異世界信長 その100回目
なんの変哲もない高校生の俺が目を覚ましたらなぜか戦国時代の戦場にいた。もちろん目の前に織田信長がいたので、話をした。
俺は歴史に詳しいから、未来がわかる。
信長が言った。
「今年はお前か、毎年お前みたいな奴がやってくる。多い時には何人も来る。言っておくが光秀はもう処刑したから本能寺は起きないし、猿と家康も念のため斬ってある。残す敵は小田原の北条のみだが、去年きたやつがもうすぐ降服させるところだ。飯も医療も服も未来式の物はすでに見飽きた上、機械は堺の鍛冶屋どもに作らせているところで女子高生は足りとるし俺は年増しか抱かぬ。お前は何をもたらすのか?」
俺は歴史が得意で……。
「ないのか?」
信長がギロリと睨んできて、俺はようやく言葉を絞り出した。
「さ、サッカーしようぜ・・・?」
長い沈黙の後、信長は言った。
「で、あるか」
これが戦国ストライカー信長誕生の瞬間であった。
螺貝が吹かれると同時に試合が始まった。
信長がボールを持ってドリブルを始めると、ゴールキーパー役の家臣が馬を連れてきて騎乗を勧めた。
それを信長は「たわけ」と一蹴して相手ゴールを目指す。
すると相手チーム役の家臣たちが道を開けて平伏しだしたところで俺は試合を止めた。
「信長様、彼らは相手チーム。いわば敵です。敵が平伏していては試合になりません」
「……? 俺に平伏せぬ敵などおらなかったが」
ああだめだ通じてねえ。考えろ俺は歴史に詳しいんだ。
「それは、あれです。あいつです。信長様に何度も反乱を起こし、その度に平伏して許されてもまた反乱して最期は自害した、そう!松永弾正です!」
びきぃと音が聞こえそうなほど野太い血管が信長のこめかみに浮かんで、
「で、あるか」と彼は言った。
相手チームの家臣たちはそのまま捕らえられ自害を命じられた。それを無念とか言いながらハラキリ始めそうだったので俺は泣きじゃくって謝りまくってなんとか止めた。
「ガハハ、面白きやつ」
何がガハハだと思ったが気に入られ、俺は侍大将ということになった。
そんなことがあって俺は織田家の侍大将になった。
あの信長様を笑わせた男として家中からも一目置かれている。
今日もサッカーの練習をしていたのだが、いつの間にかフィールドに白い死装束を着た妖怪の様な爺さんが歩いてきて、信長の前で正座した。
爺さんは大きく息を吸うと、すっと背筋を伸ばして大きな声で言った。
「天下治り泰平の世来たりて久しいとはいえ、天下人たるものが為政から目を背け配下を己が満足がため戯れに連れ添わせ道楽に興じるとは、これ古より亡国の兆しにして乱の源。この平手政秀、身命を賭して吉法師様に諫言申し上げに参った次第」
ああこの人は信長が若い頃、うつけだった信長を諫言して自ら腹を切った人だ。きっと”毎年やってくるやつ”の誰かがそれを止めたんだ。
信長は練習を止められてあからさまに怒りを見せ言った。
「呆けたか爺! まだ北条が残っておるわ」
それから信長は平伏する爺さんを見下ろして言った。
「貴様の命など犬も食わぬわ。興が冷めたゆえ俺は安土へ戻る。それから、俺をその名で呼ぶな」
「お聞き入れいただき、恐悦至極に」
この爺さんすげえ、と俺は思った。
信長はそれからサッカーをしなくなった。
信長がサッカーをしなくなってからまもなくのことだった。
北条攻めの司令官だった”去年きたやつ”が、敵方の正木なんとかという武将の奇襲を受けた中、槍で突かれて死んだ。
殺気立つ安土城内で信長は言った。
「おい、オレ」
そう言って俺を睨んだ。
「は? 俺ですか?」
「そうだ、これから貴様の名はオレだ」
