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約束(連載版)  作者: 小松郭公太
1/3

中田病院にて

 修一は、黒いマントの中に頭まですっぽりと身を埋めていた。麻袋のようにごわごわしたマントの感触が頬にあたってくる。黒いマントの裏地には父の匂いが染みこんでいた。マントの隙間から雪が入らないように、時折、母の軟らかい手が襟元にやって来る。しんしんと降る雪の気配と共に、ぽつりぽつりと交わす父と母の声が聞こえてくる。


 修一は熱にうなされていた。熱は昨夜から続いていたが、朝になっても一向に下がる気配がない。扁桃腺からくる熱である。母は修一の寝間着を脱がせ、炬燵の中で温めていた長袖の下着とズボン下を履かせ、その上に青い絣の着物と揃いの羽織を着せた。靴下は一番厚手のものを履かせた。父は、作業小屋から取り出してきた箱橇はこぞりを玄関の軒下に横付けして、その中に座布団を二枚敷くと、着物を着て玄関まで出てきた修一を毛布でぐるりと包み、ひょいと抱き上げ箱橇の中に座らせた。父は静かに降る雪を見た。そして、玄関の脇に掛けてあった黒いマントを無造作に修一の上に掛けてやるのだった。箱橇の向かう先は、中田病院である。


修一はマントの中で箱橇が滑る音を聴いていた。箱橇は家を出ると裏山の下を道なりに進んで行った。そして、裏山から湧き出ている清水の前に差し掛かった。


「母さん、今どこ」


「清水だよ」


「ふうん」


修一は、箱橇がもうすぐ幼稚園の横の小さな坂を下るのだということが分かった。坂に差し掛かったとき、父は箱橇の滑走を一度止めて、テールに両足で乗り、再び箱橇を滑らせた。箱橇が坂を滑り降りていく感覚が修一の体に伝わってくる。坂を下り終えた所に修一が通う小学校があった。箱橇が進む音とは別に、オルガンに合わせて歌う声が聞こえてくる。修一にはその歌が六年生のものであることがすぐに分かった。そして、そのまま進んでいくと、やがて箱橇は修一が通う一年生の教室のすぐ横を通るのだということも分かっていた。修一は「誰か友達に見られたらどうしよう。みんなが勉強しているときに、箱橇に乗せられて、何処かに行く所を見られ、後で何か言われたらいやだなあ」と思い、深々と被ったマントの中で体を小さくして息を潜めて、教室の横を過ぎるのを待った。一年生の教室を過ぎると大きな銀杏の木がある。紅葉の季節には地面が黄色い絨毯で覆われる場所である。その木の下を直角に左に曲がって少し行くと学校の正門が見えてくる。箱橇は、暫くの間、校舎を囲むように作られた小径を進んできたのである。修一は、箱橇が学校から遠ざかっていることが分かると、気分が楽になってきたのか、少しうとうとした。


ふと気が付くと、さっきまで聞こえていたはずの箱橇の滑る音が止んでいた。箱橇は止まったままで少しも動かない。


「母さん」


「あっ、修一、起きたの」


「うん。どうしたの」


「父さんが、ちょっと近所で用事を済ませてくるって言って出掛けたんだけど、なかなか戻ってこないの」


「ふうん」


「母さん、ちょっとそこまで探しに行ってくるから、修一は、少しここで待ってて」


「えーっ」


修一は思わずマントの中から頭を出して母を見上げた。母は修一の顔をのぞき込み、


「大丈夫、すぐそこだから。すぐに戻ってくるんだから」


と言って、修一の額に手を当てて熱を確かめてから、その頭にマントをかけてやった。修一は箱橇の中で、雪道を遠ざかっていく母の足音を聴いた。


「一、二、三、四、五・・・」


と、修一は小さな声で数えた。「ちょっとそこまで」だったら、百を数えるうちに帰ってくるだろうと思ったのだ。


「・・・九十六、九十七、九十八、九十九、百・・・」


箱橇の中がまた静かになった。辺りは、しーんとしている。修一はもう我慢できなくなって、マントを襟元まで押し下げて、小さな顔を外に出した。修一は目の前に広がる灰色の空を見上げた。修一の頬に一つ、二つと雪が舞い降りてくる。六角形の結晶が幾つも結び合ってできた真綿のような雪だ。修一は叫んだ。


