Step.3 体調は万全に
――おかしい。
私は首を傾げました。
これほど自然かつ良い感じに、鍾乳洞アピールを続けているというのに、夫は全くといって、鍾乳洞に興味をもつ様子がありません。
アピールが自然過ぎたのでしょうか。それとも、夫がかなりボンクラなのでしょうか。
そこまで考えて、私は、自分のミスに気が付き、愕然としました。
――夫は、外国人!
そもそも、鍾乳洞の何たるかが、分からないに違いありません。
鍾乳洞がツルッと滑りやすくて、暗くて、暗殺にもってこいの場所であることなど、我が国の人間であっても直ちには思い至らないでしょうに、外国人の夫に想像できないのは当然といえます。そのことに気付かない私の方がどうかしていました。
――もう少し、分かりやすく示唆する必要があるようです。
私は一人頷きました。
翌朝、私は思い切って、夫に話しかけることに致しました。
普段は基本的に挨拶以外で話しかけることなどないので、緊張で胸はバクバクでしたが、何とか表情には出さずに済んだと思います。
「おはようございます。」
「ああ。」
ここまでは、いつものやり取りです。
私は、カーテンを開きながら外を見上げました。そして、ふと気付いたという体で言いました。
「今日は雨のようですね。雨だと滑りやすくて困りますね。まるで 鍾 乳 洞の中のように。」
――天気にかこつけて、自然に一息で言えた!
私は心の中でガッツポーズを取りましたが、あまりに緊張していたので、夫の顔を見ることができません。
「……ああ。」
夫から返事もありました。
「ああ」の前に少し間があったので、おそらく、「鍾乳洞は滑りやすい場所なのか。そうか、ならば暗殺に最適だな……」と考えていたのかもしれません。
ひとまずは狙い通りにできたと思われます。
数日後、私は夫が入浴しているのを見計らって、洗面室にやってきました。
そして、エイヤッと心で呟きながら浴室電灯のスイッチを切りました。
ガタガタッ。
何かを派手に倒したような音が聞こえてきます。
――よし!
私は直ちにスイッチをつけると、浴室のドアを開けて、しおらしく頭を下げました。
「間違えて切りました。ごめんなさい。暗くて周りが見えなかったでしょう? まるで 鍾 乳 洞の中のように。」
またしても、一息で言うことに成功です。
頭を下げていましたから、夫の表情は見えません。
「……ああ。問題ない。」
夫の声は、少し動揺しているようでした。
この度も「ああ」の前に少し間がありましたから、きっと、「そうか。鍾乳洞は暗いのか。」と認識し、暗殺計画に思い至ったのかもしれません。
それからも、私は自然さを意識しつつ、夫に、鍾乳洞の何たるかを分からせていきました。
あるときは、家の廊下を私が歩いているタイミングで、夫がたまたま後ろにいたときに、私は自分の足を滑らせてみることを思いつきました。
ズシーン!
少し足を滑らせたつもりが、本当に転んでしまい、盛大に尻もちをついてしまいました。
「痛……!」
思わず私が呟くと、珍しく夫から声をかけてくれました。
「大丈夫か。」
「大丈夫です……うっ。」
立ち上がろうとすると、右足首が痛い。どうやら変な方向に捻り、捻挫をしてしまったようです。ああ、私は本当にそそっかしいダメなやつ。
しかし、今こそ、夫に言わなければなりません。
決定的な言葉を。
「見ていたのは後ろの貴方だけですね。狭い通路では、他の人には何が起こったのか分かりませんよね。まるで 鍾 乳 洞の細道のよう……うっ。」
「……!」
ここまで言えば、幾ら鈍感な夫でも気が付いたことでしょう。
私は体を張って、鍾乳洞が暗殺に最適であることを夫に知らしめたのでした。
※※※※
――おかしい。
少し前からおかしいと思っていた妻の様子が、最近輪をかけておかしくなってきた。
どうやら鍾乳洞に行きたいらしい。
それだけは分かる。
何せ、最近妻は、ことあるごとに、鍾乳洞のことを口にするのだ。
特に先日などは、目の前で見事に尻もちをつき、足の痛みに顔を顰めすごい形相で耐えながら、なおも、妻は鍾乳洞のことを口にした。
「まるで 鍾 乳 洞の細道のよう……うっ。」
どんだけ行きたいんだ……!