また意味不明だと思ったが、すぐにこれは猿やキンカンと同じ、信長が好むあだ名なのだとわかった。信長は気に入ったやつに、あだ名をつける。大抵はひどい名だが。
居並ぶ家臣達が驚きを隠さず、騒ぎ始めた。
「なんと……大殿が」
「異世界者だからといって……」
「黙れ。おい、オレ。北条攻めの後任、貴様に任すゆえ小田原の城、落としてみせよ。槍働きは他の者にやらせ、貴様は全てを、読めばいい。わかるな?」
つまり未来の知識をフルに駆使して前任者と同じ様になんとかしろということなのか。なんとかできなかったから去年のやつは死んだのだ。くらくらしてくる。
「あの、信長様、俺なんかではその大任……」
そう言いかけたとき、家臣が一人駆け込んできて言った。
「申し上げます。平手政秀様、ご逝去なされました」
その時の信長の顔は、一生忘れられない。
あの爺さん、平手政秀が死んだ。老衰だったらしい。
その報告がもたらされたとき、信長は立ち上がると、何も言わずに評定の間から去り、戻ってこなかった。もはや小田原攻めどころの話ではなさそうだった。
そしてなぜか俺がこうして、信長の居室の呼ばれて座らされている。
信長は背中を見せたままである。
「オレよ。何か面白い話でもいたせ。くだらぬ話で良い」
うわぁ出た面白い話しろっていうやつ、まさかこんな戦国でいわれるとは思ってなかったあ。
俺はとにかく、なんとか笑わせようと自分がいた世界の話をした。
学校の話とか、ネットの話とか、らぶらいぶとか。
「たわけぇ。そんな話とうの昔に聞き飽きたわ。それに俺は年増しか抱かぬ」
信長そう言って俺の話を遮ったが、声に力がない。
やっぱり、落ち込んでいる。
「貴様の世界では、年寄りは長く生きるのか」
「はい、高齢化社会でそれはそれで問題になっています」
「ということは六十、七十まで当たり前に生きるということか。ふん、爺は九十を超えて生きたぞ。あのような妖怪は、貴様の世界にもおるまい」
「……はい」
信長は黙り込んだ。だから俺はなんとか励まそうと、精一杯考えて、あの爺さんのように背筋を伸ばし、大きな声で言った。
「信長様、落ち込んでいる場合でしょうか? 北条家のとの戦いはまだまだこれから。あの城を落とさなければ天下布武はなりません。きっと平手政秀様も」
信長は腰からギラリとしたものを抜き取ると、俺の首にそれを当てて止めた。冷たい感触を感じてそれからようやくそれが刀だとわかった。
「二度と貴様が爺の真似などするな。今貴様の首がついているのは俺が歳をとったからだ。去ね。その面二度と見せること許さぬ」
そうして俺はおしっこを漏らし、侍大将、そして小田原征伐戦司令官から一兵卒に格下げとなった。
一兵卒、つまり足軽に落とされてから、しばらくたった。
といっても朝から晩まで何のために建っているのかわからない建物の警備をするという日々だ。
ある日、噂を聞いた。織田信長が北条攻めの司令官を自ら行い、そして負けたと。負けた織田家を見限った伊達、佐竹、上杉ら有力大名が謀反を起こしたと。
「関東は一益が殿軍となり北条、伊達、佐竹に対して時間を稼げ。その間に三河・遠江国境に要害を築きやつらを食い止めるのだ。北陸の上杉には勝家があたれ。西の毛利が必ず動くだろう。猿はおらぬな、俺が斬って捨てた。しかし息子の城介では手に余る。ならば俺が主力を率い、これにあたる。貞勝、朝廷に働きかけ静観するよう暗に伝えよ。さもなくば俺に殺されると思わせればよい」
信長はそう指示を飛ばしたらしい。だが一兵卒の俺にはもう関係のないことだ。