「母さーん。母さーん」


雪が次から次と落ちてきて修一の頬を濡らす。修一は思わず立ち上がり、箱橇の外に飛び出した。父に抱えられて橇に乗ったので、長靴は持っていない。靴下のまま雪の上に立っていた。それは、おそらくほんの一瞬の事だったのだろう。修一は、その一瞬のうちに自分が置かれている状況を理解した。箱橇は中田病院の玄関前に停められていた。黒い板塀を回した中田病院の門を通ると、そこには、よく手入れされた前庭があり、その右手に「中田病院」と記された看板がある。修一は、もう一度「母さーん」と叫ぶつもりでいたのだが、玄関の中の人々に聞こえては恥ずかしいと思い、小さく「母さん」と呟くと、箱橇の中に戻っていった。修一は泣いた。父と母に置いて行かれた悲しみに打ち拉がれた。マントを被り、小さな声で泣いた。どれくらいたったのだろう。母の暖かい手がマントの外から入ってきて、修一の頬に下ろされた。


「修一、ごめんね。父さん、そこの職業安定所にいたわ。すぐ終わるはずだったんだけど、もう少しかかるんだって。さあ、診てもらいましょうね」


と、箱橇を玄関の軒下に滑らせた。まだ朝だというのに、辺りは夕方のように薄暗く、玄関の丸い門灯に灯りが入ってもいいくらいだった。


 玄関のガラス戸がガラガラと音をたてて開いた。その音を聞いて看護婦さんが出てきた。スラッとスタイルの良い看護婦さんである。母は修一を背負って玄関のたたきより一段高くなっている板敷きの廊下に立った。看護婦さんは母の斜め後ろにに立ち、二人を待合室に誘った。待合室への扉は静かに開き、修一はいくつか並んだ長椅子の一つにそっと降ろされた。母と看護婦さんは馴染みらしく、世間話でもするかのように修一の病状を伝えた。


「修ちゃん。ほっぺが真っ赤ね。熱計ろうね」と、体温計を軽く振って水銀を下げてから、修一の襟元から入れようとした。体温計は冷たかったが、看護婦さんの手は温かった。首の辺りが少しくすぐったい。母の手とは違う感触を覚えた。


「まあ、四十度もあるわ。修ちゃん、痛いところなあい」


修一は、首を横に振り、隣に座っていた母の膝の上に顔を埋めた。


「この子ったら、熱を上げると、いつも四十度を越えるのよ」


母は困ったようにフフフと笑った。看護婦さんは、母の繰り言を体温計と一緒に診察室に持って行った。修一はごろりと寝返りを打ったかと思うと、今度は母の膝の上に両足を投げ出して仰向けになった。身の置き所がなかったのだ。待合室の薪ストーブは勢いよく燃え、その上に置かれた薬缶から白い湯気が立ち上っていた。看護婦さんが診察室へのガラス戸を開けた。


「修ちゃん、どうぞ」


診察室は眩しいくらい明るかった。診察室の真ん中に白いベットが置かれていた。そのベットを横目に修一は先生の方に進んでいった。先生は白いカバーの掛かった大きな椅子に座って何か書き物をしていた。白衣の背中が大きい。修一が先生の横にある丸い椅子に座ると、先生の椅子が回転した。


「どれどれ」


丸い大きな顔が修一の方に向けられた。綺麗に整えられた口髭が迫ってくる。少し薄くなった頭髪にはきちんと櫛が入れられており、ほんの少し整髪料の臭いがした。肉厚の柔らかい手が、修一の胸と背中を触診する。修一は、トントン、トントンとよく鳴る音を不思議に思った。


