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111-57 挨拶の前に

 翌日には学院長との挨拶が控えている、という緊張感は張り詰めていたのだけれど、長旅の疲れは思った以上に大分と溜まっていたらしい。藁を込めたベッドではない、綿の込められたベッドに横になって、気がついたら朝になっていたのだから。

 久し振りにぐっすりと眠ったあとの目覚めは清々しいものだった。

 目が覚めたときに、寒さに凍えていなかったことも素晴らしい。

 どういう仕組みなのかはよく分からないのだけれど、暖房も効いているらしくて《ウォーム(加温)》の魔法なしでも室内はとても快適だった。

 そんな、ミフロの自宅ではあり得なかった快適さに、ベッドの上で感動していたところ。


「おはようサクラ! さぁおいで!」


 と何の前触れもなくマリューが部屋に突入してきた。

 突然のことにびっくりして反応出来ないでいるうちに、わたしは半ば引き摺られるように手を引かれ、そのままマリューの部屋に連れ込まれて、椅子に座らされていた。

 そしてその目の前には、まだ見慣れないわたしの顔が見える。

 鏡台だった。


「学院長との挨拶もあるけど、そのままじゃあんまりに見窄(みすぼ)らしいからね! 身嗜みを整えよう!」

「……あ、うん。こんな格好だしね……」


 状況を察したわたしは視線を落とす。

 いま着ているのは麻のTシャツみたいなものだけれど、古着……というのも憚られるくらいにはぼろぼろだ。一応、普段からも寝間着としてしか使っていないくらいには、わたしが持っている服の中でも特にぼろぼろなのだけれど、正直なところ、わたしが持っている服はどれも多かれ少なかれ傷んでいるから、どうあがいても見窄らしいという評価は避けられない、と思う。


「うんうん。まぁ主に服が酷いよね。でも今日はそれだけじゃないよ!」


 情け容赦ない酷評をしれっと言い切ったマリューが、複雑な顔をするわたしに見せてきたものがある。

 一見画材のようにも見えたそれは、もしかして……


「わ、わ。お化粧!?」

「正解!」


 化粧道具なんて、本当に久し振りに見た。

 もともと(前世から)お化粧はあまりしっかりする方ではなかったけれど、それでも久し振りのお化粧だ、と思うとちょっとわくわくするものだ。


「ふふん! 私が綺麗に……いや、可愛くしてあげるからね!」


 そう言って、ものの十分ほど。


「じゃあ次は髪いじってあげるね!」


 早々にお化粧は終わって、髪のセットに移っていた。

 ちなみにこの間、鏡からはあえて目を逸らしていた。なんとなく、完成して初めて見てみたかったのだ。

 そして髪のセットも、十分かそれくらいで終わった。


「できたよ!」


 言われて初めて、鏡を見た。

 可愛かった。

 鏡に映っているのは自分なのだから、それを可愛いというのはちょっとどうかと思うのだけれど、まだ慣れていないし、可愛いものは可愛いから仕方ない。

 でも、可愛いと思うのと同時に、それが自分だという自覚もあるものだから、なんだかむず痒くて、やたらと恥ずかしく思えてきて顔が熱い。


「あ、ありがとう……」

「うんうん。まぁ元が可愛いからちょっといじっただけだけどね。ほんっと羨ましいずるい可愛いこのやろう!」


 マリューに後ろから抱きつかれて、ぎゅーっとされる。

 可愛くしてもらえて嬉しいし、褒められて嬉しかった。

 でも、ちょっと苦しい。

 そうしてひとしきり抱きついてから、わたしを解放したマリューがどこからともなく服を取り出していた。


「次は服ね。はい、用意しておいたから、これ着てね!」


 リビングで待ってるから! と言うマリューから服を受け取って、着てみる。

 真っ白なブラウスに、竜胆色のタイ。黒のコルセットベストと、幾重にか重なってほんのりふわりとした同じく黒のロングスカート。

 そして、少しヒールのあるチェスナットブラウンのレースアップのロングブーツ。

 着てみて、リビングに出た。


「こ、こういうの着るの初めてで……」


 恥ずかしかった。

 マリューはそんなわたしを見て、にやにやしながら頷いている。


「気に入った?」

「えっと……うん。かわいい」


 ちょっとだけ、下ろしたての制服を着ているような窮屈さはあったけれど、こちらに着てから一番の上等な服で、嬉しくないはずがなかった。


「でも、よくサイズぴったりのがあったね。マリューとわたしじゃ背も違うし、マリューのってわけでもないよね?」


 具体的に言うと、マリューの方が今のわたしよりも十センチくらい背が高いのだ。


「そりゃあ、前から用意してたからね! ぜひ着てもらいたいと思ってたんだよ」

「え、わざわざ? あ…… ありがとう……」


 安くなかったろうに…… と言いかけたけれど、そこに言及すると空気を変にしそうだったので、その言葉はぐっと飲み込んだ。


「よし、じゃあ朝ごはん食べようか」

「あ、そうだね。忘れてた」


 ひとまず朝の準備が整ったところで、わたしたちは朝ごはんにすることにした。

 と言っても簡単に、パンとジャムだ。

 すごくシンプルだけれど、すごく美味しい。

 パンも小麦のパンだし、ジャムだって甘くて美味しいのだ。

 ミフロでもジャムは見かけたけれど、高くて買わなかった。買えないことはなかったのだけれど、一度甘味を覚えてしまうと、あとで買えなくなったときにつらくなりそうで、敬遠していたのだ。