他の異世界からきたやつら、おそらく俺と同じ世界の人間は、この世界でどうしているんだろう。この世界をどうしたくて、干渉しているんだろう。
たぶん小田原で北条を勝たせたやつも、そうに違いない。異世界に行ったら末期の北条家だった件、みたいな。やかましいわ。
案外、俺と同じで、ただ生き残りたいだけなのかもしれない。
「あの、もし、オレ殿」
何者かの声がした。
「オレ殿。内密のお話がしたく」
オレ殿という不思議な語感に白目を剥きそうだったが。その男は勝手に俺の耳元まで顔を近づけ、囁いた。
「元の世界へ戻る方法、お教えいたす。されば、我が主に会い、知恵をお貸しいただきたい」
「誰だ、あんた。その主って?」
「会えばわかるのではないですかな未来の方。そうこれは、ギブアンドテイクというものです」
元の世界に戻る方法、それがあれば俺は。
その頃、命からがら本拠地の安土城にたどり着いた織田信長は、すぐさま西の毛利家が謀反を起こしたことを聞いた。
信長は直ちに自分自らが兵を率いて毛利にあたると宣言した。
その時家臣が中継地として示した地図の場所は、本能寺だった。
「ほう、本能寺か。俺が死ぬ場所だ。しかし死ぬかな? ガハハハ」
奇妙なことを喋る主君に、居合わせた一同は困惑するばかりだった。
「私が明智家家老、斎藤利三である」
見ず知らずの怪しい男に連れられた先は、やたらと眼光の鋭い爺さんの前だった。
斎藤利三、知っている。明智光秀の重臣だ。光秀が処刑され、本能寺の変が防がれたこの世界でも生きていたのか。
「織田信長を本能寺にて討つ。それが言われなき汚名を着せられた光秀様への弔いである。貴殿にはその未来について、占っていただきたい」
占い、未来を知っていることについて、そう思われても仕方がない。しかしその未来はもう、おそらくどんな未来人でもわからないものへと変わっている。
「協力するならば良し。さもなくば、他の者と同じく、この世界の骸となるべし」
「……占えば、良いんですね」
「うむ」
俺はもう、やけになってその占いとやらをやった。あーとかうーとか言いながら白目を剥いて、未来を見通した。
「整いました」
「して、その心は」
「明智家の大勝利にて信長は本能寺の灰となるでしょう」
「うむ、であろう。ならば貴殿はこれより我が軍師として従い、信長の最期を見届けるがよかろう」
事態が手に負えないところにきていることに、ここで気づいた。
「出陣である」
「あの、元の世界に戻る方法とは」
「武士の嘘は知略と申す」
このド畜生。
俺はつまり、明智家残党の一員として、明日、信長を討つ。
闇夜に紛れ、明智残党の手勢が本能寺を取り囲む。
斎藤利三が飛ばした檄を思い出す。
信長は今日、わずかな供廻りのみでこの本能寺にいる。しからば闇より這い寄り、その首討つべし。
なんとかして事態を信長に伝えなくては。
俺はそう考え、考えに考えたが、ついにその方法が見つからず今に至った。明智軍軍師と言われてはいるが、その実際は囚われの身と変わらない。
「敵は本能寺にあり、者共進め」
斎藤利三の号令と共に兵たちが本能寺に殺到する。信長の首をあげれば、大首級。そして天地がひっくり返り、歴史は正しく修正される。
兵たちが本能寺の奥、信長の屋敷を取り囲むと、屋敷の障子が開いた。
現れたのは、美少年。息を飲むほどの美しき少年。
ああ、森蘭丸だ。違いない、あれが本物だ。すげー綺麗だ。実際に見てわかった。あれは男だからいいんだ。男だからこうも惹かれるんだ。遠目から彼の姿を見る俺は、なんだか恍惚とした気分になりかけていた。
蘭丸はゆっくりとした所作でこちらに一礼すると、障子を全て開き、その中に待ち構えていた者たちを披露した。すなわち織田家の兵、その大軍である。
