そ、そうか……。びっくりしたよ。」
色々な意味で。
「服装も。彼がこのような格好をしていることには理由がありまして……。」
マリちゃんは恥ずかしそうに俯いた。
「そうか……。」
理由があるのか。私は気を取り直した。それはそうだ。思えばこのような格好をするのに、何らの事情もないはずがない。
「彼、普段はいつも全身黒ずくめなので。結婚の挨拶がそれでは、喪服みたいでおかしいと言ったんです。
それで帽子とベストは明るい色のがあったんですけど。マントは黒いのしかなくて、仕方なく……。」
そ こ じ ゃ な い。
いや、マントも十分変であるが。黒いから問題というわけではない。というか普段は全身黒ずくめなのか。
結論から言うと、私は、何も言えなかった。
後から冷静になれば。
彼はどこの国の出身なのか、二人はどういう関係で知り合ったのか、結婚式はするのか、日本に住むのか……聞くべきことは色々あったにもかかわらず、私はあまりの衝撃に、思考が完全にフリーズしていた。
そのため、変な男から手渡された手土産を受け取りながら、「ありがとう。頑張ってな。」ということしかできなかった。何を頑張るのか、我ながら意味が分からない。
「これから、よろしくお願い致します。」
「お願いする。」
真面目な顔をして、丁寧に頭を下げて帰って行く二人。
たまたま通りかかった裏の家の佐藤さんが、二人とすれ違い、二度見するように振り返って目を見開いているのが見える。佐藤さん、気持ちは分かる。
――奇抜だ。
奇抜過ぎる格好であるが、彼が常人離れした外貌であるため、恐ろしいことにピエロ帽さえも様になっている。
さながら、この田舎を収録にきた芸能人のようであった。
※※※※
――さて、どうしよう。
私はコーヒーを少し口に含むと、息をついた。
一連の出来事を、一体、どのように息子に伝えたら良いのだろうか。
妻に伝えてくれと言ったのに、「私はまだマリちゃんの彼と会っていないから〜」となどと言って逃げるのだ。なんと無責任な奴だろう!
責任と言えば、私はマリちゃんの親代わりとして、この怪しい結婚を止めなくても良いのだろうか。果たして彼は真っ当な人間なのだろうか。
……ああ、胃が痛くなってきた。
「ただいま〜」
聞こえてきたのん気な声に、私は背筋が伸びた。
「むっちゃ疲れたわ〜。はいおっさん、お土産。」
部屋に入るなり紙袋を渡してきた息子。
こいつにお土産という発想があったのか。
息子の成長に感動しながら少し頬を緩め、紙袋を開けようとした私は、次の言葉を聞いて手を止めた。
「あ、それ、中の小さい方の箱はマリんだから。いや、別に土産なんてやる必要はないんだけどさ。あいつ東京行ったことないだろうしさ〜。まあ、義理だよ、義理!」
「……。」
ああ、どうしよう。
伊藤達夫、五十五歳。
哀れな息子をもつ、父親である――。