 でも、ここで食べてしまった。

 ミフロに戻った後のことを考えると怖い。けれど、冬の間にこちらで稼ぐなり、薬の調合などの知識を持って帰れれば、ミフロでもジャムを買えるようになるかもしれない。

 頑張ろう、と思った。

 朝食後、後片付けをしたり、紅茶なんてものを飲ませてもらったりなんかしてから。


「さて、そろそろ準備しようか」


 とマリューが言った。


「……まだ、やることあるの?」

「ちょっとね」


 朝からのばたばたと美味しい朝食で落ち着いていた心が、にわかにざわついて緊張してきた。

 マリューが部屋に何かを取りに行って、そしてすぐに戻ってくる。


「まず、魔道書のホルスターね」

「……魔道書?」


 最初に革のベルトのようなものを渡された。


「そう、魔道書。最後には長杖も持ってもらうからね。魔法使い、あるいは不死の魔法使いとしての、威厳というか雰囲気というか、そういうのを作る小道具というか」

「な、なるほど……? でも、わたし魔道書なんて持ってないよ……?」

「ああ、それならサクラのあの本でいいよ」

「あの本って、ノートにしてる?」


 数少ないわたしの私物のひとつで、確かに本は本だけれど……


「あれ、魔道書じゃないし、ほとんど白紙の本だけれど…… だ、大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫。見かけだけだから。むしろあの本は装丁がすごく立派だったし、むしろ下手な魔道書よりよっぽど見栄えがするからちょうどいいよ」

「そ、そうなの……?」


 とりあえず、部屋から本を持ってきて、言われた通りに留めてみた。

 表紙背表紙の縁を覆うようにベルトを取り付けて、細かく締め付けて、そして最後に本が開かないように付いている留め具を留めると完成。

 それだけで随分と仰々しくなった気がする。元の表紙が立派に装飾されていたので、見た目だけなら(本物を見たことがないけれど)魔道書っぽく見える。

 それを長いベルトでショルダーバッグのように肩掛けして、魔道書はオッケーだった。


「次はこれね」


 と手渡されたのは、黒いローブと……いかにもそれっぽい、鍔広のとんがり帽子だった。

 ちょっと感動しながら、まずローブを羽織る。

 そして次に、とんがり帽子を被るのだけれど、その広い鍔は一箇所が大きく折られてとんがり部分にくっついていて、その部分をどう扱えばいいのか分からなくてちょっと戸惑った。


「サクラは右利きだよね? 右利きなら、鍔の折れてるところを右ちょっと前方に向ければいいよ──そうそう、そんな感じ。そして最後に、このレプリカの長杖を右手に持って、まっすぐ地面につく! ……よし、様になった、おっけ!」


 マリューの言う通りにして、ついに準備が整った……らしい。

 リビングには鏡がないので自分の姿はよく分からないけれど、多分、一気に黒づくめになってしまった。

 魔法使いらしい、と言えば、らしい、のだろうけれど。


「じゃあ最後に一応、挨拶で帽子を脱ぐ作法を教えるね」


 最後の最後に、作法、なんて言葉が出てきた。


「さ、作法……?」

「うん。別に難しくはないよ。まず、相手と正対したら、身体の正面で右手の長杖を左手に移す。この時、帽子の前の鍔に長杖が当たらないように、少し長杖の頭の方を右に傾けながら移すと良いね。で、長杖を左手に移したら、長杖を握った左手はそのまま胸の前に持ってくる。そして空いた右手で帽子を取るんだけど、掴む位置は折れた鍔のてっぺんよりも上のとんがり部分を掴む。そうしないと、うまく掴めなくて落としちゃうかもしれないからね。そして左手と長杖を覆い隠すように帽子を胸の前に持ってきて、一礼。これが基本的なやり方」

「え、え、あ、えっと……?」

「まぁやってみな?」


 言われるがままに、ひとつひとつ指示されながら、礼の作法とやらを練習する。

 けれど、今までこんな形式ばった作法なんてものとは全く無縁の生活をしてきていたわたしには、所作のひとつひとつを意識して身体を動かすなんて未知の体験で、急に一杯一杯になってしまっていた。


「こ、これ、学院長の前で必要になるの……?」

「うん? まぁ覚えといた方が無難でしょ」


 マリューは軽い調子でそう言うけれど、わたしは余裕を失っていた。

 学院長に会う、という緊張に加えて、いま教わった作法を、失礼にならないようにきちんと間違えずにこなせるか、という懸案に頭の余裕を一気に持っていかれて、わたしは軽いパニック状態のまま、マリューについて部屋を出ることになった。


続きはたぶん月曜日に上げます!

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