「はい、あーんして」


「あーん」


先生は銀色のへらで舌を押し下げた。修一は一瞬嗚咽をあげた。


「おやおや、喉が真っ赤だね。熱も高いね。お母さん、ペニシリン打ちましょう」


修一は、看護婦さんに導かれて白いベットにうつ伏せになった。両手を顎の下で組み、次の処置を待っている。


「お尻にすると痛くないからね」


と、看護婦さんが修一のズボン下とパンツを下げた。そして、


「ちょっと我慢してね」


と言われたとき、修一は思わず歯を食いしばった。全てが終わり、修一はゆっくりとした気持ちになっていた。薬ができて母が会計を済ませるまでの間に、その安堵感は、うっとりするほどの幸福感に変わっていった。修一は短い眠りに着いていたのだった。


 修一は待合室を出て、板敷きの廊下に出た。廊下は、長年使い込まれ、自然に磨き上げられていた。まるでスケートリンクのようである。修一は厚手の靴下で滑ってみた。そのとき、ちょうど玄関のガラス戸がガラガラと開いた。見ると玄関の外に白いタクシーが止まっていた。ガラス戸を開けたのは、タクシーの運転手だった。運転手が傘を差し出しながら後部座席のドアを開けた。修一は、その慇懃な振る舞いに目を見張った。そして、そこから降りてくる人物の登場を待った。降りてきたのは、赤い着物を着た女の子だった。朱赤の生地に手鞠と小花が散りばめられている。女の子は着物を着てはいるが快活だった。玄関のたたきで小さな草履を脱ぐと、腕を大きく伸ばしてその草履の先を揃えた。そのとき、女の子の着物の裾が大きく開いたが、少しも気にする様子はなかった。女の子は、白い足袋で板敷きの廊下に立つと、青い着物を着た修一のところへ歩み寄って来て声を掛けた。何の混じり気もない素直な頬が小さな唇を動かす。


「○○○○○○○○○○○○○○」


「えっ、何。何て言ったの」


女の子は、ちゃんと聴いてと、口を大きく動かすのだが、修一がいくら耳を澄ましても、女の子の声は聞こえてこない。ふっくらとした頬が修一の目の前にある。小さな鼻がちょっぴり上を向いている。


「○○○○○○○○○○○○○○」


「えっ。分かんないよ。何。何て言ったの」


修一は、女の子を真っ直ぐに見た。しかし、そうしている内に、女の子は業を煮やしたのか、修一の横をすり抜けて待合室に入っていってしまった。修一は、女の子の後を追った。女の子が何を言ったのか知りたかった。ところが、足が滑って、少しも前に進まないのだ。「早く行かなければ」と焦れば焦るほど、足は前に進まないのだ。


「修一。さあ、帰ろうね」


耳元で母の声がした。目を覚ますと、そこは待合室の中だった。修一は待合室を見回した。ガラス戸越しに診察室の光が漏れてくる。


「あれ、誰か来なかった」


「誰も来やしないよ。夢でも見たんじゃないの」


確かに母の言うとおり夢を見ていたらしい。でも、夢の中で赤い着物を着た女の子と出会ったなんて、恥ずかしくて母には言えなかった。中田病院を出るとき、もう一度、廊下を見てみたが女の子の姿はなかった。「やっぱり夢だったんだ」。修一は、明るくなった雪道を箱橇に乗って引き返した。箱橇を押しながら、母が呟いた。


「雪、止んでいたんだね。」


修一は、それを聞いて、箱橇から身を乗り出して通りの門から病院に続く地面を見た。箱橇が滑った跡は積もった雪に消されていたが、車の通った跡ははっきりと残っていた。「あの子、やっぱり来ていたんだ」。修一は少し嬉しかった。そして、またあの女の子と会いたいと思った。帰り道は緩い上り坂である。修一は、一人箱橇を押す母の苦労も知らずに、夢の中ですれ違っただけの女の子に思いを寄せるのだった。