「待ち構えていたか!しかし!」
斎藤利三が怒号をあげる。それを嘲笑う様に織田信長が姿を現した。
「オフサーイド!功を焦ったな、明智の残党よ。毛利の挙兵は貴様らをおびき寄せる虚報よ。これが光秀ならば容易く見破ったろう。しかし貴様のような小者ではな。すなわちこれはペナルティ。つまり、死だ」
狼狽する明智兵残党に、織田兵が殺到する。
あたりは悲鳴と怒号で埋め尽くされ。
俺は織田信長に捕らえられた。
「次。ええ、明智家軍師、オレ殿。元織田家北条攻囲軍大将、どうぞ」
そう呼ばれて俺は陣幕の中に入り、入るなり腰を抜かした。
織田信長は陣幕の中でカーペットのようなものに寝そべっていた。その肘掛けとして斎藤利三の白目を剥いた首があった。
「おう、オレか。久しいな。明智の残党共の軍師になったか。打ち首にはせぬ。腹を切らせてやるゆえ、安心しろ」
俺はおしっことおしっこではない物両方を漏らして、その場にへたりこんだ。
これが織田信長。異世界から来た人間がいようと未来を知っていようと、そこらの人間が太刀打ちできるような男じゃない。そしてこの男は、この時代で最も残酷な男の一人なのだ。
「だが貴様からはまだサッカーを学んでいる最中だ。俺を一流のプロストライカーにするとの言、偽りないのならもう少し生きながらえさせてやっても良い。その後、腹を切らせてやる」
俺は正直に、全てを話した。
「信長様、俺は正直、サッカーに詳しくないのです。というかむしろ興味なんてない。汗かくの嫌いだし。Jリーグはもう流行ってな」
「ならばなぜ俺に言った」
「だってあなたが怖かったから」
「恐るがゆえにホラを吹き、俺を踊らせたか」
「申し訳ありません」
すると信長が大笑いした。腹を抱えて、ガハハガハハと身をよじりながら。
周りにいた家臣たちが信じられないものを見たという顔をする。
「で、あるか。まるで猿のようなやつよ。やつは俺が斬ったが」
恐ろしく上機嫌。これは僥倖。俺は心の底でほくそ笑む。
信長は俺を見るとさらりと言った。
「さて、もういいだろう、腹を切れ」
「えっ」
そして俺を睨みつけると、暗く静かな声で言った。
「俺が裏切り者を許すのは、そいつが使えるからだ。松永弾正もそうだった。だから俺は許した。だがお前は違う。サッカーもろくに知らぬただのホラ吹きではないか」
「で、でもさっきはあんなに笑って……ほ、ほら私なら信長様を楽しませられます! 芸人としてお側に置いて下さい」
「道化は無用。あの世の爺に叱られるゆえな」
そうかこいつ平手が死ぬと改心するんだった−−。
頭が真っ白になる。信長の側に控えていた武者達が、具足と刀をこすらせる物騒な音を立てて俺を取り囲み、腕を掴む。
「連れて行け。腹を切れぬようならば、首を刎ねよ」
信長の姿が小さくなっていく。俺がこの武者たちに引きずられているから。
「あ、あああ……ああ……」
声にならない声を上げ続けても何も起こらず、俺はこうして首を刎ねられることになった。
あっという間に河原に引き出され、突き放された。俺はその勢いのままずっこけ膝を擦りむいた。
「座れい」
武者のドスの聞いた声に俺はただただビビりながら従い、河原の地面に正座する。
別の武者がやって来て、俺の目の前になにか置いた。
三方と呼ばれるお盆に足が生えたようなやつと、短刀。すなわち時代劇でよく見る腹切り入門セットがそこにあった。
絶句している俺に武者が声をかける。
「できぬのなら、斬首ということになる。仮にも北条攻囲軍大将であった者が、それで良いのか」
俺は答えようと声を絞り出した。涙声になっていたので、自分でも驚いた。