私は少し引いた。
妻が鍾乳洞の何にそんなに惹かれているのか、正直、全く分からない。
しかし、結婚以来、我儘を言ったことのない妻がそれほど希望するのなら、鍾乳洞の1つくらい行ってみても、別に構わないのではないか。
思えば、新婚旅行すら行っていないのだ。どこかに旅行したいという気持ちになっても無理のないことかもしれない。
そう考えた私は、軽い気持ちで、妻に提案してみた。
「――鍾乳洞、行ってみるか?」
「――!!」
妻はすごい勢いで振り返った。
そしてキラキラした目で私を見てきた。
「行きましょう!」
食い気味で言ってきた妻に、やはり若干引いたが、しかしそれほど喜ぶのであれば提案は間違ってはいなかった。
妻は鍾乳洞に行きたくとも、私に遠慮して言い出せなかったのだ。
私は妻と目を合わせて言った。
「――お前の気持ちは分かっている。」
「!!」
妻は衝撃を受けたように少しふらつき、そして感極まったという風に片手を口元に当てた。
「良かった…。」
小さく呟く妻に、私は力強く頷いてみせた。
妻はすぐにでも行きたいのかと思っていたが、行きたい時期は1年以上先の、来年の夏と決まっているらしい。
「洞窟の中は寒いのですよ。だから、夏が最適です。」
妻の言葉に、私は頷きを返した。私は別に、いつでも構わないのだ。
鍾乳洞に行くことを提案してから、妻と私の距離は、以前より縮まったように思う。
妻が唐突に、娘の世話の仕方――、たとえば保育園に持っていく持ち物やトイレの方法などをレクチャーしてくることも増えた。これが家族の触れ合いというものかもしれない。
そしてあっという間に月日は過ぎ、いよいよ、妻が予約した鍾乳洞探検ツアーに行く日がやってきた。
普通の観光地の鍾乳洞を考えているのかと思ったら、妻が予約しているのはかなりマニアックな、個人のやっている小さな鍾乳洞探検ツアーのようだ。ちなみに日帰りである。
初めは娘も連れて行くものと思っていたが、妻が。
「まさか。そんな残酷なこと……っ。」
と非難するような目で私を見るので、当日は一時保育に預けることとした。小さな子が入れるような洞窟ではないのかもしれない。
実際に集合場所に行ってみると、意外にも、集まっている8人程度の客のほとんどは女性であり、男性客は私を入れて2人のみであった。若い女性同士での参加が多いようだ。
変なツナギを着せられ、インストラクターを真似るように準備運動までさせられた。妻は柔軟が苦手らしく「グググ」と変な声を出しながら体を折り曲げている。
どうやら想像していたより、かなり本格的な洞窟探検らしい。ヘルメットも支給されて装着したが、何故か妻は私を見て、
「ヘルメットはうまく装着しないと、すぐに取れるんですよね。しかも、女性はこういうの苦手ですから。大丈夫です。」
と意味不明なことを言っていた。取れたら大丈夫じゃないだろう。
インストラクター指定の保険にも加入させられた。全員に加入が義務付けられているらしい。
適当にサインしておけば良いと思ったが、生真面目な妻は、保険の適用条件や重複した場合の扱いなどを細かく質問していた。
そしていざ洞窟に入るという時になって、インストラクターは言った。
「皆さん、トイレは大丈夫ですね。中に入ると3時間は出られませんし、もちろん洞窟ですからトイレはありませんよ。」
――えっ。
実は少しトイレに行きたかった。
しかし、それを言おうとした瞬間、一同はもう中に入り始めていた。
メンバーのほとんどは若い女性である。
「あ……。」
トイレに行かせてほしいと。言葉は、喉まで出かかった。
しかし言えなかった。タイミングを逃した。
今さら一同の動きを止めてまで、トイレに行かせて欲しいとは言えなかった。
――3時間くらいなら、何とかなるか。
私は男らしく腹を括った。