 あれは、夢だったのかもしれない。地面に車の跡があったからといって、それが必ずしもタクシーのタイヤの跡であるとは言えない。比較的出入りの多い病院の玄関先に、他の車が止まることは極めて普通なことなのだ。だから、あれは夢だったのだ、と考えた方がいい。しかし、修一にとっては、それはどちらでもいいことだった。修一は、夢の中で出会った女の子と、もう一度本当に出会うことができたのだから。


数年後のことである。修一は三年生になっていたが、相変わらず体が弱く、月に一度は扁桃腺を腫らして高熱を出していた。あまりの高熱に体力を消耗し、病院へ行くこともできずに、先生に往診してもらうこともしばしばあった。四十度の熱に意識も朦朧となり食事も摂れなかったというのに、一夜開ければ、ケロリとした顔で食卓に着いているということも珍しいことではなかった。とはいえ、四十度の高熱と戦った代償は大きく、体力を回復するために通院することを余儀なくされたのである。


体力の消耗は修一の体重を少なからず減少させ、少し空気の抜けた風船のようにふわりふわりと漂うような感覚を生じさせた。中田病院までの道のりは思いのほか遠く、修一は母と共にゆっくりと歩みを進めていた。雪国の春先は妙に汗ばむ。梅と桜と木蓮が狂ったように一緒に咲いている。学校を取り囲むようにつけられた小径を進み、青葉がきらめく銀杏の下を通る。母の日傘が校舎からの視線を遮る。学校の正門を背にしてから、角を二つ曲がると中田病院の黒い板塀の通りとなる。かつての武家屋敷が並ぶこの通りには枝垂れ桜がよく似合う。小さな風を受け、蕾たちが悪戯に揺れるのだが、今の修一には、そこに手を伸ばすだけの元気はない。


 中田病院は、黒い板塀こそ以前のままだが、建物は改築され、鉄骨とコンクリートの新しい佇まいとなっていた。門からかつての玄関に続くアプローチは病院の一角となって屋根が掛けられていた。車が二台ほど停められるスペースがあり、その奥に前庭と母屋が続いている。二間ほどある玄関を入るとすぐに一段高くなっており、そこで靴を脱いで備え付けのスリッパに履きかえる。タイル張りの廊下が真っ直ぐに続いており、廊下の右側に受付と診察室が並び、左側が待合室になっていた。廊下の奥には階段が見える。二階には入院できる病室があるらしい。


 修一は、玄関に入るとへなへなと上がり口に腰を下ろした。ほんの五百メートルほどの道のりなのだが、弱った体には相当堪えたらしい。


「歩くのは、まだ無理だったかしら」


と母がぴったりと寄り添う。修一は息を整え、母の力を借りて立ち上がった。そのとき、待合室の戸が静かに開いた。中から出てきたのは一人の少女だった。赤い着物を着ている。もう診察を終えたのだろう。会計を済ませた母親と一緒に帰り支度をしている。母とその少女の母親は、互いの労をねぎらうかのように会釈し合った。修一は他に関心を向けるほどの余裕はなかったのだが、赤い着物が気になった。少女は小さな顔の賢そうな瞳を母親の方に向けて何かを訊ねているようだった。小さな鼻がちょっぴり上を向いている。そして、二言三言、言葉を交わすと、白い足袋を薄桃色の草履に滑らせた。足下に注がれた長い睫毛の瞬きが着物の朱赤とともに少女の心象となって修一の胸に焼き付いた。修一は体を休めるために待合室に入った。体の芯を失ったかのように畳の上に横になる。瞼を開いていることもままならない。待合室には他に誰もおらず、静寂がすぐに訪れた。修一の傍らで母が週刊誌をめくる。と、母屋の方から弦をつま弾く音が聞こえてきた。琴の音である。母屋の障子に春の柔らかい光が揺れている。良質の音が暖かい空気にとけ込み、待合室のガラス窓越しに伝わってくる。瞼の裏に赤い着物が見える。琴の音が微かな風となって枝垂れ桜を揺らすと、桜の花びらはひらひらと舞い落ち、朱赤の生地に散りばめられていった。