「だ、だってぇ……腹切れってぇ」
涙が溢れ出してきて、もはや止まらなくなる。
それを武者はじっと無言で見つめる。表情は、無い。
やがて、「哀れ」とだけ呟くと武者は腰の刀を引き抜き、振りかぶった。
「待った」
腹切りセットを持ってきた方の武者がそう言って制止した。
「勝蔵。なぜ止める」
「首を斬る前に、やはり聞きたいのだ」
勝蔵と呼ばれた武者は、泣きべそをかく俺の前にしゃがむと野太い声で尋ねた。
「お主、未来から来たのだったな」
「……はい」
「ならば、わしを知っておるか?」
「はい? あなたのお名前は?」
「森勝蔵長可。足軽頭をやっている」
森長可……! 俺はその名を聞いて目が覚める思いがした。知っている。織田の古参にして宿将ともいえる森可成の子で、武勇の持ち主。確か小牧・長久手の戦いで戦死したはず。それに足軽頭なんてよりずっと高い地位で、城持ちだった。
良い方に向かうばかりじゃないんだな、と俺は思った。それもそうか、この世界の歴史はもうぐちゃぐちゃなんだ。
森長可は苛立つように言う。
「俺を知っておるのかと聞いている」
織田軍随一の短気な武将だったということを俺は肌で感じた。
「し、知っております」
「ならば答えよ、未来のわしはどうなる。このような小者として終わるのか」
その時俺はひらめいた。そして自分が歴史が得意だったことに心から感謝した。
ふははは、見ておれよ織田信長。これから始まるのが俺のリベンジなるぞ。
おしっこ漏らした股間をちょっとかきながら、俺は不敵に笑う。
股間をいじりながら不敵に笑う俺を見て、森長可はみるみるうちに顔を真っ赤に染めると、青黒い血管を浮き上がらせて腰の刀に手をかけた。
「知っておりますとも、森長可殿」
「なに」
「あなたほど哀れな男はいない」
「なんだと、貴様」
「森長可といえば私たちの未来では知らぬ者のいない英傑。それこそ童が謳い語り継ぐような。それがまさかまだ足軽……いや本当に、まさか歴史がこれほど変わろうとしていようとは……」
俺はなにかそれっぽい雰囲気が出せるよう懸命になにかを演じた。ええい、なんでも良い。武士っぽい何かよ、俺に宿れ。
「歴史が変わったとはなんだ」
「本来ならばあなたはすでに天下を平らげ己の幕府を開いておりまする」
「馬鹿を申せ。貴様、わしを謀る気か」
「謀ってどうするのです。それはあなたを前にして無駄なことです。鬼武蔵殿」
「鬼武蔵」
この時代の男は鬼という言葉に惹きつけられ、やたら呼ばれたがることを俺は知っている。
「あなたは本来ならば、本能寺にて信長様が明智残党に討たれた後、その剛力をもって単身斎藤利三に斬りかかりそれを討ち取ったばかりか、明智の軍勢を中央突破して逃げ切るのです。そして信長様の遺志を継ぐべしと天下に檄を飛ばして義挙を行い、やがて織田家の重臣であった柴田様や丹羽様からその武勇と心意気を頼まれ、織田の中心となるのです。北条は片手で捻り潰しました……」
「わしが、柴田様に……」
「そしてなんやかんやのあと、織田家の後見人となり、色々あって天下人となったあなたは」
強風が吹いたかと思うと、俺の首に刀が突きつけられた。
「ホラを吹くか貴様ぁ!」
あと、ひと押しだ。
「鬼武蔵殿……あの姫のことはよろしいのですかな?」
「……姫?」
「そう……あの日信長様の妾としてやってきた、あの美姫にござります」
「……柿姫のことか? あれは年増だが、確かに美人だと思うておった」
そんな姫いたっけか。
「あの美姫こそ、あなたと添い遂げる運命にあった女性にござる」
「馬鹿な」
