Step.4 合図は目線で
夫は緊張していました。
ほとんど表情にも態度にも出ませんが、夫婦である私には、夫がソワソワしているのが分かります。
無理もありません。
これから妻を殺そうというのに、平常心でいられる方がおかしいのです。かくいう私も緊張していますが、この日のためにできることは全てしてきましたから、想像していたよりは落ち着いているように思います。
ですが、1時間が過ぎ、2時間が過ぎると、徐々に私も焦ってきました。
――今のは絶好のタイミングだったのに! 一体何をやっているの?
かれこれ3回以上はここぞというタイミングがあったのに、夫はことごとくスルーしています。慎重なのは良いことですが、既に折り返し地点は過ぎ、少しずつ出口に向かっています。この後何回、チャンスがあるか分かりません。
次こそは、ビシッときめてもらわなければ困ります。
※※※※
洞窟に入って約2時間。
私は素晴らしい鍾乳石を間近で堪能することができた。なるほど妻はこれが見たかったのか。
たしかに鍾乳石は美しい。しかも観光地のものとは違い、泥だらけになりながら進んだ限られた者だけが目にできる自然の奇跡。
妻が惹かれる気持ちも分からなくはなかった。
しかし事態は想定よりも深刻である。
――行きたい。
切実にトイレに行きたい。
インストラクターは、少し道の開けた要所要所でメンバーを集めては、「ほら、あそこを見て下さい」等と話をしている。
――なんとのん気な!
私は思わずイライラと、拳を握りしめた。
このように狭い洞窟に大人数を連れてきておきながら、メンバーの中に尿意と戦っている人物がいるかもしれないということを、この者は全く想像できないのであろうか。
鍾乳石も素晴らしいが、もう十分に見た。今、解説しているその「つらら」など、1時間ほど前に説明していたものと瓜二つではないか。
私はイライラしながらも、表面上は平静を装ってはいた。しかし四年以上も連れ添ってきた妻には、見抜かれてしまったようだ。
「あなた、あと1時間程度で出口です。頑張って下さい。」
妻は、そっと励ますように囁いた。
振り返ると、とても心配そうな目で私を見ている。
「大丈夫だ。」
私は虚勢を張った。
そして妻を安心させるように、頷きを返した。――頷きを返す以外に、できることはなかった。
※※※※
「大丈夫だ。」
夫はそう言って頷きましたが、その美しい額には、普段見たこともない汗が光っています。
涼しい洞窟内であるというのに、やはり、その緊張は相当なものなのでしょう。
さらに30分程度が経過しました。
また一つ、絶好の殺害ポイントを、夫はスルーしました。流石に不安になった私は、夫を振り返りました。
「あなた、大丈夫ですか。」
いざとなると、臆病な人なのでしょうか。
「――ああ。何とかするしかない。」
夫は重々しく、そう答えました。
ですが表情はいつになく厳しく、苦悶に満ちています。見ているこちらの胸が苦しくなるほどに、ソワソワして落ち着きのなくなった、その様子。
――ああ。この人も、苦しんでいるのね。
その事実は、すとん、と胸におさまり、そして染み入りました。
夫が、私を殺すことに、苦しみを抱いている。
その事実は、私の心を凪のような、穏やかな気持ちにさせました。
――この人と娘のためなら、死んでも悔いはないわ。
私は、初めて心からそう思えました。
※※※※
残り時間は、後、20分を切ったであろうか。
洞窟に入る前のロッカールームで、貴重品は置いていくようにと言われ、時計を置いてきたことが悔やまれる。
インストラクターは、当初、「3時間」程度の行程だと言っていたが、それには誤差はないのだろうか。一同の歩く速さなどで、色々と狂うこともあるのではないか。
そもそも3時間という言葉にも幅があり、3時間20~30分程度であってもざっくりと「3時間」と言う者はいる。今回は厳密に3時間ということで間違いはないのだろうか――。
私がツラツラと自問自答をしていると、不意に前を進む妻が振り返り、「あなた」と小さく声をかけてきた。
私が顔をあげると、妻はそっと、目線で合図をするように崖下を示した。
「今なら、誰にも見られません。――どうぞ。」
「!!」
まさか。
ここで、崖下に向かって、放尿せよと?
できるか――っ!!
「いや。ここは。」
私は首を振った。
――無理に決まっているだろう! 洞窟全体が、貴重な石灰岩の固まりなのだ。
しかも、している途中で、妻のすぐ後ろの人に容易に気付かれてしまうだろう。そうしたら私はとんでもない変質者だ。
「大丈夫ですよ。」
――全く大丈夫ではない!!
「ダメだ。」
「早くしないと。」
私と妻が小さく応酬し合っていると、妻の後ろの人が追い付いてきた。
「あっ……。ダメ、ですね。」
妻が諦めた様子に、私は小さく息をついた。
――いやはや、とんでもない妻である。
※※※※
――仕方がない。
どうやら、夫は、思い切ることができないようです。ここは、私が覚悟を見せるしかないでしょう。
当初の予定では、夫が私を殺害するのに委ねれば良いだけと思っていましたが、夫にできないのであれば、私が助力するしかありません。
再度、絶好のポジションが目の前にやってきました。
一人ずつ膝立ちで進む細長い一本道。ヘッドライトで照らす足元以外に明かりはなし。
1メートルほど左には断崖絶壁。どこまで続くのか分からないほどの深い穴に、インストラクターが注意を促していました。
これ以上の場所は、この先、もうないだろうと思います。
――あと3メートル、2メートル、1メートル……。
今がベストポジションというところで、私は、足を止めました。
そっと、ヘルメットとヘッドライトを外します。
後ろから来ている夫がぶつかってきたら、その拍子に横っ飛びをして、落下することを決めました。
――この距離なら、いける。
学生の頃から反復横飛びには自信があるのです。
そう、自信はあったのですが。
いざ、夫が私にゴチンとぶつかってきたとき――、あろうことか、私は数歩分しか横っ飛びができませんでした。崖のギリギリのところで、無意識に踏みとどまってしまったのです。
しかも、足が震えて動けません。
――ああ、ばか!
私の意気地なし!!
私は、自分を罵りました。
私が殺されなければ、夫と娘が殺されるというのに。
それだけは避けなければならないのに。
けれども、まだ望みはありました。
夫が、驚きと苦悶の表情でこちらに近づいてきましたから。
――ああ、この人も、ついに覚悟を決めたのね。
夫の手が私に伸びてきた、その瞬間――。
ガラガラと、私の足元が崩れていきました。