「修ちゃん、熱計ってね」


看護婦の下柳さんの声だ。毎月のように熱を上げて中田病院に通っていたので、母は下柳さんと一層親しくなっていた。母がいつも「下柳さん」と呼ぶものだから、修一もすっかりその呼び方に馴染んでいたのだ。


「ああ、扁桃腺の腫れは退きましたね。もう大丈夫ですよ。ただ、高熱が続いたものだから、大分体力が落ちているようです。栄養のあるものを食べさせて、ゆっくり休ませてください」


先生は口髭を動かしながら説明を終えると、青い太字の万年筆でカルテに何かを書き込み、下柳さんに手渡した。やはり、先生の手は肉厚で柔らかそうだった。母は、弱り切った私を見かねて、受付でタクシーを頼んだ。タクシーを頼むなんて、滅多にないことだった。ひんやりとした黒いシートに身を横たえた修一は、身の程も知らず、ただ単純にタクシーに乗れた喜びに浸っているのだった。


 修一は中学一年になった。体が大きくなってきて体力が付くにしたがって、扁桃腺からくる高熱を発することがなくなり、中田病院のお世話になることもめっきり減っていた。だが、中田病院のある通りが通学路になっていたので、修一は毎日その道を通っていた。かつての武家屋敷が並ぶ通りは、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。六月の雨はアジサイの花を濡らし、アスファルトの所々に水たまりを作った。修一は、白いワイシャツに衣替えしていた。黒い学生ズボンのウエストは思いのほか細い。中学生になって急に伸び始めた背丈のてっぺんに学生帽が載せられている。修一は、中学校に入って初めての中間テストを終えて、家路に着いたところだった。どこからかニセアカシアの匂いがしてきた。「なんていい香なんだろう」と思ったその時、目の前が真っ暗になり、修一はその場にうずくまるようにして倒れた。


「修ちゃん、大丈夫」


懐かしい声が聞こえてきた。それは、下柳さんの声だった。修一は中田病院の近くで倒れたらしい。大した試験勉強をした訳でもなかったが、少し疲れが溜まっていたのかもしれない。


「貧血を起こしたみたいね。さっき、お家に電話しておいたから、もう少し休んでから帰るといいわね」


「すみません。ありがとうございます」


修一は診察室のとなりの点滴室に寝かされていた。一度目を覚ましたものの、黙っているといくらでも眠ることができた。小一時間も眠っただろうか。修一はどこからか聞こえてくるラジオの音で目を覚ました。小さな音だが、DJの軽快なおしゃべりと、ノリの良い音楽が流れている。修一はゆっくりと体を起こしベットを降り、音のする方に進んでいった。点滴室のドアを開けると、そこには階段があった。二階の病室に続く階段である。


「続いて、東京都のジュピターさんのリクエスト、『虹と雪のバラード』をお送りします」修一の足が一歩一歩階段を上る。トワエモアの歌が少しずつ近づいてくる。ラジオの音は階段を上ってすぐの病室から聞こえているようだ。そのとき、明るい笑い声と共に病室のドアが開いた。


「あら、修ちゃん。大丈夫」


下柳さんだった。


「あっ、大丈夫です」


病室のベットがちらりと見えた。ベットの上から誰かがこちらを見ているのが分かった。


「ちょうどいい。修ちゃん、ちょっとこっち来て」


下柳さんは嬉しそうに修一をドアの内側に招いた。見ると、ベットの上にはちょうど修一と同じ年くらいの少女が座っていた。白いパイプベットに白い布団、白いカーテン。窓辺に飾られたアジサイの花の紫が目に入った。