「それが信長様の妾とは、これが哀れでなくてなんだというのでしょう。まさか寝取られなどと……いや、一度も寝てすらおりません。まあ今のあなたに言っても無駄か。足軽頭など、元北条攻囲軍大将であり元明智軍軍師である私が関わりを持つ相手とは思えませんな」
森長可はわなわなと震え、目を泳がせた。
「わしは……どうすれば。今からでも、鬼武蔵……」
俺は立ち上がると、震える鬼武蔵の胸ぐらを掴んで、大声で言った。
「男ならば勝ち取るのです。今でしょ、鬼武蔵ぃ!」
鬼武蔵は「ぐわ」と叫んだかと思うと、俺をとんでもない力で突き飛ばした。
そして抜身の刀を大きく振りかぶると、まさに鬼の形相となった。
思ったとおりだ。鬼武蔵こと森長可は織田家随一の短気者であり、猛将。そして馬鹿一等賞なのだ。
森長可がその刀で一閃すると、俺の後ろで鼻くそほじってた武者の身体が二つに割れた。そして彼は俺へ返り血まみれの手を差し出し、英気みなぎる目でこう言った。
「わしはこのままで終わらん。わしは天下で柿姫を抱き幕府を開く。オレ殿、わしと共に来てくれ。その知恵をもって歴史を正しくするのだ。ここはわしが中央突破するゆえ、ひとまずは逃げようぞ。さあゆくか、鬼武蔵の始まりじゃあ」
素敵な人だ。俺は大きく息を吸い込んでから、彼に答えた。
「足軽頭森長可、乱心! 者どもであえ! であえ!」
少し待った後、俺は再び陣幕の中へ乱暴に投げ出された。
中では先ほどと同じように信長がカーペットの上で寝転んでいる。ただ肘掛けが一つ増えていて、それはさっきまで見ていたものだった。
信長は目の前でひざまずく俺を見て、開口一番こう言った。
「それで、貴様は俺に何をもたらすのか?」
俺はもう一度よく考えてから、答えた。
「天下……なんて俺がいなくても手に入れられるでしょう。なにせここには一年に一回迷い込んでくる者たちがいるのですから。ですがそれは彼らがあなたの味方をすればの話です。飯も服も医療も機械も女子高生も知ってしまったあなたに今更なにか与えられる者がやってくるとは思えません」
「だから北条についたやつのように、俺に抗う者が出てくると」
「はい。だから俺が彼らを説得しましょう。それが信長様にもたらす俺のなにか、です」
「たわけ、つまらぬ」
信長はばっさり俺の提案を斬り捨てた。
「毎年俺の元へやってくる者がいて、北条にやってくる者もいる。ならば上杉にもおるし、伊達にもおろう。であれば明やイスパニアやポルトガル、ルソンにもおるのが道理」
「はぁ」
「貴様が口説くのはそれら全てだこのホラ吹きめ。ああ、猿ならば、秀吉ならばやったろうな。貴様は世界中をめぐり、やつらを配下にし、一つにまとめよ」
世界。この人の口からその言葉が出ると、冗談には聞こえないなにかがある。
「さすれば貴様が元の世界へ戻る方法、あるいは見つかるかもしれぬ。それが叶わぬなら−−」
信長は一息ついて、まるで冗談を言うように言った。
「俺を殺って天下を奪るのも、一興よな」
冗談には聞こえなかったから、俺はぶるっと震えた。
こうして俺はこの世界でもうしばらく生き続けることになった。
この後北条のあいつと熱い友情を交わしたり、次の年にきたやつが俺よりホラ吹きで俺の立場が無くなりかけたり、タイムスリップ四天王との熾烈なバトルや、大奥百人の女子高生との出会いとか、謎の勢力南蛮アングロサクソン来襲とか、最後は宇宙にまで行って楽市楽座するんだけど、自分の退屈だった人生にそういうことが起きるんだなって、全てが終わった後でそう思えるような、それは忘れられない出来事だったんだ。
それを語っても良いけど、今日はこの辺にしておいてやる。
終わり