「紹介するね。小林修一君。こちらは、佐藤直美ちゃん」


修一は少し恥ずかしかった。だが、少女は少しも動ぜず、


「私、知ってます。修一君のこと」


と発した。修一は思わず少女の方を見た。パジャマにガウンを羽織っていて、いかにも入院患者の装いではあるが、髪はきっちりと三つ編みにしていて清潔感が漂ってくる。


「私、毎朝、ここから中学校に行く人たちを見てるんです。修一君のことも知ってます」


「あらあら、修ちゃん、しっかり観察されていたのね」


と、下柳さん。


「本当は私も通学しているはずだったんだけど・・・」


と直美は声を落として俯いた。修一は、はっとした。まだ小学生のときのこと。ちょうど桜の季節だった。中田病院の玄関ですれ違った赤い着物の少女。長い睫毛の瞬き。少し上を向いた小さな鼻。あの時、母屋から聞こえてきた琴の音と共に遠い日の心象が蘇ってきた。


「あの、僕、会ったことあります」


直美はきょとんとしていた。


「どこで」


「この病院で」


「ここで」


直美は、いよいよびっくりした様子だった。下柳さんが、


「そうでしょ。二人とも赤ちゃんの時からここに通っていたからね。二人一緒に待合い室にいたことだってあるかも知れないわよ。それにしても、修ちゃん、よく覚えていたわね」


「ええ、まあ」


修一は嬉しかった。あの時の赤い着物の少女と、今こうして知り合うことができるなんて。しかも、とても自然な形で話をすることができる。いつもの修一だったら、同じ年頃の女の子とこんなふうに話をするなんて、なかなかできることではないのだから。


それ以来、修一は、学校帰りに毎日のように直美の病室を訪ねた。そこで、修一は、直美に父親がいないことを初めて知った。父親は彼女が一歳になる前に病死していて、その後は小学校教師の母親一人で直美を育ててきたのだ。母親の仕事の都合で一人家に居ることも多かったが、直美は明るく快活な子供に育っていた。ただ、子供の頃から体が弱く、風邪をこじらせて肺炎になったり、腎臓を患ったりして、度々中田病院を訪れていた。そして、直美は、もうすぐ小学校を卒業するというときになって、「急性骨髄性白血病」を発病したのだった。


「お母さんが言ってたわ。修君のこと知ってるって。小さい頃よくこの病院に来ていたって。」


「ふうん。で、直ちゃんは覚えてないの」


と、修一が訊くと直美は「うーん」と少し首を捻って考える仕草をした。


「僕は覚えてるよ、直ちゃんのこと。直ちゃん、小さい頃、赤い着物を着てこの病院に来てたでしょ」


「えっ、どうして知ってるの」


直美は目を丸くした。


「だって、二回も見てるんだもの、覚えるよ」


「二回も」


「そうだよ・・・」


修一は、今まで記憶の奥底にしまい込んでいた幼い日の一場面を思い出していた。


「あのう・・・。直ちゃん、この病院に来る時、白いタクシーで来なかった」


修一は、小学一年のときに出会った赤い着物の女の子のことを確かめてみた。


「タクシーで来たことはあるけど・・・」


直美の大きな目が宙を見つめた。と、その時、病室のドアが開いて、直美の母が入ってきた。


「おじゃましています」


修一は、母親に持たせられたサクランボを差し出した。


「修ちゃん、いつもありがとう」


直美の母は、修一が病室を訪れるようになってから、直美の表情が明るくなったと感じていた。


「ねえ、お母さん。小さい頃、この病院に来るとき、白いタクシーに乗ったことある」


「あるわよ。いつも使っている清沢タクシーは白よ。それがどうかしたの」


修一は、小学一年の時、この病院で出会った女の子の話をした。白いタクシーが玄関に横付けにされ、運転手がドアを開けると、そこから赤い着物を着た女の子が降りてきた。女の子は廊下で遊んでいた修一に話しかけてくるのだが、いくら耳を澄ましても声が聞こえてこない。女の子は一生懸命に話しているのに、修一に伝えることができなくて、業を煮やして待合室に入ってしまう。修一は女の子が何を言ったのか知りたくて女の子の後を追おうとする。しかし、修一の足は滑って少しも前に進まない。焦れば焦るほど足は前に進まない。その時、耳元で母の声がして目を覚ました。


「なあんだ。夢だったの」


二人は、一気に現実に引き戻された。


「でも、僕は、今でもあの出来事が夢なのか現実なのかよく分からないでいるんだ」


と、修一は、不確かな出来事に対する自分の思いを素直に語ってみた。


「確かに、雪の日に、白いタクシーに乗って、赤い着物を着た直美をこの病院に連れてきたことは何度かあったわ。でも、その時に修ちゃんと会っているかしらねえ」


直美の母は、片方の手を頬に添えて考え込んでいる。直美は、母の横顔を見ながら、漠然とした思いに駆られていた。しかし、修一の話を聞いているうちに、二人には、それが強ち夢ではないように思えてくるのだった。


 梅雨が明け猛暑となったが、中田病院は風通しがよく比較的過ごしやすかった。直美は仙台にある大学病院で本格的な治療をするために、明日から暫くの間、ここを離れることになっていた。


「修ちゃんと会えなくなっちゃうわね」


さっきから、さっぱり会話が弾まない二人を見かねて、直美の母が口火を切った。


「仙台まで電車で二時間でしょ。僕、ときどき遊びに行くよ」


と、修一が言うと、直美もやっと口を開いた。


「じゃあ、私、仙台駅まで迎えに行くね。大学病院前から路面電車に乗って行こうかな。そうそう、仙台に着いたら、一番町に遊びに行こう。お昼は、シェーキーズのピザを食べて、それから映画を観て・・・」


と、一人で粋がるように話した。それを見かねて、修一が、


「ちょっとちょっと、病院を脱走する訳。これはえらいことになりそうだね」


と口を挟んでみたが、直美は、 


「大丈夫、大丈夫。私、看護婦さんと友達になって、ちゃんと裏工作しておくから」


と、手に負えない。


「うわあ、すごい。着いて行けないよ」


と、修一は、わざと辟易した振りをして見せた。その後も直美は、体に障りはしないかと心配してしまうほど快活に話した。


 直美は、修一の帰り際に手紙を渡している。


修君、これまで私のことを励ましてくれて有り難うございました。私は、修君と話しているときが一番楽しかったです。だから、私が仙台へ行ってもこれまでと同じように友達でいてもらえたら嬉しいなあと思います。でも、治療が始まると副作用で髪の毛が抜けたりするんですよ。そんな私でも友達でいてもらえますか。修君と一緒にもっと話したかった。修君と一緒に学校に行きたかった。勉強したかった。修君。修君が小学校一年の冬に中田病院で会った赤い着物の女の子。その女の子はやっぱり私だったのではないかと思います。修君と一緒にいたいという気持ちがタイムスリップして、小学一年の私に戻って会いに行ったんだと思います。あの時、確かに中田病院の廊下に青い着物を着た修君が立っていました。そして、あの時私は、修君に向かってこう言ったのです。『大人になったら、また会おうね』って。私は、あの時、修君と会うことを約束していたのです。でも、私たちはまだ十分に大人にならないうちに会ってしまいました。神様が私の命を知っていて、会うのを早めてくれたのかも知れません。今私は、約束通りに、大人になったときにまた修君と会いたいと思っています。だから、修君、私のことを忘れないで待っていて下さい。


大好きな修君へ


直美より


手紙の中には、桜の押し花が入っていた。余計な力を加えると今にも壊れてしまいそうな花びらが重なっている。花吹雪が舞い、黒い板塀に桜色のグラデーションが広がる。琴の音が消えていくように、美しいものは遠ざかって行った。修一は、大人になった直美に会いに行くための方法を考え始めていた。

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